<迷走写真館>一枚の写真に目を凝らす 第40回

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黒々した山が建物に迫っている。土の山ではない。ごつごつしたキメの荒い岩山だ。浅間山の鬼押出を歩いたときの記憶がよみがえる。平らなところがなく、どの岩も尖っていて、そこに足を乗せると足元がぐらつき、からだがふらふらした。あそこと同じように、建物ギリギリのところで止まった溶岩の流れが冷え固まってできた山なのか。
建物は二階建てだが、窓の様子からすると住宅ではなさそうだ。ガラス窓はどれも破壊され、弾丸が飛び込んだような跡が付いていたり、アルミのフレームが曲がって外壁に飛び出していたりする。部屋の奥の様子は暗くて見えない。
右端にちらりと写っている空の様子からすると、天気は快晴。斜め上の角度から照りつけた日差しが強そうだ。それにしても、部屋の中が真っ暗なのが気になる。
岩山の影を左に追っていくと、その延長上に別の影が写っている。とっさにブロック塀が思い浮かんだ。影のなかに透かし模様のついた花ブロックに似たものが写っているからだ。
もし本当にブロック塀ならば、手前に立ちはだかる山の大きさからすると、相当に背の高い塀でなければ写真には写らないはずだ。あるいは、この建物めがけて流れてきた溶岩が塀を押し倒し、建物のほうに引き寄せたのだろうか。
ここに至ってもうひとつ気づいたことがある。岩山のはじっこから、葉の長い植物が飛び出していることだ。暗くて不鮮明だが、ラン科の植物を連想させる長い葉が垂れているのが見える。前庭に植わっていたものが溶岩の流れに押しつぶされたのだ。ぐったりした葉の様子から、建物のなかに押し入ろうとする溶岩が間一髪のところで止まったのがわかる。
ここでおもむろに、その植物からそう遠くない位置にいる男の姿に目を移す。彼の姿はもちろん視界には入っていたが、触れるのをためらっていたのは、背広に蝶ネクタイ、シルクハットに雨傘というこの場にそぐわない彼の出で立ちに意表を突かれたからだった。言葉を失うとはこのことだ。
男は窓枠に左足を残したまま、一メートル以上も離れている岩に右足を大きく踏み出している。窓のサッシも岩山も凹凸があって靴底でしっかり踏みしめるのは不可能だ。開脚している姿勢もあぶなっかしく、体が揺れているのか顔からメガネがずり落ちそうになっている。右手に傘を抱えているから余計にバランスがとりにくそうだ。晴天なのだから持ってくることはないのに、帽子を被ると自動的に傘に手が伸びてしまうのだろうか。
男が脱出しようとしているところなのはわかる。わからないのは、なぜこんな格好をしているのかということだ。外出するのに着替えたのではないだろう。この服装で室内でなにかしていたところに溶岩が流れてきたのだ。
そこで行われていたのは、異なる意見の調整がむずかしい会議だったのか。なにかの業績に権威を与える儀式だったのか。あるいは食べきれないほどの料理が並んだ豪華な宴会だったのか。
男はその場を後にし、すたこらさっさと部屋を出る。窓に足をかけて身を戸外に乗り出す。暗い室内からの脱出は、文明からの脱出だったのかもしれない。
大竹昭子(おおたけあきこ)
~~~~
●紹介作品データ:
植田正治
シリーズ〈砂丘モードより〉
(『BRUTUS』1985年4月1日号より)
1985年撮影
(没後のニュープリント ※2010年頃)
ゼラチンシルバープリント
Image size: 23.0x23.0cm
Sheet size: 27.9x35.6cm
■植田正治 Shoji UEDA
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。
1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回。
●展覧会のお知らせ
アツコバルーで、植田正治さんの展覧会が開催されています。上掲の作品も出品されています。


「あの時代(とき)のホリゾント
植田正治のファッション写真展」
会期:2016年4月16日[土]~5月22日[日]
会場:アツコバルー
〒150-0046 東京都渋谷区松濤1-29-1 クロスロードビル5F
時間:水曜~土曜/14:00~21:00、日曜・月曜/11:00~18:00
火曜休廊
¥500 (includes a drink)
「生涯、アマチュア写真家」を自称していた植田正治が初めてファッション写真を手がけたのは1983年、植田が70歳を迎えた年であった。それまでのファッション写真の枠組みを自由に飛び越えた作品は大きな反響をもって迎えられ、新たに植田正治の名を世に知らしめる契機となった。すでに植田正治を知るものにとっても、生まれ故郷の鳥取にとどまり、戦前からアマチュアリズムを貫いていた植田正治が、商業写真、しかもファッション写真を撮影したことに対する驚きは相当なものだった。
ただひたすらに「写真する歓び」を追い求めることで満足していた植田正治を新たな世界へ導いたのは、当時、アートディレクターとして活躍していた次男の充であった。この年の3月、最愛の妻を亡くし、写真を撮る気力さえ喪失していた父の姿を見かねた充が思いついた"荒療治"、それがデザイナー菊地武夫のブランドTAKEO KIKUCHIのカタログ撮影だった。自らのホームグラウンドとも言える砂丘で、モデルたちを自由に演出することが許された撮影で生来の実験精神と遊び心を取り戻した植田は、まったく新しいファッション写真の世界を創造することになった。それは、期せずしてすでに70歳になっていた植田正治の写真家としての新たな転機にもなる。もともと新しもの好きでハイカラ趣味だった植田正治とファッション写真との相性は抜群だった。その後も、充の手引きにより、多くのファッション写真を手がけた植田正治は、まさに水を得た魚のように次々と名作を生み出していった。後年、「砂丘モード」として知られるようになるこれら一連の作品群は、若い世代や海外にも大きくアピールし、植田の名前を次世代に伝えていく上で重要な役割を果たすことになった。時代と運命を共にする宿命であるはずのファッションは、植田正治の作品の中では色あせるどころか、時代を経てさらに輝きを増し続けている。それは、まさに植田正治が生み出したあらゆる作品にも共通して言えることだ。
本展では、80年代に手がけたファッション写真を中心に植田正治の作品世界を立体的に展示することで、その世界観を追体験する。また「80年代」をキーワードにアート、ファッション、グラフィックなど、バブル経済を背景に成熟の頂点を迎えた時代の証言者たちを迎えたトークセッションの開催も予定されている。
企画協力:植田正治事務所、五味彬、コンタクト
(アツコバルーHPより転載)
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●今日のお勧め作品は、ときの忘れものコレクションより植田正治作品です。

植田正治
〈砂丘モード〉より《砂丘D》
1983年
ゼラチンシルバープリント
Image size: 25.0x23.3cm
サインあり
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◆大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。

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黒々した山が建物に迫っている。土の山ではない。ごつごつしたキメの荒い岩山だ。浅間山の鬼押出を歩いたときの記憶がよみがえる。平らなところがなく、どの岩も尖っていて、そこに足を乗せると足元がぐらつき、からだがふらふらした。あそこと同じように、建物ギリギリのところで止まった溶岩の流れが冷え固まってできた山なのか。
建物は二階建てだが、窓の様子からすると住宅ではなさそうだ。ガラス窓はどれも破壊され、弾丸が飛び込んだような跡が付いていたり、アルミのフレームが曲がって外壁に飛び出していたりする。部屋の奥の様子は暗くて見えない。
右端にちらりと写っている空の様子からすると、天気は快晴。斜め上の角度から照りつけた日差しが強そうだ。それにしても、部屋の中が真っ暗なのが気になる。
岩山の影を左に追っていくと、その延長上に別の影が写っている。とっさにブロック塀が思い浮かんだ。影のなかに透かし模様のついた花ブロックに似たものが写っているからだ。
もし本当にブロック塀ならば、手前に立ちはだかる山の大きさからすると、相当に背の高い塀でなければ写真には写らないはずだ。あるいは、この建物めがけて流れてきた溶岩が塀を押し倒し、建物のほうに引き寄せたのだろうか。
ここに至ってもうひとつ気づいたことがある。岩山のはじっこから、葉の長い植物が飛び出していることだ。暗くて不鮮明だが、ラン科の植物を連想させる長い葉が垂れているのが見える。前庭に植わっていたものが溶岩の流れに押しつぶされたのだ。ぐったりした葉の様子から、建物のなかに押し入ろうとする溶岩が間一髪のところで止まったのがわかる。
ここでおもむろに、その植物からそう遠くない位置にいる男の姿に目を移す。彼の姿はもちろん視界には入っていたが、触れるのをためらっていたのは、背広に蝶ネクタイ、シルクハットに雨傘というこの場にそぐわない彼の出で立ちに意表を突かれたからだった。言葉を失うとはこのことだ。
男は窓枠に左足を残したまま、一メートル以上も離れている岩に右足を大きく踏み出している。窓のサッシも岩山も凹凸があって靴底でしっかり踏みしめるのは不可能だ。開脚している姿勢もあぶなっかしく、体が揺れているのか顔からメガネがずり落ちそうになっている。右手に傘を抱えているから余計にバランスがとりにくそうだ。晴天なのだから持ってくることはないのに、帽子を被ると自動的に傘に手が伸びてしまうのだろうか。
男が脱出しようとしているところなのはわかる。わからないのは、なぜこんな格好をしているのかということだ。外出するのに着替えたのではないだろう。この服装で室内でなにかしていたところに溶岩が流れてきたのだ。
そこで行われていたのは、異なる意見の調整がむずかしい会議だったのか。なにかの業績に権威を与える儀式だったのか。あるいは食べきれないほどの料理が並んだ豪華な宴会だったのか。
男はその場を後にし、すたこらさっさと部屋を出る。窓に足をかけて身を戸外に乗り出す。暗い室内からの脱出は、文明からの脱出だったのかもしれない。
大竹昭子(おおたけあきこ)
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●紹介作品データ:
植田正治
シリーズ〈砂丘モードより〉
(『BRUTUS』1985年4月1日号より)
1985年撮影
(没後のニュープリント ※2010年頃)
ゼラチンシルバープリント
Image size: 23.0x23.0cm
Sheet size: 27.9x35.6cm
■植田正治 Shoji UEDA
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。
1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回。
●展覧会のお知らせ
アツコバルーで、植田正治さんの展覧会が開催されています。上掲の作品も出品されています。


「あの時代(とき)のホリゾント
植田正治のファッション写真展」
会期:2016年4月16日[土]~5月22日[日]
会場:アツコバルー
〒150-0046 東京都渋谷区松濤1-29-1 クロスロードビル5F
時間:水曜~土曜/14:00~21:00、日曜・月曜/11:00~18:00
火曜休廊
¥500 (includes a drink)
「生涯、アマチュア写真家」を自称していた植田正治が初めてファッション写真を手がけたのは1983年、植田が70歳を迎えた年であった。それまでのファッション写真の枠組みを自由に飛び越えた作品は大きな反響をもって迎えられ、新たに植田正治の名を世に知らしめる契機となった。すでに植田正治を知るものにとっても、生まれ故郷の鳥取にとどまり、戦前からアマチュアリズムを貫いていた植田正治が、商業写真、しかもファッション写真を撮影したことに対する驚きは相当なものだった。
ただひたすらに「写真する歓び」を追い求めることで満足していた植田正治を新たな世界へ導いたのは、当時、アートディレクターとして活躍していた次男の充であった。この年の3月、最愛の妻を亡くし、写真を撮る気力さえ喪失していた父の姿を見かねた充が思いついた"荒療治"、それがデザイナー菊地武夫のブランドTAKEO KIKUCHIのカタログ撮影だった。自らのホームグラウンドとも言える砂丘で、モデルたちを自由に演出することが許された撮影で生来の実験精神と遊び心を取り戻した植田は、まったく新しいファッション写真の世界を創造することになった。それは、期せずしてすでに70歳になっていた植田正治の写真家としての新たな転機にもなる。もともと新しもの好きでハイカラ趣味だった植田正治とファッション写真との相性は抜群だった。その後も、充の手引きにより、多くのファッション写真を手がけた植田正治は、まさに水を得た魚のように次々と名作を生み出していった。後年、「砂丘モード」として知られるようになるこれら一連の作品群は、若い世代や海外にも大きくアピールし、植田の名前を次世代に伝えていく上で重要な役割を果たすことになった。時代と運命を共にする宿命であるはずのファッションは、植田正治の作品の中では色あせるどころか、時代を経てさらに輝きを増し続けている。それは、まさに植田正治が生み出したあらゆる作品にも共通して言えることだ。
本展では、80年代に手がけたファッション写真を中心に植田正治の作品世界を立体的に展示することで、その世界観を追体験する。また「80年代」をキーワードにアート、ファッション、グラフィックなど、バブル経済を背景に成熟の頂点を迎えた時代の証言者たちを迎えたトークセッションの開催も予定されている。
企画協力:植田正治事務所、五味彬、コンタクト
(アツコバルーHPより転載)
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●今日のお勧め作品は、ときの忘れものコレクションより植田正治作品です。

植田正治
〈砂丘モード〉より《砂丘D》
1983年
ゼラチンシルバープリント
Image size: 25.0x23.3cm
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