森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第10回(最終回)
黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築
熊本地震の被災者の皆様に哀悼の意を表します。まだ余震が続いていることもあり、なんとか不便な避難生活を忍耐をもって乗り切れることをお祈りしております。
今回、薩摩川内市においても震度4の揺れがあったのにもかかわらず、川内原発停止せず。それどころかNHKは会長指示により鹿児島の震度を意図的に隠ぺいしていたふしすらある。「原発における不安感を助長しないように」というのがその理由だ。
現在わが国は、立憲主義というものをめぐり大変な岐路に立っているといえよう。本来、憲法は権力を抑止し、国民を権力の暴走から守るためのものだが、ここでは国が国民の主権を制限するために憲法があるようだ。まず国体と社会があって個人があるという考え方は、現在の近代民主主義とは逆転している。個があり社会があり国があるのだ。
もともと芸術や美術とは何かと考えた場合、この民主主義の個の尊厳、個人の権利の重要性上に成立している。すくなくとも社会主義リアリズムやナチ・リアリズム、日本の戦争協力画を除いては。ナチはこの個的な表現を「退廃芸術」と呼んで排除したが、美術史自体がその退廃芸術と呼ばれたものの勝利であったことは疑う余地はなかろう。つまり美術とは「個人の尊重」と「表現の自由の保障」上にあって、ピカソ「ゲルニカ」を見るまでもなく、平和主義、反戦をその核に有する。その意味で、1947年に施行されたいわゆる日本の「平和憲法」とは世界に先駆けた「芸術憲法」ともいえるものなのである。
この立憲主義が国家主義的なトーンに変化したのはいつごろからなのか?
1999年に国歌国旗法が成立した。このときはジョン・レノン「イマジンを国歌に」などといった極端な意見もあったが、少なくとも「イマジン」は平和主義的ではある。だが、ここで戦前の国体を思わす国歌国旗法が成立したことが、現在の全体主義復活傾向に拍車をかけたことは間違いないのではないか?
さて、3.11以降、とりわけ福島第一原発の事故をめぐり、国家主導の流れが大きく表面化してきた。本来ならばいまだ原因も状態もわからず、相変わらず放射線を放出し続けているこの3基の原子炉に関し、世論は脱原発をもっと唱えてもよさそうなものだったが、現実はそうなってはいない。ここでも国と企業の思惑が個人の主張を制限している。
アートはこの動向に関しささやかな抵抗をしめしてきた。日本美術会主催の「日本アンデパンダン展」など一部を除いては、原発事故に言及するアート表現は検閲・規制・自粛されてきたが、公然の秘密だが竹内公太とされ一応は作者不詳「指差し作業員」(2011)やChim↑Pomが渋谷駅構内に設置された岡本太郎「明日の神話」第五福竜丸被爆事件の下に原発事故を加えた行為(2011)などにそれは見ることができる。Chim↑Pomのメンバー3人は軽犯罪法違反容疑で書類送検されてもいる。(*結果は不起訴)
作者不詳
「指差し作業員」
2011
映像
岡本太郎
「明日の神話」壁画、第五福竜丸の直下に付加されたChim↑Pom「福島第一原発事故」作品。
仮設展示
2011
こうした権力主導の問題がアート的なところで生じた件に関し、相似形の現象がいちはやく筆者の身辺に生じたのは2004年だった。筆者がスタジオとして使用していた中銀カプセルタワーB601号室でアスベスト問題が露見したのである。そのため筆者は世界的建築家の黒川紀章と対立することになった。
黒川紀章、日本芸術院会員、文化功労者、日本建築学会終身会員、ブルガリア建築家協会名誉会員、英国王立建築家協会名誉会員、その他数々の栄誉に輝き2007年10月12日逝去した世界的建築家である。60年代に黒川紀章が赤坂に「スペースカプセル」を作ったときには、寺山修司らの先端的人々が集い前衛芸術の拠点のようにもなって私も常連のひとりだった。
黒川紀章設計
「スペースカプセル」
1968
「中銀カプセルタワービル」は、国際的建築家として名をはせた故黒川紀章の代表作である。50年代末に提唱され、60年代を通じて世界的に評価されたメタボリズム(建築や都市を生命体のように部分的な更新が持続するものとして捉える建築思想)の代表作のひとつともいわれてきた。メタボリズムは当初建築家、菊竹清訓によって提案された建築概念で、スクラップ&ビルドのあり方を根本的に疑い、建築を代謝可能なものとして見直すという運動であった。今日の建築界が直面しているサスティナブルと共通する考え方である。ただし、豪農の子息であった菊竹がこの考え方に至った事情は少し特殊である。GHQによる農地改革で、小作人に農地を解放したため、菊竹の実家は凋落していった。その思いと独自の神道的意味論が結合し仮想土地を何もない空間に作り代謝させるという発想につながり、メタボリズムの契機となっているように思える。その思想はあの”人類の進歩と調和”70年万博をもってひとつのピークを成したといえよう。
70年万博は当時、菊竹を始め丹下健三、磯崎新ら、わが国の戦後建築の背骨を成すこととなる思想的建築家がこぞって参加し、黒川紀章もユニットによる東芝IHI館、タカラ館の設計を担当するとともにお祭り広場の鉄骨構造の大屋根(丹下設計)から太陽の塔横に吊り下げるようにしてカプセル構造の住居を考案した。これがカプセルを取り替えることで持続可能な有機的な建築として評判を得、「中銀カプセルタワービル」は、カプセルホテル同様に万博の実験建築を初めて銀座の巷に根付かせるという意味で計画され1972年に竣工した建築だ。黒川は茶道に通じていたため、わずか3坪のカプセルを現代の茶室として考えた側面もある。だが、自然との融和を理想とした茶道と異なりこの黒川カプセルは、後に述べるようにアスベストにまみれており、高度成長期の負の遺産と心中しているような、結果的に「毒ワビ」「毒サビ」を体現した茶室の対極にある建造物なのだった。
丹下健三の大屋根から吊られた黒川紀章のカプセル住宅。
1970
大阪万博
私がこの建築の一室を所有することになったのは1992年のことだ。ところが、実際に居住してみると驚くことばかりが起こった。黒川の理想と現実の建築物に天と地ほどの乖離がある。鉄骨に0.8ミリという極薄の鉄板が巻いてあるだけの直方体状の構造体を2本のボルトで固定してあるというだけのしろもので、極薄の鉄板は雨水や鳩の糞などで容易に腐蝕し、ぽっかりと空いた穴から雨水が絶え間なく室内に浸水してくる。こうした漏水状態が続くことにより、石膏ボードで仕切られただけの天井がやがて崩落したのである。このとき大量の劣化アスベストが室内に充満していた。通常のコンクリート住宅は60年程度の耐久性があるが、このカプセル住居は20数年で崩壊し始めるような安易な構造体なのであった。しかも配管の問題もあって交換不可能な“代謝しない”設計になっていた。これだけでも人の住居としては不適、いってみれば金属状の物置の方がまだましで、犬小屋なみとでもいえようか。メタボリズムは全くの空理で現実はオモチャのように荒唐無稽、住宅とはほど遠かったのだ。所詮は低レベルな万博という遊園地の余興に過ぎなかった。
スラム化が進行し天井が崩落、アスベストも散乱する中銀カプセルタワービルの一室
こうして漏水禍と闘っていた2004年12月、私は船用の防水FRPで 漏水箇所を内側から塞ぐ計画を立てた。折りしもマンションの管理総会に出席した際、そのことを建築家の木村明彦氏に告げたところ、「アスベストに気を付けてくださいね」といわれたのだ。アスベスト? 耳慣れない言葉だった。調べてみるとアスベストとは極細の鉱物繊維で、太さは、10万分の3ミリ、髪の毛の5千分の1。いったん吸い込むと肺に突き刺さり一生消滅しない。ここが患部となってガンや中皮腫を引き起こし死に至る。吸い込んでから12年以上かかるので「静かな時限爆弾」と呼ばれる恐ろしいものなのだ。高度成長期に国が奨励し、安価な耐火材として大量に使用されていた。今や著しい劣化・飛散が始まり全国で公害化し大変な環境問題となっている。
超有害の吹き付けアスベストが板一枚隔てて壁・天井・床の360度に存在した。
そこで、NPOのアスベストセンターに連絡したところ、すでに酷い状態といわれ入室する際には正規の防塵服と防塵マスクを着用するよう指摘して帰った。それ以来、部屋を自主閉鎖した。後日、管理組合の許可を取り、正式に成分分析と濃度検査を行なったところ、75年に吹き付け禁止されたアモサイトというアスベストが使用されており、清掃時には1リットル中800本という居住不可能という非常な危険値が検出された。ここに至り、カプセルは四方八方からアスベストが汚染する密室殺人装置と化しアメニティ(癒し)建築云々は悪い冗談にしか聞こえなくなった。
これはマンション全体の問題だと思い、アスベスト問題を訴えたが、黒川建設事務所や施工主の大成建設らは対応する素振りすらなかった。高度成長期にアスベストを積極奨励した国土交通省、その他環境庁、千代田区役所環境課など行政にも惨状を訴えたが梨のつぶてであった。黒川はご承知のとおり「環境と建築」「自然との共生」を唱え機械主義的な近代建築に対し、ポストモダンの環境重視の建築思想を著書で論じ、講演してきたオピニオンリーダー的人物で、環境万博といわれた愛地球博のシニアプロデューサーでもあり、森が消失してゆく都市環境に対し警鐘をならし、丹下都庁舎のアスベスト禍にも言及して来た人物ではなかったか。なんという偽善か。
埒があかないのでこの惨状を2005年8月「週刊新潮」に取材してくれるように要請。その記事に対して黒川は一億円の訴訟を起こした。住民の生命よりも自身の建築家としての名誉優先の処置だった。黒川紀章の対応は、「床、壁、天井の内壁をすべてはがして、アスベストを完全露出させた上で独自に汚染調査したB601号室1戸のみ基準値を上まっています。B601号室の森下氏は、自宅を昨年よりジャーナリズムへの公開を実施しており、このことがメディアに紹介されました。また、4月に銀座芸術研究所で「キラーアスベスト―誰のための建築なのだろうか」展を開催しています。」(黒川記章公式ウェブサイト反論 2006.05.30)という私が故意にアスベストを降らせたといったいいがかりに等しい事実無根の信じられないものだった。筆者が抗議したものの、2006年7月のINAX銀座でのレクチャー中も同発言を繰り返した。私自身も東京地裁で証言したが、結果は黒川側の全面敗訴となった。カプセルの「欠陥構造、アスベスト汚染」は本人の全面否認にもかかわらず確定したのである。同建築がユネスコの世界遺産になるといった発言についても、黒川は「私からいったことはないし、そのことを保存要請の理由にはしていない」と否定しているけども中銀の建て替え委員会ではそのように語っている。その後、高裁まで控訴したが、結局、ご本人の死により黒川全面敗訴は確定している。
「住民を激怒させた黒川紀章のアスベスト汚染マンション」
週刊新潮
2005年9月8日号 145P
その後、今度は私が管理組合を相手取り、アスベスト禍の責任をめぐり、「第二次アスベスト裁判」(2013~2015)を東京地裁に起こし、こちらはカプセルを買い取るといった条件で和解・決着している。そのため、このいまわしいカプセルの部屋のわずらわしい所有からはいま解放されている。
私は2006年「キラー・アスベスト 誰のための建築なのだろうか?」、2007年「黒川紀章マンション移築計画」(いずれも銀座芸術研究所)といった個展、「日本アンデパンダン展」(国立新美術館 2008)、「エコ@アジアニズム新潟展」(新潟市新津美術館 2008)、環境アート展「P.E.A.N.」(四谷・CCAAアートプラザ 2009 *森下がプロデュースしたこの展覧会では、インスタレーション、パフォーマンス、レクチャーと水とアスベスト汚染をめぐる環境問題が18 日間にわたり繰り広げられた。リノベーション建築の雄、故・山田幸司のカプセル・リノベーション案はこの時発表された)でのインスタレーションなど計7度、アートとしてこの問題を告発したが、不思議だったのは取材に来たNHK、TBSがなぜかこの問題を放送しなかったのである。実際に解体するとなれば新橋、銀座、虎ノ門までアスベストが飛散する可能性すらあり、現在でも銀座の目抜き通りあたりまで劣化アスベストが飛散している可能性もあるのにだ。また、朝日新聞は結局匿名で掲載したが論点はぼかされていた。メディアによる自主規制が行われたのだ。当時、黒川紀章は現在も改憲思想の中枢にあり大きな力を持つある文化政治結社の幹部であり、この時点で圧力を行使することは容易だったろう。このことで私は現在福一をめぐる報道が大変偏向している状況と同一の流れをいちはやく認識したのだった。私はアートとして問題を発信したのだが、ましてや美術館がアスベストや放射能をめぐる問題を市民の側に立ち真摯に扱うことはないであろう。実際、埼玉県立近代美術館・北浦和公園に設置中の寄贈されたカプセルは野ざらしなので0.8mmボンデ鋼製の極薄鉄板に穴が開けば即座にアスベストが飛散する恐れがあるのではないか? 慎重に対処すべきかと助言しておく。
森下泰輔
「キラー・アスベスト」
インスタレーション
2006
銀座芸術研究所
森下泰輔
「ASBESTOS」
インスタレーション
2009
CCAAアートブラザ・四谷
森下泰輔
「アスベスト・カプセルB601 アスベスト壁アモサイト12%含有」
2005
C-printにアクリル加工(*露出したアスベスト壁)
森下泰輔
「アスベスト・カプセルB601 劣化アスベスト」
2005
C-printにアクリル加工(*床一面に散乱したアスベスト)
森下泰輔
「アスベスト・カプセルB601 濃度測定2005年4月7日 」
2005
C-printにアクリル加工
森下泰輔
「国土交通省は残留アスベスト建築の適切な処置をせよ!」
2007
ターポリンに顔料インク
180×60cm
森下泰輔
「黒川紀章アスベストマンション移築計画」
2006
パネルに紙、アクリル
森下泰輔
「中銀カプセルタワーは、内壁のすべてがアスベストに覆われている。」
2006
2016に一部加筆
紙に顔料インク、インクジェットプリント
山田幸司のリノベーション案。
外観をシミュレーションしながら鉄とガラスの新たな構造体に移し替えている。
2009
このままでは住むどころか劣化して崩落のおそれすらある。2006年にはDOCOMOMO JAPANが日本におけるモダンムーブメント建築に選定したり、また レム・コールハースのような世界的影響力を持つ建築家が大絶賛して関連本を出版したこともあって、このカプセルはここ数年、黒川に心酔する保存派の購入が増加し、建て替えに異をとなえ、届け出なしにカプセルを勝手にリフォームしており、一部は販売したり違法簡易宿泊業務に供したりしている。昨年暮れには「銀座の白い箱舟」といった写真集までネット・ファウンドを介して出版している。「中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト」は保存を強く主張しているが、現地での保存は、ここでは枚挙にいとまはないが諸事情あって困難だと思われるため、私はすでに2006年、アスベストを無害化したうえでカプセルの思想が注目された大阪千里・万博広場、太陽の塔横に移築して、子供の美術および情操教育の場としたらどうかという移築計画を提案している。なんと訴訟中、敵なのに「キミ、よろしく頼むよ」と黒川紀章ご本人から遺言のように頼まれていたほどである。本当は黒川紀章の政治家ではなく芸術家の部分がシンパシーを感じていたのかもしれない。
当該建築、まぎれもない負の要素の塊であるにもかかわらずここ最近はファッション系の雑誌が同地でモデルやアイドルの撮影をしたり、明るくファンタジックに紹介したりしているのが目につく。外観と内装をカッコよくつくろえばハッピーになれるのか? それでは抜本的問題は何も解決しないのだが、そう、福一のリアルな現実を忘却して何事もなかったかのようにオリンピックゲームへと向かう日本国の空気そのものと相似形なのだ。
さて、およそ10か月にわたり「戦後・現代美術事件簿」を連載させていただいたが、基本的にわいせつ罪をめぐる攻防が中心になってきたように思う。もっと政治的な側面、公立美術館の問題、独立行政法人の問題などに立ち入ることもできた。こうした面に関してもまた別の機会に言及してみたく思う。だが、いっけん無関係に見える性の問題と政治的問題は実は大いに通底しているのだ。いま「表現の自由」が危機にさらされているとき、さらなる規制・検閲・抑圧が美術をめぐる環境に降りかかってくることは想像にかたくない。今後ともこの問題を真摯にみつめ分析を続けていく所存である。(敬称略)
(もりした たいすけ)
●森下泰輔「戦後・現代美術事件簿」
第1回/犯罪者同盟からはじまった
第2回/模型千円札事件
第3回/泡沫芸術家の選挙戦
第4回/小山哲男、ちだ・ういの暴走
第5回/草間彌生・築地署連行事件
第6回/記憶の中の天皇制
第7回/ヘアヌード解禁前夜「Yellows」と「サンタ・フェ」
第8回/アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子
第9回/性におおらかだったはずの国のろくでなし子
第10回/黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。本年2月、「林先生が驚く初耳学」(TBS系列)でゲストコメンテーターとして出演した 。
●今日のお勧め作品は、靉嘔です。
靉嘔
「move by rainbow an animale!」#13
1963年
ミクスドメディア
47.2×47.9×17.2cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
◆森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。
黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築
熊本地震の被災者の皆様に哀悼の意を表します。まだ余震が続いていることもあり、なんとか不便な避難生活を忍耐をもって乗り切れることをお祈りしております。
今回、薩摩川内市においても震度4の揺れがあったのにもかかわらず、川内原発停止せず。それどころかNHKは会長指示により鹿児島の震度を意図的に隠ぺいしていたふしすらある。「原発における不安感を助長しないように」というのがその理由だ。
現在わが国は、立憲主義というものをめぐり大変な岐路に立っているといえよう。本来、憲法は権力を抑止し、国民を権力の暴走から守るためのものだが、ここでは国が国民の主権を制限するために憲法があるようだ。まず国体と社会があって個人があるという考え方は、現在の近代民主主義とは逆転している。個があり社会があり国があるのだ。
もともと芸術や美術とは何かと考えた場合、この民主主義の個の尊厳、個人の権利の重要性上に成立している。すくなくとも社会主義リアリズムやナチ・リアリズム、日本の戦争協力画を除いては。ナチはこの個的な表現を「退廃芸術」と呼んで排除したが、美術史自体がその退廃芸術と呼ばれたものの勝利であったことは疑う余地はなかろう。つまり美術とは「個人の尊重」と「表現の自由の保障」上にあって、ピカソ「ゲルニカ」を見るまでもなく、平和主義、反戦をその核に有する。その意味で、1947年に施行されたいわゆる日本の「平和憲法」とは世界に先駆けた「芸術憲法」ともいえるものなのである。
この立憲主義が国家主義的なトーンに変化したのはいつごろからなのか?
1999年に国歌国旗法が成立した。このときはジョン・レノン「イマジンを国歌に」などといった極端な意見もあったが、少なくとも「イマジン」は平和主義的ではある。だが、ここで戦前の国体を思わす国歌国旗法が成立したことが、現在の全体主義復活傾向に拍車をかけたことは間違いないのではないか?
さて、3.11以降、とりわけ福島第一原発の事故をめぐり、国家主導の流れが大きく表面化してきた。本来ならばいまだ原因も状態もわからず、相変わらず放射線を放出し続けているこの3基の原子炉に関し、世論は脱原発をもっと唱えてもよさそうなものだったが、現実はそうなってはいない。ここでも国と企業の思惑が個人の主張を制限している。
アートはこの動向に関しささやかな抵抗をしめしてきた。日本美術会主催の「日本アンデパンダン展」など一部を除いては、原発事故に言及するアート表現は検閲・規制・自粛されてきたが、公然の秘密だが竹内公太とされ一応は作者不詳「指差し作業員」(2011)やChim↑Pomが渋谷駅構内に設置された岡本太郎「明日の神話」第五福竜丸被爆事件の下に原発事故を加えた行為(2011)などにそれは見ることができる。Chim↑Pomのメンバー3人は軽犯罪法違反容疑で書類送検されてもいる。(*結果は不起訴)
作者不詳「指差し作業員」
2011
映像
岡本太郎「明日の神話」壁画、第五福竜丸の直下に付加されたChim↑Pom「福島第一原発事故」作品。
仮設展示
2011
こうした権力主導の問題がアート的なところで生じた件に関し、相似形の現象がいちはやく筆者の身辺に生じたのは2004年だった。筆者がスタジオとして使用していた中銀カプセルタワーB601号室でアスベスト問題が露見したのである。そのため筆者は世界的建築家の黒川紀章と対立することになった。
黒川紀章、日本芸術院会員、文化功労者、日本建築学会終身会員、ブルガリア建築家協会名誉会員、英国王立建築家協会名誉会員、その他数々の栄誉に輝き2007年10月12日逝去した世界的建築家である。60年代に黒川紀章が赤坂に「スペースカプセル」を作ったときには、寺山修司らの先端的人々が集い前衛芸術の拠点のようにもなって私も常連のひとりだった。
黒川紀章設計「スペースカプセル」
1968
「中銀カプセルタワービル」は、国際的建築家として名をはせた故黒川紀章の代表作である。50年代末に提唱され、60年代を通じて世界的に評価されたメタボリズム(建築や都市を生命体のように部分的な更新が持続するものとして捉える建築思想)の代表作のひとつともいわれてきた。メタボリズムは当初建築家、菊竹清訓によって提案された建築概念で、スクラップ&ビルドのあり方を根本的に疑い、建築を代謝可能なものとして見直すという運動であった。今日の建築界が直面しているサスティナブルと共通する考え方である。ただし、豪農の子息であった菊竹がこの考え方に至った事情は少し特殊である。GHQによる農地改革で、小作人に農地を解放したため、菊竹の実家は凋落していった。その思いと独自の神道的意味論が結合し仮想土地を何もない空間に作り代謝させるという発想につながり、メタボリズムの契機となっているように思える。その思想はあの”人類の進歩と調和”70年万博をもってひとつのピークを成したといえよう。
70年万博は当時、菊竹を始め丹下健三、磯崎新ら、わが国の戦後建築の背骨を成すこととなる思想的建築家がこぞって参加し、黒川紀章もユニットによる東芝IHI館、タカラ館の設計を担当するとともにお祭り広場の鉄骨構造の大屋根(丹下設計)から太陽の塔横に吊り下げるようにしてカプセル構造の住居を考案した。これがカプセルを取り替えることで持続可能な有機的な建築として評判を得、「中銀カプセルタワービル」は、カプセルホテル同様に万博の実験建築を初めて銀座の巷に根付かせるという意味で計画され1972年に竣工した建築だ。黒川は茶道に通じていたため、わずか3坪のカプセルを現代の茶室として考えた側面もある。だが、自然との融和を理想とした茶道と異なりこの黒川カプセルは、後に述べるようにアスベストにまみれており、高度成長期の負の遺産と心中しているような、結果的に「毒ワビ」「毒サビ」を体現した茶室の対極にある建造物なのだった。
丹下健三の大屋根から吊られた黒川紀章のカプセル住宅。1970
大阪万博
私がこの建築の一室を所有することになったのは1992年のことだ。ところが、実際に居住してみると驚くことばかりが起こった。黒川の理想と現実の建築物に天と地ほどの乖離がある。鉄骨に0.8ミリという極薄の鉄板が巻いてあるだけの直方体状の構造体を2本のボルトで固定してあるというだけのしろもので、極薄の鉄板は雨水や鳩の糞などで容易に腐蝕し、ぽっかりと空いた穴から雨水が絶え間なく室内に浸水してくる。こうした漏水状態が続くことにより、石膏ボードで仕切られただけの天井がやがて崩落したのである。このとき大量の劣化アスベストが室内に充満していた。通常のコンクリート住宅は60年程度の耐久性があるが、このカプセル住居は20数年で崩壊し始めるような安易な構造体なのであった。しかも配管の問題もあって交換不可能な“代謝しない”設計になっていた。これだけでも人の住居としては不適、いってみれば金属状の物置の方がまだましで、犬小屋なみとでもいえようか。メタボリズムは全くの空理で現実はオモチャのように荒唐無稽、住宅とはほど遠かったのだ。所詮は低レベルな万博という遊園地の余興に過ぎなかった。
スラム化が進行し天井が崩落、アスベストも散乱する中銀カプセルタワービルの一室こうして漏水禍と闘っていた2004年12月、私は船用の防水FRPで 漏水箇所を内側から塞ぐ計画を立てた。折りしもマンションの管理総会に出席した際、そのことを建築家の木村明彦氏に告げたところ、「アスベストに気を付けてくださいね」といわれたのだ。アスベスト? 耳慣れない言葉だった。調べてみるとアスベストとは極細の鉱物繊維で、太さは、10万分の3ミリ、髪の毛の5千分の1。いったん吸い込むと肺に突き刺さり一生消滅しない。ここが患部となってガンや中皮腫を引き起こし死に至る。吸い込んでから12年以上かかるので「静かな時限爆弾」と呼ばれる恐ろしいものなのだ。高度成長期に国が奨励し、安価な耐火材として大量に使用されていた。今や著しい劣化・飛散が始まり全国で公害化し大変な環境問題となっている。
超有害の吹き付けアスベストが板一枚隔てて壁・天井・床の360度に存在した。
そこで、NPOのアスベストセンターに連絡したところ、すでに酷い状態といわれ入室する際には正規の防塵服と防塵マスクを着用するよう指摘して帰った。それ以来、部屋を自主閉鎖した。後日、管理組合の許可を取り、正式に成分分析と濃度検査を行なったところ、75年に吹き付け禁止されたアモサイトというアスベストが使用されており、清掃時には1リットル中800本という居住不可能という非常な危険値が検出された。ここに至り、カプセルは四方八方からアスベストが汚染する密室殺人装置と化しアメニティ(癒し)建築云々は悪い冗談にしか聞こえなくなった。
これはマンション全体の問題だと思い、アスベスト問題を訴えたが、黒川建設事務所や施工主の大成建設らは対応する素振りすらなかった。高度成長期にアスベストを積極奨励した国土交通省、その他環境庁、千代田区役所環境課など行政にも惨状を訴えたが梨のつぶてであった。黒川はご承知のとおり「環境と建築」「自然との共生」を唱え機械主義的な近代建築に対し、ポストモダンの環境重視の建築思想を著書で論じ、講演してきたオピニオンリーダー的人物で、環境万博といわれた愛地球博のシニアプロデューサーでもあり、森が消失してゆく都市環境に対し警鐘をならし、丹下都庁舎のアスベスト禍にも言及して来た人物ではなかったか。なんという偽善か。
埒があかないのでこの惨状を2005年8月「週刊新潮」に取材してくれるように要請。その記事に対して黒川は一億円の訴訟を起こした。住民の生命よりも自身の建築家としての名誉優先の処置だった。黒川紀章の対応は、「床、壁、天井の内壁をすべてはがして、アスベストを完全露出させた上で独自に汚染調査したB601号室1戸のみ基準値を上まっています。B601号室の森下氏は、自宅を昨年よりジャーナリズムへの公開を実施しており、このことがメディアに紹介されました。また、4月に銀座芸術研究所で「キラーアスベスト―誰のための建築なのだろうか」展を開催しています。」(黒川記章公式ウェブサイト反論 2006.05.30)という私が故意にアスベストを降らせたといったいいがかりに等しい事実無根の信じられないものだった。筆者が抗議したものの、2006年7月のINAX銀座でのレクチャー中も同発言を繰り返した。私自身も東京地裁で証言したが、結果は黒川側の全面敗訴となった。カプセルの「欠陥構造、アスベスト汚染」は本人の全面否認にもかかわらず確定したのである。同建築がユネスコの世界遺産になるといった発言についても、黒川は「私からいったことはないし、そのことを保存要請の理由にはしていない」と否定しているけども中銀の建て替え委員会ではそのように語っている。その後、高裁まで控訴したが、結局、ご本人の死により黒川全面敗訴は確定している。
「住民を激怒させた黒川紀章のアスベスト汚染マンション」週刊新潮
2005年9月8日号 145P
その後、今度は私が管理組合を相手取り、アスベスト禍の責任をめぐり、「第二次アスベスト裁判」(2013~2015)を東京地裁に起こし、こちらはカプセルを買い取るといった条件で和解・決着している。そのため、このいまわしいカプセルの部屋のわずらわしい所有からはいま解放されている。
私は2006年「キラー・アスベスト 誰のための建築なのだろうか?」、2007年「黒川紀章マンション移築計画」(いずれも銀座芸術研究所)といった個展、「日本アンデパンダン展」(国立新美術館 2008)、「エコ@アジアニズム新潟展」(新潟市新津美術館 2008)、環境アート展「P.E.A.N.」(四谷・CCAAアートプラザ 2009 *森下がプロデュースしたこの展覧会では、インスタレーション、パフォーマンス、レクチャーと水とアスベスト汚染をめぐる環境問題が18 日間にわたり繰り広げられた。リノベーション建築の雄、故・山田幸司のカプセル・リノベーション案はこの時発表された)でのインスタレーションなど計7度、アートとしてこの問題を告発したが、不思議だったのは取材に来たNHK、TBSがなぜかこの問題を放送しなかったのである。実際に解体するとなれば新橋、銀座、虎ノ門までアスベストが飛散する可能性すらあり、現在でも銀座の目抜き通りあたりまで劣化アスベストが飛散している可能性もあるのにだ。また、朝日新聞は結局匿名で掲載したが論点はぼかされていた。メディアによる自主規制が行われたのだ。当時、黒川紀章は現在も改憲思想の中枢にあり大きな力を持つある文化政治結社の幹部であり、この時点で圧力を行使することは容易だったろう。このことで私は現在福一をめぐる報道が大変偏向している状況と同一の流れをいちはやく認識したのだった。私はアートとして問題を発信したのだが、ましてや美術館がアスベストや放射能をめぐる問題を市民の側に立ち真摯に扱うことはないであろう。実際、埼玉県立近代美術館・北浦和公園に設置中の寄贈されたカプセルは野ざらしなので0.8mmボンデ鋼製の極薄鉄板に穴が開けば即座にアスベストが飛散する恐れがあるのではないか? 慎重に対処すべきかと助言しておく。
森下泰輔「キラー・アスベスト」
インスタレーション
2006
銀座芸術研究所
森下泰輔「ASBESTOS」
インスタレーション
2009
CCAAアートブラザ・四谷
森下泰輔「アスベスト・カプセルB601 アスベスト壁アモサイト12%含有」
2005
C-printにアクリル加工(*露出したアスベスト壁)
森下泰輔「アスベスト・カプセルB601 劣化アスベスト」
2005
C-printにアクリル加工(*床一面に散乱したアスベスト)
森下泰輔「アスベスト・カプセルB601 濃度測定2005年4月7日 」
2005
C-printにアクリル加工
森下泰輔「国土交通省は残留アスベスト建築の適切な処置をせよ!」
2007
ターポリンに顔料インク
180×60cm
森下泰輔「黒川紀章アスベストマンション移築計画」
2006
パネルに紙、アクリル
森下泰輔「中銀カプセルタワーは、内壁のすべてがアスベストに覆われている。」
2006
2016に一部加筆
紙に顔料インク、インクジェットプリント
山田幸司のリノベーション案。外観をシミュレーションしながら鉄とガラスの新たな構造体に移し替えている。
2009
このままでは住むどころか劣化して崩落のおそれすらある。2006年にはDOCOMOMO JAPANが日本におけるモダンムーブメント建築に選定したり、また レム・コールハースのような世界的影響力を持つ建築家が大絶賛して関連本を出版したこともあって、このカプセルはここ数年、黒川に心酔する保存派の購入が増加し、建て替えに異をとなえ、届け出なしにカプセルを勝手にリフォームしており、一部は販売したり違法簡易宿泊業務に供したりしている。昨年暮れには「銀座の白い箱舟」といった写真集までネット・ファウンドを介して出版している。「中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト」は保存を強く主張しているが、現地での保存は、ここでは枚挙にいとまはないが諸事情あって困難だと思われるため、私はすでに2006年、アスベストを無害化したうえでカプセルの思想が注目された大阪千里・万博広場、太陽の塔横に移築して、子供の美術および情操教育の場としたらどうかという移築計画を提案している。なんと訴訟中、敵なのに「キミ、よろしく頼むよ」と黒川紀章ご本人から遺言のように頼まれていたほどである。本当は黒川紀章の政治家ではなく芸術家の部分がシンパシーを感じていたのかもしれない。
当該建築、まぎれもない負の要素の塊であるにもかかわらずここ最近はファッション系の雑誌が同地でモデルやアイドルの撮影をしたり、明るくファンタジックに紹介したりしているのが目につく。外観と内装をカッコよくつくろえばハッピーになれるのか? それでは抜本的問題は何も解決しないのだが、そう、福一のリアルな現実を忘却して何事もなかったかのようにオリンピックゲームへと向かう日本国の空気そのものと相似形なのだ。
さて、およそ10か月にわたり「戦後・現代美術事件簿」を連載させていただいたが、基本的にわいせつ罪をめぐる攻防が中心になってきたように思う。もっと政治的な側面、公立美術館の問題、独立行政法人の問題などに立ち入ることもできた。こうした面に関してもまた別の機会に言及してみたく思う。だが、いっけん無関係に見える性の問題と政治的問題は実は大いに通底しているのだ。いま「表現の自由」が危機にさらされているとき、さらなる規制・検閲・抑圧が美術をめぐる環境に降りかかってくることは想像にかたくない。今後ともこの問題を真摯にみつめ分析を続けていく所存である。(敬称略)
(もりした たいすけ)
●森下泰輔「戦後・現代美術事件簿」
第1回/犯罪者同盟からはじまった
第2回/模型千円札事件
第3回/泡沫芸術家の選挙戦
第4回/小山哲男、ちだ・ういの暴走
第5回/草間彌生・築地署連行事件
第6回/記憶の中の天皇制
第7回/ヘアヌード解禁前夜「Yellows」と「サンタ・フェ」
第8回/アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子
第9回/性におおらかだったはずの国のろくでなし子
第10回/黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。本年2月、「林先生が驚く初耳学」(TBS系列)でゲストコメンテーターとして出演した 。
●今日のお勧め作品は、靉嘔です。
靉嘔「move by rainbow an animale!」#13
1963年
ミクスドメディア
47.2×47.9×17.2cm
サインあり
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◆森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。
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