石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第9回
ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪
9-1 デュシャンピアン
前回報告させていただいた本の出版やコレクション展では、多くの人たちから励ましの声と連帯の挨拶をいただいた。その中にはマルセル・デュシャンのコレクターとして知られる笠原正明さんからの葉書も含まれていて「小生もかなりマニアックなつもりですが、石原君の女と石原さんのマン・レイに対するマニアックぶりには頭が下がりました」(6月22日付)とあり、マン・レイの情報をいろいろ教えて頂けるのではと期待に胸を膨らませた。笠原さんは、ご自身のコレクションを中心とした『窓越しに……マルセル・デュシャン小展示』を自由が丘画廊で開催(1978年1月)されておられる程の大先輩で、わたしと同じサラリーマン・コレクター(年季が違います)。『遺作』との関連で収集されている方向性について「一点でも多くの作品や資料を蒐めることが、デュシャンを理解することに繋がると私は考えたのです。資料の蒐集は重要であり、いわば、迷路を進んでいくうえに必要なガイドブックであることが解ったのです。」(『美術手帖』1981年8月号、102頁)と記される程で、後輩として憧れる存在、その人から葉書をいただけたのは有り難いことだった。
ツァイト・フォト・サロン(八木長ビル時代)
左から筆者、石原悦郎氏、笠原正明氏(撮影: 土渕信彦氏)
マン・レイ展案内状
左から『PHOTO dada MAN RAY』(1978年)、『MAN RAY’S WORLD』(1980年)、『Man Ray Portraits』(1989年)
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9-2 ツァイト・フォト・サロン
笠原さんが言及されている、もうひとりの「石原」氏との出会いについても書いておこう(名字は同じだけど縁戚ではありません)。マン・レイに興味を持ち始めた1970年代の日本には、写真を芸術作品として専門に扱う画廊はなかったし、「芸術」になってしまったら写真は終りだと云った風潮が蔓延していた。それが、版画と同じような複製芸術として注目されるようになり初め、オリジナルプリントを売買する画廊が現れたのを『アサヒカメラ』誌で知った(ユジューヌ・アッジェの特集号だったと記憶する)。それで、マン・レイの写真も扱っていないかと照会の手紙を書いたのが最初だった。石原悦郎氏は1941年東京の生まれで、大学卒業後、渡仏して美術と語学を学び、自由が丘画廊勤務を経て再渡欧、西独逸でフォトグラフを学んだ後、1978年4月に東京・日本橋で写真専門の画廊、ツァイト・フォト・サロンを開設された(日本で最初の本格的な専門画廊として有名)。
石原悦郎氏
1984.8.19
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『メレット・オッペンハイムの肖像』
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『MAN RAY’S WORLD』展
1980.4.18-5.17
同上
『PHOTO dada MAN RAY』と題したレイヨグラフ、肖像、モダンフォトを紹介する展覧会が、開廊した年の12月に開かれたので駆けつけた。初対面でもフレンドリーで女性に関する面白い話を沢山お聞きした。ここには書けない武勇伝に恐れ入って、マン・レイ作品の大事な事柄を聞き逃したのは残念至極(まあしかたがないか)。でも、画廊のウインドゥに飾られた『メレット・オッペンハイムの肖像』とマン・レイの『自画像』の下にリング綴じの『マン・レイ写真集 1920-1934 巴里』が置かれ、その横に小さな雑誌とカタログがある事に気が付いた。お願いして取りだしてもらい、恐る恐る拝見すると、資料の方は1910年代の貴重品のようで、あるコレクターの持ち物だとお聞きした。
ツァイト・フォト・サロンは勤務先の東京支店から歩いて5分程の距離にあったので、出張する度に寄った。マン・レイの展覧会も継続的に開かれたし、『つくば写真美術館』開設準備の熱気に包まれて、若い学芸員達の様子を垣間見たりした。笠原さんとも、こうした中でお会いしたと思う。
『PHOTO dada MAN RAY』展
1978.12.1-16
東京都中央区日本橋室町1-4
9-3 ダニエル画廊カタログ
笠原さんにお願いしてニューヨークの古書店から『マン・レイの油彩と島のオブジェ』展(シュルレアリスム画廊、1926年3月26日〜4月10日)のカタログを入手したのは、葉書を頂き返事を書いてすぐの8月だった(海外からの荷物を考えると異例の早さ)。関心領域が近い事に加え、『ヴァランティーヌの肖像』(連載第3回参照)の旧蔵者が氏であった偶然などが、スムーズに運んだ背景だとも思う。この頃から、カタログや案内状と云ったエフェメラ類の魅力に気付いたといえる。
笠原さんはご自身のコレクションの中からマン・レイに関するものは譲ってもよいと判断され(頂いた手紙には「貴君がマン・レイになってしまったのには私にも責任があるようですので」とも書かれていた)、リストと現物のコピーを手配して下さった。仕事の関係で翌年になると関西へ単身赴任されてこられる事になり、リブレリ・アルカードでお会いするようになった。そして、1984年9月16日午後2時、かっぱ横丁の喫茶リンデンで、石原コレクション最大のアイテムとなるカタログと対面した(後に知ったというか、注目されるようになった)。それは、前述したツァイト・フォト・サロンで拝見していた1910年代の資料であるけど、この日の場合は意味合いが根本的に違った、譲っていただけるかもしれないのである。
笠原正明氏と1910年代の貴重資料4点
1984.9.16 大阪
取り出されたのはマン・レイ初個展カタログ(ダニエル画廊、1915年)と、最初期のグループ展カタログ2点(モダンスクール、1913年とモントロス画廊、1915年)に加え復刻版のリトルマガジン『リッジフィールド・ガズーク』(1915/1970年 シュワルツ版)。特に初個展のカタログは、マン・レイが写真を始めた経緯を証明する一品で、彼が撮影した油彩『踊りの解釈』の図版が掲載されている。カタログ用に職業写真家に撮ってもらった写真が気に入らず、自分で撮影した彼は、「色彩を白黒のモノクロームに転換するには、技術的な能力ばかりでなく、複製される作品についての理解をも要求されるのであった。おもうに、その仕事には画家自身以上にうってつけの人は居はしないわけだった。」(『セルフポートレイト』美術公論社、1981年、65頁、千葉成夫訳)と述べている。モダニズムの画家が「結果を記録する手段として」使った写真が、やがて、光りそのものを表現するようになった訳で、印象派の画家の命題の先にカメラを使って進んだのである。
マン・レイ初個展カタログ(1915年)
同上
わたしは珈琲茶碗を遠ざけ、『マン・レイによる素描と油彩展』を伝える瑞々しいタイポグラフィーのカタログを手にした。大判上質紙の片面に印刷し折りたたむ仕様で18.5×12.7cmの見開き。あまりに古いので上段の折り目が破れ、かろうじて原型をとどめる有様、裏面を膨らませて確認すると、三次元の問題を解決しているのだと理解出来た。「これは欲しい、どうなってもかまわない、お願い、許して」と迫ってしまった、ごめんなさい。──四点とも有難うございました。
この時、お譲りいただいたエフェメラがニューヨーク近代美術館の資料部長バーナード・カーペル氏旧蔵品であると知った。そこに含まれていたデュシャンの珍品や自由が丘画廊での展覧会の様子などもお聞きしたが、サインの有無の話題になって、わたしが「アイロンのオブジェならサインが無くても」と言うと「サインが無くてはいけない。それもMRではなくて、Man Rayのものを。やはり、後になって人に譲ったりしようと思う時にはサインがなくちゃだめ、「サインがあれば買うよ」という話しに必ずなるんだ。資料類にはサインが無いのが当たり前だが、作品にはサインがあるのが当たり前なんだ。」と教えられた。物故作家の油彩から初め、固定相場制の時代に為替を苦労して海外から購入されておられた大先輩の経験に基づくお話に、目から鱗の一時だった。
9-4 里帰り
マルセル・デュシャンの研究者として知られるフランシス・ナウマンさんとメールのやり取りをするようになったのは、伊藤忠ギャラリーで開催された『マン・レイ: 自由と喜び』展(1998年2月27日~4月17日)で紹介してもらってからで、わたしが世界初の油彩レゾネを準備していた頃だった。そして、完成した『マン・レイ方程式』(銀紙書房、1999年刊、限定50部)をお送りした関係で、わたしにも注目して下さり、クリスティーズのオークション・カタログで、油彩作品の来歴欄に拙著の整理番号を付記されると云う光栄にあずかった。そのナウマンさんが『モダニズムへの変革 マン・レイ初期作品』展を企画され、わたしにも協力を求めて来られた。どうやらアメリカにダニエル画廊のカタログなどのマン・レイ初期資料は保管されていないようだった。展覧会はニュージャージー州のモンテクレール美術館が主担となって、マン・レイが同地のリッジフィールドに住んだ時代からニューヨークに移る1907年から1917年に焦点をあて、東部の美術館四館を巡回される予定との説明だった。わたしは喜んでお貸しする事にした。──復刻版のリトルマガジンを除き、あらたにペンギン画廊(1918年)でのグループ展カタログを加えた4点である。
クロネコヤマトの担当者
保険額を取り決め貸出の契約書を整えて集荷を待つと、クロネコヤマトの担当者が大きなダンボール箱を抱えてやってきた。驚いたろうね(小さいから)。手許からカタログが離れていく時の淋しさは、娘を嫁にやる父親の心境だろうか、丁寧に梱包されて見えなくなると「フライトの日にちと時間を教えて」とお願いした。展覧会の会期は2003年2月16日がスタート、会社を休んでレセプションに参加したい、招待状もいただいたけれど、サラリーマンにアメリカは遠い。里帰りした初個展のカタログは、油彩たちとの再会を楽しんだのだろうか、ユーチューブで会場の様子を眺めるだけで我慢しなければならないのも辛い。
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪
9-1 デュシャンピアン
前回報告させていただいた本の出版やコレクション展では、多くの人たちから励ましの声と連帯の挨拶をいただいた。その中にはマルセル・デュシャンのコレクターとして知られる笠原正明さんからの葉書も含まれていて「小生もかなりマニアックなつもりですが、石原君の女と石原さんのマン・レイに対するマニアックぶりには頭が下がりました」(6月22日付)とあり、マン・レイの情報をいろいろ教えて頂けるのではと期待に胸を膨らませた。笠原さんは、ご自身のコレクションを中心とした『窓越しに……マルセル・デュシャン小展示』を自由が丘画廊で開催(1978年1月)されておられる程の大先輩で、わたしと同じサラリーマン・コレクター(年季が違います)。『遺作』との関連で収集されている方向性について「一点でも多くの作品や資料を蒐めることが、デュシャンを理解することに繋がると私は考えたのです。資料の蒐集は重要であり、いわば、迷路を進んでいくうえに必要なガイドブックであることが解ったのです。」(『美術手帖』1981年8月号、102頁)と記される程で、後輩として憧れる存在、その人から葉書をいただけたのは有り難いことだった。
ツァイト・フォト・サロン(八木長ビル時代)左から筆者、石原悦郎氏、笠原正明氏(撮影: 土渕信彦氏)
マン・レイ展案内状左から『PHOTO dada MAN RAY』(1978年)、『MAN RAY’S WORLD』(1980年)、『Man Ray Portraits』(1989年)
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9-2 ツァイト・フォト・サロン
笠原さんが言及されている、もうひとりの「石原」氏との出会いについても書いておこう(名字は同じだけど縁戚ではありません)。マン・レイに興味を持ち始めた1970年代の日本には、写真を芸術作品として専門に扱う画廊はなかったし、「芸術」になってしまったら写真は終りだと云った風潮が蔓延していた。それが、版画と同じような複製芸術として注目されるようになり初め、オリジナルプリントを売買する画廊が現れたのを『アサヒカメラ』誌で知った(ユジューヌ・アッジェの特集号だったと記憶する)。それで、マン・レイの写真も扱っていないかと照会の手紙を書いたのが最初だった。石原悦郎氏は1941年東京の生まれで、大学卒業後、渡仏して美術と語学を学び、自由が丘画廊勤務を経て再渡欧、西独逸でフォトグラフを学んだ後、1978年4月に東京・日本橋で写真専門の画廊、ツァイト・フォト・サロンを開設された(日本で最初の本格的な専門画廊として有名)。
石原悦郎氏1984.8.19
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『メレット・オッペンハイムの肖像』---
『MAN RAY’S WORLD』展1980.4.18-5.17
同上『PHOTO dada MAN RAY』と題したレイヨグラフ、肖像、モダンフォトを紹介する展覧会が、開廊した年の12月に開かれたので駆けつけた。初対面でもフレンドリーで女性に関する面白い話を沢山お聞きした。ここには書けない武勇伝に恐れ入って、マン・レイ作品の大事な事柄を聞き逃したのは残念至極(まあしかたがないか)。でも、画廊のウインドゥに飾られた『メレット・オッペンハイムの肖像』とマン・レイの『自画像』の下にリング綴じの『マン・レイ写真集 1920-1934 巴里』が置かれ、その横に小さな雑誌とカタログがある事に気が付いた。お願いして取りだしてもらい、恐る恐る拝見すると、資料の方は1910年代の貴重品のようで、あるコレクターの持ち物だとお聞きした。
ツァイト・フォト・サロンは勤務先の東京支店から歩いて5分程の距離にあったので、出張する度に寄った。マン・レイの展覧会も継続的に開かれたし、『つくば写真美術館』開設準備の熱気に包まれて、若い学芸員達の様子を垣間見たりした。笠原さんとも、こうした中でお会いしたと思う。
『PHOTO dada MAN RAY』展1978.12.1-16
東京都中央区日本橋室町1-4
9-3 ダニエル画廊カタログ
笠原さんにお願いしてニューヨークの古書店から『マン・レイの油彩と島のオブジェ』展(シュルレアリスム画廊、1926年3月26日〜4月10日)のカタログを入手したのは、葉書を頂き返事を書いてすぐの8月だった(海外からの荷物を考えると異例の早さ)。関心領域が近い事に加え、『ヴァランティーヌの肖像』(連載第3回参照)の旧蔵者が氏であった偶然などが、スムーズに運んだ背景だとも思う。この頃から、カタログや案内状と云ったエフェメラ類の魅力に気付いたといえる。
笠原さんはご自身のコレクションの中からマン・レイに関するものは譲ってもよいと判断され(頂いた手紙には「貴君がマン・レイになってしまったのには私にも責任があるようですので」とも書かれていた)、リストと現物のコピーを手配して下さった。仕事の関係で翌年になると関西へ単身赴任されてこられる事になり、リブレリ・アルカードでお会いするようになった。そして、1984年9月16日午後2時、かっぱ横丁の喫茶リンデンで、石原コレクション最大のアイテムとなるカタログと対面した(後に知ったというか、注目されるようになった)。それは、前述したツァイト・フォト・サロンで拝見していた1910年代の資料であるけど、この日の場合は意味合いが根本的に違った、譲っていただけるかもしれないのである。
笠原正明氏と1910年代の貴重資料4点1984.9.16 大阪
取り出されたのはマン・レイ初個展カタログ(ダニエル画廊、1915年)と、最初期のグループ展カタログ2点(モダンスクール、1913年とモントロス画廊、1915年)に加え復刻版のリトルマガジン『リッジフィールド・ガズーク』(1915/1970年 シュワルツ版)。特に初個展のカタログは、マン・レイが写真を始めた経緯を証明する一品で、彼が撮影した油彩『踊りの解釈』の図版が掲載されている。カタログ用に職業写真家に撮ってもらった写真が気に入らず、自分で撮影した彼は、「色彩を白黒のモノクロームに転換するには、技術的な能力ばかりでなく、複製される作品についての理解をも要求されるのであった。おもうに、その仕事には画家自身以上にうってつけの人は居はしないわけだった。」(『セルフポートレイト』美術公論社、1981年、65頁、千葉成夫訳)と述べている。モダニズムの画家が「結果を記録する手段として」使った写真が、やがて、光りそのものを表現するようになった訳で、印象派の画家の命題の先にカメラを使って進んだのである。
マン・レイ初個展カタログ(1915年)
同上わたしは珈琲茶碗を遠ざけ、『マン・レイによる素描と油彩展』を伝える瑞々しいタイポグラフィーのカタログを手にした。大判上質紙の片面に印刷し折りたたむ仕様で18.5×12.7cmの見開き。あまりに古いので上段の折り目が破れ、かろうじて原型をとどめる有様、裏面を膨らませて確認すると、三次元の問題を解決しているのだと理解出来た。「これは欲しい、どうなってもかまわない、お願い、許して」と迫ってしまった、ごめんなさい。──四点とも有難うございました。
この時、お譲りいただいたエフェメラがニューヨーク近代美術館の資料部長バーナード・カーペル氏旧蔵品であると知った。そこに含まれていたデュシャンの珍品や自由が丘画廊での展覧会の様子などもお聞きしたが、サインの有無の話題になって、わたしが「アイロンのオブジェならサインが無くても」と言うと「サインが無くてはいけない。それもMRではなくて、Man Rayのものを。やはり、後になって人に譲ったりしようと思う時にはサインがなくちゃだめ、「サインがあれば買うよ」という話しに必ずなるんだ。資料類にはサインが無いのが当たり前だが、作品にはサインがあるのが当たり前なんだ。」と教えられた。物故作家の油彩から初め、固定相場制の時代に為替を苦労して海外から購入されておられた大先輩の経験に基づくお話に、目から鱗の一時だった。
9-4 里帰り
マルセル・デュシャンの研究者として知られるフランシス・ナウマンさんとメールのやり取りをするようになったのは、伊藤忠ギャラリーで開催された『マン・レイ: 自由と喜び』展(1998年2月27日~4月17日)で紹介してもらってからで、わたしが世界初の油彩レゾネを準備していた頃だった。そして、完成した『マン・レイ方程式』(銀紙書房、1999年刊、限定50部)をお送りした関係で、わたしにも注目して下さり、クリスティーズのオークション・カタログで、油彩作品の来歴欄に拙著の整理番号を付記されると云う光栄にあずかった。そのナウマンさんが『モダニズムへの変革 マン・レイ初期作品』展を企画され、わたしにも協力を求めて来られた。どうやらアメリカにダニエル画廊のカタログなどのマン・レイ初期資料は保管されていないようだった。展覧会はニュージャージー州のモンテクレール美術館が主担となって、マン・レイが同地のリッジフィールドに住んだ時代からニューヨークに移る1907年から1917年に焦点をあて、東部の美術館四館を巡回される予定との説明だった。わたしは喜んでお貸しする事にした。──復刻版のリトルマガジンを除き、あらたにペンギン画廊(1918年)でのグループ展カタログを加えた4点である。
クロネコヤマトの担当者保険額を取り決め貸出の契約書を整えて集荷を待つと、クロネコヤマトの担当者が大きなダンボール箱を抱えてやってきた。驚いたろうね(小さいから)。手許からカタログが離れていく時の淋しさは、娘を嫁にやる父親の心境だろうか、丁寧に梱包されて見えなくなると「フライトの日にちと時間を教えて」とお願いした。展覧会の会期は2003年2月16日がスタート、会社を休んでレセプションに参加したい、招待状もいただいたけれど、サラリーマンにアメリカは遠い。里帰りした初個展のカタログは、油彩たちとの再会を楽しんだのだろうか、ユーチューブで会場の様子を眺めるだけで我慢しなければならないのも辛い。
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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