森本悟郎のエッセイ その後・第25回

第25回 赤瀬川原平とライカ同盟 (5) パリ開放(中)


5月21日、パリ2日目の撮影初日は好天に恵まれた。街の撮影もさることながら、この日は展覧会ポスター用に同盟員自身が被写体になることになっていて、終日全員一緒に行動。撮影はもちろん二塚従軍カメラマン。
C・スクエアの展覧会ポスターは開設時からグラフィックデザイナーの福田繁雄さんにお願いしていたが、ライカ同盟3氏は「名古屋を撮る」展のぼくのデザインが気に入り、以後、この展覧会はぼくの担当となっていた(後には予算の問題もあり、他の展覧会ポスターもすべてぼくが担当することになる)。というわけで、パリ取材が決まった頃からどんなポスターにするか、シチュエーションやレイアウトをわくわくしながら考えた。ぼくのプランは3同盟員とパリのランドマークを3箇所、それに3色旗を組み合わせるというもので、これには前回の「三重視」というコンセプトが頭にあった。では誰とどこを組み合わせるかということで、尋ねてみると、秋山総督は即座に「俺は凱旋門」。武張った象徴を選ぶところが秋山さんらしい。赤瀬川宗匠は「エッフェル塔かなぁ」で、高梨家元は「俺みたいなガーゴイルがいるからノートルダム寺院でしょう」、ということでそれぞれの組み合わせが決まった。

「ライカ同盟_パリ開放」ポスター「ライカ同盟 パリ開放」ポスター


ちなみに同盟員の撮影場所は、秋山さんがシャンゼリゼ通り真ん中の分離帯、赤瀬川さんがシャイヨー宮で、高梨さんはノートルダム寺院が修理中だったため、ガーゴイルとのツーショットも聖堂正面からの撮影もできず、セーヌに架かるアルシュヴェシェ橋上からとなった。

秋山総督と凱旋門秋山総督と凱旋門
撮影:二塚一徹


赤瀬川宗匠とエッフェル塔赤瀬川宗匠とエッフェル塔
撮影:二塚一徹


高梨家元とノートルダム寺院高梨家元とノートルダム寺院
撮影:二塚一徹


このポスターについて赤瀬川さんはこんな文章を残している。
今度やる名古屋の画廊のM本さんが、出来上がったポスターを広げる。前に見本を見せてもらったが、この出来が素ん晴らしい。ぼくはエッフェル塔、A山さんは凱旋門、T梨さんはノートルダム寺院、それぞれをバックにライカを構えて、少々出来過ぎの感じさえする。
赤瀬川原平『ゼロ発信』中央公論新社、2000年
翌日からは赤瀬川組・秋山組・高梨組と3班に分かれ、倉本・二塚・森本が日替わりでそれぞれの組に従軍するという方針を採った。とはいうものの、途中から赤瀬川・秋山組は共同作戦を張ることになる。その美術家組と一緒にカタコンブ(地下納骨堂:その昔、ナダールが史上初めて人工光による撮影した場所のひとつでもある)やペール・ラシェーズ墓地、モンパルナス墓地に足を運んだ。のちに『墓活論』(PHP研究所、2012年)を著す赤瀬川さんだが、あの頃まさに〈墓活〉は進行中だったのである。
雨が降ったら美術館にでも行って休息を取ろうという目論見は外れ、撮影開始からずっと晴れ続きで、「万歩計をつけていったが、一日平均二万歩で、くたくたになった」(『ゼロ発信』)。おかげで毎夜の戦果報告会は酒も食も進んだ。そして27日の撮影最終日、パリでの最後の晩餐を終えてレストランを出た途端に、雷鳴とともにぼくたちは驟雨に見舞われたのである。
かくしてパリ撮影を無事に終えることができた。書きたいエピソードはまだまだいくらもあるが、それは別の機会に譲りたい。

セーヌ観光船上(5月27日)セーヌ観光船上(5月27日)
撮影:二塚一徹


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。