M+(香港)の「靉嘔:虹虹虹」展に寄せて
本阿弥 清
靉嘔(アイオー)は、草間彌生やオノヨーコらとともに、戦後日本の現代美術を国際的なディメンションでけん引してきたアーティストの一人であり、久保貞次郎(美術評論家)の言葉を借りれば、二十代のころから「ジャイアントの風格を持った男」と言わしめた靉嘔の個展「靉嘔:虹虹虹」が、現在、香港に2021年秋にオープンした美術館M+(エムプラス)で5ヶ月間にわたって開催されている。
会場は、M+の2階にあるギャラリー<Cissy Pui-Lai Pao and Shinichiro Watari Galleries>で、長期間にわたって開催される第一弾の企画展となった。
M+は、中国(香港)の威信をかけて、アジアの「ハブ・ミュージアム」をめざして建設(延床面積17,000㎡)が進められたもので、これまでに靉嘔とナムジュン・パイクの共作による立体作品や倉俣史朗の作品など、アジア出身の作家作品が数多くコレクションされてきた。
靉嘔の近年の展覧会で知られているのは、昨年、アメリカのスミソニアン協会国立アジア美術館(ワシントンDC)の開館100周年を記念して開催された、個展「Ay-Ō’s Happy Rainbow Hell」(2023年3月25日~9月10日)だろう。
靉嘔の場合、その印象は、「虹のアーティスト」「版画家」、特に版画の場合には「多作の作家」「安価で購入できる作家」というイメージが強い。
しかしながら、靉嘔と親交があり作家としての仕事を見聞してきた美術関係者は、そのレッテルが、靉嘔について語るときのほんの一部分に過ぎないことを分かっていると思う。
特に、海外で活躍する日本人アーティストの場合には、協力者となる美術関係者らとの共同作業で、作品づくりから発表までが行われていることも多い。
靉嘔の油彩画や立体などの場合には、自らが長時間をかけて手作業で作品を制作しており、巨大なプロジェクトについても、自らの力で発表機会を切り開いてきたアーティストだった。
版画では、久保貞次郎、北川民次、瑛九、瀧口修造らが発起人となって結成された「創造美育協会」(1952年設立)から生まれた「小コレクター運動」(1956年発足)に靉嘔も参加し、「作家が制作した版画などを安価で提供することで美術の魅力を広く伝える」という理念と接して、その体験などから今日の靉嘔独自の制作方法に達したのだと思う。
靉嘔のやり方は、自身の手による初期の自刷りのエッチング、リトグラフ、シルクスクリーンを除けば、気心の知れた数人の優れた刷り師との分担作業で版画がつくられ発表されてきた。
そこには、版画作品をとおして大衆に美術の魅力を広く伝えるという、日本の浮世絵版画と共通するものがあり、刷り師たちや作品を販売するギャラリーなどの生業にも配慮したシステムだった。
その後、国内での版画による美術の普及活動は、「小コレクター運動」の終えんにより、「ときの忘れもの」の前進となった「現代版画センター」(1974~85)に受け継がれていった。
また、靉嘔の版画表現の原形になっているのが、自身が描く油彩画(版画作品の全てを制作したわけではない)であり、「虹」のグラデーションによる作品づくりでは、多くの時間を費やして制作が行われており、それを知る美術関係者はごく限られている。
私自身、靉嘔以外には、美術作品の存在意義を明確に哲学的に語ることができ、さらに世界各地で発表機会を得ようと自らが行動しながら、実際に表現の場をたぐり寄せてきたアーティストに、これまで出会ったことがなかった。
靉嘔の人と作品については、私の40年近い靉嘔との親交から得られた知見で、「靉嘔私論」を改めて書きたいと思っている。

図1 M+のファサード (撮影:本阿弥清)

図2 M+の「靉嘔・虹虹虹」展の入口看板 (撮影:本阿弥清)

左から:図3 ナムジュン・パイク&靉嘔の共作によるM+コレクション(M+ホームページより)、図4 靉嘔の個展「Ay-Ō’s Happy Rainbow Hell」(アメリカ国立アジア美術館ホームページより)
今回、私は、靉嘔(アイオー・本名:飯島孝雄)の個展(2023年12月15日~2024年5月5日)のオープニングレセプションに、飯島花子&クレイシ・ハールーン夫妻と五辻夫妻(ギャラリー五辻)や私の知人の陳姉妹(台湾人)らと出席することができた。
今回の展覧会は、靉嘔作品のコレクターであるジャン-マルク・ボタッツ氏とその仲間たちが所有するコレクションから多くの作品が展示されている。
ボタッツ氏と私は、十年以上前にギャラリー五辻で五辻さんの紹介で一度会ったことがあり、「国際的に活躍する金融業に従事するフランス人で靉嘔作品のファン」だと伺っていた。
ボタッツ氏は、その後、日本から滞在先を香港に移して、靉嘔作品の世界的コレクターとなっていた。
特に、今回の展覧会は、M+副館長兼チーフキュレイターのドリュン・チョン氏が手掛けたもので、靉嘔が「虹」による視覚表現だけではなく、哲学的思考から到達した人間の五感(六感を含む)表現に、果敢に挑戦したアーティストであることが分かる、靉嘔作品を的確に捉えた展示となっている。
ちなみに、靉嘔が1958年にアメリカに渡ってからの仕事では、ニューヨーク「フルクサス」時代の、触覚表現の作品「Finger Box(フィンガーボックス)」が知られており、さらに1960年代からは、Environment(環境)を射程に入れた作品もいち早く発表したアーティストだった。
また、靉嘔の原点にあるのは、1950年代に河原温や池田満寿夫らとともに参加した「デモクラート美術家協会」の瑛九との出会いと交流であり、その後の生き方や作品づくりにも大きな影響を与えたといわれている。
当時、靉嘔と同様に日本を飛び出してアメリカに渡った河原温や池田満寿夫らは、それぞれの個性を活かしながら、グローバルな活躍をした作家となったことは広く知られている。
香港は、1997年にイギリスから中国に返還されたが、M+においては西欧的な自由なスタイルが健在で、12月15日に開催された「靉嘔:虹虹虹」展のオープニングセレモニーでは、カジュアルな服装とスニーカーで参加する若い世代も多かった。
オープニングセレモニーは、午後5時からスタートして4時間以上にわたり9時過ぎまで多彩な催しが行われ、最初に、ドリュン・チョン氏とジャン-マルク・ボタッツ氏によるトークショー(靉嘔作品の解説)が英語で行われた。
トークでは、靉嘔の初期の油彩作品《ひまわりとジェット機》(1955年)から、靉嘔と久保貞次郎との交流、そして、浮世絵の春画を使ったシルクスクリーン作品《レインボー北斎》(1970年)がアメリカで誕生した経緯などにも触れられ、靉嘔の詳細な仕事を知らないと語れないものだった。
その後、会場を展示ギャラリーに移して、ドリュン・チョン氏による詳しい作品解説が行なわれた。
第1展示室には、《愛することTo Love》(1954年)などの初期の油彩作品、フルクサスのジョージ・マチューナス氏を偲ぶシルクスクリーン作品《目はひとつあれば十分だ》(1993年)、触覚表現として有名な《フィンガー ボックス キッド》(1963年)などが展示されていた。
さらに、第2展示室には、《レインボークロック》(1969年ころ)、《レインボー北斎》(1970年)、《96グラデーション レインボー》(1985年)、パリのエッフェル塔300mプロジェクトで制作されたシルクスクリーン作品《ルソーに捧ぐ》(1987年)、広島の原爆投下を題材にした《ひろしまE=mc2(ひろしま8:15AM エスキース)》(1988年)、《インナー レインボー スケルトン》(1990年)、10mの長さの作品《ロング ロング レインボー ペインティング》(1967年)などが展示されており、全体では、1950年~2000年代に制作された靉嘔の約50点の作品とともに、フルクサス関連作家の作品も合わせて展示されている。

図6 1950年代の作品《ひまわりとジェット機》《愛すること》などの展示風景 (撮影:本阿弥清)

図7 フルクサス関連の作品の展示風景 (撮影:本阿弥清)

図8 作品《フィンガー ボックス》を解説するドリュン・チョン氏 (撮影:本阿弥清)

図9 作品《96グラデーション レインボー》の展示風景 (撮影:本阿弥清)

図10 版画作品《 レインボー北斎》《ルソーに捧ぐ》などの展示風景 (撮影:本阿弥清)

図11 作品《ロング ロング レインボー ペインティング》 の展示風景(撮影:本阿弥清)

図12 作品《 インナー レインボー スケルトン》の展示風景 (撮影:本阿弥清)
そして、メインホールでは、スハーニャ・ラフェル館長やチョン副館長とともに、靉嘔に代わって靉嘔の一人娘の花子さんのスピーチ(靉嘔は92歳の高齢のため参加しなかったため)が、Grand Stair(大階段)といわれる数百人収容の客席を持つ階段状舞台で実施された。
花子さんのスピーチでは、靉嘔がニューヨークから清瀬(東京)にある自宅兼アトリエに戻った時の1日の様子が語られ、2階にあったアトリエに朝出掛けて作品づくりをして、夕方に1階のリビングに降りてくるという、サラリーマンのような規則正しい生活をする父だったという。
また、靉嘔は、冗談が好きな人柄で、展覧会のオープニングなどでもゆかいなことをやる人だったと、靉嘔が「オプティミスト」と呼ばれている理由を垣間見ることができた。
オープニングセレモニーの最後は、フォーラム会場に移って、展覧会関係者のみが参加できるレセプションが開かれた。
従来のテーブルでの会食ではなく、エレキギターによる生バンド演奏を聴きながら踊り出す人もいたほか、夜景が美しい美術館のベランダに出て自由に歓談する人たちもいた。
会場の入口付近には、ボタッツ氏とその仲間たちが企画した、靉嘔の作品《フィンガーボックス》や制作当時は珍しかったカラーコピー機を使った作品《Then, Mr. Ay-o got drunk by the Rainbow》(1974年)をヒントに制作された「ワークショップ」コーナーも設置されていた。
また、M+の1階にあるミュージアムショップ(The M+ Shop)には、靉嘔コーナーも設けられており、書籍、バック、ポストカード、靴下など、虹色のオリジナル商品が並んでいた。
■展覧会名:「Ay-O:Hong Hong Hong 靉嘔:虹虹虹」
■会期:2023年12月15日~2024年5月5日
■会場:香港 М+(エムプラス) Cissy Pui-Lai Pao and Shinichiro Watari Galleries
なお、私のSNS【Facebook本阿弥】では、今回のキュレイションを担当したドリュン・チョン氏の過去に行った日本美術の紹介についても触れているので、興味のある方は覗いてみていただければ幸いだ。
https://www.facebook.com/kiyoshi.honnami/
■本阿弥 清(ほんなみ きよし)
1954年生まれ。現代美術研究者/都市環境デザイナー。
現在、NPO法人環境芸術ネットワーク代表。美術評論家連盟会員。日本建築学会会員。
過去にNPO法人運営「虹の美術館」館長 (2000~2005年)/多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員 (2010~2016年)。
『もの派-隠された真実をめぐって』美術出版社第14回(2009年)芸術評論募集 入選。
単著『もの派の起源』水声社 2016年。
編著『石子順造とその仲間たち』2002年、『石子順造は今』2004年、『グループ幻触の記録』2005年、以上 虹の美術館 他
●本日のお勧め作品は、靉嘔です。
《黄色い空をみあげる日々》
1958年 石版画
15.0×25.0cm
Ed.80 サインあり
レゾネNo.124
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
本阿弥 清
靉嘔(アイオー)は、草間彌生やオノヨーコらとともに、戦後日本の現代美術を国際的なディメンションでけん引してきたアーティストの一人であり、久保貞次郎(美術評論家)の言葉を借りれば、二十代のころから「ジャイアントの風格を持った男」と言わしめた靉嘔の個展「靉嘔:虹虹虹」が、現在、香港に2021年秋にオープンした美術館M+(エムプラス)で5ヶ月間にわたって開催されている。
会場は、M+の2階にあるギャラリー<Cissy Pui-Lai Pao and Shinichiro Watari Galleries>で、長期間にわたって開催される第一弾の企画展となった。
M+は、中国(香港)の威信をかけて、アジアの「ハブ・ミュージアム」をめざして建設(延床面積17,000㎡)が進められたもので、これまでに靉嘔とナムジュン・パイクの共作による立体作品や倉俣史朗の作品など、アジア出身の作家作品が数多くコレクションされてきた。
靉嘔の近年の展覧会で知られているのは、昨年、アメリカのスミソニアン協会国立アジア美術館(ワシントンDC)の開館100周年を記念して開催された、個展「Ay-Ō’s Happy Rainbow Hell」(2023年3月25日~9月10日)だろう。
靉嘔の場合、その印象は、「虹のアーティスト」「版画家」、特に版画の場合には「多作の作家」「安価で購入できる作家」というイメージが強い。
しかしながら、靉嘔と親交があり作家としての仕事を見聞してきた美術関係者は、そのレッテルが、靉嘔について語るときのほんの一部分に過ぎないことを分かっていると思う。
特に、海外で活躍する日本人アーティストの場合には、協力者となる美術関係者らとの共同作業で、作品づくりから発表までが行われていることも多い。
靉嘔の油彩画や立体などの場合には、自らが長時間をかけて手作業で作品を制作しており、巨大なプロジェクトについても、自らの力で発表機会を切り開いてきたアーティストだった。
版画では、久保貞次郎、北川民次、瑛九、瀧口修造らが発起人となって結成された「創造美育協会」(1952年設立)から生まれた「小コレクター運動」(1956年発足)に靉嘔も参加し、「作家が制作した版画などを安価で提供することで美術の魅力を広く伝える」という理念と接して、その体験などから今日の靉嘔独自の制作方法に達したのだと思う。
靉嘔のやり方は、自身の手による初期の自刷りのエッチング、リトグラフ、シルクスクリーンを除けば、気心の知れた数人の優れた刷り師との分担作業で版画がつくられ発表されてきた。
そこには、版画作品をとおして大衆に美術の魅力を広く伝えるという、日本の浮世絵版画と共通するものがあり、刷り師たちや作品を販売するギャラリーなどの生業にも配慮したシステムだった。
その後、国内での版画による美術の普及活動は、「小コレクター運動」の終えんにより、「ときの忘れもの」の前進となった「現代版画センター」(1974~85)に受け継がれていった。
また、靉嘔の版画表現の原形になっているのが、自身が描く油彩画(版画作品の全てを制作したわけではない)であり、「虹」のグラデーションによる作品づくりでは、多くの時間を費やして制作が行われており、それを知る美術関係者はごく限られている。
私自身、靉嘔以外には、美術作品の存在意義を明確に哲学的に語ることができ、さらに世界各地で発表機会を得ようと自らが行動しながら、実際に表現の場をたぐり寄せてきたアーティストに、これまで出会ったことがなかった。
靉嘔の人と作品については、私の40年近い靉嘔との親交から得られた知見で、「靉嘔私論」を改めて書きたいと思っている。

図1 M+のファサード (撮影:本阿弥清)

図2 M+の「靉嘔・虹虹虹」展の入口看板 (撮影:本阿弥清)

左から:図3 ナムジュン・パイク&靉嘔の共作によるM+コレクション(M+ホームページより)、図4 靉嘔の個展「Ay-Ō’s Happy Rainbow Hell」(アメリカ国立アジア美術館ホームページより)
今回、私は、靉嘔(アイオー・本名:飯島孝雄)の個展(2023年12月15日~2024年5月5日)のオープニングレセプションに、飯島花子&クレイシ・ハールーン夫妻と五辻夫妻(ギャラリー五辻)や私の知人の陳姉妹(台湾人)らと出席することができた。
今回の展覧会は、靉嘔作品のコレクターであるジャン-マルク・ボタッツ氏とその仲間たちが所有するコレクションから多くの作品が展示されている。
ボタッツ氏と私は、十年以上前にギャラリー五辻で五辻さんの紹介で一度会ったことがあり、「国際的に活躍する金融業に従事するフランス人で靉嘔作品のファン」だと伺っていた。
ボタッツ氏は、その後、日本から滞在先を香港に移して、靉嘔作品の世界的コレクターとなっていた。
特に、今回の展覧会は、M+副館長兼チーフキュレイターのドリュン・チョン氏が手掛けたもので、靉嘔が「虹」による視覚表現だけではなく、哲学的思考から到達した人間の五感(六感を含む)表現に、果敢に挑戦したアーティストであることが分かる、靉嘔作品を的確に捉えた展示となっている。
ちなみに、靉嘔が1958年にアメリカに渡ってからの仕事では、ニューヨーク「フルクサス」時代の、触覚表現の作品「Finger Box(フィンガーボックス)」が知られており、さらに1960年代からは、Environment(環境)を射程に入れた作品もいち早く発表したアーティストだった。
また、靉嘔の原点にあるのは、1950年代に河原温や池田満寿夫らとともに参加した「デモクラート美術家協会」の瑛九との出会いと交流であり、その後の生き方や作品づくりにも大きな影響を与えたといわれている。
当時、靉嘔と同様に日本を飛び出してアメリカに渡った河原温や池田満寿夫らは、それぞれの個性を活かしながら、グローバルな活躍をした作家となったことは広く知られている。
香港は、1997年にイギリスから中国に返還されたが、M+においては西欧的な自由なスタイルが健在で、12月15日に開催された「靉嘔:虹虹虹」展のオープニングセレモニーでは、カジュアルな服装とスニーカーで参加する若い世代も多かった。
オープニングセレモニーは、午後5時からスタートして4時間以上にわたり9時過ぎまで多彩な催しが行われ、最初に、ドリュン・チョン氏とジャン-マルク・ボタッツ氏によるトークショー(靉嘔作品の解説)が英語で行われた。
トークでは、靉嘔の初期の油彩作品《ひまわりとジェット機》(1955年)から、靉嘔と久保貞次郎との交流、そして、浮世絵の春画を使ったシルクスクリーン作品《レインボー北斎》(1970年)がアメリカで誕生した経緯などにも触れられ、靉嘔の詳細な仕事を知らないと語れないものだった。
その後、会場を展示ギャラリーに移して、ドリュン・チョン氏による詳しい作品解説が行なわれた。
第1展示室には、《愛することTo Love》(1954年)などの初期の油彩作品、フルクサスのジョージ・マチューナス氏を偲ぶシルクスクリーン作品《目はひとつあれば十分だ》(1993年)、触覚表現として有名な《フィンガー ボックス キッド》(1963年)などが展示されていた。
さらに、第2展示室には、《レインボークロック》(1969年ころ)、《レインボー北斎》(1970年)、《96グラデーション レインボー》(1985年)、パリのエッフェル塔300mプロジェクトで制作されたシルクスクリーン作品《ルソーに捧ぐ》(1987年)、広島の原爆投下を題材にした《ひろしまE=mc2(ひろしま8:15AM エスキース)》(1988年)、《インナー レインボー スケルトン》(1990年)、10mの長さの作品《ロング ロング レインボー ペインティング》(1967年)などが展示されており、全体では、1950年~2000年代に制作された靉嘔の約50点の作品とともに、フルクサス関連作家の作品も合わせて展示されている。

図6 1950年代の作品《ひまわりとジェット機》《愛すること》などの展示風景 (撮影:本阿弥清)

図7 フルクサス関連の作品の展示風景 (撮影:本阿弥清)

図8 作品《フィンガー ボックス》を解説するドリュン・チョン氏 (撮影:本阿弥清)

図9 作品《96グラデーション レインボー》の展示風景 (撮影:本阿弥清)

図10 版画作品《 レインボー北斎》《ルソーに捧ぐ》などの展示風景 (撮影:本阿弥清)

図11 作品《ロング ロング レインボー ペインティング》 の展示風景(撮影:本阿弥清)

図12 作品《 インナー レインボー スケルトン》の展示風景 (撮影:本阿弥清)
そして、メインホールでは、スハーニャ・ラフェル館長やチョン副館長とともに、靉嘔に代わって靉嘔の一人娘の花子さんのスピーチ(靉嘔は92歳の高齢のため参加しなかったため)が、Grand Stair(大階段)といわれる数百人収容の客席を持つ階段状舞台で実施された。
花子さんのスピーチでは、靉嘔がニューヨークから清瀬(東京)にある自宅兼アトリエに戻った時の1日の様子が語られ、2階にあったアトリエに朝出掛けて作品づくりをして、夕方に1階のリビングに降りてくるという、サラリーマンのような規則正しい生活をする父だったという。
また、靉嘔は、冗談が好きな人柄で、展覧会のオープニングなどでもゆかいなことをやる人だったと、靉嘔が「オプティミスト」と呼ばれている理由を垣間見ることができた。
オープニングセレモニーの最後は、フォーラム会場に移って、展覧会関係者のみが参加できるレセプションが開かれた。
従来のテーブルでの会食ではなく、エレキギターによる生バンド演奏を聴きながら踊り出す人もいたほか、夜景が美しい美術館のベランダに出て自由に歓談する人たちもいた。
会場の入口付近には、ボタッツ氏とその仲間たちが企画した、靉嘔の作品《フィンガーボックス》や制作当時は珍しかったカラーコピー機を使った作品《Then, Mr. Ay-o got drunk by the Rainbow》(1974年)をヒントに制作された「ワークショップ」コーナーも設置されていた。
また、M+の1階にあるミュージアムショップ(The M+ Shop)には、靉嘔コーナーも設けられており、書籍、バック、ポストカード、靴下など、虹色のオリジナル商品が並んでいた。
■展覧会名:「Ay-O:Hong Hong Hong 靉嘔:虹虹虹」
■会期:2023年12月15日~2024年5月5日
■会場:香港 М+(エムプラス) Cissy Pui-Lai Pao and Shinichiro Watari Galleries
なお、私のSNS【Facebook本阿弥】では、今回のキュレイションを担当したドリュン・チョン氏の過去に行った日本美術の紹介についても触れているので、興味のある方は覗いてみていただければ幸いだ。
https://www.facebook.com/kiyoshi.honnami/
■本阿弥 清(ほんなみ きよし)
1954年生まれ。現代美術研究者/都市環境デザイナー。
現在、NPO法人環境芸術ネットワーク代表。美術評論家連盟会員。日本建築学会会員。
過去にNPO法人運営「虹の美術館」館長 (2000~2005年)/多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員 (2010~2016年)。
『もの派-隠された真実をめぐって』美術出版社第14回(2009年)芸術評論募集 入選。
単著『もの派の起源』水声社 2016年。
編著『石子順造とその仲間たち』2002年、『石子順造は今』2004年、『グループ幻触の記録』2005年、以上 虹の美術館 他
●本日のお勧め作品は、靉嘔です。
《黄色い空をみあげる日々》1958年 石版画
15.0×25.0cm
Ed.80 サインあり
レゾネNo.124
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。





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