展覧会直前連載:「和紙に挑む」(全4話)
第3話 描かれる必然性
光嶋裕介(建築家)
建築家としてドローイングを描き続けることには、大きな意味がある。しかし、それが私自身、何であるかをはっきりとわかっている訳ではない。絵を描くひとのほとんどがそうであるように、ある対象を描き写すスケッチやモデルを前にして描くデッサンと違い、ドローイングを描くという創作行為の面白さは、描いている当の本人にも、その全体像が見えていないという面白さである。
これは、何も不思議なことではない。人間の多くの行為は、ある目的をもってその因果関係の結果として「意味」が立ち上がるのであって、行為そのものに先行して「意味」がある訳ではない。まだ何も描かれていない和紙を前にして、私の感覚は大きく刺激される。「描きたい」という欲求らしきものが発生し、この場所に、この線を引かねばならない必然性が描きながら発見されていく。
あらかじめ完成予想図が頭のなかにあって、それをそっくりそのまま紙の上に表出するだけでは決してない。少なくとも、私の場合はそうではない。空間について、あるいは建築について、都市について、自分の身体感覚と対話しながら紙に向かってペンを走らせる。したがって、下書きもしない。独特な緊張感のなか、ゆっくり、たしかな線を引く。次に引く線は、その前に描いた線に反応しながら、少しずつ画面のなかで関係性をつくりながら、ぼんやりと全体像らしきものが立ち上がってくるのである。この形のないものに、形を与える「無定形の定形」作業においてこそ、私がドローイングを描き続ける喜びがある。


何が立ち上がるのかは、描きながらみつけられるため、自分自身の身体感覚が研ぎ澄まされていないと、ペンはなめらかに走ってくれない。しかし、ひとたび造形が立ち現れ、画面のなかにうっすらとイメージしていた幻想的な都市風景が立ち上がることで、私の建築家としての美意識らしきものが反応し、どこか「雑多なものが同居」する強度のようなものを画面のなかで表現できないだろうかと、考えている。
この描きながら考えて、身体的シグナルを感じながら描く行為には、高い集中力が求められる。アスリートが試合中に入るとされる「ゾーン」のようなものに入ることができれば、無意識との接続も可能になり、描かれたばかりの線に、また新しい線がドンドン重ねられていく。そうして描き進めることで、時折自分でも予期せぬ線が現れる。それは、まさに意味や必然性といったことが、事後的にしか実感されない、なによりの証拠といえる。ここに、描き続ける源泉がある。深く呼吸し、高い集中力のなかで、和紙に向き合って線を描くことで、今まで知らなかった自分と出会うのだ。自分を内側から拡張していると言い換えてもよい。
繰り返しになるが、それは前もって頭の片隅に存在したなにものかを描き出しているのではなく、描きながら発見していく創造的な営み。このエキサイティングな作業は、建築家として建築を設計することとはダイレクトに関係していなくとも、根底の部分においては、同じ水脈に触れている。集団的創造力の産物である建築に対して、ドローイングはすべてが個人的判断でコントロール可能な行為であり、そのバランスこそが建築家としての奥行きある相乗効果を生み出す、と私は信じている。
(こうしま ゆうすけ)
◆ときの忘れものは、9月20日(火)~10月8日(土)「光嶋裕介新作展~和紙に挑む~幻想都市風景」を開催します。
9月30日(金)19時より、松家仁之さん(小説家、編集者)を迎えてギャラリートークを開催します(*要予約、参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
E-mail: info@tokinowasuremono.com

◆光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は毎月30日の更新です。
第3話 描かれる必然性
光嶋裕介(建築家)
建築家としてドローイングを描き続けることには、大きな意味がある。しかし、それが私自身、何であるかをはっきりとわかっている訳ではない。絵を描くひとのほとんどがそうであるように、ある対象を描き写すスケッチやモデルを前にして描くデッサンと違い、ドローイングを描くという創作行為の面白さは、描いている当の本人にも、その全体像が見えていないという面白さである。
これは、何も不思議なことではない。人間の多くの行為は、ある目的をもってその因果関係の結果として「意味」が立ち上がるのであって、行為そのものに先行して「意味」がある訳ではない。まだ何も描かれていない和紙を前にして、私の感覚は大きく刺激される。「描きたい」という欲求らしきものが発生し、この場所に、この線を引かねばならない必然性が描きながら発見されていく。
あらかじめ完成予想図が頭のなかにあって、それをそっくりそのまま紙の上に表出するだけでは決してない。少なくとも、私の場合はそうではない。空間について、あるいは建築について、都市について、自分の身体感覚と対話しながら紙に向かってペンを走らせる。したがって、下書きもしない。独特な緊張感のなか、ゆっくり、たしかな線を引く。次に引く線は、その前に描いた線に反応しながら、少しずつ画面のなかで関係性をつくりながら、ぼんやりと全体像らしきものが立ち上がってくるのである。この形のないものに、形を与える「無定形の定形」作業においてこそ、私がドローイングを描き続ける喜びがある。


何が立ち上がるのかは、描きながらみつけられるため、自分自身の身体感覚が研ぎ澄まされていないと、ペンはなめらかに走ってくれない。しかし、ひとたび造形が立ち現れ、画面のなかにうっすらとイメージしていた幻想的な都市風景が立ち上がることで、私の建築家としての美意識らしきものが反応し、どこか「雑多なものが同居」する強度のようなものを画面のなかで表現できないだろうかと、考えている。
この描きながら考えて、身体的シグナルを感じながら描く行為には、高い集中力が求められる。アスリートが試合中に入るとされる「ゾーン」のようなものに入ることができれば、無意識との接続も可能になり、描かれたばかりの線に、また新しい線がドンドン重ねられていく。そうして描き進めることで、時折自分でも予期せぬ線が現れる。それは、まさに意味や必然性といったことが、事後的にしか実感されない、なによりの証拠といえる。ここに、描き続ける源泉がある。深く呼吸し、高い集中力のなかで、和紙に向き合って線を描くことで、今まで知らなかった自分と出会うのだ。自分を内側から拡張していると言い換えてもよい。
繰り返しになるが、それは前もって頭の片隅に存在したなにものかを描き出しているのではなく、描きながら発見していく創造的な営み。このエキサイティングな作業は、建築家として建築を設計することとはダイレクトに関係していなくとも、根底の部分においては、同じ水脈に触れている。集団的創造力の産物である建築に対して、ドローイングはすべてが個人的判断でコントロール可能な行為であり、そのバランスこそが建築家としての奥行きある相乗効果を生み出す、と私は信じている。
(こうしま ゆうすけ)
◆ときの忘れものは、9月20日(火)~10月8日(土)「光嶋裕介新作展~和紙に挑む~幻想都市風景」を開催します。
9月30日(金)19時より、松家仁之さん(小説家、編集者)を迎えてギャラリートークを開催します(*要予約、参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
E-mail: info@tokinowasuremono.com

◆光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は毎月30日の更新です。
コメント