石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第3回
ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都
3-1 ギャラリー16
相変わらず1975年に留まっている。版画を持ち帰った翌週、連盟の後輩である長村広巳氏が祇園祭りを観に上洛、二人して山鉾巡行を見物し四条河原町交差点で繰り広げられる辻回しに驚嘆の声をあげた。写真を撮ったりしながら人混みにつられ河原町通りを上ってアサヒビアホールで一杯(暑い最中ですから)。窓側の席でジョッキ片手に山鉾が通り過ぎていくのを観るのは良い気分だった。あまりに良い気分なので市電の軌道で写真をパチリ、ほろ酔いで新京極側へ歩いていくと小さな画廊の壁面に、マン・レイの『アングルのヴァイオリン』(版画レゾネII-84)が掛けられていて驚いた。──写真じゃなくて、こんなのもあるんだ。お酒の力もあったが画廊に入って価格を尋ねた。もっとも数字を忘れてしまったけどね。
河原町通三条下ル
撮影: 長村広巳
『アングルのヴァイオリン』と筆者
撮影: 長村広巳
京都の画廊は、火曜日スタートで日曜日が最終(企画展などで二週間の場合あり)の会期、秋のシーズンからギャラリー16に顔をだすようになった。オーナーの井上道子さんは気さくな人柄で、夕方になると酒宴が始まる作家達の輪へわたしを招き入れてくれた。「ぶぶ漬けでもどうどす?」と勧められたら引き揚げると云うルールを知らない名古屋人は、ウイスキーの誘惑に負けていつも長居、さらに閉廊後には近くの居酒屋に場所を変え遅くまで歓談した。そのおかげで多くの作家や関係者と知り合ったのは、わたしの財産と感謝している。
ギャラリー16
京都市中京区寺町通三条下る人筋目東入
1976.4
井上道子さん
後で知ったが、画廊と出会った前の週(8日~13日)に『The Party』と題したグループ展が開かれていて、その場にマン・レイのメトロノーム作品『破壊されざるオブジェ』が特別出品されていたと云う。同展は現代美術作家の今井祝雄、植松奎二、村岡三郎の三人が、産婦人科で心音をテープに録音させてもらい画廊で流す企画。写真資料を見るとスピーカーとケーブルが空間を走っていて、神妙に正座した三人の右端にメトロノームを掲げたマン・レイが登場している。振り子が刻むテンポと心音のコラボレーション、どんな楽しいパーテイだったのか、その場に前記の版画も参加していたのだろうか、メトロノームの振り子に眼の写真を貼り付けたアッサンブラージュは自作されたと聞いた、写真からはオリジナルのように見えるのだけどね。
『村岡三郎へのオマージュ展』(2014.1)会場で、今井祝雄氏所蔵の写真(正座ではないバージョン)を拝見させてもらった。
庄司達展『垂れ布シリーズ6』(1979.11) 庄司達氏と井上道子さん、画面左下に北辻稔氏
三島喜美代展(1980.1) 作者に異常接近する石原薫氏
シュルレアリスムを現実の中に通す方法を知りたいと二十歳の頃のわたしは考えていた。そして、自分が何者で、何をやりたい人間なのかと自問。シュルレアリスムは死んでいないとの思いから同時代の作家にも惹かれ、野中ユリや高松次郎、デビューしたばかりの山本容子や田中孝の作品などを求めた。最初からマン・レイに絞って収集をした訳ではない、版画がブームとなっていた1970年代、関西の洋画を扱う画廊を訪ねて「マン・レイはありませんか」と問いかけても、ジャコメッティを「ジャコ」と呼ぶ人達の世界では冷笑されるばかり、「マン・レイ」の名前は「マン○」と卑猥な響きを伴うようで、多くの画廊で、相手にされないままの日々を過ごした。
3-2 ヴァランティーヌ・ユゴー
1977年の12月になってマン・レイの写真が見付かったとギャラリー16から連絡が入った。喜び勇んで駆けつけると井上さんは額装された二つの写真を手にして微笑んでいる。ステンレスの額に入った自写像と木製額に入った女性の肖像。二つとも欲しいけど諸般の事情、こちらの方がお薦めと女性の写真を示してくれた。人物用に使われる絹目印画紙に焼き付けられた人が誰だか判らないけど、右下には万年筆で書かれたと思われる「マン・レイ パリ」のサインが認められる。印画紙の経年変化である銀の浮き上がり具合が魅力的で、一目で魅せられてしまった。資金についてはボーナスを二回つぎ込めばなんとかなるかと気楽な算段で、ルンルン気分。井上さんは額から写真を取り出し「よく見るように」と促してくれた。古い写真に対する知識はなかったが、暗室で行ってきた焼き付け作業や、印画紙の質感に対する嗜好から、手にした写真の重要性が理解できた。眼の刺激と手の喜びと言えようか。そして、購入を決定させたのは裏面に押されたアトリエ・スタンプの発色と「1932-33年」に掛けての献辞の言葉「シャンタルとジャンにちょっと寂しげなヴァランティーヌの肖像を贈ります」。続く言葉が隠されているようにも思うがわたしには判読できない、でも、「ヴァランティーヌ」って誰だろう。
居酒屋・小桜
しばらくして、パトリック・ワルドベルグの纏めた『シュルレアリスム』(巖谷國士訳、美術出版社、1969年刊)巻末の名鑑に、「ブーローニュ・シュル・メールに生まれる。女流画家、夢玄的な構成と肖像画の作者である。ランボー、ブルトン、エリュアール、ツァラ、クルヴェルなどの肖像画が有名。」(210頁)としてヴァランティーヌ・ユゴーが紹介されているのに気がついたのだが、肖像写真の挿入がないので確定できないままとなった。彼女の横顔をイーストリバー・プレスが復刻したマン・レイの写真集(1975年刊)の中に見付けたと思う、これには名前の記載がなかった(男性は表記しているのにね)ので、原書の日本語版刊行を戦前に計画した山中散生氏に手紙を出した。残念な事に氏は同年9月に死去されていて『シュルレアリスム資料と回想』(山中散生著、美術出版社、1971年刊)で、エリュアールの限定詩集『アプリケ』を飾った画家として「繊細な線、甘美な色調によって、幻想にみちた物語を表現する。」(122頁)と紹介されたヴァランティーヌへ、さらに迫る事が出来なかった。
彼女の名前と顔が何時頃、どの資料で繋がったのかはっきりしないが、エリュアールやブルトンとも恋愛関係にあった前述の画家だと判明した。1887年生まれの彼女は1919年にジャン・ユゴーと結婚、32年に離婚している。シュルレアリスムへの参加は33年で、写真に撮られたのは45歳の頃だろうか、裏面献辞にあるジャンが、ご主人だったのか、交流があったジャン・コクトーだったかなどは、判りようがない。
筆者撮影による印画紙『ヴァランティーヌ・ユゴーの肖像』
探索の結果を井上さんにお伝えしたところ「やっぱり そうでしたか 何となく謎のままでもよかったような気もしますが 又 それをときほぐすのもスリルがあり楽しいでしょうね。 若い石原さんが一つづつマン・レイを自分のものにして行かれる様がとても楽しみです。」と援護射撃を表明された葉書(1978年8月4日)を頂いた。見知らぬ女性が、恋人や親戚の一人になって、写真の魅力が増していく、親近感は失われた時間の感覚を取り戻させてくれたようで、楽しい事柄だった。
3-3 カパーニュ・プルミエール通り
前述したアトリエ・スタンプは青インクが滲んだ状態で、印画紙の中央に「マン・レイ パリ十四区、カンパーニュ・プルミエール通り31番地乙」と押されている。手に持って見つめていると生ゴムの臨場感と知らない街の様子が相俟って不思議な気持ちに包まれ、自室の窓際に貼った大判のパリ市街鳥瞰図から丹念に該当する通りを探していった。これは、京都に居ながらパリの石畳を歩いている感覚、鉛筆で囲った通りで現像液を潜り、乾かされた印画紙なのかと思うと、行ってみたい気持ちがこみ上げてきた。しかし、冠婚葬祭を除いて平均的なサラリーマンに長期休暇など許されない時代。それに、奇数番地が通りのどちら側に当たるか等、パリの住居表記やアトリエの様子についての知識も持っていなかった。そんな訳で、夢想だけが果てしなく続く。
印画紙裏面のスタンプと献辞
3-4 マン・レイと彼の女友達
こうして、マン・レイの写真の仕事に対する興味は日増しに高まっていったが、当時の日本で彼の写真集の売り物を見付けることは出来なかった。初回に言及した『マン・レイ肖像集』も一晩で返却せねばならなかった。鉄道ファンの時代に失われた路線や車輌形式を求めて、古い雑誌を複写して部屋に飾ったりしていたので(自分が撮ったと錯覚するのです)、マン・レイの場合にも、この手法が自然に出て来たと思う。振り返ると最初に版画を買った前に複写をしていたから、マン・レイとわたしを重ね合わせる行為は当然の流れだったのだろう。ヴァランティーヌの肖像が手に入った為に、写真集の準備が具体化されたと云うか、情熱が沸騰したと思う。『時間光』よりも規模が大きく本の佇まいを備えたオブジェとなるようなものを考えた。『マン・レイ肖像集』をベースとして、様々な雑誌や研究書から複写し、女性達に囲まれた愛すべき写真家としてのマン・レイを演出した。暗室光のたゆたう光りの中からヌーシュやリーやメレットが現れるとゾクゾクしてきたし、ヴァランティーヌの肖像の調子を手許のオリジナルと合わせていると、マン・レイになった気分。自室で印画紙に囲まれる幸福な朝を何度も迎えた。
幸福な朝
作業に1年程掛かったが、翌年の秋に限定8部の私刊本として上梓することが出来た。題して『マン・レイと彼の女友達』、表紙に黒サテンを使った角背上製本120頁、写真手貼り、テキスト手書きの函入りである。この時もお世話になった方々にお送りした他、2部を京都書院で扱ってもらった。後年、その内の1冊と東京の古書店で対面した時、付けられた値段の高さに驚いた。きっと、写真を手に入れた感動や、マン・レイへの思いが店主に伝わり、わたしの異常さに同情したのだと思う。しばらくして、売れたと聞いたのでほっとしたのを覚えている。
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都
3-1 ギャラリー16
相変わらず1975年に留まっている。版画を持ち帰った翌週、連盟の後輩である長村広巳氏が祇園祭りを観に上洛、二人して山鉾巡行を見物し四条河原町交差点で繰り広げられる辻回しに驚嘆の声をあげた。写真を撮ったりしながら人混みにつられ河原町通りを上ってアサヒビアホールで一杯(暑い最中ですから)。窓側の席でジョッキ片手に山鉾が通り過ぎていくのを観るのは良い気分だった。あまりに良い気分なので市電の軌道で写真をパチリ、ほろ酔いで新京極側へ歩いていくと小さな画廊の壁面に、マン・レイの『アングルのヴァイオリン』(版画レゾネII-84)が掛けられていて驚いた。──写真じゃなくて、こんなのもあるんだ。お酒の力もあったが画廊に入って価格を尋ねた。もっとも数字を忘れてしまったけどね。
河原町通三条下ル撮影: 長村広巳
『アングルのヴァイオリン』と筆者撮影: 長村広巳
京都の画廊は、火曜日スタートで日曜日が最終(企画展などで二週間の場合あり)の会期、秋のシーズンからギャラリー16に顔をだすようになった。オーナーの井上道子さんは気さくな人柄で、夕方になると酒宴が始まる作家達の輪へわたしを招き入れてくれた。「ぶぶ漬けでもどうどす?」と勧められたら引き揚げると云うルールを知らない名古屋人は、ウイスキーの誘惑に負けていつも長居、さらに閉廊後には近くの居酒屋に場所を変え遅くまで歓談した。そのおかげで多くの作家や関係者と知り合ったのは、わたしの財産と感謝している。
ギャラリー16京都市中京区寺町通三条下る人筋目東入
1976.4
井上道子さん後で知ったが、画廊と出会った前の週(8日~13日)に『The Party』と題したグループ展が開かれていて、その場にマン・レイのメトロノーム作品『破壊されざるオブジェ』が特別出品されていたと云う。同展は現代美術作家の今井祝雄、植松奎二、村岡三郎の三人が、産婦人科で心音をテープに録音させてもらい画廊で流す企画。写真資料を見るとスピーカーとケーブルが空間を走っていて、神妙に正座した三人の右端にメトロノームを掲げたマン・レイが登場している。振り子が刻むテンポと心音のコラボレーション、どんな楽しいパーテイだったのか、その場に前記の版画も参加していたのだろうか、メトロノームの振り子に眼の写真を貼り付けたアッサンブラージュは自作されたと聞いた、写真からはオリジナルのように見えるのだけどね。
『村岡三郎へのオマージュ展』(2014.1)会場で、今井祝雄氏所蔵の写真(正座ではないバージョン)を拝見させてもらった。
庄司達展『垂れ布シリーズ6』(1979.11) 庄司達氏と井上道子さん、画面左下に北辻稔氏
三島喜美代展(1980.1) 作者に異常接近する石原薫氏シュルレアリスムを現実の中に通す方法を知りたいと二十歳の頃のわたしは考えていた。そして、自分が何者で、何をやりたい人間なのかと自問。シュルレアリスムは死んでいないとの思いから同時代の作家にも惹かれ、野中ユリや高松次郎、デビューしたばかりの山本容子や田中孝の作品などを求めた。最初からマン・レイに絞って収集をした訳ではない、版画がブームとなっていた1970年代、関西の洋画を扱う画廊を訪ねて「マン・レイはありませんか」と問いかけても、ジャコメッティを「ジャコ」と呼ぶ人達の世界では冷笑されるばかり、「マン・レイ」の名前は「マン○」と卑猥な響きを伴うようで、多くの画廊で、相手にされないままの日々を過ごした。
3-2 ヴァランティーヌ・ユゴー
1977年の12月になってマン・レイの写真が見付かったとギャラリー16から連絡が入った。喜び勇んで駆けつけると井上さんは額装された二つの写真を手にして微笑んでいる。ステンレスの額に入った自写像と木製額に入った女性の肖像。二つとも欲しいけど諸般の事情、こちらの方がお薦めと女性の写真を示してくれた。人物用に使われる絹目印画紙に焼き付けられた人が誰だか判らないけど、右下には万年筆で書かれたと思われる「マン・レイ パリ」のサインが認められる。印画紙の経年変化である銀の浮き上がり具合が魅力的で、一目で魅せられてしまった。資金についてはボーナスを二回つぎ込めばなんとかなるかと気楽な算段で、ルンルン気分。井上さんは額から写真を取り出し「よく見るように」と促してくれた。古い写真に対する知識はなかったが、暗室で行ってきた焼き付け作業や、印画紙の質感に対する嗜好から、手にした写真の重要性が理解できた。眼の刺激と手の喜びと言えようか。そして、購入を決定させたのは裏面に押されたアトリエ・スタンプの発色と「1932-33年」に掛けての献辞の言葉「シャンタルとジャンにちょっと寂しげなヴァランティーヌの肖像を贈ります」。続く言葉が隠されているようにも思うがわたしには判読できない、でも、「ヴァランティーヌ」って誰だろう。
居酒屋・小桜しばらくして、パトリック・ワルドベルグの纏めた『シュルレアリスム』(巖谷國士訳、美術出版社、1969年刊)巻末の名鑑に、「ブーローニュ・シュル・メールに生まれる。女流画家、夢玄的な構成と肖像画の作者である。ランボー、ブルトン、エリュアール、ツァラ、クルヴェルなどの肖像画が有名。」(210頁)としてヴァランティーヌ・ユゴーが紹介されているのに気がついたのだが、肖像写真の挿入がないので確定できないままとなった。彼女の横顔をイーストリバー・プレスが復刻したマン・レイの写真集(1975年刊)の中に見付けたと思う、これには名前の記載がなかった(男性は表記しているのにね)ので、原書の日本語版刊行を戦前に計画した山中散生氏に手紙を出した。残念な事に氏は同年9月に死去されていて『シュルレアリスム資料と回想』(山中散生著、美術出版社、1971年刊)で、エリュアールの限定詩集『アプリケ』を飾った画家として「繊細な線、甘美な色調によって、幻想にみちた物語を表現する。」(122頁)と紹介されたヴァランティーヌへ、さらに迫る事が出来なかった。
彼女の名前と顔が何時頃、どの資料で繋がったのかはっきりしないが、エリュアールやブルトンとも恋愛関係にあった前述の画家だと判明した。1887年生まれの彼女は1919年にジャン・ユゴーと結婚、32年に離婚している。シュルレアリスムへの参加は33年で、写真に撮られたのは45歳の頃だろうか、裏面献辞にあるジャンが、ご主人だったのか、交流があったジャン・コクトーだったかなどは、判りようがない。
筆者撮影による印画紙『ヴァランティーヌ・ユゴーの肖像』探索の結果を井上さんにお伝えしたところ「やっぱり そうでしたか 何となく謎のままでもよかったような気もしますが 又 それをときほぐすのもスリルがあり楽しいでしょうね。 若い石原さんが一つづつマン・レイを自分のものにして行かれる様がとても楽しみです。」と援護射撃を表明された葉書(1978年8月4日)を頂いた。見知らぬ女性が、恋人や親戚の一人になって、写真の魅力が増していく、親近感は失われた時間の感覚を取り戻させてくれたようで、楽しい事柄だった。
3-3 カパーニュ・プルミエール通り
前述したアトリエ・スタンプは青インクが滲んだ状態で、印画紙の中央に「マン・レイ パリ十四区、カンパーニュ・プルミエール通り31番地乙」と押されている。手に持って見つめていると生ゴムの臨場感と知らない街の様子が相俟って不思議な気持ちに包まれ、自室の窓際に貼った大判のパリ市街鳥瞰図から丹念に該当する通りを探していった。これは、京都に居ながらパリの石畳を歩いている感覚、鉛筆で囲った通りで現像液を潜り、乾かされた印画紙なのかと思うと、行ってみたい気持ちがこみ上げてきた。しかし、冠婚葬祭を除いて平均的なサラリーマンに長期休暇など許されない時代。それに、奇数番地が通りのどちら側に当たるか等、パリの住居表記やアトリエの様子についての知識も持っていなかった。そんな訳で、夢想だけが果てしなく続く。
印画紙裏面のスタンプと献辞3-4 マン・レイと彼の女友達
こうして、マン・レイの写真の仕事に対する興味は日増しに高まっていったが、当時の日本で彼の写真集の売り物を見付けることは出来なかった。初回に言及した『マン・レイ肖像集』も一晩で返却せねばならなかった。鉄道ファンの時代に失われた路線や車輌形式を求めて、古い雑誌を複写して部屋に飾ったりしていたので(自分が撮ったと錯覚するのです)、マン・レイの場合にも、この手法が自然に出て来たと思う。振り返ると最初に版画を買った前に複写をしていたから、マン・レイとわたしを重ね合わせる行為は当然の流れだったのだろう。ヴァランティーヌの肖像が手に入った為に、写真集の準備が具体化されたと云うか、情熱が沸騰したと思う。『時間光』よりも規模が大きく本の佇まいを備えたオブジェとなるようなものを考えた。『マン・レイ肖像集』をベースとして、様々な雑誌や研究書から複写し、女性達に囲まれた愛すべき写真家としてのマン・レイを演出した。暗室光のたゆたう光りの中からヌーシュやリーやメレットが現れるとゾクゾクしてきたし、ヴァランティーヌの肖像の調子を手許のオリジナルと合わせていると、マン・レイになった気分。自室で印画紙に囲まれる幸福な朝を何度も迎えた。
幸福な朝作業に1年程掛かったが、翌年の秋に限定8部の私刊本として上梓することが出来た。題して『マン・レイと彼の女友達』、表紙に黒サテンを使った角背上製本120頁、写真手貼り、テキスト手書きの函入りである。この時もお世話になった方々にお送りした他、2部を京都書院で扱ってもらった。後年、その内の1冊と東京の古書店で対面した時、付けられた値段の高さに驚いた。きっと、写真を手に入れた感動や、マン・レイへの思いが店主に伝わり、わたしの異常さに同情したのだと思う。しばらくして、売れたと聞いたのでほっとしたのを覚えている。
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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