梅津元「瑛九-フォト・デッサンの射程」

第11回「I always try, I always miss -第33回瑛九展・湯浅コレクション(スピンオフ)」

梅津 元


 I always try, I always miss - ニュー・オーダーの3枚目のアルバム『Low-Life』に収録されている「Sub-culture」のフレーズが、いつものように私をとらえる、いつかこの曲がやってくることはわかっていたし、その時を期待しながら待ちわびていた気もするけれど、ここでやってきたのは必然だろう。前回、「疾走/失速」が基調となった第10回、「何度も失速する、けれど、失速するたびに、再び疾走を始める」と書いているのだが、この一節は、そのまま「I always try, I always miss」に直結しているのだから。
 走り抜けたいのに失速する、その繰り返し、まるで、失速するために疾走するかのような倒錯、それは、まるで、「I always miss」のために「I always try」を繰り返すような倒錯と、ぴたりと重なっている。告白しておかねばならない、このような倒錯こそが私にとっては救いなのであり、ニュー・オーダーの「なにもない」感覚が「あふれている」曲、それが、「Sub-culture」なのである。「I always try, I always miss」のエンドレスな繰り返しは、私の知覚と思考を、私の心身を、「空虚」によって「充満」させる。

12月8日、再び

「ぼくは1935年の末、日本エスペラント学会からたのまれて、九州各地のエスペラント支部を歴訪し、その組織を活発化する目的で九州に向って旅立った。アメリカで鼓吹されたデモクラシーの精神を、各地で披瀝する心を燃やしていた。
 北九州から、熊本、鹿児島をへて、宮崎へたどりついたのは、1935年12月8日(日)の夕刻であった。ぼくは会場になっていた郡司夫人邸の玄関で、長髪の強度の近眼鏡をかけた青年から挨拶をうけた。かれは「杉田秀夫」と名のった。秀夫は兄の眼科医杉田正臣が宮崎エスペラント支部長だったので、その手つだいで、ぼくの歓迎会に参加していた。ぼくは宮崎に滞在した2日のあいだ、画家杉田秀夫と接触を続けた。さいごの晩かれはぼくをかれのアトリエに招いて自作をみせてくれた。そのいきさつはぼくのエッセイ集「わたしの出会った芸術家たち」にくわしい。

久保貞次郎「瑛九のひとと芸術」より引用(出典:『現代美術の父 瑛九展』編集:靉嘔・魚津章夫・木水育男、瑛九展開催委員会、1979年、頁数記載なし。)

 上記の久保貞次郎さんによる文章は、1979年6月8日から6月20日まで、小田急百貨店新宿本館11階・小田急グランドギャラリーにて開催された「現代美術の父 瑛九展」(主催:瑛九展実行委員会、後援:文化庁・瑛九の会)の図録に掲載されている。第7回において、瑛九夫人である都さんが亡くなった日が12月8日(2018年)であることに触れ、この日付に、ジョン・レノンが凶弾に倒れた日(1980年)、ジョン・レノンの命日と結びついている私の自宅の転居の日(1983年)、日本軍による真珠湾攻撃開始の日(1941年)、という様々な階層の出来事が織り込まれていることについて、書いている。
 このように、世界と日本の歴史においても、個人史的な意味においても、いくつもの出来事が折り畳まれた12月8日が、後に瑛九と名乗ることになる杉田秀夫にとっても、意義深い出来事が起きていた日であることに、改めて思い当たる。もちろん、この久保さんの文章はこれまでに何度か読んでいるはずなのであるが、12月8日という日付に気が付いたのは、つい最近のことである。そして、杉田秀夫と久保さんの出会いは、第7回で記述した、12月8日に起きたいくつかの出来事のどれよりも古く、1935年のことである。

 冷静に考えて、うるう年を含めても一年は366日しかなく、対象となる出来事が367件以上になれば、少なくともふたつの出来事は、必ず同じ日付になる。だから、12月8日のことも、ことさら大げさに取り上げるつもりはないが、それでも記しておきたいのは、この連載が開始されなければ、杉田秀夫と久保さんの出会いが12月8日であったことを意識することはなかったのではないか、ということである。
 このような、瑛九のフォト・デッサンについて考察するという本筋から外れたささやかなエピソードにすぎないかもしれない(再)発見は、I always try, I always miss、という状況が長く続く中で、執筆に向かう気持ちを奮い立たせてくれることもある。そして、その本筋、「瑛九のフォト・デッサンについて考察する」ことに向きあう上で、ここで紹介している久保さんの文章が収録されている、1979年の小田急グランドギャラリーにおける「現代美術の父 瑛九展」の図録は、極めて重要な役割を担っている。

 なぜなら、この図録には、制作年が「1931年」と記されたフォト・デッサンが出品されたことが記録されており、その作品の図版が掲載されているからである。前回、第10回において、「第33回瑛九展・湯浅コレクション」に出品されたフォト・デッサン《題不詳》(出品番号33、カタログ45頁)の制作年代を、『眠りの理由』(1936年)よりも古い、1930年頃なのではないかという仮説を提起した。そこで、今回は、この連載では初めてとなる「スピンオフ」の回とし、1979年の「現代美術の父 瑛九展」の図録に掲載されている、1931年の制作とされているフォト・デッサンを取り上げることにしたい。
 これは、「第33回瑛九展・湯浅コレクション」から次に紹介することを予定している作品について考える上でも、重要な意味があるため、連載を継続する流れをふまえた上で、熟考を重ねた結果でもある。「第33回瑛九展・湯浅コレクション」から毎回1点を取り上げるという原則から外れることになるが、時には寄り道も悪くない、読後にそのように思っていただけるよう、思考の回転速度を上げていきたい。

最初期のフォト・デッサン(推測)、再び

 冒頭で紹介した引用箇所に続けて、久保さんの文章では、翌1936年の2月に杉田秀夫(以下、秀夫と略記)が久保さんの自宅を訪れ、フォトグラムの原理を活用した印画紙の作品を多数持参したこと、その後、秀夫がたびたび久保さんのもとを訪れことが記されている。後日、秀夫が長谷川三郎と外山卯三郎にこれらの作品を見せる機会を得たことにより、瑛九という名前が生まれ、フォト・デッサン集『眠りの理由』の刊行へとつながるのであるが、その間の経緯が、久保さんの記憶にもとづいて記述されている。
 ここで、前回、第7回において取り上げた、《題不詳》の制作年代についての議論を思い起こしていただきたい。いくつかの根拠を示すことによって、私は、この《題不詳》という作品の制作年が、「1930年頃」なのではないかという仮説を提示した。あくまでも、推測の域を出ないが、この仮説が正しければ、この作品は杉田秀夫が「写真との遭遇」を果たした頃に制作した「最初期のフォト・デッサン」のうちの1点であることになる。

 であるならば、この《題不詳》は、上記の引用箇所で久保さんが記している、杉田秀夫と久保さんの出会い-1935年12月8日の出来事-よりも前に、制作されていたことになる。そして、繰り返しになるが、1979年に開催された瑛九の回顧展「現代美術の父 瑛九展」が極めて重要な役割を担っているのは、この《題不詳》と同じく、杉田秀夫と久保さんの出会いよりも前に制作されたとみなすことができるフォト・デッサンが、この展覧会に出品され、図録に図版が掲載されているからである。その作品の図版は以下である。

p76
fig.1:《題名不明》 1931

 巻末の「出品目録」を参照すると、フォト・デッサン関連の出品は34点であるが、うち8点は「フォト・デッサン原型(1)」から「フォト・デッサン原型(8)」までのフォト・デッサンの型紙であり、フォト・デッサン作品は26点である。そのうち、制作年の項目が空欄であり、制作年不明と思われる2点以外は、すべて制作年が記載されている。図版ページの掲載順をふまえて、制作年の新しい順に、制作年代が記載されている24点の作品を整理すると、以下のようになる。

 1954年: 3点
 1952年: 3点
 1951年:10点
 1950年: 6点
 1948年: 1点
 1931年: 1点
 (不明: 2点)

 このように、フォト・デッサンについては、第二次大戦後に制作された作品が中心であることが一目瞭然であるだけに、「1931年」という制作年は、ひときわ目をひく。前回取り上げた《題不詳》は、私自身の推測に基づいて、1930年頃の制作ではないか、という仮説を提示した。これに対して、上記の《題名不明》は、「1931年」という制作年が図録に明記されている。瑛九に近しい人々が実行委員や開催委員に名を連ねた展覧会であり、この制作年を作品の基礎データとして採用することは妥当だろう。だが、ここでは、この作品の図版を見ることから導かれる思考をたよりに、この作品の制作年を「1931年」とすることが妥当であるかについて、推測を交えた考察になるが、私なりに考えてみたい。

 作品を見てみよう。人の形の型紙によるイメージが中心となっているが、その多くは、踊り子やバレリーナのような形である。また、画面の中央よりやや左下には、瓶のようなモチーフがあり、画面全体には、おそらくガラス棒と思われるモチーフや、紙や紐を用いたと推測される輪のような形もいくつか見えている。このように、画面を構成する素材は複数の種類であるものの、構図に注目するならば、思いつくままに配置している感覚が強く、画面をひとつの構図として成り立たせる意識は希薄であるように感じられる。
 まず、ガラス棒の使用の方に注目してみよう。ガラス棒については、第6回において、複数の作品を取り上げ、具体的に説明を試みた。それらと比較した場合、この作品におけるガラス棒の使われ方は、どのような印象をもたらすだろうか。おそらく、この作品でのガラス棒の使用は、構図の意識がさほど高くなく、パラパラと置いてみたような印象を受けるのではないだろうか。この点において、最初期に制作されたフォト・デッサンであると推測することができるだろう。

型紙と構図、再び

 次に、この作品の基調をなしている、踊り子やバレリーナのようなイメージの型紙の使用について、注目してみよう。画面には、型紙に由来すると思われる人の形のイメージを、8つ確認することができる。ここで、この「現代美術の父 瑛九展」の図録に掲載されている、人の形の型紙を用いた他の作品、つまり、第二次大戦後に制作された作品と比較するための確認作業を進めている時、気がついたことがある。この《題名不明》に用いられている型紙と同じ型紙を用いたと思われるフォト・デッサンがある。その図版を見てみよう。

シルク
fig.2:《シルク》 1951

 この《シルク》の左上に見える人の形は、《題名不明》の右中央に見える人の形を裏返したイメージである。従って、このふたつのイメージは、同じ型紙を用いて得られたものとみなすことができる。そのことを確認した上で、《シルク》は「1951年」、《題名不明》は「1931年」と、それぞれ、制作年が記載されている。まず、直感的に感じるのは、《シルク》の「1951年」に対する違和感である。1951年といえば、瑛九が意欲的にフォト・デッサンの制作に取り組んだ年であり、型紙を用いたフォト・デッサンの典型的な作風とみなされている作品が制作されている。代表的な作例である《リズム》を見てみよう。

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fig.3:《リズム》 1951 埼玉県立近代美術館蔵

 画面の構成は複雑で緻密であり、1951年頃のフォト・デッサンがこのような水準に到達していることをふまえるならば、《シルク》の制作年を1951年とするのは、無理があるように感じられる。1931年とする根拠はないが、《シルク》は、同じ型紙が用いられている《題名不明》と、ほぼ同時期に制作されたのではないかと考えてみたい。
 もちろん、型紙は保存が可能であるため、《題名不明》に用いられた型紙が瑛九の手元にあり、1951年に《シルク》を制作する際に再び用いられたという解釈も、十分可能である。だが、《シルク》の構図は、《題名不明》と同様、素材やパーツを画面上に配置してみたという感覚を拭えず、《リズム》のように画面の構成が緻密に練り上げられた作品とは、かなりの距離があると感じざるをえない。

 さらに、制作年は不明であるが、《題名不明》と多くの素材を共有しているフォト・デッサンも存在している。その作品も見てみよう。

作品25
fig.4:《作品(25)》 制作年不明 埼玉県立近代美術館蔵

 《題名不明》と共有している素材を確認してみよう。まず、型紙であるが、《作品(25)》の左下に小さく見えているふたつの人の形は、《題名不明》の下方、左側に見えるふたつの人の形の上部であると思われる。さらに、《作品(25)》の右側中央に見えている人の形は、《題名不明》の下方、中央に見える人の形と同じであると思われる。このように、作品に用いられている型紙に注目すると、《題名不明》と《作品(25)》では、3種類の型紙が共通して用いられていることがわかる。
 さらに、型紙以外の素材に注目すると、まず、《作品(25)》の右、大きな型紙の手と足に挟まれている位置に見えている、瓶のようなモチーフが、《題名不明》の中央やや左下に見えている瓶のようなモチーフと同じものではないかと思われる。また、《作品(25)》の右上に見える縦長の輪は、《題名不明》の中央上部に斜めに配置されている輪と、同じとチーフ(紙、布、ゴムなどの紐状の素材と推測される)を用いて得られたイメージなのではないかと思われる。
 どちらにしても、光によって印画紙に定着されたイメージを見比べることから、制作に用いられたモチーフを推測しているため、この推測は正確ではなく、形が似ている別なモーフが、それぞれの制作において用いられた可能性も否定できない。だが、このふたつの作品において、3種類の型紙が共通して用いられていることをふまえるならば、瓶や輪のイメージも、同じ素材に由来すると考えるのは自然であり、妥当と思われる。

 このように考えると、《題名不明》と《作品(25)》は近い時期に制作されたのではないかと推測できる。ここで、《題名不明》とひとつの型紙を共有している《シルク》も交えて、この3点について、考えてみる。相対的な見方ではあるが、おそらく、《作品(25)》が最も構図の意識が高く、逆に、《シルク》が最も素朴で構図の意識が希薄であるように感じられる。このことから、この3点は、ほぼ同じ時期に制作されているが、制作の順番は、《シルク》、《題名不明》、《作品(25)》、ではないかと、推測することができる。
 
 今回の記述をふまえて、最後に示せることを整理しておきたい。《シルク》と《題名不明》は、その作風から、『眠りの理由』(1936年)よりも以前に制作された、最初期のフォト・デッサンとみなすことが可能であり、制作年を1931年頃とすることには、一定の妥当性があるだろう。一方、《作品(25)》は、この2点と同じ時期の制作と推測されるものの、この2点よりも構図の意識が高く、より後年に制作された可能性も否定できない。なお、今回の記述は、雑誌『フォトタイムス』の1930年8月号に杉田秀夫の名前で発表された「フォトグラムの自由な制作のために」について考える上でも、重要な議論なのであるが、そのことについては、次回以降、論じてみたい。

 以上で、スピンオフの回を終える。《題名不明》については、図録に掲載された図版だけが頼りであり、「第33回瑛九展・湯浅コレクション」の作品のように、印画紙の状態を参照することは叶わない。そのため、前回以上に、推測に委ねる記述の比重が高く、誤った判断を提示しているかもしれない。それでも、推測や可能性であることを示した上で、考えられる限りにおいて、できるだけ踏み込んだ議論に挑んでみたかったのだ。I always try, I always miss, それで構わないのだから。

All the Way

 I don’t remember what happened yesterday - ニュー・オーダーの5枚目のアルバム『Technique』の2曲目、「All the Way」のフレーズが、いつものように私をとらえる。「昨日、何が起きたかなんて、覚えていない。」
 それにしても、不思議なものだ、I don’t remember what happened yesterday、いつもこのフレーズぐらいしか、私の耳をとらえないのに、今回のスピンオフの執筆中、この曲の歌詞が、私をとらえ、勝手に入ってきてしまった。人から何を言われても気にしない、自分の中の真実を見つける、そんなフレーズだった、正確なニュアンスは、もちろん、つかまえられてはいないのだけど。

(うめづ げん)

図版出典
fig.1, 2:『現代美術の父 瑛九展』編集:靉嘔・魚津章夫・木水育男、瑛九展開催委員会、1979年
fig.3:『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年
fig.4:『光の化石』埼玉県立近代美術館、1997年

■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。

・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新、次回は2024年8月24日です。どうぞお楽しみに。

●本日のお勧め作品は、瑛九です。
qei-238 (2)《題不詳》
フォト・デッサン
28.4×22.0cm
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『第33回瑛九展/湯浅コレクション』カタログ
瑛九展_表紙
発行:ときの忘れもの
図版:40点
写真:15点
執筆:大谷省吾、小林美紀、工藤香澄
翻訳:小川紀久子、新澤悠(ときの忘れもの)
編集:Curio Editors Studio
デザイン:柴田卓
体裁:B5判、84頁、日本語・英語併記
価格:2,750円(税込)、送料:250円



●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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