ただいま開催中の「戦後の前衛美術‘50~‘70 Part Ⅲ S氏&Y氏コレクション(入札)」ですが、どうも河原温の「印刷絵画」や岡本太郎の版画(ユニーク)ばかりに注目が集まり、他の目玉作品に皆さん目が行かないようです(涙)。
赤瀬川_零円札 (1)赤瀬川_零円札 (2)

ロットNo.1 赤瀬川原平
「大日本零円札(本物)」

1967年   印刷
14.3×30.3cm

世界の現代美術の動向に造詣の深いSさんが来廊されて「えっ、ワタヌキさん、こんな値段(底値)でいいの?」と、先日のロンドン・クリスティーズの落札結果を教えてくださいました。

Asobi: Japanese & Korean Postwar Art
11 October 2016, London,


今年の10月11日にロンドンで開催されたクリスティーズのオークションで、赤瀬川原平の大日本零円札がUSD 33,852で落札されていました。
日本円に換算すると約3,850,000円です。

落札予想価格がUSD 1,500-(JPY 170,000-)~USD 2,250-(JPY 257,000-)でしたから、およそ15倍ですね。驚きです。
詳しくは、下記サイトをご覧ください。
http://www.christies.com/lotfinder/lot/genpei-akasegawa-the-great-japanese-zero-yen-6023236-details.aspx?from=searchresults&intObjectID=6023236&sid=c8a7a024-1f17-4679-8f9e-3f9b02290412

ときの忘れものの今回の出品作と全く同じものです。
底値(最低入札価格)は、なんとクリスティーズ落札価格の四十分の一(笑 !!!)。
どうぞ皆さん、ご入札ください。

赤瀬川原平 Genpei AKASEGAWA(1937-2014)
横浜生まれ。本名、 赤瀬川克彦。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。純文学作家としては「尾辻克彦」と名乗る。直木賞作家の赤瀬川隼は実兄。1958年読売アンデパンダン展に出品、以後1964年の終了時まで出品する。1960年篠原有司男、吉村益信、荒川修作らと「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加。1963年には中西夏之、高松次郎と「ハイレッド・センター」の活動を開始し、「反芸術」を代表する作家となる。そのころ制作した一連の《模型千円札》が「通貨及証券模造取締法」違反で起訴された。この「千円札裁判」では瀧口修造らが特別弁護人として参加、芸術とは何かが法廷で争われた。前衛美術家、漫画家・イラストレーター、小説家・エッセイスト、写真家など多彩な顔をもち、1981年には芥川賞を受賞。「超芸術トマソン」「路上観察学会」「ライカ同盟」などの活動で、街中で発見した奇妙な物件を写真に記録・発表した。
先日、中西夏之さんが亡くなり、ついにハイレッド・センターは歴史になってしまいました。これからどのように世界の市場で彼らの作品が評価されてゆくでしょうか。
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戦後の前衛美術‘50-70 Part III S氏 & Y氏コレクション(入札)」
会期:2016年12月3日[土]―12月10日[土] *日曜、月曜、祝日休廊
入札締切り:12月10日[土] 17時必着

201612
1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏と、同じく50年代から丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を携えて全国を巡回した反骨の評論家Y氏の旧蔵作品を入札方式で頒布します。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950~70年代の前衛の時代を駆け抜けた作家たちの希少なコレクションです。
*下記の画像はクリックすると拡大しますが容量の関係で鮮明ではありません。より鮮明な作品画像は下記のURLにてご覧ください(クリックすると拡大します)。
http://www.tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk1612/284/284_list.jpg
201612戦後の前衛~_5000

出品予定
赤瀬川原平「零円札」、荒木経惟『センチメンタルな旅』、池田龍雄、伊坂義夫、石内都『YOKOSUKA STORY』、猪瀬辰男、入野忠芳、岩崎巴人、岡本太郎、オノ・ヨーコ Yoko ONO『Grapefruit』、小山田チカエ、河原温「印刷絵画」、絹谷幸二、俊寛(久保俊寛)、桑原盛行、小松省三、近藤竜男、斎藤義重、桜井孝身、篠原有司男、白髪一雄、勝呂忠、スズキシン一、ヌリート・マソン・関根、多賀新、高山良策、田口雅巳、谷川晃一、田淵安一、たべけんぞう、利根山光人、土橋醇、豊島弘尚、中村宏、古沢岩美、三浦久美子、水谷勇夫、緑川俊一、南桂子+浜口陽三、元永定正、横尾忠則、ヨシダ・ヨシエ、吉仲太造、吉原治良、依田邦子、K Noriko(K・ノリコ)、Eugene BRANDS(ユージーン・ブランズ)、Beatriz SANCHEZ(ベアトリス・サンチェス)、Gerard Schneider(ゲラルド・シュネーデル)、Salvador y Domenech DALI (サルヴァドール・ダリ)、Mark TOBEY(マーク・トビー)、Roberto CRIPPA(ロベルト・クリッパ)、Pierre ALECHINSKY(ピエール・アレシンスキー)、Jean TINGUELY(ジャン・ティンゲリー)、
具体』機関誌4号・8号、
五人組写真集 REVOLUTION』季刊第1号(1972年 池田昇一、伊藤久、鈴木完侍、彦坂尚嘉、矢野直一)、
色彩と空間展」南画廊ポスター1966年(磯崎新、山口勝弘、アン・トルーイット、サム・フランシス、三木富雄、田中信太郎、湯原和夫、五東衛(清水九兵衛)、東野芳明)、
現代美術フェスティバル」ポスター1970年(荒川修作、岡本信次郎、馬場彬、三木富雄、元永定正、山口勝弘、吉仲太造、村上善男、伊藤隆道、野田哲也、高松次郎、柵山龍司、池田満寿夫、若尾和呂、瀬木愼一)

本日の瑛九情報!
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昨日12月7日は瑛九の父杉田直(すぎた なお)の命日でした。
杉田直は1969年(明治2年)国学者の野田丹彦、栄の三男として生まれました。のち1884年(明治17年)杉田家の養子となります。医学の道を志し上京、1891年(明治24年)に独学で医術開業試験に合格します。日本眼科の父と称された河本重次郎に師事して眼科医としての道を歩み始め、1891年(明治31年)帰郷して宮崎初の眼科医院を開業します。1902年(明治35年)34歳で宮崎郡医師会長、37歳で宮崎県医師会長となり、以後県医師会館の建設をはじめ、『宮崎県医師会50年史』を編纂するなど、県医学界の発展に貢献しました。1960年(昭和35年)12月7日永眠。享年92。
東京時代には俳句結社「秋声会」同人となり、戸川残花・巌谷小波・尾崎紅葉らと親交、のち子規門の「ホトトギス」に入り、内藤鳴雪・夏目漱石・高浜虚子らと交流しました。宮崎では俳誌「つくし」を主宰。荻原井泉水の「層雲」同人となり、また宮崎俳句会を結成。編著に『雁来紅』『禿本風声』『日本九峯修行日記』『日向俳壇史』があります。
瑛九3歳_600
父直(右端)に抱かれた瑛九と、その家族。中央が兄の正臣。
1914年(大正3年)撮影、実母の雪(左から二番目)はこの翌年夭折する。

瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

●お詫び
先日ときの忘れものからお送りしたDMの一部にこちらの不手際で切手を貼らずに投函してしまいました。不足料金を請求された方には心よりお詫びいたします。ただちに不足分をお支払いいたしますので、ご連絡いくださいますようお願いいたします。ご不快な思いをさせてしまいまことに申し訳ありません