瑛九 Q Ei 「舟」
1956 lithograph
Image Size 36.0×24.0cm
Ed.6
作品の表面には、サイン、限定番号の記入無し、
作品の裏面に<谷口都>の鉛筆署名あり。
*レゾネNo.48(瑛九の会)、
この連載はそもそも4月7日の掲示板にTAKAさんという方から、
<「瑛九について」楽しく読ませて頂きました。リトグラフには基本的には後刷り(リプロダクション)は無いと聞いたことがあるのですが、本当なのでしょうか?又、瑛九のサイン・都さんのサインが有る物・無い物、ED数のみ有る物、EDナンバーのみ有る物、何も無い物など作品に依ってまちまちですが、なぜ、サイン・EDナンバーを全てにいれなかったのでしょうか?ED数のサインの無いものでもレゾネなどでは、EDの数が判っているのはなぜでしょうか?宜しくお願い致します。>
という書き込みがあり、そういえば、瑛九の版画は、サインがあったりなかったり、たいへんだなあと思い、この際、きちんと私の知っていることを、実際の作品写真を例にあげながら述べようと始めたのでした。
私の悪い癖で、ストレートに実践講座に入ればいいものを、余計なことばかりあっちにふらふら、こっちにふらふらと脱線しつつ進むので、なかなか本題に入れない。
ほんとうにTAKAサン、ごめんなさい。
掲載した図版は、間違いなく瑛九が刷ったカラーリトグラフ、かなり色彩も綺麗で、保存状態のよいものです。
しかし、本人のサインはありません。亡くなった後に、都夫人が裏面に署名しています。
こういう作品が少なくありません。
ところで、前回、瑛九の使った銅版プレス機は浜田知明先生の旧蔵のものだと書きましたが、早速、広瀬さんという方から、掲示板に鋭い指摘の書き込みがありました。
以下、広瀬さんの全文です。
<貴重な瑛九の連載、おもしろく拝見しています。評論家の難しい記述でなく、「生きていた」瑛九を感じることができます。「瑛九のリトグラフについて2~浜田知明の銅版プレス機」ですが、浜田さんが故郷に帰るときにプレス機を久保さんが譲り受け、それを瑛九へ送り、銅版画が試作されたように読みました。ただ小田急で開催された「浜田知明の全容」展のカタログを読むと熊本に帰ったのは1957年で、最初に久保さんが送ったプレス機と浜田さんのプレス機は異なるように思えます。久保さんが買って送ったプレス機と浜田さんが使っていたプレス機2台があったのではないでしょうか。島崎さんの話からその当時の版画の作成事情が良くわかり、別に細かいことはどうでも良いのですか。私がこの「浜田知明の全容」展のカタログを思い出したのはあらさがしのためではなく「浜田知明と私」という挿入された池田満寿夫の一文を思い出したからです。1957年に久保さんの紹介で引越し前の浜田さんと池田が会った記述があり、思い出したからです。池田と浜田とまったく作風も異なり、結びつかない存在でした。しかし出会いの数は少ないけれど技法のアドバイスなど交流が長い間あったことがわかり、驚きました。久保さんから浜田さんのプレス機を見に行くように言われて尋ねていったようです。ひよっとすると池田が貰い受けたのかもしれません。しかし池田の著述にそのことについてふれていません。浜田さんがこのプレス機の行方について述べられている一文があるはずですので調べて書き込みさせていただきます>
広瀬さんの疑問はもっともで、
実は、島崎さんの最初の記憶は1957年となっていました。
山田光春「瑛九 評伝と作品」には、既に宮崎時代にプレス機が久保貞次郎先生から送られたとあり、はて、どうかしらと島崎さんに1957年の確認をとったのですが、島崎さんはその場にいたわけではないので、確証はないとのことでした。
つまり、広瀬さんのご指摘のように、瑛九の宮崎時代に久保貞次郎先生が送ったプレス機と、浦和でリトグラフを刷った銅版プレス機は違う可能性があります。(とすると2台送られた?)
前回、ちらとその可能性が頭をよぎったのですが、それを確認する手段がなく、とりあえず曖昧なまま書いてしまいました。
反省しております。
いずれにせよ、浜田先生のプレス機を瑛九が使っていたことは間違いありません。
・瑛九のリトグラフについて1
・瑛九のリトグラフについて2~浜田知明の銅版プレス機
・瑛九のリトグラフについて3~浜田知明の銅版プレス機 続き
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