オディロン・ルドン作《ベアトリーチェ》(1897年、カラー・リトグラフ)について [その3]

山上紀子


(3)リトグラフ版《ベトリーチェ》
 このパステル画《ベアトリーチェ》をもとに作られた原版は現存しないが、ルドンの制作記録[Ms 42 821]によると、カラー・リトグラフ作品《ベアトリーチェ》(1897)は1896年10月に画商アンブロワーズ・ヴォラールから注文を受けて制作された。刷り師オーギュスト・クロの手でシーヌ・アプリケ(chine appliquéとは、繊細な質感を生むために紙の上にさらに薄い紙を貼り合わせたもの)に刷られたカラー・リトグラフは、1897年、画商アンブロワーズ・ヴォラールが刊行した版画集『画家・版画家のアルバム』(Album des Peintres-Graveurs)にて公開された [1] 。
 じつはルドンは1896年にも、『画家・版画家のアルバム』のためにヴォラールにリトグラフを提供したが、その作品《老いた騎士》はモノクロームだった。この年ヴォラールはラフィット通りにあった画廊で、版画家たちだけの展覧会を初開催し、22枚の版画を収録したアルバムを出版した。リトグラフ、銅版画、木版画のいずれも色刷り作品が多くを占めるなか、モノクロームのリトグラフを出したのはルドンとファンタン=ラトゥールだけだった。その翌年、ヴォラールは主にカラーで32枚のリトグラフからなる第2集を出版した。《ベアトリーチェ》はここに収められた。1879年から1889年にかけてオリジナルのモノクローム・リトグラフ集を発表し、それ以降も個別のリトグラフを制作し、1890年代初頭にパリで開催された版画にかかわる展覧会にことごとく参加してきたルドンの版画はコレクターのあいだで人気があった。しかし、カラー・リトグラフを使った創作版画が流行すると判断したヴォラールの助言に従い、ルドンは黒の木炭画ではなく、パステル画をもとに、カラー・リトグラフ《ベアトリーチェ》の制作に踏み切ったのである。
 他方、同年に制作された、モノクローム・リトグラフ《花のある子供の顔》(M 169; Werner 144)の刷りが、オーギュスト・クロではなく、ルメルシエ社の刷り師デュシャテルに託されたことは、ルドンがそれぞれの作品に応じて、彼が望む刷り方のできる刷り師を選んで協働していたことを示している。ベアトリーチェと共通性のある構図で描かれた左向きの子供の横顔は、当時8歳だった次男アリ・ルドンを想像させる。細い線と淡い色で茫漠と描かれた顔と対照的に、花々は強いタッチで濃くはっきりと描かれ、生命をもつかのように躍動的な印象を与える。1897年は、パステルと油彩を多く使うようになり、徐々に黒を放棄する時期にあたるが、ルドンはカラー・リトグラフを導入すると同時に、共通する主題や図像を、木炭画のような豊かな階調を実現するモノクロームのリトグラフで刷る方法も探求しつづけた。ギュスターヴ・ペレが発行した《花のある子供の顔》50部のうち、黒刷りは35部、黒刷りの上から一部にカラー手彩を施されたものが15部ある。
 さて、リトグラフ版《ベアトリーチェ》には2つのバージョンがある。人物および背景の表現、全体の色のトーンが異なっている。一方のバージョン(Odilon Redon. Prince du rêve. 1840-1916, cat. exp., Paris, Grand Palais, 2011, p. 283[Cat. 102])は、現在、フランス国立図書館、アムステルダム国立美術館などに所蔵されている。パステル版を比較的忠実に再現したものであり、赤みを帯びた山、雲の連なる光景、人物の肩の右側に浮遊する青と薔薇色の不定形なモチーフも共通している。物憂いまなざしも、パステル画と同じく左下方向に向けられている。ただ、リトグラフ独特の黄色と褐色は、パステルの黄金の荘厳さとはまったく異質の、静穏な印象を人物に与えている。背景に部分的に使われた青のグラデーションも複雑である。

《ベアトリーチェ》リトグラフ
Odilon Redon. Prince du rêve. 1840-1916, cat. exp., Paris, Grand Palais, 2011.

 もう一方のカラー・リトグラフ(M 168、Werner 143)は、パステルを大胆に変容させたものとなっている。岐阜県美術館、ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)、ギャラリー「ときの忘れもの」などに所蔵されている。版画作品総カタログ(André Mellerio, Odilon Redon. Les Estampes - The Graphic Work Catalogue Raisonné, ed. Alan Hyman, San Francisco, Alan Wofsy Fine Arts, 2001)のカバーに印刷されているのはこちらのバージョン(M 168, Werner 143)である。

ルドン「ベアトリーチェ」
《ベアトリーチェ》

 画面全体がこの上なく明清な光に満たされている。強い光の中にシルエットで浮かび上がる人物の表情、まなざしは見てとれない。光と影のコントラストを、紙(シーヌ・アプリケ)の柔らかな象牙色が穏やかに調和している。先に挙げたバージョンでは影の部分は複雑な褐色と青で表現されていたが、ここでは影は清涼な青色を帯び、人物の立体感も青みのあるグレーで繊細に施されている。アンドレ・メルリオは、「ほぼ蒸発したような控えめな色調で描かれたこのベアトリーチェは、繊細な魅力を備え、思い迷っている」と表現した [2] 。画家の遊び心はサインにも発揮されている。青色インクで書かれた装飾的なモノグラム(O.R.)が、画面右上角から投げ込まれた青い植物の中に絡んでいるのだ。もしかすると、人物の頭上の月桂冠は、ジャポニスムの影響を窺わせるこの葉が編まれたものなのかもしれない。

さいごに
 木炭、パステル、リトグラフと、3つ(あるいは4つ)のバージョンをもつ《ベアトリーチェ》はルドン芸術の変遷史を体現した作品である。間隔を置いて、別の技法で制作し直されたことで、さまざまな見方や解釈の可能性が広がり、豊かな意味を獲得した。カラー・リトグラフ版《ベアトリーチェ》は、画商ヴォラールの見事な助言と、卓越した刷り師オーギュスト・クロの協働のおかげで世に出され、ルドン芸術の集大成のひとつとなった。
 『神曲』において、ダンテを天国に導く案内役を務め、理想の愛と神聖な知恵の象徴として描かれたベアトリーチェは、『新生』にも登場し、ダンテの詩作における信仰や哲学的探求を深める寓意的な存在となり、『饗宴』では、愛が人間の理性や精神的な理解に与える影響を示す役割を担った。
 カラー・リトグラフ版《ベアトリーチェ》を発表した翌年にルドンが書いた次の文章は、ルドンのベアトリーチェはダンテが示したような詩的な神聖さと理想化された美しさを視覚的に表現したものというよりも、ルドン自身の幻想的な視点や芸術的な感受性を反映させた作品であることを示しているだろう。壁に生じた光の明暗に想像力を刺激され、新しいイメージを生みだすことがあるという、この自伝的エッセイは、偶然に現れた不規則な形を創造の源としたレオナルド・ダ・ヴィンチの『絵画論』の影響を窺わせる。

窓越しに、太陽に照らされた壁の一部分を眺める。毎朝、太陽は私の心の状態に応じて、ドラマ、亡霊、魅力的なロマンスなど、さまざまなものを語りかける。ただし私のなかには画家がいるので、私は、屋根に覆われ、光と影に活気づけられたこの壁を、その明暗の比率、相対的価値、その論理ともに見る。私の想像力は、この眼に見える事物の明暗の構造そのものから、決して離れない。この奇妙な煙突は、ペガサス、ベアトリーチェ、あるいはキャリバンになるだろう。それは私の夢に対応し、私の夢の不可欠な基盤であり続けるだろう。私の芸術はそこにあるのだ [3]

[1]《ベアトリーチェ》(ヴォラールが100部出版)の刷り師の名を、ルドンは誤って「ブランシャール」と制作記録に記入し、線で消して「クロ」と修正している[Ms 42 820]。
[2] André Mellerio, La Lithographie originale en couleurs, Paris, L'Estampe et l'affiche, 1898, p. 20. メルリオはこの本でルドンの《ベアトリーチェ》(M 168、Werner 143)と《シュラミの女》(La Sulamite, M 167)を取り上げている。
[3] Odilon Redon, "Ecrits" (coll. Institute of Chicago), 1898, pp.33-34; cité dans Odilon Redon, 1994, p. 393.

(やまじょう のりこ)

■山上紀子
専門はフランス近代美術史。大阪公立大学都市文化研究センター研究員。大阪大学、大阪芸術大学短期大学部で美術史講義を担当。
論文に「文学と美術の境界において、ポーに刺激されたルドンの物語」(2024)、「オディロン・ルドンの蜘蛛-自然と想像のあいだ-」(2022)、訳書にダリオ・ガンボーニ『アモンティラードの酒樽』(長屋光枝と共訳、三元社、2013)など。

●本日のお勧め作品はオディロン・ルドンです。
redon_23-2 (2)《ベアトリーチェ》
1897年
カラーリトグラフ
イメージサイズ:33.0×29.5cm
シートサイズ:51.6×38.4cm
Ed.100
※レゾネNo.168


redon_28 (1)《子供の顔と花》
1897年
リトグラフ
イメージサイズ:25.1×21.3cm
シートサイズ:57.0×39.8cm
Ed.35
(ギュスターヴ・ペレ出版のEd.50のうちのチャイナ・ペーパーによる墨刷り35部)
※レゾネ No. 169

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*画廊亭主敬白
山上紀子先生にルドンの版画レゾネの表紙に使われているカラー・リトグラフ『ベアトリーチェ』について三回にわたり連載していただきました。
9月1日に「その1」、9月2日に「その2」、そして本日9月4日に「その3」を掲載しました。
山上紀子先生に以前ご寄稿いただいた『聖アントワーヌの誘惑』 第三集第二版についても併せてお読みください。
山上先生、ご寄稿ありがとうございました。

明日9月5日は吉田克朗先生の命日です。
ただいま埼玉県立近代美術館で大規模な回顧展が吉田先生の誕生日の9月23日まで開催されています。
・「吉田克朗展 ―ものに、風景に、世界に触れる
  会期:2024.7.13 [土] - 9.23 [月・祝]
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