先日、荒井由泰さんの11回にわたる長期連載「マイコレクション物語」が終了しましたが、皆さんはお読みになっていかがでしたでしょうか。
荒井さんが生まれ育った北陸の山間の小都市・勝山には、1970年代から亭主は数え切れないほど訪れました。亭主がしょっちゅう行商してまわるほど、経済的にも文化的にも奥深い蓄積がある。
荒井さんは版画を中心に集めているコレクターですが、この町の素晴らしさは荒井さんだけではなく、人口3万人にも満たない町のあちこちに現代美術の優れた作品がコレクションされていることです。
新潮社のPR誌『波』に小説家の津村節子さんが「時のなごり」というエッセイを連載しています。確か12月号だったか「時のなごり ある町の盛衰」と題して、荒井さんの住む勝山のことを書かれていました。
かつては機業の町として栄えた勝山には津村さんのお父さんが住んでいました。戦争中、勝山で急死されたお父さんのことを描いた小説「雪の柩」のこと、勝山精華高校(南高校)の卒業生が吉村昭さん(津村さんのご主人)が亡くなるまで毎年お手伝いさんとして来ていたこと、その南高校の校歌を作詞したのが津村さんだったこと、しかしその高校もこの春閉校になることなどが、哀切な響きをもって綴られていました。
さっそく荒井さんにそのエッセイのことをお知らせしたら、折り返し以下のメールが返ってきました。
津村さんの父上が勝山市にある松文産業(同業の機屋さん)でお勤めで、勝山で亡くなられています。
また、今年3月に閉校になる勝山南高校の前身となったのは勝山精華高校で我が社が作った定時制高校です。戦後の厳しい経済状況のなか、自分の力で(周3日働き、3日勉強 全寮制)で勉強できたことで、多くの方から喜ばれました。
残念ながら昭和29年にケイテーの経営状況悪化で県に移管した歴史があります。
津村(吉村)家のお手伝いさんとして勝山精華高校出身者が何代にもわたり、つかえたこともあり、深い因縁があります。
昨年の南高校の創立70周年記念の式典には津村さんと息子さんが駆けつけてくださり、 楽しい時間を過ごしました。(荒井由泰)
津村さんと勝山のつながりについては津村節子の軌跡をお読みください。
荒井さんは明治から続く地元の繊維会社「ケイテー」の六代目の社長さんですが、同社は全国から集まった女工さんたちのために「働きながら学ぶー働学一如」を建学の理念に1941(昭和16)年に勝山精華学園を創立します。全国初の昼間定時制高校です。
定時制というと、昼間働き夜学校に通うというのが普通ですが、「ケイテー」の経営者たちの素晴らしさは「若い人たちが昼働くだけでもタイヘンなのに、夜学ぶなんて辛いし長続きもしない。だったら三日働いて、三日学校へ行けばいい」という卓見を示したことでした。
いまどきの自社の利益ばかりを追求する経営者たちといかに違うことか。
亭主が荒井さんはじめ勝山の人たちに敬愛の念を抱くのは、こういう歴史と文化の厚みを築いてきたことが町の佇まいや人々の暮らしにうかがわれるからです。
勝山の山の一角に、「平泉寺墓地」というその周辺地区の共同墓地があります。

山の斜面にそって、古くは中世のお坊さんのお墓から、昨日亡くなったばかりの方の卒塔婆までが境目もなく、点在しています。
亭主は「日本一美しい墓地」と勝手に宣伝しています。
高橋治さんの『さまよう霧の恋歌』(新潮文庫)は勝山を舞台にした小説ですが、この墓地ももちろん出てきます。
自然と歴史に恵まれたこの町にはもう一つ、宝物があります。
磯崎新設計による「中上邸イソザキホール」です。
磯崎先生の住宅作品の中でも傑作のひとつ。
1999年10月には磯崎新展を開催し、磯崎先生のギャラリートークも開催しました。

1999年10月18日
中上邸イソザキホール

左・磯崎新先生
中央マイクを持つのが荒井さん
右に宮脇愛子先生
あらためて、荒井さんのエッセイの目次をご覧ください。
そしていつか荒井さんたちの住む勝山にお出かけください。
第1回ルドン作「光の横顔」の話
第2回コレクション事始め In New York その1
第3回コレクション事始め In New York その2
第4回「アートフル勝山の会」活動とマイコレクション その1
第5回「アートフル勝山の会」活動とマイコレクション その2
第6回「アートフル勝山の会活動」とマイコレクション その3
第7回バルテュスのこと、そしてマイ駒井哲郎コレクションについて
第8回装幀・挿画本コレクション&恩地孝四郎との出会い
第9回駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達について:
ルドン、ブレスダン、メリヨン、長谷川潔そして恩地孝四郎
第10回もう一つのマイコレクション:同時代を生きるアーティスト達
第11回コレクションの公開&コレクションとは何かについて(まとめ)
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荒井さんが生まれ育った北陸の山間の小都市・勝山には、1970年代から亭主は数え切れないほど訪れました。亭主がしょっちゅう行商してまわるほど、経済的にも文化的にも奥深い蓄積がある。
荒井さんは版画を中心に集めているコレクターですが、この町の素晴らしさは荒井さんだけではなく、人口3万人にも満たない町のあちこちに現代美術の優れた作品がコレクションされていることです。
新潮社のPR誌『波』に小説家の津村節子さんが「時のなごり」というエッセイを連載しています。確か12月号だったか「時のなごり ある町の盛衰」と題して、荒井さんの住む勝山のことを書かれていました。
かつては機業の町として栄えた勝山には津村さんのお父さんが住んでいました。戦争中、勝山で急死されたお父さんのことを描いた小説「雪の柩」のこと、勝山精華高校(南高校)の卒業生が吉村昭さん(津村さんのご主人)が亡くなるまで毎年お手伝いさんとして来ていたこと、その南高校の校歌を作詞したのが津村さんだったこと、しかしその高校もこの春閉校になることなどが、哀切な響きをもって綴られていました。
さっそく荒井さんにそのエッセイのことをお知らせしたら、折り返し以下のメールが返ってきました。
津村さんの父上が勝山市にある松文産業(同業の機屋さん)でお勤めで、勝山で亡くなられています。
また、今年3月に閉校になる勝山南高校の前身となったのは勝山精華高校で我が社が作った定時制高校です。戦後の厳しい経済状況のなか、自分の力で(周3日働き、3日勉強 全寮制)で勉強できたことで、多くの方から喜ばれました。
残念ながら昭和29年にケイテーの経営状況悪化で県に移管した歴史があります。
津村(吉村)家のお手伝いさんとして勝山精華高校出身者が何代にもわたり、つかえたこともあり、深い因縁があります。
昨年の南高校の創立70周年記念の式典には津村さんと息子さんが駆けつけてくださり、 楽しい時間を過ごしました。(荒井由泰)
津村さんと勝山のつながりについては津村節子の軌跡をお読みください。
荒井さんは明治から続く地元の繊維会社「ケイテー」の六代目の社長さんですが、同社は全国から集まった女工さんたちのために「働きながら学ぶー働学一如」を建学の理念に1941(昭和16)年に勝山精華学園を創立します。全国初の昼間定時制高校です。
定時制というと、昼間働き夜学校に通うというのが普通ですが、「ケイテー」の経営者たちの素晴らしさは「若い人たちが昼働くだけでもタイヘンなのに、夜学ぶなんて辛いし長続きもしない。だったら三日働いて、三日学校へ行けばいい」という卓見を示したことでした。
いまどきの自社の利益ばかりを追求する経営者たちといかに違うことか。
亭主が荒井さんはじめ勝山の人たちに敬愛の念を抱くのは、こういう歴史と文化の厚みを築いてきたことが町の佇まいや人々の暮らしにうかがわれるからです。
勝山の山の一角に、「平泉寺墓地」というその周辺地区の共同墓地があります。

山の斜面にそって、古くは中世のお坊さんのお墓から、昨日亡くなったばかりの方の卒塔婆までが境目もなく、点在しています。
亭主は「日本一美しい墓地」と勝手に宣伝しています。
高橋治さんの『さまよう霧の恋歌』(新潮文庫)は勝山を舞台にした小説ですが、この墓地ももちろん出てきます。
自然と歴史に恵まれたこの町にはもう一つ、宝物があります。
磯崎新設計による「中上邸イソザキホール」です。
磯崎先生の住宅作品の中でも傑作のひとつ。
1999年10月には磯崎新展を開催し、磯崎先生のギャラリートークも開催しました。

1999年10月18日
中上邸イソザキホール

左・磯崎新先生
中央マイクを持つのが荒井さん
右に宮脇愛子先生
あらためて、荒井さんのエッセイの目次をご覧ください。
そしていつか荒井さんたちの住む勝山にお出かけください。
第1回ルドン作「光の横顔」の話
第2回コレクション事始め In New York その1
第3回コレクション事始め In New York その2
第4回「アートフル勝山の会」活動とマイコレクション その1
第5回「アートフル勝山の会」活動とマイコレクション その2
第6回「アートフル勝山の会活動」とマイコレクション その3
第7回バルテュスのこと、そしてマイ駒井哲郎コレクションについて
第8回装幀・挿画本コレクション&恩地孝四郎との出会い
第9回駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達について:
ルドン、ブレスダン、メリヨン、長谷川潔そして恩地孝四郎
第10回もう一つのマイコレクション:同時代を生きるアーティスト達
第11回コレクションの公開&コレクションとは何かについて(まとめ)
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