「リトアニアへの旅の追憶」を見て  中村惠一

 ジョナス・メカスは映画の数コマをプリントした作品を「フローズン・フィルム・フレームズ」=「静止した映画」とよんでいるが、今回の上映はヴィデオでもDVDでもなく、16ミリのフィルムであったところに意味があったように思う。なにより、改めて映像の力を思い知らされたのは、同じ位置に上映され続ける小さな光の四角のフレームを87分にもわたって観客すべてが見続けたことである。同様なことを絵画や写真に求めることは、ほぼ不可能であろう。フィルムで上映したことによる意味のひとつに、映写機の構造がある。映写機にはシャッターがあるので、実際には動いて光り続けているように見える画面が実はかなり闇ばかりなのだ。一瞬の光とほとんどの闇の連続が映画の本質なのである。つまり、フィルムの場合には我々は闇を覗いていることになる。暗闇の中に自らをおいたことがあるだろうか。完全な暗闇の場合、人によっては根源的な恐怖を感じることもあるだろう。しかし一方、暗闇は我々の視覚以外の感覚を研ぎ澄ますことになる。そして、いわゆる感覚レベルではなく、思考レベルでの感覚を研ぎ澄ますことにもなる。闇におかれていると深い思索へと自然に入ってゆくことがある。フィルムを使って暗闇の中で映写機によって上映を行うことは、観客が映像を受け取るばかりではなく、その映像について考えるという物理的な機会を与えていることに他ならないのだと思う。ここにフィルムで上映を行う意味があったのだ。

 87分に及ぶ映画のほとんどは、メカスの個人的な知己の日常的な情景の連続である。メカスは「幸せな場面だけを撮影したい」とどこかで述べていたが、フィルムの中のたとえば母親や兄弟、親族たちは水を汲み、火を焚き、食事を作り、歩き、大気を感じているのだ。つまり「生きている実感」だけが積み重ねられている。メカスにとって生きる=撮影する事だったのだろうし、フィルムの中にこそメカスの生の記憶が込められているのだろう。そうした個人的なフィルムを見るのはどういう感じなのだろうかと思ったが、これが不思議なほどに違和感なく、面白いのはどうしたことだろうか。もう一つ面白かったことは、ほとんどメカスがモンタージュやフェードを使っていない点だった。小手先で意味をつなぎたくはなかったのだろう。16ミリのムービーキャメラはマガジンに制約があって、短い時間しか撮影ができない。そうした制約を逆に武器にしているのは、まるで日本の定型詩のようだ。16ミリフィルムは1秒間に24コマの写真を撮影する。87分間ということは、5,220秒、125,280枚の写真を観たことになる。その膨大な量の写真たちにゆっくりとしたメカスの言葉がかさねられてゆく。その言葉のどれもが私には詩としてしか聞こえなかったのだった。(なかむらけいいち)

メカス 母ジョナス・メカス Jonas MEKAS
「エルズビエータ・メカス、わたしの母、リトアニア、1971(リトアニアへの旅の追憶)」CIBA print
35.4×27.5cm
signed

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画廊亭主敬白
前回企画展「ジョナス・メカス新作写真展」では、詩人・吉増剛造さんのギャラリートークと、メカスさんの映画「リトアニアへの旅の追想」の上映会を開催しました。
その両方に参加してくださった中村惠一さんはメール・アーティストとしても活躍されています。中村さんのブログをご覧ください。
この「コレクターの声」にも以前執筆していただきました(日和崎尊夫展詩画集『Chromatopoiema(クロマトポイエマ)』展 詩・西脇順三郎、画・飯田善國)。