石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第1回
アンナ 1975年7月8日 東京
1-1 はじめに
マン・レイに狂っています。四六時中、マン・レイの事ばかりを考え尋常ではありません。高校生の恋愛と同じで、純粋と云えば聞こえは良いのですが、あれが欲しい、これも欲しいと欲望ばかりが頭の中を巡ります。特効薬があれば良いのですが、○○に付ける薬は無いという類で困ったものです。もっとも、治したいかと問われても、このままが幸せと答えるでしょう。
さて、お世話になっている綿貫不二夫さんから、「日本におけるマン・レイ受容史」と云った内容で画廊のブログに書いてみませんかと誘われました。それも月一回掲載で一年以上連載との恐ろしい条件(笑)。断ってしまったら今後はお付き合いしてもらえないだろうから、お誘いに従う事にした。受容史については、資料も含めた単行本執筆の計画もあるので、このブログでは、コレクションを通した個人的な受容史に絞り、編年体で報告させていただきたいと思う。可処分所得の乏しいサラリーマンの身、ミュージアムピースに匹敵する優品が手許にある訳ではないが、展覧会資料を核とした石原輝雄・純子コレクションの生い立ちを知って頂くのも、これから収集しようとする人達の参考になるかと期待する。幸い状況証拠となるスナップ写真を残しているので、楽しんでいただける部分があるかと思う。コレクターにはおかしな人が多いけど、害はありませんよ。
主役となるマン・レイ(1890-1976)は、モダニズムの画家としてニューヨークで出発したアメリカ人。一般的には両次大戦間のパリを舞台に活躍した写真家として知られ、既成概念にとらわれない自由な発想の基、カメラ無しの写真(レイヨグラフ)やソラリゼーション技法(現像時過度露光)等の開拓を通して写真表現の先駆者と評されています。戦前の日本では映画作家として紹介され、ダダ、シュルレアリスムの先人として多くの書物を飾りました。本人の期待に反し生前は二流の画家とみなされ商業価値を認められませんでしたが、没後、写真以外の仕事も評価され、オブジェやデッサン、油彩などが注目され、最近では毎年のように世界中のどこかで、回顧展が開かれるほどの20世紀を代表する芸術家と認められるに至っています。
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名鉄瀬戸線・尾張旭
瀬戸行特急900系
1966.12.8
国鉄函館本線・大沼
C622「ニセコ」
1969.8.27
案内人のわたしは、1952年名古屋市生まれ。写真との関係は中学2年の時、同級生に誘われ名鉄電車の写真を撮ったのが始まり。高校生になると蒸気機関車にも関心が拡がり、消えゆく姿を求めて日本全国を訪ね、雑誌への投稿を繰り返すほど熱中。撮影成果には偶然が影響する事、偶然を呼び込む為には情熱が必要と感じる。写真部に入り現像、焼き付けを体験。高校2年生の時、全日本学生写真連盟の合宿で写真による世界認識と自己表現に衝撃を受け、写真部で集団撮影、写真集作成などを行う。中部学生写真連盟高校の部(以下連盟と表記)の本部活動を通して、写真を撮り、写真を読む人たちと知り合う。70年安保を控えた世相の中で情宣、デモなどで写真を撮る。コンピューターを学びチラシ制作をメインとする京都の会社に就職。業務処理系のプログラミング・設計などに従事。家を出て好きな事柄の近く(社内にスタジオがあった)で働く生活を実現するが、写真による自己実現の模索は続いている。
「10.21とは何か」
名古屋・伏見
1969.10.21
1-2 アテネ画廊
マン・レイ作品との出会いは連盟の先輩、杉山茂太氏の導きによる。1975年の夏、連盟時代の友人たちと再会した折、銀座七丁目の中央通りから昭和通り側に二筋入ったところにあったアテネ画廊に案内された。先輩はマックス・エルンストの版画『可愛い子羊』を画廊で求め自室に飾る程で、版画の魅力を後輩たちに語ってくれていた。「この人はマン・レイが好きだから」と紹介されたように記憶する。二十歳前からダダ、シュルレアリスムへ傾倒しアンドレ・ブルトンの『ナジャ』に魅了されていたわたしは、挿入写真に記載されたマン・レイの名前が気になって、先輩に伝えていたのだった。珈琲を頂きながら展示中のジャコメッテイの版画を観ていると、画廊主の野村良平さんが「これしか残っていないけど」と言いながら額装された版画を取り出してくれた。それは、薔薇の王冠を被った女性のか細い指先に裸電球が灯されたデッサンで、版画集の扉絵に使われていた作品だと云う。重力に逆らって線香花火のような光を見つめる女性の肩先がエロティックで、一目惚れしてしまった。両手に額を持って顔を近づけ細部を観ると、口づけを交わす錯覚に囚われ、手を離したら二度と出会う事は無いだろうと不安な気持ちがもたげる、これは恋ですね。友人たちは購入を勧め事の成り行きを楽しむ様子になっている。
アテネ画廊
東京・銀座7-10-8
1975.7.8
先輩は「絵柄が良ければサインは要らない」と言う。わたしの方は、版画の女性をうっとり見つめているといった案配で、サインと限定番号の効果には疎かった。給料一ヶ月分近くの買い物、生活費もさることながら手許資金はフィルムやカメラなどに投じなければとの思いが、判断を鈍らせる。でもね、この手にある訳だから買わなくちゃ。
椅子に立て掛けられた版画は、画廊が前年の12月9日から21日を会期に開催した『マン・レイ カラーエッチング展』の残品。案内状には『LA BALLADE DES DAMES HORS DU TEMPS 全14点 / 各サイン入 限定75部 1970年刊』とある。野村さんが見せてくれたテキスト頁と奥付によれば、ギャラリー20世紀が版元となって作られた版画集で『時間の外にいる貴婦人たちのバラード』と題したエッセイの執筆はアンドレ・ブルトン。限定100部刊で和紙刷り20部(番号1-15、非売I-V)とアルシュ紙刷り80部(番号16-75、非売VI-XXV)からなり、各シートに限定番号とサインが入れられている(これは、限定番号66)。その場で複写をさせてもらった奥付の記載は女性達の肖像に囲まれている。案内状の女性が「セーラ」、愛してしまった女性(左下の図版)が「アンナ」だと判った。それぞれが物語を秘めた美しい人達で、眼がクラクラするほどの喜びだった。
筆者23歳、
版画集扉絵「アンナ」
案内状
15×10 cm
1-3 時間光
京都に戻り、自室に飾ってアンナを見つめた。この日から一人じゃなくて二人になったと云うのは大げさだろうか。彼女の素性が知りたいし、案内状に「ニューヨーク ダダの旗手、絵画、写真、オブジェ、建築などに活躍」と記されたマン・レイの仕事も詳しく知りたい。そう願って書店を探したところ河原町六角西入ルの平安堂書店で大判の研究書『マン・レイ』(ヤーヌス著、ファブリ、1973年刊)を見付けた。頁を捲って、さらに魅了された。自由で楽しく不思議な人物と云った印象。マン・レイのようになりたい。彼女の版画を見ていると、作ったのはわたしじゃないかと妄想が広がって困った。
京都・桂
かつら荘
壁面には巴里鳥瞰図
それまでに写真集や冊子のようなものを作っていたので、マン・レイへのラブレターを書きたい、本のような形、オブジェのようなものにしたいと思った。画廊で野村さんが「売れてしまった中の、黒い背景から裸体の女が降りてくるデッサンが素晴らしかった」と教えてくれたマルガリータの図像も重ねながら、光と闇の相反する二項を突き合わせ昇華させる言葉、マン・レイに捧げる思いを紡ぐと「雨降る夜/市電のスパークが放つ/軽やかな女達との出会い」「水晶の眼差しは/岩石に棘の花を咲かせ/引力と斥力が/翼有る裸体を刻む」「マン・レイのアイロニー/自由精神」と立ち現れた。これを包む材料にサンドペーパーを選んだアイデアがどこから出たのかは本人にも判らないが、砂粒が宿す光たちの美しさと指先の触感が脳に伝わる恍惚を期待したのだと思う。言葉の方は台所にあったアルミホイールを伸ばしガリ版切りの鉄筆で刻んだ。身近にある品物がキラキラと反射してこれも美しい。
夏の間中、作業を続け10月になって限定10部の私家版『時間光』が完成した。銀紙書房の名前を記したのはこれが最初である。本棚に差し込む事の出来ない困ったオブジェを、共感してくれそうな人達だけじゃなく、書店に持ち込み流通させたいと考えた。それで四条河原町上ル西側の京都書院に行ってお願いをしたところ、手にした書店員の濱田信義氏が「面白い、僕が欲しい」とその場で求めてくれた。上席の杉本茂行氏は「僕も欲しい、でも、それでは意図に反するから」と、ショーケースに飾ってくれた。手作り本が一般書店で扱われるのは画期的な事柄で、共感してくれた二人に感謝している(後に、京都写真クラブで付き合いが始まったのも不思議な縁である)。
接着剤はセメダイン
私家版『時間光』
19 × 12.5 cm
1-4 アンナ・ド・ノアイユ
秋になって再び東京へ出掛けた。連盟時代の友人と話していると桑沢デザイン研究所の図書室にマン・レイの写真集があると云う。借り出してもらったのは『マン・レイ肖像集』(フリッツ・グルーバー編、エディション・プリスマ、1963年刊)で、カバーが失われているものの、美しいダブルトーン印刷の素晴らしい本、両次大戦間のパリを中心とした芸術家や社交界の人々の肖像が短いコメントと評点を付して紹介されている。頁を捲っているとアンナが現れて驚いた。写真を基にイメージを膨らませるマン・レイの手法を垣間見た訳であり、どの頁の写真も魅力的で唸ってしまった。この本が欲しい、いつかは入手したい、だめなら、自分で作りたい、借りものだからと全頁を複写した。
『マン・レイ肖像集』より、
アンナ・ド・ノアイユ
写真集の表記から彼女が詩人でアンナ・ド・ノアイユ(1876-1933)と云う名前と知った。後に確認するとルーマニア貴族の家系で母親はギリシャの音楽家、ノアイユ侯爵と結婚しパリで有名なサロンを開いて人気を博し、女性作家として賛美的な詩を書いた。もっとも詩の形式と貴族階級への反発、共和主義者への敵対からシュルレアリスト達の評価は低く揶揄の対象とされ、マン・レイが下した評価も最低点(この場合は、なにか個人的な出来事があるのだろうか)となっている。邦訳された彼女の自伝『わが世の物語』(白土康代訳、藤原書店、2000年刊)では「美貌、すみれ色の目、白鳥の首、か細い手と洗練されきった装い、とくにその帽子により」(ミシュル・ペロー)と魅力をたたえていて、わたしが彼女の肖像と出会った時の眼の喜びを上手く再現してくれていると思った。
続く
(いしはら てるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
*画廊亭主敬白
桜の季節、ときの忘れものでは続々と新たな執筆者たちによるエッセイ連載が始まります。先ずは京都の石原輝雄さんです。
東の土渕信彦、西の石原輝雄。または瀧口修造の土渕、マン・レイの石原といってもいいでしょう。
お二人とも仲の良いコレクター仲間、しかも自他共に認める尋常ならざる愛情と執念で見事な大コレクションを作り続けています。
土渕さんの大連載が大団円を迎えた後を、いったい誰がうめてくれるのか。
昨年の早い時期からマン・レイ・イスト石原さんにはエッセイの長期連載をお願いしていました。
石原さんの尋常ならざる日常についてはそのブログをぜひお読みください。
亭主の盟友で、ルドン、恩地孝四郎などの素晴らしいコレクションを構築中の荒井由泰さんのエッセイとあわせ、皆様のご愛読をお願いいたします。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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●本日のウォーホル語録
<いつもずっと大好きなのは、人々が互にどう思ってるか聞くことだ――話題にのってる人と同じくらい、じゃべってる当の人間についても学ぶことになる。もちろん、ちまたではこれをゴシップと呼び、ぼくはこれにとりつかれている。
―アンディ・ウォーホル>
ときの忘れものでは4月19日~5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。
アンナ 1975年7月8日 東京
1-1 はじめに
マン・レイに狂っています。四六時中、マン・レイの事ばかりを考え尋常ではありません。高校生の恋愛と同じで、純粋と云えば聞こえは良いのですが、あれが欲しい、これも欲しいと欲望ばかりが頭の中を巡ります。特効薬があれば良いのですが、○○に付ける薬は無いという類で困ったものです。もっとも、治したいかと問われても、このままが幸せと答えるでしょう。
さて、お世話になっている綿貫不二夫さんから、「日本におけるマン・レイ受容史」と云った内容で画廊のブログに書いてみませんかと誘われました。それも月一回掲載で一年以上連載との恐ろしい条件(笑)。断ってしまったら今後はお付き合いしてもらえないだろうから、お誘いに従う事にした。受容史については、資料も含めた単行本執筆の計画もあるので、このブログでは、コレクションを通した個人的な受容史に絞り、編年体で報告させていただきたいと思う。可処分所得の乏しいサラリーマンの身、ミュージアムピースに匹敵する優品が手許にある訳ではないが、展覧会資料を核とした石原輝雄・純子コレクションの生い立ちを知って頂くのも、これから収集しようとする人達の参考になるかと期待する。幸い状況証拠となるスナップ写真を残しているので、楽しんでいただける部分があるかと思う。コレクターにはおかしな人が多いけど、害はありませんよ。
主役となるマン・レイ(1890-1976)は、モダニズムの画家としてニューヨークで出発したアメリカ人。一般的には両次大戦間のパリを舞台に活躍した写真家として知られ、既成概念にとらわれない自由な発想の基、カメラ無しの写真(レイヨグラフ)やソラリゼーション技法(現像時過度露光)等の開拓を通して写真表現の先駆者と評されています。戦前の日本では映画作家として紹介され、ダダ、シュルレアリスムの先人として多くの書物を飾りました。本人の期待に反し生前は二流の画家とみなされ商業価値を認められませんでしたが、没後、写真以外の仕事も評価され、オブジェやデッサン、油彩などが注目され、最近では毎年のように世界中のどこかで、回顧展が開かれるほどの20世紀を代表する芸術家と認められるに至っています。
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名鉄瀬戸線・尾張旭 瀬戸行特急900系
1966.12.8
国鉄函館本線・大沼 C622「ニセコ」
1969.8.27
案内人のわたしは、1952年名古屋市生まれ。写真との関係は中学2年の時、同級生に誘われ名鉄電車の写真を撮ったのが始まり。高校生になると蒸気機関車にも関心が拡がり、消えゆく姿を求めて日本全国を訪ね、雑誌への投稿を繰り返すほど熱中。撮影成果には偶然が影響する事、偶然を呼び込む為には情熱が必要と感じる。写真部に入り現像、焼き付けを体験。高校2年生の時、全日本学生写真連盟の合宿で写真による世界認識と自己表現に衝撃を受け、写真部で集団撮影、写真集作成などを行う。中部学生写真連盟高校の部(以下連盟と表記)の本部活動を通して、写真を撮り、写真を読む人たちと知り合う。70年安保を控えた世相の中で情宣、デモなどで写真を撮る。コンピューターを学びチラシ制作をメインとする京都の会社に就職。業務処理系のプログラミング・設計などに従事。家を出て好きな事柄の近く(社内にスタジオがあった)で働く生活を実現するが、写真による自己実現の模索は続いている。
「10.21とは何か」名古屋・伏見
1969.10.21
1-2 アテネ画廊
マン・レイ作品との出会いは連盟の先輩、杉山茂太氏の導きによる。1975年の夏、連盟時代の友人たちと再会した折、銀座七丁目の中央通りから昭和通り側に二筋入ったところにあったアテネ画廊に案内された。先輩はマックス・エルンストの版画『可愛い子羊』を画廊で求め自室に飾る程で、版画の魅力を後輩たちに語ってくれていた。「この人はマン・レイが好きだから」と紹介されたように記憶する。二十歳前からダダ、シュルレアリスムへ傾倒しアンドレ・ブルトンの『ナジャ』に魅了されていたわたしは、挿入写真に記載されたマン・レイの名前が気になって、先輩に伝えていたのだった。珈琲を頂きながら展示中のジャコメッテイの版画を観ていると、画廊主の野村良平さんが「これしか残っていないけど」と言いながら額装された版画を取り出してくれた。それは、薔薇の王冠を被った女性のか細い指先に裸電球が灯されたデッサンで、版画集の扉絵に使われていた作品だと云う。重力に逆らって線香花火のような光を見つめる女性の肩先がエロティックで、一目惚れしてしまった。両手に額を持って顔を近づけ細部を観ると、口づけを交わす錯覚に囚われ、手を離したら二度と出会う事は無いだろうと不安な気持ちがもたげる、これは恋ですね。友人たちは購入を勧め事の成り行きを楽しむ様子になっている。
アテネ画廊 東京・銀座7-10-8
1975.7.8
先輩は「絵柄が良ければサインは要らない」と言う。わたしの方は、版画の女性をうっとり見つめているといった案配で、サインと限定番号の効果には疎かった。給料一ヶ月分近くの買い物、生活費もさることながら手許資金はフィルムやカメラなどに投じなければとの思いが、判断を鈍らせる。でもね、この手にある訳だから買わなくちゃ。
椅子に立て掛けられた版画は、画廊が前年の12月9日から21日を会期に開催した『マン・レイ カラーエッチング展』の残品。案内状には『LA BALLADE DES DAMES HORS DU TEMPS 全14点 / 各サイン入 限定75部 1970年刊』とある。野村さんが見せてくれたテキスト頁と奥付によれば、ギャラリー20世紀が版元となって作られた版画集で『時間の外にいる貴婦人たちのバラード』と題したエッセイの執筆はアンドレ・ブルトン。限定100部刊で和紙刷り20部(番号1-15、非売I-V)とアルシュ紙刷り80部(番号16-75、非売VI-XXV)からなり、各シートに限定番号とサインが入れられている(これは、限定番号66)。その場で複写をさせてもらった奥付の記載は女性達の肖像に囲まれている。案内状の女性が「セーラ」、愛してしまった女性(左下の図版)が「アンナ」だと判った。それぞれが物語を秘めた美しい人達で、眼がクラクラするほどの喜びだった。
筆者23歳、版画集扉絵「アンナ」
案内状15×10 cm
1-3 時間光
京都に戻り、自室に飾ってアンナを見つめた。この日から一人じゃなくて二人になったと云うのは大げさだろうか。彼女の素性が知りたいし、案内状に「ニューヨーク ダダの旗手、絵画、写真、オブジェ、建築などに活躍」と記されたマン・レイの仕事も詳しく知りたい。そう願って書店を探したところ河原町六角西入ルの平安堂書店で大判の研究書『マン・レイ』(ヤーヌス著、ファブリ、1973年刊)を見付けた。頁を捲って、さらに魅了された。自由で楽しく不思議な人物と云った印象。マン・レイのようになりたい。彼女の版画を見ていると、作ったのはわたしじゃないかと妄想が広がって困った。
京都・桂 かつら荘
壁面には巴里鳥瞰図
それまでに写真集や冊子のようなものを作っていたので、マン・レイへのラブレターを書きたい、本のような形、オブジェのようなものにしたいと思った。画廊で野村さんが「売れてしまった中の、黒い背景から裸体の女が降りてくるデッサンが素晴らしかった」と教えてくれたマルガリータの図像も重ねながら、光と闇の相反する二項を突き合わせ昇華させる言葉、マン・レイに捧げる思いを紡ぐと「雨降る夜/市電のスパークが放つ/軽やかな女達との出会い」「水晶の眼差しは/岩石に棘の花を咲かせ/引力と斥力が/翼有る裸体を刻む」「マン・レイのアイロニー/自由精神」と立ち現れた。これを包む材料にサンドペーパーを選んだアイデアがどこから出たのかは本人にも判らないが、砂粒が宿す光たちの美しさと指先の触感が脳に伝わる恍惚を期待したのだと思う。言葉の方は台所にあったアルミホイールを伸ばしガリ版切りの鉄筆で刻んだ。身近にある品物がキラキラと反射してこれも美しい。
夏の間中、作業を続け10月になって限定10部の私家版『時間光』が完成した。銀紙書房の名前を記したのはこれが最初である。本棚に差し込む事の出来ない困ったオブジェを、共感してくれそうな人達だけじゃなく、書店に持ち込み流通させたいと考えた。それで四条河原町上ル西側の京都書院に行ってお願いをしたところ、手にした書店員の濱田信義氏が「面白い、僕が欲しい」とその場で求めてくれた。上席の杉本茂行氏は「僕も欲しい、でも、それでは意図に反するから」と、ショーケースに飾ってくれた。手作り本が一般書店で扱われるのは画期的な事柄で、共感してくれた二人に感謝している(後に、京都写真クラブで付き合いが始まったのも不思議な縁である)。
接着剤はセメダイン
私家版『時間光』 19 × 12.5 cm
1-4 アンナ・ド・ノアイユ
秋になって再び東京へ出掛けた。連盟時代の友人と話していると桑沢デザイン研究所の図書室にマン・レイの写真集があると云う。借り出してもらったのは『マン・レイ肖像集』(フリッツ・グルーバー編、エディション・プリスマ、1963年刊)で、カバーが失われているものの、美しいダブルトーン印刷の素晴らしい本、両次大戦間のパリを中心とした芸術家や社交界の人々の肖像が短いコメントと評点を付して紹介されている。頁を捲っているとアンナが現れて驚いた。写真を基にイメージを膨らませるマン・レイの手法を垣間見た訳であり、どの頁の写真も魅力的で唸ってしまった。この本が欲しい、いつかは入手したい、だめなら、自分で作りたい、借りものだからと全頁を複写した。
『マン・レイ肖像集』より、アンナ・ド・ノアイユ
写真集の表記から彼女が詩人でアンナ・ド・ノアイユ(1876-1933)と云う名前と知った。後に確認するとルーマニア貴族の家系で母親はギリシャの音楽家、ノアイユ侯爵と結婚しパリで有名なサロンを開いて人気を博し、女性作家として賛美的な詩を書いた。もっとも詩の形式と貴族階級への反発、共和主義者への敵対からシュルレアリスト達の評価は低く揶揄の対象とされ、マン・レイが下した評価も最低点(この場合は、なにか個人的な出来事があるのだろうか)となっている。邦訳された彼女の自伝『わが世の物語』(白土康代訳、藤原書店、2000年刊)では「美貌、すみれ色の目、白鳥の首、か細い手と洗練されきった装い、とくにその帽子により」(ミシュル・ペロー)と魅力をたたえていて、わたしが彼女の肖像と出会った時の眼の喜びを上手く再現してくれていると思った。
続く
(いしはら てるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
*画廊亭主敬白
桜の季節、ときの忘れものでは続々と新たな執筆者たちによるエッセイ連載が始まります。先ずは京都の石原輝雄さんです。
東の土渕信彦、西の石原輝雄。または瀧口修造の土渕、マン・レイの石原といってもいいでしょう。
お二人とも仲の良いコレクター仲間、しかも自他共に認める尋常ならざる愛情と執念で見事な大コレクションを作り続けています。
土渕さんの大連載が大団円を迎えた後を、いったい誰がうめてくれるのか。
昨年の早い時期からマン・レイ・イスト石原さんにはエッセイの長期連載をお願いしていました。
石原さんの尋常ならざる日常についてはそのブログをぜひお読みください。
亭主の盟友で、ルドン、恩地孝四郎などの素晴らしいコレクションを構築中の荒井由泰さんのエッセイとあわせ、皆様のご愛読をお願いいたします。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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●本日のウォーホル語録
<いつもずっと大好きなのは、人々が互にどう思ってるか聞くことだ――話題にのってる人と同じくらい、じゃべってる当の人間についても学ぶことになる。もちろん、ちまたではこれをゴシップと呼び、ぼくはこれにとりつかれている。
―アンディ・ウォーホル>
ときの忘れものでは4月19日~5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。
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