晩年の瑛九

 過日、ときの忘れものの掲示板で、瑛九のリトグラフにはサインがあったりなかったりしてよくわからないが、というご質問がありました。
以前、掲示板で「瑛九について」という長期連載をしたことがあるのですが、そのときはフォトデッサンと銅版画について詳しく論じたのですが、リトグラフについてはあまり言及しませんでした。
 そこで瑛九のリトグラフについて、私の知るところを詳述しますと、宣言したのはいいのですが、貧乏ヒマ無しでなかなか時間がとれずずるずると今日まで来てしまいました。

 このブログでは「駒井哲郎を追いかけて」と「ウォーホルを偲んで」という二本の連載がまだ未完で、そちらの方も早く再開しなければと気ばかり焦るのですが、ちょうどときの忘れものでは「第18回瑛九展」を開催中で、リトグラフも数点展示しています。
 また本日は、浦和から遠路、島崎清海さん(元創美事務局長)が来廊されました。瑛九の直接の薫陶を受け、亡くなるまで浦和のアトリエに親しく出入りしていた方です。

 冒頭に掲げたのは、瑛九の最晩年、1959年に浦和中央病院に入院したときのベットでの瑛九です。撮影は島崎清海さんです。撮影日時は正確にはわかりませんが、浦和中央病院に入退院したのは1959年11月~1960年1月ですから、その三ヶ月のうちです。瑛九は2月に東京神田の同和病院に転院、3月10日に死去します。この写真が公開されるのはおそらく今回が初めてでしょう。瑛九晩年の貴重な写真です。

 島崎さんは今年で84歳、少し耳は遠くなったようですが、矍鑠たるもので、瑛九に銅版画やリトグラフを教わったことを詳しく話してくださいました。
 せっかく生の凄い情報をもたらしてくださったのですから、何はともあれ「瑛九のリトグラフについて」の連載を開始しましょう。

 先ず瑛九はいったいどのくらいのリトグラフ作品を制作したのでしょうか。
1974年に「瑛九の会」から刊行された『瑛九石版画総目録』(B5版、74ページ)には、レゾネ番号1の「プロフィル」(1951年 22×17cm 1版 限定はE.Pのみ)から、同158の「流れるかげ」(1958年 35×22cm 多色 限定10部)までの158点のモノクロ図版とデータが記載されています。
 版元の「瑛九の会」は瑛九の愛好家たちの組織で、このときの事務局長は福井県勝山市の原田勇さんという小学校の教師でした(因みに島崎さんも小学校の教師でした)。専門の出版社でもなく、美術館や大学などの研究機関でもない、いわばアマチュアの人々の努力で、1974年の段階でカタログレゾネが刊行されたこと自体、驚くべき壮挙です。このことはいくら強調してもしきれません。
瑛九の会ニュースNo.6
瑛九の会ニュースNo.7

 瑛九は1951~1958年の8年間に158点のリトグラフを制作したことになります。
では、リトグラフの制作は、いつ、どこで、どのようなプレス機を使って始まったのでしょうか。島崎さんの回想と、私のもつ資料をつき合わせながら、次回ご紹介しましょう。(続く)

瑛九のリトグラフについて
瑛九のリトグラフについて2~浜田知明の銅版プレス機
瑛九のリトグラフについて3~浜田知明の銅版プレス機 続き