井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」第20回

『Ryuichi Sakamoto | Opus』『枯れ葉』


坂本龍一さんのことを考えると、冬の夜の景色をまず思い出す。獣が急に飛び出してきてもおかしくないような真っ暗な田舎道を車で走るとき、父のカーステレオから“m.a.y. in the backyard”収録のアルバムがよく流れていたのだ。ドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto | Opus』を観ているあいだ、私はやっぱりその夜の暗さと、すぐ目の前の道を照らすヘッドライトのことを思い出していた。



『Ryuichi Sakamoto | Opus』は、坂本氏がこの世を去る数か月前に実施したのだというコンサートの様子を捉えた作品。観客は103分のあいだ、モノクロームで撮影されたパフォーマンスを見つめる。

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録音機材とシンプルな照明以外にほとんどモノがないステージでは、黒いピアノと白髪のコントラストが際立っている。背筋を伸ばしてピアノと対峙する坂本氏は、絶えず襲いかかる病に時おり険しい表情を浮かべながらも、一曲一曲を確かめるように演奏を進めていく。

抵抗の音楽だ、と思った。彼の身体の内外で、何かがぶつかり合うのが見える。そういえば中高生のとき、楽譜を見ながら坂本氏の曲を弾こうとして、ピアノ教室で習うのとは全く違う指の使い方に驚いたことがあった。すぐ真隣にある鍵盤どうしを同時に鳴らすことで、いっけん衝突しそうな音たちが、耳から簡単に離れない和音を生み出していたのだ。

『Opus』の劇中では、何度も耳にしてきたはずの“戦場のメリークリスマス”にも抵抗・拮抗のエネルギーが宿っていることを思い知らされた気がした。坂本氏の左手がしばらくのあいだ轟くような低音を響かせる中、徐々に徐々にと存在感を増していった右手が最後、暗闇と同じ分だけの光を放つようにして、音の反乱を起こし始める。戦争や原発、むやみな樹木の伐採などに、いつも毅然と抵抗されていた氏のアティチュードが音として立ち現れたような凄まじい気迫に圧倒され、ただただその波をかぶった。ピアノの鍵盤を見つめながら、黒鍵の間を突っ切る白の強さを想ったのは初めてのことだった。

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思わず息を止めていたのだと思う。場内が明るくなると、隣の席のサラリーマンが熱っぽく息を吐いた。映画の冒頭に映し出されていた、塵が宙を舞う安らかな時間は、闘い抜いた氏の肉体や精神を撫でるために手向けられたものだったのかもしれないし、今もこの世界を漂う魂そのものなのかもしれない。

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フィンランドのアキ・カウリスマキ監督による新作『枯れ葉』の中で、主人公のアンサは仕事から帰宅すると出来合いの惣菜を温める。ラジオをつけると戦争のニュースが流れてきて、神妙な面持ちでそれをしばらく聞いたアンサは、音楽が流れる番組へとチャンネルを変えてしまう。けれど、それは彼女が惨状から目を逸らしたということではなく、戦争が生活を着実に蝕んでいるということの証なのだと思った。温められたご飯は結局ゴミ箱へと捨てられてしまい、悲しみが部屋を侵食していくのがわかる。

〈取るに足らないバイオレンス映画を作っては自分の評価を怪しくしてきた私ですが、無意味でバカげた犯罪である戦争の全てに嫌気がさして、ついに人類に未来をもたらすかもしれないテーマ、すなわち愛を求める心、連帯、希望、そして他人や自然といった全ての生きるものと死んだものへの敬意、そんなことを物語として描くことにしました。それこそが語るに足るものだという前提で。〉

そんなコメントと共に届けられた『枯れ葉』の中で、登場人物たちは当たり前のように手を差し伸べあう。お金のない人にはパンとコーヒーを、着る服のない人には服をあげ、殺されそうな犬がいたら家に招く。思えばカウリスマキの映画を生きる人々は、これまでもいつだってそんな行動原理を持ち合わせていた。慈悲深い表情をしない彼らは、真顔のままで戦争に怒り、音楽や映画を求め続ける。引退宣言を撤回してまで『枯れ葉』を撮ることは、カウリスマキの行動原理に照らせば、きっと自然なことだったのだろう。

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※左から:アンサ、ホラッパ © Sputnik

最近はロシアによるウクライナ軍事侵攻もおさまっていないというのに、イスラエル軍によるガザへの劣悪な攻撃も続いていて、胸が苦しい。何かしたいと思うのに、物理的な条件があわなかったり、精神的な余裕がなかったりして、余計やるせない気持ちに苛まれることもある。そもそもの知識が少ないことも恥ずかしい。でも、本当にそうなのだろうか。つい数日前、ロシアでは地元のスーパーの値札にウクライナ侵攻への抗議メッセージを書いた芸術家が警察に逮捕され、禁錮7年の有罪判決を言い渡されたのだという。そのニュースを見たとき、スーパーで働くアンサのことが脳裏をよぎった。ふと見渡せば、今も抗議の言葉を紡ぐ権利すら奪われている人たちが大勢いるのだ。そう考えたら、戦争反対、虐殺反対と言葉にするとか、ネットで状況を調べてみるとか、反射的に今すぐできる行動の一つひとつも、無意味なはずがないと思えた。愛を求める心だって捨てないまま、カウリスマキの映画のように目の前の「当たり前」をやっていく。



追伸:何か行動を起こしたいと思ったとき「日本国内で行われるパレスチナ連帯のイベントおよびデモ情報」リストがすごくありがたいなと思いました。

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『Ryuichi Sakamoto | Opus』
2024年春、109シネマズプレミアム新宿ほか全国公開
監督:空音央
2023年/日本/103分

『枯れ葉』
2023年12月15日(金)よりユーロスペースほか全国ロードショー
監督・脚本:アキ・カウリスマキ
2023年/フィンランド・ドイツ/81分
https://kareha-movie.com/

いどぬま きみ

井戸沼紀美
福島県生まれ、都内在住。明治学院大学卒。これまでに『ジョナス・メカスとその日々をみつめて』(2014年)、『ジョナス・メカス写真展+上映会』(2015年)、『肌蹴る光線』(2018年~)などの上映イベントを企画した。

井戸沼紀美のエッセイ「二十二日の半券」隔月、奇数月の22日に更新します。次回は2024年1月22日掲載予定です。

●本日のお勧め作品は粟津潔です。
awazu_02_tiisaikappuru
《小さいカップル》
1981年
木版
作品サイズ:14.5×10.0cm
額装サイズ:32.0×26.0cm
Ed.1000
サインあり
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誠に勝手ながら、12月2日(土)は臨時休業とさせていただきます。

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映像フォーマット:Blu-Ray、リージョンフリー/DVD PAL、リージョンフリー
各作品の撮影形式:16mmフィルム、ビデオ
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建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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