「戦後の前衛美術‘50~‘70 Part Ⅲ S氏&Y氏コレクション(入札)」が始まりました。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏旧蔵の作品と、今春亡くなられたY氏旧蔵の作品群を出品しています。







全59点をブログで順次ご紹介しています。
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ロットNo.31 たべけんぞう+ヨシダ・ヨシエ
BOMBA MESKALINA(オブジェ)
1975年
ミクストメディア
ケースサイズ:46.0×21.9cm
Ed.210
サインあり
たべ・けんぞうとヨシダ・ヨシエの合作です。限定210とありますが、アクリルケースの中に種々おさめられたオブジェ類が散逸してしまったものも多く、完全な姿のものは希少です。
■たべ・けんぞう Kenzo TABE(1939-)
山口県生まれ。造形作家。幼いころを広島ですごす。核をテーマとする一連の作品・イベントにより、世界の終りまでを徹底して表現し、また鉄屑・廃材を素材とするオブジェ、キネティック・アートを制作して現在に至る。
廃墟の灰の中から人類の埋もれた夢のかけらを拾い集めるようにして、鉄屑や壊れた機械のパーツを次から次へと繋ぎ合わせてゆくと、不思議なことに何ともあたたかい生命の息吹が胸の奥底に流れこんできた。ゆったりとした動き、かすかな音色、星くずのように散りばめられた光の海。この世で使命を終えたものたちが新しい世界を創造しようとする、それを手伝うのが私の仕事だ(作家自身のHPより)。
1969年第9回現代日本美術展に出品(20回も、21回・23回で佳作賞、22回で準大賞受賞)。1993年天理ビエンナーレ彫刻の部で部門賞(94・95年も)、ひろしまナイト美術大賞展で優秀賞(94・95年も同賞受賞)。URBANART#2優秀作家展で中原佑介賞(94年で佳作賞)、環境彫刻&ユーモアアート展で奨励賞(94年で優秀賞)、第32回北陸中日美術展で佳作賞。1994年 アジアひろしま芸術大賞展で大衆賞・佳作賞、被爆50周年特別企画展(広島市現代美術館)。1995年第5回東京野外現代彫刻展、第16回現代日本彫刻展(18回で兵庫県立近代美術館賞・市民賞)。1996年国際丹南アートフェスティバルで大賞。
■ヨシダ・ヨシエ Yoshie YOSHIDA(1929-2016)
東京生まれ。美術批評家、詩人。終戦後、鎌倉に住まう文学者や芸術家との交流を通じて美術に関心を持つようになり、その間に知り合った丸木位里、赤松俊子夫妻の《原爆の図》を抱え、1950年から1955年にかけて全国各地で同作の展覧会と講演を行った。詳細な調査をふまえて書かれた靉光論(1959年)や、最初の瀧口修造論の一つである「瀧口修造覚え書き」(1961年)が高く評価され、批評家として本格的に活動を始める。1960年代には、ハイレッド・センターらパフォーマンスの活動を積極的に紹介した。
著書:『異端の画家たち』(1965年、造形社、1983年、求龍堂・共著)、『流氓の解放区』(1977年、現代創美社)、『エロスと創造のあいだ』(1986 年、展転社)、『エロスと博物誌』(1987年、北宋社・共著)、『スネーク・ドリーム』(1989年、北宋社・共著樹芸書房)、『手探る・宇宙・美術家たち』(1989年、樹芸書房)、その他、詩画集など多数。
「アヴァンギャルドな青年、ヒッピーな中年、パンクな老人」(小沢節子さんの弔辞より)だったヨシダ先生が遺された貴重な書籍文献類はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(以下UCLA)の「ヨシダ・ヨシエ文庫」設立のために海を渡りました。詳しくは2016年10月4日ブログ<三上豊編・著『ヨシダ・ヨシエへの手がかり』>をお読みください。
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ロットNo.32 利根山光人
(作品名不詳)
1954年
リトグラフ(焼けあり)
24.5×23.0cm
サインあり
■利根山光人 Kojin TONEYAMA(1921-1994)
茨城県生まれ。早稲田大学を卒業し、召集・入隊を経て終戦を迎える。戦後、ストラヴィンスキーの音楽に触発された前衛絵画を油彩で制作する一方で、母校から払い下げられたリトグラフの印刷機をつかってリトグラフ(石版画)の制作を開始する。戦後の現代版画隆盛の立役者の一人である。1950年代末にメキシコを訪れ見たマヤ文明に衝撃を受け、その古代文明をモチーフとした制作を開始。それ以後も度々メキシコを訪れ、生涯に亘って古代文明からの示唆を現代社会や現代人への問いかけとして描き続ける。メキシコを題材とした情熱的な作品を数多く残し、太陽の画家と呼ばれた。
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ロットNo.33 土橋醇
コンポジション
1957年
グワッシュ
35.4×20.0cm
サインあり
■土橋醇 Jun DOBASHI(1910-1978)
東京生まれ。1938年東京美術学校油画科卒業後渡仏、アカデミー・ランソンに学んだ。1940年帰国しベトナム、カンボジア、ラオスへ外務省から派遣される。その後光風会展に出品、戦後1946年会員となり、1952年光風特賞を受賞したが、翌年再度渡仏し1973年に帰国するまでの20年間パリで制作を続け、主にサロン・ドートンヌ、サロン・ド・メ展に作品を発表した。 作品は東京国立近代美術館、パリ国立近代美術館等に収蔵されている。著書『南方の古代文化と芸術』、随筆集に『南へ還る』がある。
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ロットNo.34 豊島弘尚
状況死頭部・このユートピア
1965年
油彩
32.0×32.0cm
サインあり
■豊島弘尚 Hironao TOYOSHIMA (1933-2013)
青森県生まれ。画家・版画家。1957年東京藝術大学美術学部油絵科(林武教室)卒業・安宅賞受賞。1974年文化庁在外芸術家派遣に選ばれNY・パリ・ストックホルムに滞在。1987年ノルウェイのボグネスで大オーロラに遭遇、以降オーロラ絵画の連作を制作する。1998年大館「塚ノ下」土偶に触発された大作《空に播く種子(父の星冠)》が東郷青児美術館大賞を受賞、同館で受賞特別展を開催。2002年八戸市美術館、2006年池田20世紀美術館で個展開催する。2014~15年青森県立美術館「追悼・豊島弘尚 彼方からの凝視」展では八戸を故郷とする豊島の初期から晩年にいたる代表的な作品33点が展示され、北方の風景や極光 (オーロラ) に着想を得、青森や縄文の風土と深い関わりをもちながら制作を行った画家の軌跡がたどられた。
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ロットNo.36 古沢岩美
裸婦
1980年 水彩
32.0×50.5cm
サインあり
■古沢岩美 Iwami FURUSAWA(1912-2000)
佐賀県生まれ。久留米商業学校を中退し、朝鮮大邸に渡り、叔父の経営する練炭店で働きながら絵を描く。
1928年上京し岡田三郎助宅に寄食、光風会展、春台美術展に出品した。1934年岡田宅を出て、東京豊島区長崎町にあった「長崎アトリエ村」に移り、ここで画家たちとの交友をひろげるとともに、前衛美術を志向するようになった。1938年第8回独立美術展に、シュルレアリスムに学んだ「蒼暮」他を出品、一躍注目を浴びる。寺田政明、小牧源太郎、北脇昇、糸園和三郎、吉井忠らと創紀美術協会を創立。翌年には美術文化協会結成に参加した。同年、東京朝日新聞創立50周年記念に挿画コンクールに当選、懸賞小説「桜の園」の挿絵が人気を呼んだ。1943年応召、中国大陸に送られる。終戦後、1年間捕虜生活を送り、46年復員。翌47年日本アヴァンギャルド美術家クラブに参加。第1回モダン・アートクラブ展、第1回アンデパンダン展、第1回日本国際美術展、第2回現代日本美術展などに出品したシュールレアリスティックな画風と幻想的なエロスの表現は戦時中の体験と、戦後社会の混乱を告発する作品として注目された。75年山梨県上九一色村に古沢岩美美術館開館。1982年板橋区立美術館で回顧展が開催された。
著書:「月と黒子」「絵の放浪」など多数。
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ロットNo.37 三浦久美子+ヨシダ・ヨシエ
燐火と蛇
1994年
手書き文字にコラージュ(マッチなど)
29.0×39.0cm
サインありシール添付
ヨシダ・ヨシエの著書『修辞と飛翔』(1993年 北宋社)のブックデザインを担当した三浦久美子とヨシダの合作。
■三浦久美子 Kumiko MIURA
武蔵野美術大学短期大学デザイン科卒業。小学館、サンリオ、マガジンハウスなどでエディトリアルデザインを担当。1993年三浦久美子デザイン室を設立。
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ロットNo.38 水谷勇夫
十界 反魂季
1982年 水彩
42.0×29.5cm
サインあり
■水谷勇夫 Isao MIZUTANI(1922-2005)
愛知県名古屋市に生まれる。1942年より中国戦線を体験、このときの人間存在への熟考が後の制作の源となる。1950年代は新制作協会、美術文化協会、匹亞会を出入りし、58年に初個展、59年からは読売アンデペンダン展で発表。瀧口修造により1964年の国立近代美術館「超現実主義の展開」展に推薦されるほか、針生企画の「これが日本画だ」展には第2回まで出品した。針生が議長で1977年結成した日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議(JAALA)では副議長となり、JAALA主催の「第三世界とわれわれ展」に度々出品。1981年から从会に参加。和紙と顔料を使って人間の生々しい欲望や存在の不条理を暴き、自作を日本画ではなく膠絵と称して、前衛の立場を一貫させた。「なごや絵学校」の設立や、陶芸によるインスタレーション、書、パフォーマンス、舞台美術など多才に活動し、名古屋市芸術特賞を受賞。
(宮城県美術館『わが愛憎の画家たちー針生一郎と戦後美術』展図録より)
◆「戦後の前衛美術‘50-70 Part III S氏 & Y氏コレクション(入札)」
会期:2016年12月3日[土]―12月10日[土] *日曜、月曜、祝日休廊
入札締切り:12月10日[土] 17時必着

1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏と、同じく50年代から丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を携えて全国を巡回した反骨の評論家Y氏の旧蔵作品を入札方式で頒布します。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950~70年代の前衛の時代を駆け抜けた作家たちの希少なコレクションです。
*下記の画像はクリックすると拡大しますが容量の関係で鮮明ではありません。より鮮明な作品画像は下記のURLにてご覧ください(クリックすると拡大します)。
http://www.tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk1612/284/284_list.jpg

●本日の瑛九情報!
~~~
写真は光線の言葉だといわれます。私たちは毎日のようにグラフや映画に接して、この光線の世界語を読むのに慣れています。ところで、このすばらしい光の話し言葉で私たちの夢や詩を表現できないわけはないし、できれば実にすばらしいことなのです。
レンズのない写真はすでにモホリ・ナギーやマン・レイなどによつてフォート・グラムやレオグラフイとして開拓されていますが、瑛九氏はフォート・デッサンとしてこの方法をさらに自由に駆使して独自の世界を展開しています。
(瀧口修造【瑛九のフォート・デッサン】日本橋・高島屋 1955年1月「瑛九 フォート・デッサン展目録」より)~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏旧蔵の作品と、今春亡くなられたY氏旧蔵の作品群を出品しています。







全59点をブログで順次ご紹介しています。
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ロットNo.31 たべけんぞう+ヨシダ・ヨシエBOMBA MESKALINA(オブジェ)
1975年
ミクストメディア
ケースサイズ:46.0×21.9cm
Ed.210
サインあり
たべ・けんぞうとヨシダ・ヨシエの合作です。限定210とありますが、アクリルケースの中に種々おさめられたオブジェ類が散逸してしまったものも多く、完全な姿のものは希少です。
■たべ・けんぞう Kenzo TABE(1939-)
山口県生まれ。造形作家。幼いころを広島ですごす。核をテーマとする一連の作品・イベントにより、世界の終りまでを徹底して表現し、また鉄屑・廃材を素材とするオブジェ、キネティック・アートを制作して現在に至る。
廃墟の灰の中から人類の埋もれた夢のかけらを拾い集めるようにして、鉄屑や壊れた機械のパーツを次から次へと繋ぎ合わせてゆくと、不思議なことに何ともあたたかい生命の息吹が胸の奥底に流れこんできた。ゆったりとした動き、かすかな音色、星くずのように散りばめられた光の海。この世で使命を終えたものたちが新しい世界を創造しようとする、それを手伝うのが私の仕事だ(作家自身のHPより)。
1969年第9回現代日本美術展に出品(20回も、21回・23回で佳作賞、22回で準大賞受賞)。1993年天理ビエンナーレ彫刻の部で部門賞(94・95年も)、ひろしまナイト美術大賞展で優秀賞(94・95年も同賞受賞)。URBANART#2優秀作家展で中原佑介賞(94年で佳作賞)、環境彫刻&ユーモアアート展で奨励賞(94年で優秀賞)、第32回北陸中日美術展で佳作賞。1994年 アジアひろしま芸術大賞展で大衆賞・佳作賞、被爆50周年特別企画展(広島市現代美術館)。1995年第5回東京野外現代彫刻展、第16回現代日本彫刻展(18回で兵庫県立近代美術館賞・市民賞)。1996年国際丹南アートフェスティバルで大賞。
■ヨシダ・ヨシエ Yoshie YOSHIDA(1929-2016)
東京生まれ。美術批評家、詩人。終戦後、鎌倉に住まう文学者や芸術家との交流を通じて美術に関心を持つようになり、その間に知り合った丸木位里、赤松俊子夫妻の《原爆の図》を抱え、1950年から1955年にかけて全国各地で同作の展覧会と講演を行った。詳細な調査をふまえて書かれた靉光論(1959年)や、最初の瀧口修造論の一つである「瀧口修造覚え書き」(1961年)が高く評価され、批評家として本格的に活動を始める。1960年代には、ハイレッド・センターらパフォーマンスの活動を積極的に紹介した。
著書:『異端の画家たち』(1965年、造形社、1983年、求龍堂・共著)、『流氓の解放区』(1977年、現代創美社)、『エロスと創造のあいだ』(1986 年、展転社)、『エロスと博物誌』(1987年、北宋社・共著)、『スネーク・ドリーム』(1989年、北宋社・共著樹芸書房)、『手探る・宇宙・美術家たち』(1989年、樹芸書房)、その他、詩画集など多数。
「アヴァンギャルドな青年、ヒッピーな中年、パンクな老人」(小沢節子さんの弔辞より)だったヨシダ先生が遺された貴重な書籍文献類はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(以下UCLA)の「ヨシダ・ヨシエ文庫」設立のために海を渡りました。詳しくは2016年10月4日ブログ<三上豊編・著『ヨシダ・ヨシエへの手がかり』>をお読みください。
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ロットNo.32 利根山光人(作品名不詳)
1954年
リトグラフ(焼けあり)
24.5×23.0cm
サインあり
■利根山光人 Kojin TONEYAMA(1921-1994)
茨城県生まれ。早稲田大学を卒業し、召集・入隊を経て終戦を迎える。戦後、ストラヴィンスキーの音楽に触発された前衛絵画を油彩で制作する一方で、母校から払い下げられたリトグラフの印刷機をつかってリトグラフ(石版画)の制作を開始する。戦後の現代版画隆盛の立役者の一人である。1950年代末にメキシコを訪れ見たマヤ文明に衝撃を受け、その古代文明をモチーフとした制作を開始。それ以後も度々メキシコを訪れ、生涯に亘って古代文明からの示唆を現代社会や現代人への問いかけとして描き続ける。メキシコを題材とした情熱的な作品を数多く残し、太陽の画家と呼ばれた。
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ロットNo.33 土橋醇コンポジション
1957年
グワッシュ
35.4×20.0cm
サインあり
■土橋醇 Jun DOBASHI(1910-1978)
東京生まれ。1938年東京美術学校油画科卒業後渡仏、アカデミー・ランソンに学んだ。1940年帰国しベトナム、カンボジア、ラオスへ外務省から派遣される。その後光風会展に出品、戦後1946年会員となり、1952年光風特賞を受賞したが、翌年再度渡仏し1973年に帰国するまでの20年間パリで制作を続け、主にサロン・ドートンヌ、サロン・ド・メ展に作品を発表した。 作品は東京国立近代美術館、パリ国立近代美術館等に収蔵されている。著書『南方の古代文化と芸術』、随筆集に『南へ還る』がある。
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ロットNo.34 豊島弘尚状況死頭部・このユートピア
1965年
油彩
32.0×32.0cm
サインあり
■豊島弘尚 Hironao TOYOSHIMA (1933-2013)
青森県生まれ。画家・版画家。1957年東京藝術大学美術学部油絵科(林武教室)卒業・安宅賞受賞。1974年文化庁在外芸術家派遣に選ばれNY・パリ・ストックホルムに滞在。1987年ノルウェイのボグネスで大オーロラに遭遇、以降オーロラ絵画の連作を制作する。1998年大館「塚ノ下」土偶に触発された大作《空に播く種子(父の星冠)》が東郷青児美術館大賞を受賞、同館で受賞特別展を開催。2002年八戸市美術館、2006年池田20世紀美術館で個展開催する。2014~15年青森県立美術館「追悼・豊島弘尚 彼方からの凝視」展では八戸を故郷とする豊島の初期から晩年にいたる代表的な作品33点が展示され、北方の風景や極光 (オーロラ) に着想を得、青森や縄文の風土と深い関わりをもちながら制作を行った画家の軌跡がたどられた。
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ロットNo.36 古沢岩美裸婦
1980年 水彩
32.0×50.5cm
サインあり
■古沢岩美 Iwami FURUSAWA(1912-2000)
佐賀県生まれ。久留米商業学校を中退し、朝鮮大邸に渡り、叔父の経営する練炭店で働きながら絵を描く。
1928年上京し岡田三郎助宅に寄食、光風会展、春台美術展に出品した。1934年岡田宅を出て、東京豊島区長崎町にあった「長崎アトリエ村」に移り、ここで画家たちとの交友をひろげるとともに、前衛美術を志向するようになった。1938年第8回独立美術展に、シュルレアリスムに学んだ「蒼暮」他を出品、一躍注目を浴びる。寺田政明、小牧源太郎、北脇昇、糸園和三郎、吉井忠らと創紀美術協会を創立。翌年には美術文化協会結成に参加した。同年、東京朝日新聞創立50周年記念に挿画コンクールに当選、懸賞小説「桜の園」の挿絵が人気を呼んだ。1943年応召、中国大陸に送られる。終戦後、1年間捕虜生活を送り、46年復員。翌47年日本アヴァンギャルド美術家クラブに参加。第1回モダン・アートクラブ展、第1回アンデパンダン展、第1回日本国際美術展、第2回現代日本美術展などに出品したシュールレアリスティックな画風と幻想的なエロスの表現は戦時中の体験と、戦後社会の混乱を告発する作品として注目された。75年山梨県上九一色村に古沢岩美美術館開館。1982年板橋区立美術館で回顧展が開催された。
著書:「月と黒子」「絵の放浪」など多数。
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ロットNo.37 三浦久美子+ヨシダ・ヨシエ燐火と蛇
1994年
手書き文字にコラージュ(マッチなど)
29.0×39.0cm
サインありシール添付
ヨシダ・ヨシエの著書『修辞と飛翔』(1993年 北宋社)のブックデザインを担当した三浦久美子とヨシダの合作。
■三浦久美子 Kumiko MIURA
武蔵野美術大学短期大学デザイン科卒業。小学館、サンリオ、マガジンハウスなどでエディトリアルデザインを担当。1993年三浦久美子デザイン室を設立。
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ロットNo.38 水谷勇夫十界 反魂季
1982年 水彩
42.0×29.5cm
サインあり
■水谷勇夫 Isao MIZUTANI(1922-2005)
愛知県名古屋市に生まれる。1942年より中国戦線を体験、このときの人間存在への熟考が後の制作の源となる。1950年代は新制作協会、美術文化協会、匹亞会を出入りし、58年に初個展、59年からは読売アンデペンダン展で発表。瀧口修造により1964年の国立近代美術館「超現実主義の展開」展に推薦されるほか、針生企画の「これが日本画だ」展には第2回まで出品した。針生が議長で1977年結成した日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議(JAALA)では副議長となり、JAALA主催の「第三世界とわれわれ展」に度々出品。1981年から从会に参加。和紙と顔料を使って人間の生々しい欲望や存在の不条理を暴き、自作を日本画ではなく膠絵と称して、前衛の立場を一貫させた。「なごや絵学校」の設立や、陶芸によるインスタレーション、書、パフォーマンス、舞台美術など多才に活動し、名古屋市芸術特賞を受賞。
(宮城県美術館『わが愛憎の画家たちー針生一郎と戦後美術』展図録より)
◆「戦後の前衛美術‘50-70 Part III S氏 & Y氏コレクション(入札)」
会期:2016年12月3日[土]―12月10日[土] *日曜、月曜、祝日休廊
入札締切り:12月10日[土] 17時必着

1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏と、同じく50年代から丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を携えて全国を巡回した反骨の評論家Y氏の旧蔵作品を入札方式で頒布します。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950~70年代の前衛の時代を駆け抜けた作家たちの希少なコレクションです。
*下記の画像はクリックすると拡大しますが容量の関係で鮮明ではありません。より鮮明な作品画像は下記のURLにてご覧ください(クリックすると拡大します)。
http://www.tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk1612/284/284_list.jpg

●本日の瑛九情報!
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写真は光線の言葉だといわれます。私たちは毎日のようにグラフや映画に接して、この光線の世界語を読むのに慣れています。ところで、このすばらしい光の話し言葉で私たちの夢や詩を表現できないわけはないし、できれば実にすばらしいことなのです。
レンズのない写真はすでにモホリ・ナギーやマン・レイなどによつてフォート・グラムやレオグラフイとして開拓されていますが、瑛九氏はフォート・デッサンとしてこの方法をさらに自由に駆使して独自の世界を展開しています。
(瀧口修造【瑛九のフォート・デッサン】日本橋・高島屋 1955年1月「瑛九 フォート・デッサン展目録」より)~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
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