森下泰輔のエッセイ

「私のAndy Warhol体験 - その4 大丸個展、1974年」


「1955年(*実際は1956年、ウォーホルの勘違い)、私は東京と京都へ行った。それ以来ずっと日本風になろうと努力している。というのも、日本人はシンプルな表現が実にうまいからだ。いま私は日本の花を描き、日本食をたべ、ケンゾーの服を着ている。そして日本製の写真やビデオやハイファイ、その他の電子機器も使っている。日本的なものは何でも好きだ。これは私の好きなものだ。古いバスケットなんだ。」(アンディ・ウォーホル)

1974年10月~11月、大丸でアンディ・ウォーホルの展覧会が開催され、合わせて作家本人も来日した。その銀のアルミ箔仕様の図録中扉には、京都で購入したという竹のバスケットが掲載され、前述のような言葉がある。ここでいう「日本の花を描き」は、来日に合わせて制作、刊行された「いけばなシリーズ(シルクスクリーンに手彩色)」全10点のことである。
展示規模はそんなに大きくはなかったが、白地に蛍光オレンジで刷られた牛の壁紙日本版が壁面を覆っていて、その上におそらく現在では、一か所に集めるのがまったく困難なキャンヴァス作品がたくさん並んでいた。主なものは、「ディック・トレーシー」(1960作 *アンディがリキテンスタインを見て手描き漫画のシリーズを封印する以前の初期の傑作。抽象表現主義へのオマージュが見られる)、「19セントのキャンベル・スープ缶」「マーチンソン・コーヒー」「マース・カニングハム」「ジャッキー・ケネディ」「2フィートの花」「4フィートの花」「電気椅子」「自画像」「マーロン・ブランド」「マン・レイ」「ストーム・ドア」「コカ・コーラ」「ビフォー・アンド・アフターA」「ドル紙幣」「ギャングスターの葬式」「3人のエルビス・プレスリー」「銀のリズ」「キャンベル・ボックス(*立体)」「毛沢東」「ショット・ライト・ブルー・マリリン(*この作品は「撃たれたマリリン・シリーズ」のひとつで、1964年、イースト47番ストリート、シルヴァー・ファクトリーをビリー・ネームの友人、ドロシー・ポドバー(1932~2008)が訪ねた際、「撃って(Shot)もいい?」とウォーホルに尋ねた。彼女が絵を撮影したいのだと思ったウォーホルは同意する。彼女は、財布から小さな拳銃を取り出し「マリリン」めがけて発砲した。「それをどうしたかって、もちろんアンディは修復して売ったさ。彼が売らないものなんてないのさ」とジェラード・マランガは述べている)」。そうした意味においても同展は世界的にも大変貴重な展示だったのだろうと今思う。
図録には、最初期のウォーホル論を形成した当時「アート・フォーラム誌」編集長だったジョン・コープランズのテキストもあった。

「1960年代のアメリカ美術界に登場した世間で最も名の知れた人物である。彼そのものが文化現象であり、その芸術や映画は絶えず議論の的となっている。」、「ウォーホルのアイディアのあるものは、デュシャンにつながるということは認めざるを得ない。」(ジョン・コープランズ 1974 同テキストより)。

ともあれ、この時初めてアンディ・ウォーホルの実像に接することができたのだ。私は実はあまりにそっけなく単純な彼の代表作の数々に接し、少し唖然とした。だが、カラリングは抜群だった。思うにウォーホルはエルスワース・ケリーからのミニマル、カラーフィールドを意識していたのだった。これらのフラットな平面に情報がシルクスクリーンで偶発的な刷りむらを伴って表面化していたのである。漫画封印以降の彼の作品はリキテンスタイン的な意味でのポップというよりも原理的にはミニマル・アートにより近かったのだ。
大丸の展覧会は、ファッションデザイナーだった安斎慶子や宮井陸郎がかかわったもので、アンディは観世能楽堂で能の稽古を見たり、巡回した神戸や京都も再訪している。日本とアンディの関係性に関して考えるに、彼のアーカイヴでもある「タイム・カプセル」に能や浮世絵の書籍が保存されていることをみても、彼の日本文化への関心が存外にアカデミックな歴史的なものであったことが示唆されるだろう。やっていることは前衛であったとしても彼の興味は伝統的な部分に注がれていたといってよい。ひとつの問題として写楽の画面処理とアンディの画面処理の共通点をかねがね感じていたのだが、この点はどうだったのだろう。とくにウォーホルが写楽に言及したことはないにしても、画面構成は類似しているし、なにより彼の多くの作品が大首絵を思わす顔面のアップでのトリミングがなされている。この問題はまたの機会に言及してみたいと思う。
この来日時にアンディ・ウォーホルは日本テレビ「11PM」に出演している。現在、ウォーホル展が開催されている森美術館の「タイム・カプセル・コーナー」に写真家の原榮三郎が撮影したアンディ来日時の写真が展示された。「11PM」でのものもある。というのも原は同番組のレギュラーだったからである。私はこの時の番組を見ている。美術評論家・東野芳明が60年代風の少し時期はずれのファッションで座っているゲスト席にアンディは座らず、「11PM」のスタジオをスタッフのように歩き回っては、ひたすら無言でゲストやタレントらのポラロイド写真を撮り続け、ソニーの携帯テープレコーダーですべての会話を録音しつつ、これをテレビカメラの前にかざしてひとこと「It's my wife.」。彼はどんなときでも制作行為から離れなかったのだ。そこに、芸術家アンディ・ウォーホルがどれほど非日常的で、制作の「鬼」であったかを確認する。この時の様子は原から私は何度も聞いていた。彼とは1983年、原が武智鉄二監督「華魁」のオフィシャル・カメラマンとして従事している際に松竹大船撮影所(だったと思うが)で出あっている。「お互い撮り合っていたんだ。ウォーホルは黙々と動く男だった」と。
また、同時期「アサヒグラフ」の表紙にもなったアンディ・ウォーホルの風貌が、どことなくビジネスマンめいて、あの60年代のアンダーグラウンドのカリスマであった時期に比べ、急速に変化していたことも知った。彼は「ビジネス・アート」を始めていたのだ。それはニューヨークにもまた時代の変化が生じていたことの証でもあった。「60年代には誰もが誰もに興味を持った。70年代になると誰もが誰もに興味を失った」と自身が語ったような変化が。
さて、霧の芸術家、中谷芙二子は1973年のマットグロッソ個展時の仲介者としてはじめてアンディに会ったという。いずれの時期にか、アンディが「龍安寺にいったことでエンパイアのアイデアが生まれた」と中谷に語ったとされる。繰り返しのアイデアに関しても前回述べたように「三十三間堂」からの影響も指摘されている。
1993年、私はヴェネチア・ビエンナーレ日本代表になった草間彌生の招きで、同地を訪れたが、そのとき企画展示で中国の最新アートが展示されていた。確か「東方への道」という題名だったと思うが、ここに現在、大変な評価になっている中国作家の作品が多数展示されていたのだ。主題としてはポップでそれは後に「ポリティカル・ポップ」とも呼ばれた。毛沢東の肖像をアレンジしたものが多く見受けられた。「これは何?」と思い、中国人の担当者に聞くと、「中国のポップ・アートだ。ポップは毛沢東から始まったから、中国が起源だ」というのである。そのとき中国の強引なポップ・アートの解釈に辟易としたが、確かに資本主義リアリズムと社会主義リアリズムは通底している。
現代美術においてウォーホルからの芸術的距離を考慮することが対外的にいかに重要なものかチャイニーズはよく心得ていた。翻って日本は長年ポップを認めてこなかった。むしろ主にグラフィック畑でこの様式を流用してきたのだが、考えてみればアンディ・ウォーホルは、前述の通り、相当に日本の影響を受けていたのではないか。それどころか、ウォーホルはケージ同様、禅の鈴木大拙から彼の芸術を編み出したのではないのか、といった仮説すら存在する。今度、中国人芸術家と同様な会話になったら日本の影響を主張してやろうかと思っている。大体、ジョン・ケージにしても龍安寺石庭を米西海岸から眺め、オマージュを捧げているのだから、日本人は現代美術に関して自国の文化的アプローチを根本からもっと再認識したほうがいいのではないか、というのが私の意見である。そんなこともあり、2010年、私は平城遷都1300年祭公式展示において東洋の借景概念を用いて「借景 大極殿」(平城宮跡)という大規模インスタレーションを発表している。
次に潜在的に私がポップアート侵入時に違和感を持たなかった理由を話しておこう。63年頃に「図々しい奴」という柴田錬三郎原作のテレビドラマがあり、小学生の私はよく見ていた。このなかで主人公・切人(丸井太郎)が敗戦直後、進駐軍の闇物資で財を成すシーンがあるのだが、倉庫にコーヒー缶の箱が山積みになっている場面が登場する。アメリカ文化の物量と画一性、プラグマティズムなどを感じた。アンディのブリロの箱のインスタレーションをみたとき、そのせいで既視感があり、私にとってポップアートは50年代のロカビリーや板チョコ、スキムミルク、ネスカフェ、炭酸飲料、シャンプー、スプレー塗料、DDTなどと同様、進駐軍占領文化のリピートだった。アメリカ文化はインスタントだった。インスタント食品では60年、「チキンラーメン」が発売された時点で平安時代のように和風化が起こったが。考えてみればポップの漫画も、戦後「ポパイ」や「フィリックス・ザ・キャット」「ベティちゃん」、あるいは「ミッキー・マウス」などの白黒アニメを普通にテレビでみて育ったせいもあって、地続きのようにまるで違和感はなかったのだ。それは日本戦後という今思えば不幸な歴史上の出来事だったのだろうが幼児の私は知る由もない。元来、アンディのアートにおいてもニューヨークでそのようにデジャ=ビュとして受容されたと思う。つまり彼はゼロレベルのアートだった。
ここで環境という問題を通してM.マクルーハンを復習してみる。有名な「水を発見したのは誰か知らないが、魚でないことは確かだ」から、環境が人には見えず、例外的に環境を見ることができるのは芸術家だ、といった。とすればいわゆるメディア論が起こり、のちにドゥルーズ/ガタリを経由してボードリヤールの論に至る、いわゆるファンタズマ(幻像)の行くへを捉えた最初の作家・アンディ・ウォーホル像が抽出されてくる。つまり「水」を表現した「魚」の例え話だ。したがって芸術家以外の「魚」にとってはこの情報環境は見えないのである。同時代にエレーヌ・スターツヴァントはアンディからもシルクスクリーンの原版を借り受け、シミュレーション(*当時の概念はイミテーションか)作品を制作した。それを彼女はやはり「見えないオブジェ」と呼んだ。これはすでに4重以上のトラップ(罠)がかかっている。つまり、オリジン、ミメーシス、ミメーシスのミメーシス、そして次の段階にある。ボードリヤールは果てしなくファンタズマ化していく現象をシミュラークルと呼んだが、これをたとえて「鏡の間における無限の乱反射」のようなものといった。エレーヌ次元ではコピーではなくてシミュラークルなのである。そしてこのレベルが現在のネット社会だといえよう。ネット環境の中ウォーホルはオリジナルとコピーというベンヤミン的問題をはるかに超えて幽霊として君臨し、何度でも再生可能であり無限に乱反射しているのだ。(敬称略)

続く
もりしたたいすけ
ウォーホル・カタログ「大丸」図録(1974)筆者蔵

ウォーホル、カタログ中扉1牛の壁紙

バスケットの写真竹のバスケット

ショット・ライト・ブルー・マリリンショット・ライト・ブルー・マリリン 1964 キャンヴァスにシルクスクリーン 101,5x101,5cm

ディック・トレーシーディック・トレーシー 1960 キャンヴァスにアクリル 121,9x86.0cm

jikuu008001森下泰輔 
「借景 大極殿 Borrowed scenery Daigokuden (平城宮跡)」
2010 Led、金属 15×5×4m

森下泰輔「私の Andy Warhol 体験」
第1回 60年代
第2回 栗山豊のこと
第3回 情報環境へ
第4回 大丸個展、1974年
第5回 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで
第6回 A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。先日、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

*画廊亭主敬白
最近、このブログへのアクセス数が急増しているのには、少々驚いています(一昨日が810人、昨日も600人以上)。もちろん上掲の森下泰輔さんはじめ強力・豪華執筆陣の皆さんの魅力あふれるエッセイのおかげなのですが、それにしても街角の一画廊のブログを連日500人から多いときで1000人近い方が読んでくださるなんて一年前には想像もしませんでした。
毎日読んでくださる皆さんには心より御礼を申し上げるとともに、忌憚のないご意見をお聞かせいただければ幸いです。
もちろん各著者へのメッセージも大歓迎です。

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル~氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

●イベントのご案内
4月25日(金)18時より、ジョナス・メカス監督「ファクトリーの時代」の上映会を開催します(※要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。

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本日のウォーホル語録

<ぼくは「BAD BOOK」(ひどい本)をつくりたかった。ちょうど「BAD MOVIE」(ひどい映画)や「BAD ART」(ひどい芸術作品)をつくったように。なぜって人が何か確実にまちがったことをしでかすときには、いつも何か予想外のことが起こるからね。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日~5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。