松本竣介研究ノート 第23回

不作為の兵役免除~松本竣介の場合


小松﨑拓男


 今は、体の不自由な人に対するさまざまな公的な保護や支援が、その障害の程度によって等級が決められ、保険制度や医療制度の中で、具体的な行政の施策が行われている。総じて福祉と呼ばれている制度だが、この制度は、戦後、軍国主義から民主国家として生まれ変わった日本の憲法、日本国憲法の中の第25条の「すべての国民は、健康的で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という基本的人権や生存権に由来するもののように思っている人が多いのではないかと思う。しかし、実はこの一つの源流が、明治以来の戦前の軍事政策、とりわけ軍隊に入隊する時の「徴兵」の基準にあったことは、専門家以外にはあまり知られてはいない事実なのではないだろうか。まるで正反対にも思える「福祉」と「軍事」が、徴兵検査における兵士不適格者の類別という点で、すなわち身体障害の等級分けの源流として結びついているのだ。

 明治以降日本の近代の歴史は、また対外的な戦争の歴史でもあった。明治の初めから、中国であれロシアであれ、こうした対外戦争とともに、軍事だけではなく、社会のあらゆる資本を国家制度とともに整備してきたのが、日本の近代の実相であろう。近代的な軍隊を組織するために国民から兵士を徴収する、「徴兵」という制度も国家としての枠組みを整える明治の初めから検討され、具体的な戦争を契機としながら制度として成立していく。
以下、藤井渉「四天王寺大学審査学位論文 身体障害者福祉法における対象規定の源流に関する研究」(2021.2.20閲覧)によっている。

 最初の徴兵令は1873年公布された。この法令により、日本国籍を有する20歳以上の男性に対して徴兵検査が実施され、被検査者は壮丁と呼ばれ、細く類別された項目によって、兵士としての等級に選別された(注1)。
 さらに1889年の新徴兵令(注2)、そして1927年の兵役法(図1、2)によって法律が改定されながら(注3)、さまざまな細則や関連法規とともに敗戦に至るまで運用され、徴兵制度が維持されてきた。
 徴兵とその選別の目的について「『選兵ノ目的ハ海軍々人トシテ優良ナル健康状態ト好適ナル身体的能力ヲ有スル人員ヲ選択スルニアリ。(中略)更ニ特殊兵種ニアリテハ積極的ニ優良ナル適性ノ有無ヲ検シ、以テ優秀ナル兵種ヲ選出スルニアリ』。」(注4)とある。

202102小松崎拓男‗図1「兵役法」原本  図1「兵役法」原本
 (国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵アーカイブより)

202102小松崎拓男‗図2 同上 図2 同上

 つまり、優秀な軍人、兵士を見出すことを目的としたものであった訳である。
 しかし、優秀な兵士を見出すことは、一方で、優秀ではない、不適格者をあぶり出す。いわば選別、差別装置としての役割を、この「徴兵令」や「徴兵検査」が担うことも意味している。そして事実、前述の引用文の中略とした部分には、「即チ選兵検査ニ依リ不具、疾病、先天的異常等ノ存在ヲ検出除外シ」という文言が挿入されるのだ。
 それでは具体的にどのような男子が兵士に適さないとされていたのだろうか。最初の徴兵令では「羸弱ニシテ宿痾及ビ不具等ノ者」といった身体的に障害を持つ者以外に、家父長制度の維持を目的とした家の跡継ぎのために「嗣子及ヒ承祖ノ孫」などの免役規定があった。実は免役者の64%がこの規定に基づいた者であり、身体に障害を持ったり病気だったりした者の割合は極めて少なかったという(注5)。
 しかし1889年の新徴兵令が出されると、この規定が大幅に改定され、「免役対象は、『第十七条 兵役ヲ免ズルハ、廃疾又ハ不具等ニシテ、徴兵検査規則ニ照シ兵役ニ堪ヘザル者ニ限ル』とのみ」(注6)に限定されることとなった。また同年の陸軍の軍令である徴兵検査規則の第4条には「兵役ニ堪フヘカラサル疾病畸形ハ大約左ノ如シ」とあり、「全身発育不全」に始まり、「象皮種、癩」、頭部肥大、斜視、肺病、腋臭、痔疾など、実に50もの項目が事細かに列挙されている。これらの項目は身体的な機能、あるいは運動能力に関わる肉体的な障害や病気などが医学的な見地から示されており、この29番目に「唖、聾唖」が含まれている(注7)。
 1927年に兵役法として法律が改定されるが、1932年20歳になった松本竣介がおそらく受けたであろう、徴兵検査はこの法律によっている。その兵役法施行令に従うと、「疾病異常」として不合格となる丁種に「聾」がある(注8)さらに、兵役法第37条によって「両耳全ク聾シタルモノ」は、徴兵検査を受けることなく「兵役免除」となった(注9)。従って、松本竣介(図3)は徴兵検査を受けることなく、永遠の「兵役免除」となったはずである。

202102小松崎拓男‗図3 図3
 松本竣介
 「立てる像」
 1942年
 油彩・画布
 162.0×130.0cm
 第29回二科展(1942年9月)
 神奈川県立近代美術館

 この不作為の「兵役免除」の事実は、松本竣介を苦しめたに違いない。なぜなら、身体の障害による兵役の免除というものが、具体的な規定によって細かく定められた結果、「『不具廃疾』の存在は浮き彫りとなり、『不具廃疾』は『臣民の義務としての兵役』を全うできない存在として軽蔑・侮蔑の対象とされていった」(注10)からである。
 松本竣介の胸中にあったのは、兵役を免れ、戦場に行かずに済んだという安堵ではない。むしろ、画友が次々と召集され戦地に向かう中、一人だけ取り残され、臣民の義務を果たせない「非国民」の自身の姿であり、国家の危機に役に立つことのできない忸怩たる思いだったのかもしれない。そう考えるとさまざまな自画像(図4)も少し見え方がこれまでと異なってくるようにも思う。

202102小松崎拓男‗図4 松本竣介「自画像」素描 図4 松本竣介
 「自画像」素描

*文中、現在では差別用語として使わない語が含まれているが、歴史的用語として原文のまま記した。

注1 藤井渉「四天王寺大学審査学位論文 身体障害者福祉法における対象規定の源流に関する研究」p13
注2 同 p17
注3 同 p37
注4 同 p13 なお、引用文献原注に引用文章は「海軍軍医学校『海軍選兵医学(部外秘)』、発行年不明、1 頁。」とある。
注5 同 p17
注6 同上 
注7 同 P19
注8 同 原注30)に「(チ)聾」p177~178
注9 同 原注31) p178
注10 同 p46
こまつざき たくお

小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。

小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。

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