平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき
その28 船橋—天道念仏と大師伝説
文・写真 平嶋彰彦
私が習志野に転居してきたのは1975年である。勤務先は毎日新聞社(千代田区一ツ橋)で、通勤の最寄り駅は総武線のJR津田沼駅だった。駅の周りに繁華街といえる街並みは見当たらず、私の住んだ南口側となると表通りには飲食店が1軒もなかった。船橋は習志野の隣町だが、JR船橋駅の南口には西武百貨店がすでにあった。北口に東武百貨店が出来たのは、それより1年か2年してからである。私にとって船橋は津田沼と較べると大都会で、なんとなく千葉の池袋という感がある。というのも、転居するまでは、池袋駅西口から歩いて30分程度の転勤者用の社宅に住んでいた。池袋と船橋は街の構造が似ていた。百貨店の西武と東武ばかりではない。船橋駅の周りには、かなり年期の入った歓楽街が形成されていた(ph4~ph6、ph17~ph18)。
習志野に転居した当初は、ときどき船橋の西武百貨店に買い物でかけたが、やがて津田沼駅の周りにも高島屋デパート、パルコ、丸井などが進出するようになった。そうなると、船橋の商店街にはおのずと足が遠のくようになった。

ph1 京成本線船橋駅。上り方向を見る。本町1-5-1。2023.7.10。

ph2 京成船橋駅とJR船橋駅の連絡通路。本町1-3-1。2023.7.19

ph3 取り壊された船橋西武百貨店。本町1-2-1。2023.7.10
今年の7月、連日30度を超える猛暑のつづくさなか、例によって大学写真部の仲間たちと船橋の街歩きをした。ph1~ph20はそのときに撮った写真である(註1)。船橋西武百貨店が閉店したことは聞いていたが、その後どうなったかは気にもしていなかった。駅を出てふと目をやると、解体工事が進んでいて、6階建てのビルは瓦礫の山と化していた(ph3)。
船橋西武百貨店の館内には美術館があった。設立されたのは1979年であるが、その年の4月に「ピーター・ビアード映像展」が開催された。この展覧会については、『昭和二十年東京地図』を企画し、私が同行取材した西井一夫とのなつかしい思い出がある。
「ピーター・ビアード映像展」は『毎日グラフ』で、6ページだったか8ページだったか、特集を組むことがあった。西井一夫の企画である。彼が何を書いたかは覚えていないが、おざなりの紹介記事ではなかったはずである。それはともかく、なんの手違いがあったのか、美術館側はB4見開きサイズの印刷に耐えるプリントを用意していなかった。あれこれ言っても始まらないので、急きょ、西井と一緒に船橋の西武美術館を訪ね、展示作品を複写することになった。
美術館では展示作業が始まっていた。作品は全倍のバカでかいサイズで、しかも前面がガラス張りの額装だった。展示室の一画を借りて撮影したのだが、用意したライティング装置ではガラスに反射する写り込みを消せなかった。やむをえず、作品のガラスを外してもらい、さらに撮影の瞬間には室内の電灯を消してもらった。カメラは4×5と思ったが、使い慣れたカメラの方が間違いも少ないので、アサペンの6×7サイズを使うことにした。
西井は『カメラ毎日』から『毎日グラフ』に転属したばかりで、これが私と組む初めての仕事だった。帰りがけの車のなかで、西井からぽつんと「どうしようかと思っていた。あんたでよかった」といわれた。

ph4 京成船橋駅南側の歓楽街。本町1-13。2023.7.19

ph5 京成船橋駅南側の歓楽街。本町1-32。2023.7.10

ph6 京成船橋駅南側の歓楽街。本町1-13。2023.7.19
写真は複写である。森山大道の言葉だが、目から鱗の名言だと思う。写真という映像表現は、三次元の立体を二次元の平面に置き換える作業である。ところが、平面から平面への複写となると、私の勤めた新聞写真部と出版写真部では、インタビューとか対談と同じように雑用という言葉で一括りにされ、ないがしろに考えられていた。
よくよく考えれば、絵画といっても油絵となれば、これはもう立派な立体である。見た目のまま単純に写せばいいということにはならない。そのころ出版写真部には絵画の複写を専門とする嘱託のカメラマンがいた。私より1歳か2歳年上だった。新聞と出版を含め写真部員のなかに、複写の技術をきちんと身につけた者が、何人いただろうか。おかしいというか情けないというべきか、そのことは眼前の事実を正確に複写できないことに繋がり、報道カメラマンとしての資質を疑われるようにも考えられた。そんなことから、仕事がなければ、その人の助手を買って出て、彼が退社するまでの1年か2年だったが、複写の技術を見習った。

ph7 無人になった仕舞屋。本町3-22。2023.7.10

ph8 ゴーヤを植える路地。本町3-22。2023.7.10
ピーター・ビアードの作品は、絶滅の危機に瀕しているアフリカ象を記録したもので、展覧会の1年前か2年前だったか、『カメラ毎日』の誌面で見ていた。これもおそらく西井一夫の仕事だった。
複写を終えたあと、展示作品を眺めていると、コラージュが何点か展示されているのが目に入った。一目瞭然で彼が大金持ちのドラ息子であるのが分かる。女性関係も派手だったらしいが、それを隠そうともしていない。アフリカ象の作品は異彩を放つ傑作に思えたが、どこかぎこちない。それに比べると、コラージュはいかにも手馴れている。ビアードは写真家というよりも、美術家という印象の方が強かった。
ピーター・ビアードについては、それ以上のことは知らない。インターネットを検索すると、「ときの忘れもの」の記事があるのを見つけた。誰が書いたのか、簡潔で要領を得た略歴なので、以下に引用させてもらう。文中のカレン・ブリクセンはデンマークの作家。映画『愛と憎しみの果て』は彼女の「アフリカの日々」が原作である(註2)。
ピーター・ビアード/1938年、アメリカ・ニューヨーク生まれ。
1961年イェール大学卒業後、東アフリカ・ケニアに移住し、
敬愛する作家カレン・ブリクセンの隣人となる。
1964年から1965年にかけ動物保護区であるツァヴォ国立公園で働く。
そこで撮影した、乱獲されるアフリカ象の写真をベースに、
アフリカの複雑で入り組んだ人間と動物の歴史を現代に伝えようと
1965年に最初の著書「 The End of the Game 」としてまとめる。
一方で、アフリカ移住以前から、日々の生活の中で出会う物・写真・映像などに
書き込みを加えコラージュしていく「日記」を制作している。(後略)
この複写がきっかけで、西井一夫と仕事を組むことが多くなった。彼の取材は台本があってもないに等しく、即興演奏の連続といってよかった。道草を喰うことがいつの間にか本筋になっている。言うことも昨日と今日では違う。何を考えているのか分かりにくい。私にとっては、そこが面白く、仕事のしがいもあった。

ph9 西向地蔵尊。処刑場跡に設けられた。左は阿弥陀。中央の石塔は文字が判読不能。右は正観音。本町2-23。2023.7.10
ph10 不動院。六観音の石塔。正面は千手観音。元禄14年の建立。本町3-4-6。2023.7.19

ph11 不動院。小さな弘法大師像を納めた厨子と稚児大師の図像。本町3-4-6。2023.7.19

ph12 覚王寺。難陀龍王堂。本町3-24-5。2023.7.10
国道14号は千葉街道とも呼ぶが、東京から千葉方面へ向かう歴史のある街道である。この街道は船橋の手前で、本町通りを分岐する。この通りをまっすぐ進むと成田街道で、佐倉をへて、成田山新勝寺にいたる。今回の街歩きは、JR船橋駅から本町通りに出て、この通り沿いに、大神宮までの1キロあまりを、あちこちで道草を喰いながら歩く、というものだった。
本町は現在地名だが、かつてはこのあたりは船橋九日市村と呼ばれた。室町時代、九の日に市を立てたことに因むらしい。海岸線の砂州の上に形成された村で、江戸時代になると成田街道の宿場町として繁栄した。また村内でも海に面した地区は漁師町と呼ばれ、船橋浦における漁業の中核を担ってきた(註3)。
本町通りの本町郵便局(本町4-37-12)から南側へ100メートルほど入ったところが、かつての漁師町である。その一画に不動院(真言宗豊山派。船橋市本町3-4-6)がある。
門の傍らに石造の釈迦如来坐像が建つ。船橋教育委員会の案内板によると、ここで毎年2月28日に大仏追善供養を行っているという。江戸時代の1746(延享3)年に大津波があり、その溺死者を弔うため、この釈迦像は建立された。その後、1824(文政7)年、船橋と浦安(猫実村)の間で、漁業権をめぐる争いがあり、船橋の漁師惣代1名が牢死、1名は出牢まもなく死亡するという事件が起きた。そこで、この漁師惣代2名を先の津波による溺死者と一緒に合わせ、供養するようになった。大仏追善供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつける、とのことである(註4)。
境内を見てまわると、墓地も含めてどこも東京湾の海岸線に特有な砂地のままである。それをきれいに掃き清めているのだが、真っ白な貝殻の破片がたくさん混じっている。本堂の前に大師堂があり、その傍らに庚申塔3基と六観音の石塔1基が建つ。(ph10)。
大師堂は鍵が掛かっていなかった。扉を開けてみると、手のひらに載るほどの大師像が厨子に納められ、すぐ後には稚児大師の図像が飾られていた(ph11。註5)。その昔、修験の御師や高野聖が笈に背負って、各地を行脚したという厨子もこんなものではなかったかと想像してみたが、はたしてどうだったのだろうか。この小さな大師像の由緒については、うっかり聞き洩らしてしまった。

ph13 船橋大神宮。摂社の船玉神社。宮本5-2-1。2023.7.19

ph14 船橋大神宮。摂社の稲荷神社。宮本5-2-1。2023.7.19

ph15 御殿通り。道祖神社。社殿に供えられた幣帛と小石。本町4-38。2023.7.10
ph16 御殿通り。三峰神社。オオカミの狛犬。本町4-38。2023.7.10
『江戸名所図会』に船橋で行われていた天道念仏が紹介されている。
天道念仏はこの漁師町の不動院のほか、船橋大神宮境内の東光寺(船橋市宮本5)、夏見の薬王寺(船橋市夏見5)などの境内で、毎年2月16日から18日までの2夜3日わたって行われたという。上記の3寺院はいずれも真言宗豊山派である。天道念仏とは、言い伝えによれば、弘法大師が湯殿山修行のとき天道村(山形県天童市)で始めた念仏踊りで、その年の五穀成就を祈願するのが目的だとされる(註6)。
堂前に土をもつて壇を築き、竹をもつて柱を設け、これに梵天と称し、その四方に四の門を開き、四十八柄の神幣(みてぐら)を建て、注連を引きはゆる等、みなことごとく諸の仏天に表したり。内に大日如来の像を安じて本尊として、百味の飲食(おんじき)を供養せり。その詰衆(つめしゅ)の道俗は、おのおの一昼夜の間六度づつ垢離して浄衣を着し、白布をもつて造るところの宝冠を頂き、三宝諸尊の御名を称へて敬礼し、六根懺悔の称号を唱へ、鉦・太鼓を打ち鳴らして、梵天の四方を右繞すること数回(あまたたび)、昼夜に間断なし。
『江戸名所図会』には「船橋駅 天道念仏踊之図」の挿絵がついている(註7)。
これを見ると、四門の一つに「発心門」の額が飾られていて、その外側を道俗の参加者が鉦・太鼓を打ち鳴らし、念仏踊りをしている。一方、その内側には、本尊として不動明王が祀られている。不動院の本尊も『江戸名所図会』の挿絵と同じ不動明王である。ふだんは本堂に安置され、天道念仏になると、境内に壇を築き、そこに遷したのである。ところで、挿絵は不動明王であるが、本文には大日如来とある。どういうわけなのだろうか。
宗教民俗学者の五来重によれば、不動明王は大日如来と一体で、しかも大日如来は阿弥陀如来とも同一視とされたのだという(註8)。天道念仏の天道とは「おてんとさま(御天道様」のことでもある。脇侍に祀られるのは観音菩薩と勢至菩薩らしい。
本尊の祀られる四門の内側は、死者の世界、すなわち「あの世」(他界)という見立てである。踊り手が額につけているのは、死者の三角頭巾で、本尊の周りを右回りに廻るあいだに、娑婆の罪や穢れを浄化して、生まれかわってこの世に戻る。というのが天道念仏の趣旨で、いわゆる擬死再生の民俗儀礼の一つとされる(註9)。
生と死は人間の知識を越えた自然現象である。天道念仏という擬死再生儀礼を演じることにより、五穀の豊穣を神仏に祈願するのである。
船橋の各地で行われていた天道念仏はどこも途絶えしまったようだが、ただ1ヶ所、海神の念仏堂(海神1-17-18)で続けられている。海神においても、戦後いったん廃絶したが、有志が保存会をつくり、1981(昭和56)年に復活させ、毎年3月の第1日曜日また第2日曜日に開催しているということである(註10)。

ph17 山口横丁。花生食堂。本町4-16-30。2023.7.10

ph18 山口横丁。靴修理・スペアキー製作などを扱う店。本町4-44-14。2023.7.10

ph19 本町通り。幼稚園帰りの親子。本町3-1。2023.7.19

ph20 本町通り。集団下校の小学生。宮本5-1。2023.7.19
本町通りに戻ると、2年前までは営業していた歴史を感じさせる呉服店が閉店していた。立派な瓦葺の建物はそのままだが、あるべきものがあるべき姿でそこにないと、なんとなく気持ちが落ち込んでしまうのはどういうわけだろうか。
最初の船橋西武百貨店に話を戻せば、解体した跡地には、高さ約200メートルのタワーマンションが建設される予定である。ビルは地上51階建て。6階建てのオフィス・ビルも併設される。実現すれば、千葉県県内で一番の高さになるという(註11)。
そうなれば船橋駅南口の景観は一変することになる。しかし、タワーマンションに隣接するあの歓楽街はどうなってしまうのだろうか。裏通りや路地につきまとう猥雑さと怪しさは、是非はともかく、私たちを引きつけてやまない都市の魅力でもある。街並みが時とともに変貌するのは止めようがない。しかし、街が自分からますます遠ざかっていくのは悦ぶわけにはいかない気がする。
註1 撮影は7月10日と7月19日。10日は下見。19日は街歩きの当日。なお、船橋は、連載その15「子安観音の石像と女人講 」でも取り上げている。今回はそれと重複する写真は掲載を避けた。平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その15 : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
註2 『写真に恋する 写真コレクション展』「ピーター・ビアード」(ときの忘れもの)。ギャラリー ときの忘れもの ピーター・ビアード Peter BEARD (tokinowasuremono.com)。『愛と憎しみの果て』は1985年製作のアメリカ映画。監督はシドニー・ポラック。主演はメリル・ストリープとロバート・レッドフォード。
註3 『日本歴史地名大系12 千葉県の地名』「船橋市 船橋九日市村」(平凡社、1996)
註4 不動院の現地案内板による。大仏追善供養の模様は次のURLで見ることが出来る。 大仏追善供養|船橋市公式ホームページ (funabashi.lg.jp)
註5 稚児大師は、空海の幼少頃の夢想。大師の遺言とされる『御遺告』に書かれた「夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語る」という一節を絵画化したもの。 稚児大師像 - MIHO MUSEUM
註6 『江戸名所図会 6』「巻七 天道念仏」(ちくま学芸文庫、1997)
註7 WEBサイトに「歴史散歩 江戸名所図会 巻之七 第二十冊」があり、「船橋駅 天道念仏踊之図」は、次のURLを、Ctrlキーを押しながら、クリックすると見ることができる。https://arasan.saloon.jp/rekishi/images/edomeishozue2045.jpg (480×720) (arasan.saloon.jp)
註8 『善光寺まいり』「序章 謎の寺 「ほうがんと天道念仏」(五来重、平凡社、1988)
註9 同上
註10 船橋市教育委員会文化課 - 【豊作を祈願!天道念仏(てんとうねんぶつ)をご存知ですか?】... | Facebook
註11 『東京新聞』「首都圏ニュース」(2023.3.27)。高さ200メートル 千葉県内一の高層ビルをJR船橋駅南口に建設へ 西武船橋店跡地に51階建てマンション:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
(ひらしま あきひこ)
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2024年1月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』
オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆平嶋彰彦写真展―東京ラビリンス/カラー
会期:2023年11月17日(金)~11月25日(土) 11:00-19:00 ※会期中無休
監修:大竹昭子
2020年の第一回平嶋彰彦展に続く第二回個展では2009年~2023年に街歩きで撮影したカラー写真の中から20点を展示します。
全20点の画像と価格は11月9日ブログをご参照ください。
平嶋彰彦作品集『東京ラビリンス1985~1986/2009~2023』(執筆/森山大道、大竹昭子、平嶋彰彦、B5判・39頁、1,100円)を刊行します。
11月18日(土)16時より平嶋彰彦と大竹昭子によるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。メールにてご予約ください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
その28 船橋—天道念仏と大師伝説
文・写真 平嶋彰彦
私が習志野に転居してきたのは1975年である。勤務先は毎日新聞社(千代田区一ツ橋)で、通勤の最寄り駅は総武線のJR津田沼駅だった。駅の周りに繁華街といえる街並みは見当たらず、私の住んだ南口側となると表通りには飲食店が1軒もなかった。船橋は習志野の隣町だが、JR船橋駅の南口には西武百貨店がすでにあった。北口に東武百貨店が出来たのは、それより1年か2年してからである。私にとって船橋は津田沼と較べると大都会で、なんとなく千葉の池袋という感がある。というのも、転居するまでは、池袋駅西口から歩いて30分程度の転勤者用の社宅に住んでいた。池袋と船橋は街の構造が似ていた。百貨店の西武と東武ばかりではない。船橋駅の周りには、かなり年期の入った歓楽街が形成されていた(ph4~ph6、ph17~ph18)。
習志野に転居した当初は、ときどき船橋の西武百貨店に買い物でかけたが、やがて津田沼駅の周りにも高島屋デパート、パルコ、丸井などが進出するようになった。そうなると、船橋の商店街にはおのずと足が遠のくようになった。

ph1 京成本線船橋駅。上り方向を見る。本町1-5-1。2023.7.10。

ph2 京成船橋駅とJR船橋駅の連絡通路。本町1-3-1。2023.7.19

ph3 取り壊された船橋西武百貨店。本町1-2-1。2023.7.10
今年の7月、連日30度を超える猛暑のつづくさなか、例によって大学写真部の仲間たちと船橋の街歩きをした。ph1~ph20はそのときに撮った写真である(註1)。船橋西武百貨店が閉店したことは聞いていたが、その後どうなったかは気にもしていなかった。駅を出てふと目をやると、解体工事が進んでいて、6階建てのビルは瓦礫の山と化していた(ph3)。
船橋西武百貨店の館内には美術館があった。設立されたのは1979年であるが、その年の4月に「ピーター・ビアード映像展」が開催された。この展覧会については、『昭和二十年東京地図』を企画し、私が同行取材した西井一夫とのなつかしい思い出がある。
「ピーター・ビアード映像展」は『毎日グラフ』で、6ページだったか8ページだったか、特集を組むことがあった。西井一夫の企画である。彼が何を書いたかは覚えていないが、おざなりの紹介記事ではなかったはずである。それはともかく、なんの手違いがあったのか、美術館側はB4見開きサイズの印刷に耐えるプリントを用意していなかった。あれこれ言っても始まらないので、急きょ、西井と一緒に船橋の西武美術館を訪ね、展示作品を複写することになった。
美術館では展示作業が始まっていた。作品は全倍のバカでかいサイズで、しかも前面がガラス張りの額装だった。展示室の一画を借りて撮影したのだが、用意したライティング装置ではガラスに反射する写り込みを消せなかった。やむをえず、作品のガラスを外してもらい、さらに撮影の瞬間には室内の電灯を消してもらった。カメラは4×5と思ったが、使い慣れたカメラの方が間違いも少ないので、アサペンの6×7サイズを使うことにした。
西井は『カメラ毎日』から『毎日グラフ』に転属したばかりで、これが私と組む初めての仕事だった。帰りがけの車のなかで、西井からぽつんと「どうしようかと思っていた。あんたでよかった」といわれた。

ph4 京成船橋駅南側の歓楽街。本町1-13。2023.7.19

ph5 京成船橋駅南側の歓楽街。本町1-32。2023.7.10

ph6 京成船橋駅南側の歓楽街。本町1-13。2023.7.19
写真は複写である。森山大道の言葉だが、目から鱗の名言だと思う。写真という映像表現は、三次元の立体を二次元の平面に置き換える作業である。ところが、平面から平面への複写となると、私の勤めた新聞写真部と出版写真部では、インタビューとか対談と同じように雑用という言葉で一括りにされ、ないがしろに考えられていた。
よくよく考えれば、絵画といっても油絵となれば、これはもう立派な立体である。見た目のまま単純に写せばいいということにはならない。そのころ出版写真部には絵画の複写を専門とする嘱託のカメラマンがいた。私より1歳か2歳年上だった。新聞と出版を含め写真部員のなかに、複写の技術をきちんと身につけた者が、何人いただろうか。おかしいというか情けないというべきか、そのことは眼前の事実を正確に複写できないことに繋がり、報道カメラマンとしての資質を疑われるようにも考えられた。そんなことから、仕事がなければ、その人の助手を買って出て、彼が退社するまでの1年か2年だったが、複写の技術を見習った。

ph7 無人になった仕舞屋。本町3-22。2023.7.10

ph8 ゴーヤを植える路地。本町3-22。2023.7.10
ピーター・ビアードの作品は、絶滅の危機に瀕しているアフリカ象を記録したもので、展覧会の1年前か2年前だったか、『カメラ毎日』の誌面で見ていた。これもおそらく西井一夫の仕事だった。
複写を終えたあと、展示作品を眺めていると、コラージュが何点か展示されているのが目に入った。一目瞭然で彼が大金持ちのドラ息子であるのが分かる。女性関係も派手だったらしいが、それを隠そうともしていない。アフリカ象の作品は異彩を放つ傑作に思えたが、どこかぎこちない。それに比べると、コラージュはいかにも手馴れている。ビアードは写真家というよりも、美術家という印象の方が強かった。
ピーター・ビアードについては、それ以上のことは知らない。インターネットを検索すると、「ときの忘れもの」の記事があるのを見つけた。誰が書いたのか、簡潔で要領を得た略歴なので、以下に引用させてもらう。文中のカレン・ブリクセンはデンマークの作家。映画『愛と憎しみの果て』は彼女の「アフリカの日々」が原作である(註2)。
ピーター・ビアード/1938年、アメリカ・ニューヨーク生まれ。
1961年イェール大学卒業後、東アフリカ・ケニアに移住し、
敬愛する作家カレン・ブリクセンの隣人となる。
1964年から1965年にかけ動物保護区であるツァヴォ国立公園で働く。
そこで撮影した、乱獲されるアフリカ象の写真をベースに、
アフリカの複雑で入り組んだ人間と動物の歴史を現代に伝えようと
1965年に最初の著書「 The End of the Game 」としてまとめる。
一方で、アフリカ移住以前から、日々の生活の中で出会う物・写真・映像などに
書き込みを加えコラージュしていく「日記」を制作している。(後略)
この複写がきっかけで、西井一夫と仕事を組むことが多くなった。彼の取材は台本があってもないに等しく、即興演奏の連続といってよかった。道草を喰うことがいつの間にか本筋になっている。言うことも昨日と今日では違う。何を考えているのか分かりにくい。私にとっては、そこが面白く、仕事のしがいもあった。

ph9 西向地蔵尊。処刑場跡に設けられた。左は阿弥陀。中央の石塔は文字が判読不能。右は正観音。本町2-23。2023.7.10
ph10 不動院。六観音の石塔。正面は千手観音。元禄14年の建立。本町3-4-6。2023.7.19

ph11 不動院。小さな弘法大師像を納めた厨子と稚児大師の図像。本町3-4-6。2023.7.19

ph12 覚王寺。難陀龍王堂。本町3-24-5。2023.7.10
国道14号は千葉街道とも呼ぶが、東京から千葉方面へ向かう歴史のある街道である。この街道は船橋の手前で、本町通りを分岐する。この通りをまっすぐ進むと成田街道で、佐倉をへて、成田山新勝寺にいたる。今回の街歩きは、JR船橋駅から本町通りに出て、この通り沿いに、大神宮までの1キロあまりを、あちこちで道草を喰いながら歩く、というものだった。
本町は現在地名だが、かつてはこのあたりは船橋九日市村と呼ばれた。室町時代、九の日に市を立てたことに因むらしい。海岸線の砂州の上に形成された村で、江戸時代になると成田街道の宿場町として繁栄した。また村内でも海に面した地区は漁師町と呼ばれ、船橋浦における漁業の中核を担ってきた(註3)。
本町通りの本町郵便局(本町4-37-12)から南側へ100メートルほど入ったところが、かつての漁師町である。その一画に不動院(真言宗豊山派。船橋市本町3-4-6)がある。
門の傍らに石造の釈迦如来坐像が建つ。船橋教育委員会の案内板によると、ここで毎年2月28日に大仏追善供養を行っているという。江戸時代の1746(延享3)年に大津波があり、その溺死者を弔うため、この釈迦像は建立された。その後、1824(文政7)年、船橋と浦安(猫実村)の間で、漁業権をめぐる争いがあり、船橋の漁師惣代1名が牢死、1名は出牢まもなく死亡するという事件が起きた。そこで、この漁師惣代2名を先の津波による溺死者と一緒に合わせ、供養するようになった。大仏追善供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつける、とのことである(註4)。
境内を見てまわると、墓地も含めてどこも東京湾の海岸線に特有な砂地のままである。それをきれいに掃き清めているのだが、真っ白な貝殻の破片がたくさん混じっている。本堂の前に大師堂があり、その傍らに庚申塔3基と六観音の石塔1基が建つ。(ph10)。
大師堂は鍵が掛かっていなかった。扉を開けてみると、手のひらに載るほどの大師像が厨子に納められ、すぐ後には稚児大師の図像が飾られていた(ph11。註5)。その昔、修験の御師や高野聖が笈に背負って、各地を行脚したという厨子もこんなものではなかったかと想像してみたが、はたしてどうだったのだろうか。この小さな大師像の由緒については、うっかり聞き洩らしてしまった。

ph13 船橋大神宮。摂社の船玉神社。宮本5-2-1。2023.7.19

ph14 船橋大神宮。摂社の稲荷神社。宮本5-2-1。2023.7.19

ph15 御殿通り。道祖神社。社殿に供えられた幣帛と小石。本町4-38。2023.7.10
ph16 御殿通り。三峰神社。オオカミの狛犬。本町4-38。2023.7.10
『江戸名所図会』に船橋で行われていた天道念仏が紹介されている。
天道念仏はこの漁師町の不動院のほか、船橋大神宮境内の東光寺(船橋市宮本5)、夏見の薬王寺(船橋市夏見5)などの境内で、毎年2月16日から18日までの2夜3日わたって行われたという。上記の3寺院はいずれも真言宗豊山派である。天道念仏とは、言い伝えによれば、弘法大師が湯殿山修行のとき天道村(山形県天童市)で始めた念仏踊りで、その年の五穀成就を祈願するのが目的だとされる(註6)。
堂前に土をもつて壇を築き、竹をもつて柱を設け、これに梵天と称し、その四方に四の門を開き、四十八柄の神幣(みてぐら)を建て、注連を引きはゆる等、みなことごとく諸の仏天に表したり。内に大日如来の像を安じて本尊として、百味の飲食(おんじき)を供養せり。その詰衆(つめしゅ)の道俗は、おのおの一昼夜の間六度づつ垢離して浄衣を着し、白布をもつて造るところの宝冠を頂き、三宝諸尊の御名を称へて敬礼し、六根懺悔の称号を唱へ、鉦・太鼓を打ち鳴らして、梵天の四方を右繞すること数回(あまたたび)、昼夜に間断なし。
『江戸名所図会』には「船橋駅 天道念仏踊之図」の挿絵がついている(註7)。
これを見ると、四門の一つに「発心門」の額が飾られていて、その外側を道俗の参加者が鉦・太鼓を打ち鳴らし、念仏踊りをしている。一方、その内側には、本尊として不動明王が祀られている。不動院の本尊も『江戸名所図会』の挿絵と同じ不動明王である。ふだんは本堂に安置され、天道念仏になると、境内に壇を築き、そこに遷したのである。ところで、挿絵は不動明王であるが、本文には大日如来とある。どういうわけなのだろうか。
宗教民俗学者の五来重によれば、不動明王は大日如来と一体で、しかも大日如来は阿弥陀如来とも同一視とされたのだという(註8)。天道念仏の天道とは「おてんとさま(御天道様」のことでもある。脇侍に祀られるのは観音菩薩と勢至菩薩らしい。
本尊の祀られる四門の内側は、死者の世界、すなわち「あの世」(他界)という見立てである。踊り手が額につけているのは、死者の三角頭巾で、本尊の周りを右回りに廻るあいだに、娑婆の罪や穢れを浄化して、生まれかわってこの世に戻る。というのが天道念仏の趣旨で、いわゆる擬死再生の民俗儀礼の一つとされる(註9)。
生と死は人間の知識を越えた自然現象である。天道念仏という擬死再生儀礼を演じることにより、五穀の豊穣を神仏に祈願するのである。
船橋の各地で行われていた天道念仏はどこも途絶えしまったようだが、ただ1ヶ所、海神の念仏堂(海神1-17-18)で続けられている。海神においても、戦後いったん廃絶したが、有志が保存会をつくり、1981(昭和56)年に復活させ、毎年3月の第1日曜日また第2日曜日に開催しているということである(註10)。

ph17 山口横丁。花生食堂。本町4-16-30。2023.7.10

ph18 山口横丁。靴修理・スペアキー製作などを扱う店。本町4-44-14。2023.7.10

ph19 本町通り。幼稚園帰りの親子。本町3-1。2023.7.19

ph20 本町通り。集団下校の小学生。宮本5-1。2023.7.19
本町通りに戻ると、2年前までは営業していた歴史を感じさせる呉服店が閉店していた。立派な瓦葺の建物はそのままだが、あるべきものがあるべき姿でそこにないと、なんとなく気持ちが落ち込んでしまうのはどういうわけだろうか。
最初の船橋西武百貨店に話を戻せば、解体した跡地には、高さ約200メートルのタワーマンションが建設される予定である。ビルは地上51階建て。6階建てのオフィス・ビルも併設される。実現すれば、千葉県県内で一番の高さになるという(註11)。
そうなれば船橋駅南口の景観は一変することになる。しかし、タワーマンションに隣接するあの歓楽街はどうなってしまうのだろうか。裏通りや路地につきまとう猥雑さと怪しさは、是非はともかく、私たちを引きつけてやまない都市の魅力でもある。街並みが時とともに変貌するのは止めようがない。しかし、街が自分からますます遠ざかっていくのは悦ぶわけにはいかない気がする。
註1 撮影は7月10日と7月19日。10日は下見。19日は街歩きの当日。なお、船橋は、連載その15「子安観音の石像と女人講 」でも取り上げている。今回はそれと重複する写真は掲載を避けた。平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その15 : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
註2 『写真に恋する 写真コレクション展』「ピーター・ビアード」(ときの忘れもの)。ギャラリー ときの忘れもの ピーター・ビアード Peter BEARD (tokinowasuremono.com)。『愛と憎しみの果て』は1985年製作のアメリカ映画。監督はシドニー・ポラック。主演はメリル・ストリープとロバート・レッドフォード。
註3 『日本歴史地名大系12 千葉県の地名』「船橋市 船橋九日市村」(平凡社、1996)
註4 不動院の現地案内板による。大仏追善供養の模様は次のURLで見ることが出来る。 大仏追善供養|船橋市公式ホームページ (funabashi.lg.jp)
註5 稚児大師は、空海の幼少頃の夢想。大師の遺言とされる『御遺告』に書かれた「夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語る」という一節を絵画化したもの。 稚児大師像 - MIHO MUSEUM
註6 『江戸名所図会 6』「巻七 天道念仏」(ちくま学芸文庫、1997)
註7 WEBサイトに「歴史散歩 江戸名所図会 巻之七 第二十冊」があり、「船橋駅 天道念仏踊之図」は、次のURLを、Ctrlキーを押しながら、クリックすると見ることができる。https://arasan.saloon.jp/rekishi/images/edomeishozue2045.jpg (480×720) (arasan.saloon.jp)
註8 『善光寺まいり』「序章 謎の寺 「ほうがんと天道念仏」(五来重、平凡社、1988)
註9 同上
註10 船橋市教育委員会文化課 - 【豊作を祈願!天道念仏(てんとうねんぶつ)をご存知ですか?】... | Facebook
註11 『東京新聞』「首都圏ニュース」(2023.3.27)。高さ200メートル 千葉県内一の高層ビルをJR船橋駅南口に建設へ 西武船橋店跡地に51階建てマンション:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
(ひらしま あきひこ)
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2024年1月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆平嶋彰彦写真展―東京ラビリンス/カラー
会期:2023年11月17日(金)~11月25日(土) 11:00-19:00 ※会期中無休
監修:大竹昭子
2020年の第一回平嶋彰彦展に続く第二回個展では2009年~2023年に街歩きで撮影したカラー写真の中から20点を展示します。全20点の画像と価格は11月9日ブログをご参照ください。
平嶋彰彦作品集『東京ラビリンス1985~1986/2009~2023』(執筆/森山大道、大竹昭子、平嶋彰彦、B5判・39頁、1,100円)を刊行します。
11月18日(土)16時より平嶋彰彦と大竹昭子によるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。メールにてご予約ください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。


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