「ときの忘れものの本棚から」第13回

「難波田史男:宇宙ステーションへの旅」(2)

中尾美穂

このエッセイはときの忘れもので2024年に開催予定の難波田史男没後50年回顧展に向けた連載で、現在、画廊に寄託されている難波田家の蔵書を順にとりあげている。前回の「難波田史男:宇宙ステーションへの旅」(1)では、2004年に東京ステーションギャラリーで行われた「没後30年 駆け抜けた青春「難波田史男」展カタログ(毎日新聞社、同年)を紹介した。宮沢賢治やランボーの世界を彷彿させる史男の詩や作品の瑞々しい感性と知性に、あらためて魅了されたフォロワーも多いと思う。

そしてもうひとり、同展にインスピレーションを受けた編集者がいた。幻戯書房(げんきしょぼう)の田口博氏である。

2-01 宇宙ステーション表紙
難波田史男著『終着駅は宇宙ステーション』表紙(幻戯書房、2008年)

今回ご覧いただく単行本『終着駅は宇宙ステーション』は、史男の日記やノート、クロッキー帖、スケッチブックなど、約50冊を抜粋してまとめた500ページに及ぶ大書である。史男の実弟、武男氏の「残されたノート」(あとがきに代えて)によると、同展を観覧した田口氏は「かわいらしい絵本のようなものを出版したいと思ったとのこと」。すでに完売だったカタログが偶然にも同様の内容だったため、テキストの出典となる遺稿に注目した。これまでは膨大な文章や詩の一端が個展案内や論考に象徴的に引用され、「夭折の画家」難波田史男の生涯をドラマチックに彩ってきたが、精査を経て刊行された同書によってどのような時代にどんな思春期を過ごしたのか、なぜ画家を志したのか、具体的な歩みと等身大の姿が広く知られることとなった。

2-02 宇宙ステーション裏
『終着駅は宇宙ステーション』の鮮やかな裏見返し

遺品は現在、父、難波田龍起の日記・資料とともに史男の母校である早稲田大学内の早稲田大学會津八一記念博物館にある。遅ればせながら、私も一部に目を通した。いや、読み耽った。龍起の日記は実に几帳面に綴られている。未知の領域に進む抽象画家としての詳細な活動記録であるとともに、妻や子供たちをおもんばかる家庭人の顔が随所にうかがえる。温厚で誠実な人柄が偲ばれて興味が尽きない。

史男の方は、早稲田大学高等学院2年(17歳)の1958年11月11日、広津和郎著『松川裁判』(中央公論社、1958年刊行のものか)を読んで「いかに“メモ”が大切か」を知ったとして、突然に始まっている。同校への進学を望んだものの「学校の勉強などしたって、平凡な人間になってしまうと考え、学校の勉強にひっしになって抵抗していた」。それでも「今度こそはどんなことがあっても「ファイト」を出して勉強しよう」と決心する。だが、12月には「学校をやめて働こうか。私は一人自分だけの気持ちをぬりこめられる「画家」になりたい」と書き、すぐに作家になりたいとも、政治家になりたいとも考えた。翌年2月になると「船乗になりたい」。そして体力づくりのため、2日後に水泳部に入った。世の中の出来事や学業について、また読書や映画、家族や友人との会話、淡い恋心などを高校生らしい情熱や軽いユーモアを込めて綴りながら、将来どうあるべきか、自立の手段を漠然と模索しては自らを鼓舞する日々が続く。知識欲は人一倍強く、巻末の略年譜に「この年、読書が旺盛になる」とある。やはり巻末の「難波田史男の読書関連目録」「難波田史男の映画鑑賞関連目録」をみると、文学、政治、伝記、哲学と幅広く関心を示していたことがわかる。この頃は美術よりも音楽や小説に親しみ、とくにベートーヴェンの交響曲やドストエフスキーに傾倒した。また、ヒルティの『幸福論』に感銘し、人生の指標を見いだそうとしていた。

学院時代に絵画制作を試みた様子はないが、父の日記を読んで自分を重ねてみたり、3年生の10月、父が創立メンバーであった自由美術家協会を脱退した時には「昨日おやじのアトリエでしばし絵に感動していた」と書き添えたりしている。この月に「あまりにもおだやかな幸福すぎた家庭生活にたえきれなく」「自分自身を自然の力できたえる」ために父の出身地である北海道の牧場で働こうと考え、家族に無断で出発した。青森までは行ったが、家出少年とみられて相手にされずに帰宅したという後日談が、編集者の註釈で詳細に示されている。年末にいよいよ卒業が危ぶまれると、進路についていっそう悲壮的で大胆な夢を日記に綴るようになる。しかし父母から学院を卒業さえしたら、大学へ進学しなくとも4年間分の時間と学費を自由に使ってよいと言われ、猛勉強の末に無事、卒業を果たした。著名な画家の息子に対する他者の扱いに多少の煩わしさがあった点を除けば、家族にも学校生活にも非常に恵まれていたようだ。10代の若者がこれほどまでに自立に駆り立てられていたのは、むしろそのような環境に報いようとする純粋さや責任感のあらわれであろう。それゆえに高邁な理想を抱き、焦りを感じていのだろうか。

そんなことを思いながら、ときの忘れものの尾立麗子氏と武男氏宅を訪問した。写真アルバムを見せていただけることになったのである。

2-03 難波田武男氏
作品資料やアルバムの写真をひとつひとつ説明してくださる武男氏

史男は三人兄弟の二番目で、長男の紀夫とは年子、三男の武男氏とは2歳違いである。年の近い紀夫と史男は仲が良く、年少の武男氏が「ふたりの後をくっついていたような感じ」だったという。史男の日記には、受験のたびに兄や弟に声援を送る記述があって微笑ましい。

ちなみに、彼らが父親から直接に絵画の指導を受けることはなかった。写実絵画に才能を示し、のちに画家になった紀夫も独学である。2019年にときの忘れもので行われた『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』刊行記念展のギャラリートーク「難波田龍起と遺された作品について」でも、子供たちの教育はもっぱら母親の役目で、父が息子に絵を描くよう勧めることも批評することもなかったと、武男氏は語っている。父のアトリエには入ることがなかったとうかがったから、しばしば出入りしていた史男は、兄弟の中でも一番、父の仕事に親しんでいたのだろう。学院卒業が決まってすぐに美術の道を選んだのも、思いもよらない方向転換ではないことがわかる。

2-04 難波田家アルバム
難波田家のアルバムより

学院時代に絵を描かなかった史男だが、写真はよく撮影していたようである。日記には3年の11月、九州への修学旅行で撮ったスナップを友人達から褒められ、焼き増しを頼まれたとある。後年、よく一緒に旅行をし、写真を撮り合っている。アルバムにはそうした旅先でのスナップが何枚も収められていたが、現像は兄の紀夫。夜、暗闇を暗室代わりに家で現像していた。

史男のノートは1968年前後まで断続的に続くが、卒業後に進学した文化学院で本格的に美術を学び始めると、日付こそあるものの何ページにもわたって芸術についての思索に没頭し、ピカソ、ゴッホ、ミロ、クレー、シャガール、エルンスト、岡本太郎らに関する記述で紙が埋め尽くされるようになった。その集中力、吸収力に目をみはる。

文化学院時代とその後の歩みについては、次回にたどろうと思う。武男氏宅で見せてもらった作品資料とともに紹介したい。

2-05 第七画廊個展1969
難波田家のアルバムより、第七画廊での史男の二度目の個展(1969年)
左から3番目が史男、4番目が龍起

ノート類のほとんどは画家になる前のもので、武男氏が断っているように、発表するために書かれたのではない。しかも独特な右上がりの字体は、かなり難読である。だが原本の読めない箇所には、出版を想定してか、丁寧に赤鉛筆で補足がされている。武男氏に尋ねたところ、ご本人でないことがわかった。とすれば龍起によるものだろうか。

父母は史男が亡くなった後にはじめて史男のノートを開いたという。日々の思考の深さに驚いたことだろう。龍起が非常な熱意で遺作展ほかの展覧会に関わり、自ら略年譜を編集したのもうなずける。「残されたノート」には、ノート類を出版する話は龍起存命の頃にもあったが、本にするのは難しく、沙汰止みになったとある。今や作家研究に欠かせない『終着駅は宇宙ステーション』の功績は大きい。

※写真は著作権者および刊行元の許諾を得て掲載しています。転載はお控えください。
(なかお みほ)

■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
201603_collection池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」奇数月の19日に掲載します。
次回は2022年7月19日の予定です。


*画廊亭主敬白
本日は靉 嘔(Ay-O)先生の91歳のお誕生日です(1931年5月19日生まれ)。
1953年、当時大きな影響力を持っていた公募団体に叛旗をひるがえし自由な創作活動を目指した瑛九たちの「デモクラート美術家協会」に参加します。58年に渡米、62年には「フルクサス」に参加、さまざまなハプニングを繰り広げます。
1964年にニューヨークのCAFE AU GO GOで開催されたフルクサスを象徴するイベント「レインボー・ディナー」は良く知られていますが、その再現イベントが2019年6月8日に軽井沢で開催されました。私たちも参加しましたが、当日の様子は中村惠一さんのエッセイ<「虹のディナー」ふたたび>をお読みください。
20190608軽井沢AY-O展2019年6月8日軽井沢にて。
最近はコロナ禍でなかなかお会いできませんが、ますますのご健勝をお祈りしています。
靉嘔先生の全ての物体、イメージを虹色で分解し再構築した虹の作品はどなたもご存じでしょう。
ということで、

●本日のお勧め作品は難波田史男靉嘔です。
難波田史男_門_水彩_難波田史男
「門」
1972年
水彩、インク
26.9x38.0cm
Signed


透明な波_スリランカ靉嘔
透明な波 スリランカ
1981年
シルクスクリーン (刷り:岡部徳三)
90.0x150.0cm
Ed.85   Signed

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●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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