Q Ei and Taro OKAMOTO. Their works outside Japan.
今から104年前の1911年(明治44)4月28日瑛九(本名・杉田秀夫)は宮崎県に生れました。ほとんど独学で写真、油彩、版画技法を習得し、抽象、具象、そして最後の点描にいたるまで短くも濃密な作品制作を続け、1960年(昭和35)3月10日48歳で亡くなりました。
同じ1911年生まれの作家に岡本太郎がいます。
若くしてフランスに渡り(1930~1940年まで滞仏)抽象美術運動やシュルレアリスム運動に直接触れ、戦後も旺盛な作品制作の傍ら、縄文土器論や沖縄文化論など文筆活動も展開します。晩年はテレビなどに積極的に出演し、 1996年(平成8年)1月7日に84歳で亡くなりました。お住まいが青山だったこともあり、生前は私たちが主催する展覧会によく顔を見せてくださいました。
二人は対照的な人生にも見えますが、ともに国際的な視野をもち、海外の動向に敏感でした。
宮崎で生まれ育ち、浦和で亡くなった(死んだのは東京の病院で)瑛九は生涯ただの一度も日本を出たことはありません。
中学校すら出ていない(つまり小学校卒)瑛九はしかしエスペラント語を学び、海外の雑誌や画集を取り寄せ、海外の動向にも目を配り、思考は常に世界的な視野を失いませんでした。
その瑛九の夢は自分の作品(ことにフォトデッサン)が世界の舞台で評価されることでした。
海外での作品発表の機会がただ一度ありました。
1953年1月、PIP(Photographic International Publicity)という雑誌から、オリオン商事という版権の専門会社を通じてニューヨークで個展を開催しないかという話が持ち込まれ、瑛九は自分のフォトデッサンが国際的なレベルでも評価されることを確信して、小判(四つ切)15点、大判(全紙)25点の計40点のフォトデッサンをアメリカに送ります。
さらに(1953年1月~3月)「米国と欧州でも展覧会を」という話が急浮上し、故郷の宮崎の新聞に大大的に報道されるような事件がありました。
瑛九はPIPからの追加要求に応え、四つ切サイズの作品40点を送ったといわれます。
<僕も遂に米国から大きな申込みがやってきました。多分父上からそのことに就てはお聞き下さったでしょう。家内が父上へ手紙を書きましたから僕からは詳しく申上げません。
僕は今度こそ僕にとって絶好のチャンスだと思ってゐます。おそらく、僕の一生のうちで最も大きな事件となるでしょう。・・・
(1953年3月9日 兄の杉田正臣宛 瑛九書簡より)>
欧米での作品発表に向けての瑛九の高揚した思いが伝わってきます。
しかし、残念なことに個展は実現せず、同年3月にアメリカの有力写真展「トップス・イン・フォトグラフィー展」に5点が出品されただけで、のちに(3年も経ってから)二つの写真雑誌「フォトグラフィ」と「アート・フォトグラフィ」に紹介されただけで終わりました。
計2回にわけて送った80点のフォトデッサンは紆余曲折のすえ、日本に戻されました。
(この間の事情については、山田光春さんの著書『瑛九 評伝と作品』(1976年 青龍洞)及びその元となった瑛九の会機関誌『眠りの理由』第9.10号合併号(1969年7月)に従って書いているのですが、アメリカでの写真展「トップス・イン・フォトグラフィー展」の詳しい会期もいまだ未調査です。
一度はアメリカに渡ったフォトデッサン(以前、このブログで40点と書きましたが、追加送付を含めると80点になると思われます)は日本に戻されましたが、裏にPIPとORIONの二つのスタンプが捺してあり、さらにシール(紙)がはってあるので直ぐにわかります。
私たちもいくつか扱い、数点は再び太平洋を渡りNYのコレクターに収蔵されています。
埼玉県立近代美術館、宮崎県立美術館の収蔵作品にも同じスタンプとシールの添付されたものが確認されています。
今回の「第26回瑛九展 光を求めて」には、瑛九がアメリカに送った作品2点を出品しています。

瑛九
「浴み」
1952年頃
フォトデッサン
(ゼラチン・シルバープリント)
26.5x21.6cm
裏面
P.I.P. PHOTO BY
PLEASE CREDIT
ORION
QE-44 Bathing, Photo Dessin, by Kyu Ei
THIS PHOTO IS SOLD WITH
ONE TIME PUBLICATION RIGHTS ONLY
P.I.P. 173 WEST 81 ST. NEW YORK 24. N.Y.
鉛筆で「浴み」とあり

瑛九
「kiss」
1950年
フォトデッサン
(ゼラチン・シルバープリント)
28.0x22.5cm サイン・年記あり
裏面
P.I.P. PHOTO BY
PLEASE CREDIT
ORION
QE-63 Kiss, Photo Dessin, by Kyu Ei (1950 )
THIS PHOTO IS SOLD WITH
ONE TIME PUBLICATION RIGHTS ONLY
P.I.P. 173 WEST 81 ST. NEW YORK 24. N.Y.
~~~~~~~~~~
国際的な舞台での発表を夢見て、瑛九が満を持してニューヨークに送った自選作品であり、文字通り代表作とみなしてよいでしょう。
●臨時ニュース
石山友美監督の映画『だれも知らない建築のはなし』が本日からシアター・イメージフォーラムで劇場公開が始まります。
初日のトークイベントには光嶋裕介さんが登場します。
5月23日(土)11:00~上映前 初日舞台挨拶
中谷礼仁さん(建築史家)×石山友美監督
5月23日(土)21:15~上映後 トーク
光嶋裕介さん(建築家)×石山友美監督
公開に先立って建築家の妹島和世さんと石山友美監督の対談の模様がCinra.netに掲載されています。
http://www.cinra.net/interview/201505-sejimaishijima
◆ブログの「現代版画センターの記録」では新たに1981年3月1日<ギャラリー方寸開廊記念「瑛九 その夢の方へ」オープニング>を掲載しました。
◆ときの忘れものは2015年5月16日[土]―5月30日[土]「第26回瑛九展 光を求めて」を開催しています(*会期中無休)。
1995年の開廊以来、シリーズ企画として取り組んできた「瑛九展」ですが、第26回となる今回は「光を求めて」と題して、フォトデッサンを中心に、油彩、水彩、フォトデッサンの制作材料とした型紙など約30点を展示します。
価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください
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今から104年前の1911年(明治44)4月28日瑛九(本名・杉田秀夫)は宮崎県に生れました。ほとんど独学で写真、油彩、版画技法を習得し、抽象、具象、そして最後の点描にいたるまで短くも濃密な作品制作を続け、1960年(昭和35)3月10日48歳で亡くなりました。
同じ1911年生まれの作家に岡本太郎がいます。
若くしてフランスに渡り(1930~1940年まで滞仏)抽象美術運動やシュルレアリスム運動に直接触れ、戦後も旺盛な作品制作の傍ら、縄文土器論や沖縄文化論など文筆活動も展開します。晩年はテレビなどに積極的に出演し、 1996年(平成8年)1月7日に84歳で亡くなりました。お住まいが青山だったこともあり、生前は私たちが主催する展覧会によく顔を見せてくださいました。
二人は対照的な人生にも見えますが、ともに国際的な視野をもち、海外の動向に敏感でした。
宮崎で生まれ育ち、浦和で亡くなった(死んだのは東京の病院で)瑛九は生涯ただの一度も日本を出たことはありません。
中学校すら出ていない(つまり小学校卒)瑛九はしかしエスペラント語を学び、海外の雑誌や画集を取り寄せ、海外の動向にも目を配り、思考は常に世界的な視野を失いませんでした。
その瑛九の夢は自分の作品(ことにフォトデッサン)が世界の舞台で評価されることでした。
海外での作品発表の機会がただ一度ありました。
1953年1月、PIP(Photographic International Publicity)という雑誌から、オリオン商事という版権の専門会社を通じてニューヨークで個展を開催しないかという話が持ち込まれ、瑛九は自分のフォトデッサンが国際的なレベルでも評価されることを確信して、小判(四つ切)15点、大判(全紙)25点の計40点のフォトデッサンをアメリカに送ります。
さらに(1953年1月~3月)「米国と欧州でも展覧会を」という話が急浮上し、故郷の宮崎の新聞に大大的に報道されるような事件がありました。
瑛九はPIPからの追加要求に応え、四つ切サイズの作品40点を送ったといわれます。
<僕も遂に米国から大きな申込みがやってきました。多分父上からそのことに就てはお聞き下さったでしょう。家内が父上へ手紙を書きましたから僕からは詳しく申上げません。
僕は今度こそ僕にとって絶好のチャンスだと思ってゐます。おそらく、僕の一生のうちで最も大きな事件となるでしょう。・・・
(1953年3月9日 兄の杉田正臣宛 瑛九書簡より)>
欧米での作品発表に向けての瑛九の高揚した思いが伝わってきます。
しかし、残念なことに個展は実現せず、同年3月にアメリカの有力写真展「トップス・イン・フォトグラフィー展」に5点が出品されただけで、のちに(3年も経ってから)二つの写真雑誌「フォトグラフィ」と「アート・フォトグラフィ」に紹介されただけで終わりました。
計2回にわけて送った80点のフォトデッサンは紆余曲折のすえ、日本に戻されました。
(この間の事情については、山田光春さんの著書『瑛九 評伝と作品』(1976年 青龍洞)及びその元となった瑛九の会機関誌『眠りの理由』第9.10号合併号(1969年7月)に従って書いているのですが、アメリカでの写真展「トップス・イン・フォトグラフィー展」の詳しい会期もいまだ未調査です。
一度はアメリカに渡ったフォトデッサン(以前、このブログで40点と書きましたが、追加送付を含めると80点になると思われます)は日本に戻されましたが、裏にPIPとORIONの二つのスタンプが捺してあり、さらにシール(紙)がはってあるので直ぐにわかります。
私たちもいくつか扱い、数点は再び太平洋を渡りNYのコレクターに収蔵されています。
埼玉県立近代美術館、宮崎県立美術館の収蔵作品にも同じスタンプとシールの添付されたものが確認されています。
今回の「第26回瑛九展 光を求めて」には、瑛九がアメリカに送った作品2点を出品しています。

瑛九
「浴み」
1952年頃
フォトデッサン
(ゼラチン・シルバープリント)
26.5x21.6cm
裏面P.I.P. PHOTO BY
PLEASE CREDIT
ORION
QE-44 Bathing, Photo Dessin, by Kyu Ei
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ONE TIME PUBLICATION RIGHTS ONLY
P.I.P. 173 WEST 81 ST. NEW YORK 24. N.Y.
鉛筆で「浴み」とあり

瑛九
「kiss」
1950年
フォトデッサン
(ゼラチン・シルバープリント)
28.0x22.5cm サイン・年記あり
裏面P.I.P. PHOTO BY
PLEASE CREDIT
ORION
QE-63 Kiss, Photo Dessin, by Kyu Ei (1950 )
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P.I.P. 173 WEST 81 ST. NEW YORK 24. N.Y.
~~~~~~~~~~
国際的な舞台での発表を夢見て、瑛九が満を持してニューヨークに送った自選作品であり、文字通り代表作とみなしてよいでしょう。
●臨時ニュース
石山友美監督の映画『だれも知らない建築のはなし』が本日からシアター・イメージフォーラムで劇場公開が始まります。
初日のトークイベントには光嶋裕介さんが登場します。
5月23日(土)11:00~上映前 初日舞台挨拶
中谷礼仁さん(建築史家)×石山友美監督
5月23日(土)21:15~上映後 トーク
光嶋裕介さん(建築家)×石山友美監督
公開に先立って建築家の妹島和世さんと石山友美監督の対談の模様がCinra.netに掲載されています。
http://www.cinra.net/interview/201505-sejimaishijima
◆ブログの「現代版画センターの記録」では新たに1981年3月1日<ギャラリー方寸開廊記念「瑛九 その夢の方へ」オープニング>を掲載しました。
◆ときの忘れものは2015年5月16日[土]―5月30日[土]「第26回瑛九展 光を求めて」を開催しています(*会期中無休)。
1995年の開廊以来、シリーズ企画として取り組んできた「瑛九展」ですが、第26回となる今回は「光を求めて」と題して、フォトデッサンを中心に、油彩、水彩、フォトデッサンの制作材料とした型紙など約30点を展示します。価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください
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