開催中の「戦後の前衛美術‘50~‘70 Part Ⅲ S氏&Y氏コレクション(入札)」の入札締切りは明日夕方17時です。
珍しい写真集やポスターも出品していますが、もう少し詳しく説明せよとのリクエストがあったので、再掲載します。



ロットNo.2 荒木経惟
『センチメンタルな旅』オリジナル本
1971年
写真集(109頁)
24.0×24.0×0.7cm
1000部限定
1971年に私家版として限定千部刊行された幻の写真集。奥付もなく、表紙には「1000部限定 特価1000円」とあり、裏表紙には荒木経惟・陽子の当時の住所まで手書き文字で記載(印刷)されています。表紙にやや汚れがあり。残念なことにテキストのペラ丁はありません。
■荒木経惟 Nobuyoshi ARAKI(1940-)
1959年千葉大学写真印刷工学科に入学。1963年カメラマンとして電通に入社(72年退社)。1964年写真集「さっちん」にて第1回太陽賞受賞。1968年同じく電通に勤務していた青木陽子と出会い、1971年結婚。1981年有限会社アラーキー設立。1988年AaR Room設立。1990年妻・陽子が他界。翌年写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』を新潮社より出版。「アラーキー」の愛称とともに多彩な活躍を続け、『遺作 空2』『チロ愛死』『道』他、膨大な数の写真集を刊行。海外での評価も高く、90年代以降世界で最も注目を集めるアーティストの一人となる。
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ロットNo.5 石内都
『YOKOSUKA STORY』
出版社:写真通信社
1979年
写真集(106頁)
23.5×29.0×1.2cm
この写真集『YOKOSUKA STORY』(1979年)も荒木経惟『センチメンタルな旅』と同じく、今回の目玉作品。写真ファン垂涎のまと。石内さんが育った街の空気、気配、記憶をとらえた初期三部作のひとつで、石内写真の原点です。本体の状態は良好ですが、腰巻きには汚れ破れがあります。
■石内 都 Miyako ISHIUCHI(1947- )
群馬県生まれ。神奈川県横須賀市で育つ。多摩美術大学デザイン科織コース専攻中退。
1978年最初の写真集『絶唱・横須賀ストーリー』を刊行(写真通信社)。1979年写真集「APARTMENT」および写真展「アパート」にて第4回木村伊兵衛賞受賞。1999年第15回東川賞国内作家賞、第11回写真の会賞受賞。2006年日本写真協会賞作家賞受賞。2009年毎日芸術賞受賞。2013年紫綬褒章受章。
同じ年生まれの女性の手と足をクローズアップした『1・9・4・7』以降、身体の傷跡を撮ったシリーズを展開。2005年母の遺品を撮影した『Mother's 2000-2005 未来の刻印』で第51回ヴェネチア・ビエンナーレの日本代表に選出され世界的に注目を集める。2007年より現在まで続く、原爆で亡くなった人々の遺品を撮影した『ひろしま』も国際的に評価され、近年は国内外の美術館やギャラリーで個展を多数開催。2012年には、大正・昭和に流行した着物・銘仙を撮った『絹の夢』を発表、2014年には子どもの着物を撮り下ろした『幼き衣へ』を発表するなど、皮膚や衣類と時間とのかかわりをテーマにした写真を精力的に撮り続けている。2014年日本人としては濱谷浩、杉本博司に次いで3人目の「写真界のノーベル賞」と言われるハッセルブラッド国際写真賞受賞。2015年J・ポール・ゲティ美術館(ロサンゼルス)の個展「Postwar Shadows」では『ひろしま』がアメリカの美術館で初公開され、大きな反響を呼んだ。
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ロットNo.10 オノ・ヨーコ
Yoko ONO『Grapefruit』(1970年版)
書籍(275頁)
14.0×14.5×2.5cm

Yoko ONO『Grapefruit』Publisher's Note
■オノ・ヨーコ Yoko ONO(1933-)
銀行家小野英輔・磯子の長女として東京で生まれる。1952年、学習院大学哲学科に入学。翌年、アメリカに移住し、サラ・ローレンス大学で作曲と詩を学ぶ。1960年からニューヨークを拠点に、前衛芸術家として本格的な活動を開始。前衛芸術グループ「フルクサス」の活動に参加し、イベント、コンサート、作品展などを行なう。 66年9月には活動の拠点をロンドンに移し、同年11月に個展「未完成の絵画とオブジェ」を開催。その会場でビートルズのジョン・レノンと出会い、1969年結婚。ジョンとともに創作活動や平和活動を行う。1980年のジョンの死後も、創作活動や音楽活動などを通して「愛と平和」のメッセージを世界に向けて発信している。個展は1971年「THIS IS NOT HERE」エバーソン美術館(ニューヨーク)、1989年ホイットニー美術館(ニューヨーク)、1990年「踏み絵」草月美術館(東京)、1997年「HAVE YOU SEEN THE HORIZON LATETY?」オックスフォード近代美術館、2000年「YES YOKO ONO」ジャパン・ソサエティー(ニューヨーク)など多数開催。1993年ヴェネチア・ビエンナーレ、2001年横浜トリエンナーレに出品、2003~2004年は日本において大規模な回顧展「YES オノ・ヨーコ展」が巡回開催された。
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ロットNo.13 河原温
『美術手帖』臨時増刊No.155
「絵画の技法と絵画のゆくえ」(1959年3月)
1959年3月発行
雑誌(126頁)
21.0×15.0×0.5cm
*河原温「印刷絵画 I・発想と提案 II・技術」収載。
美帖がなぜそんなに高価なの? と言われそうですが、半世紀前の臨時増刊号でしかも河原温についての最重要文献とあれば仕方ありません。
ロットNo.12として出品した河原温の「印刷絵画」について、河原自らがその発想と技法を45ページにわたって詳細に執筆しています。図版(モノクロ)も豊富に掲載されており、当時の河原の手仕事の様子がよくわかります。
■河原温 On KAWARA(1933-2014)
愛知県刈谷市生まれ。愛知県立八中学校(現愛知県立刈谷高等学校)卒業。1952年上京、新宿のコーヒー店「ブラック」で初個展を開催したが出品作品等の詳細は不明。翌年からアンデパンダン展に出品し、「浴室」「物置小屋」シリーズで時代の閉塞感を表わし注目される。デモクラートの作家たちが集まった浦和の瑛九のアトリエにも出入りし若い作家たちと交流した。後年の河原はインタビューや写真撮影に応じなくなり、自作について文章を書くこともなくなったが、1950年代には『美術手帖』『美術批評』などに寄稿し、座談会、アンケートなどにおいても盛んに発言していた。
離日直前の1959年に「印刷絵画」の制作を手掛けた。その発想と技法について『美術手帖』誌155号(1959年臨時増刊号「絵画の技法と絵画のゆくえ」)に45ページにわたって自ら解説した文章を載せている。同記事で確認できる限りでは「印刷絵画」は少なくとも3点制作されたが、あまり話題にならずに終わってしまった。今回出品する「印刷絵画」はY氏旧蔵の希少作品である。
その後、メキシコ、パリなどを経て、65年より活動の拠点をニューヨーク へと移し、1966年1月4日より「日付絵画」(デイト・ペインティング)の制作を開始する。時間、空間、意識、存在といっ たコンセプチュアルアートにおける第一人者として国際的にきわめて高い評価を受けている。後年の河原はインタビューや写真撮影に応じなくなり、自作について文章を書くこともなくなった。
渡米後の作品は、1950年代の具象的な作品群とは作風もコンセプトも全く異なるもので、「時間」や「存在」をテーマとした、観念的なものとなる。1966年から描き続けられている「日付絵画」("Today"シリーズ)は、リキテックス(画材の名称)で単一色に塗られたキャンバスに、その「絵」が制作された日の日付だけを、筆触を全く残さない職人技で丹念に「描いた」ものである。制作はその日の0時からキャンバスの下塗りを始め、起床後に黒色などで地を塗り、白で『年月日』を書き入れ、その日のうちに完成させる。完成後の保管は、その日の新聞を入れた箱におさめられている。またその日の24時までに描き終わらなければ廃棄される。
他に常に同じ"I am still alive."という文面の電報を世界各地から発信するシリーズ、過去と未来それぞれ百万年の年号をタイプした「One Million Years」、絵葉書にその日河原が起床した時刻だけを記して特定の相手に郵送する「I Got Up」など、いくつかのシリーズがある。画家本人は1966年以降、カタログ等にも一切経歴を明らかにせず、公式の場に姿を見せず、作品について自己の言葉で語らず、1966年以降の本人の写真やインタビューなども存在しないなど、その実像は謎に包まれている。
2002年、カッセルのドクメンタでは『One Million Years』が展示されるとともに、ブースに入ったアナウンサーが5分間『One Million Years』を朗読するパフォーマンスが行われた。没後2015年にはニューヨーク、グッゲンハイム美術館で回顧展が開催された。
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ロットNo.55
吉原治良 他
『具体』4号
出版:具体編集委員会
1956年7月1日発行
機関紙(34頁)
24.2×26.0×0.3cm
「具体」の機関誌が国際的にも高い評価を得ているのはなぜか。指導者の吉原治良が創立当初から「国際化」を目指し、機関誌に英文を併記したことがポイントでしょう。
<地元芦屋で三流、東京で二流、世界で一流>の評価を得た具体の面目躍如です。
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ロットNo.56
吉原治良 他
『具体』8号
出版:具体編集委員会
1957年9月29日発行
機関紙(88頁)
25.0×26.5×0.6cm
この8号のセールスポイントは「ケース」付だということです。白いケースがそのまま残っている例は少ない。中身はもちろん良好です。

箱と本体
■吉原治良 Jiro YOSHIHARA(1905-1972)
抽象画家、および実業家。吉原製油社長。大阪の北野中学校在学中に油絵をはじめる。関西学院高等商業学部卒業。渡仏後の1928年に初個展を開き公募展などにも絵画を出展した。当初は魚を題材に描き、敬愛する藤田嗣治に作品を見てもらう機会を得るが独自性のなさを指摘され、幾何学的な抽象絵画へと徐々に転換した。1938年には東郷青児主催の二科会の抽象画家らと「九室会」を結成。戦後は吉原製油社長としての実業のかたわら絵画・デザインの発表を再開し、やがて不定形の形を激しい筆致で描いた抽象画を描き始めた。
当時、最先端の流行でもあった海外オートクチュールメゾンのファッションショーの舞台装置をプロデュースするなど時代の波にも乗る。同時に、居住していた芦屋市で若い美術家らを集めて画塾などを行っており、そこから1954年に前衛的な美術を志向する「具体美術協会」を結成しリーダーとなった。1962年には中之島にあった自分の所有する土蔵を改造して具体美術協会の本拠となるギャラリー「グタイピナコテカ」を開き、会員たちの個展を開催した。1972年67歳で死去とともに「具体」は解散した。
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ロットNo.57
五人組写真集編集委員会
(池田昇一、伊藤久、鈴木完侍、彦坂尚嘉、矢野直一)
『五人組写真集 REVOLUTION』
季刊第1号(1972年)
出版社:写真集編集委員会
1972年3月20日発行
写真集
29.0×21.0cm
55部限定

奥付
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ロットNo.4 伊坂義夫
JUNIER WONDERLAND
オフセット
103.0×73.0cm
■伊坂義夫 Yoshio ISAKA(1950-)
東京生まれ。本郷高校デザイン科を卒業後、1970年より作品発表をはじめ、10代を記念してギャラリーオカベで初個展「は~い、駆け足で誘惑しちゃいなさい!」。1972年三島事件をヒントに日の丸シリーズを制作。1981岡本信治郎と「少年戦記」を合作。国内外で個展やグループ展を開催し、国際版画展などに出品。2002年切手博物館で個展。切手コラージュで人気を得、ヨシダ・ヨシエ、岡本信治郎などとの共作発表や、光学機器の制作、音楽活動など幅広い活動を展開している。
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ロットNo.58
「色彩と空間展」南画廊ポスター
磯崎新、山口勝弘、アン・トルーイット、サム・フランシス、三木富雄、田中信太郎、湯原和夫、五東衛(清水九兵衛)、東野芳明
1966年
オフセット
105.0×74.5cm
1966年9月に志水楠男の南画廊で開催された展覧会のポスター。当時36歳の新進美術評論家だった東野芳明が企画・構成したもので「空間の実体としての色彩を考え、作品とみるものとの新しい関係<環境>を作り出そうとする試み。新しい工業的素材を用いて設計図に基づいた<発注芸術>による作品>が展示された。
<環境>と<発注芸術>という新しい言葉(概念)を使用した先駆的な事例でしょう。
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ロットNo.59
「現代美術フェスティヴァル」ポスター・出品リスト
出品作家:フレッチャー・ベントン、クリスチャン・ボルタンスキー、ピーター・ブリューニング、エウジェニオ・カルミ、セザールとマルセル・ルフラン、ダニル、マーク・ド・ロズニー、マルチェジアンニ・エリオ、グラヴィン‐キャンベル、アラン・ジャッケ、コスタ・カラハリオス、ハンス・クットシェル、ジョセフ・コズス、ピョートル・コワルスキー、ジャン・ル・ガック、サミエル・メイティン、ジョルヴィアック・ミシェル、ルイザ・ミレール、アレックス・ムリナルチック、タニア・モーラン、ナイマン、ニコス、レブ・ヌスベルク、デニス・オッペンハイム、ジーナ・パネ、メル・ラモス、カール・フレデリック・ロイテルスワード、ミモ・ロッテラ、ジャン‐ミシェル・サヌジュアン、ジャン‐フレデリック・シュニーデル、アリーナ・スザボクズニコフ、ティム・ウルリヒ、バーナー・ヴェネット、コンスタンティン・クセナキス
荒川修作、岡本信次郎、馬場彬、三木富雄、元永定正、山口勝弘、吉仲太造、村上善男、伊藤隆道、野田哲也、高松次郎、柵山龍司、池田満寿夫、若尾和呂、瀬木愼一
1970年 オフセット
発行:現代美術フェスティヴァル委員会
72.0×47.5cm
フランスの美術評論家でヌーボーレアリスム (nouveau realisme 新現実主義の提唱者ピエール・レスタニー(Pierre Restany)と日本の瀬木愼一の二人によって選ばれたヨーロッパ、アメリカ、日本の最も先鋭な48人の展覧会のポスター兼カタログ。横浜展は1970年11月3日~11日に横浜市民ギャラリーで開催され、その後盛岡展が1970年11月29日~12月8日に盛岡・サンビル・デパート7階特設会場で開催された。
ヌーボーレアリスムとは1960年ミラノで開かれた Y.クライン,J.ティンゲリー,F.アルマン,R.アンスら6人のグループ展の出品作にレスタニーが与えた名称。作品がいずれも再現という手段によらず、工業化された現代社会の現実に,断片的な事物をそのまま提示することで肉薄することを唱えた。
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◆「戦後の前衛美術‘50-70 Part III S氏 & Y氏コレクション(入札)」
会期:2016年12月3日[土]―12月10日[土] *日曜、月曜、祝日休廊
入札締切り:12月10日[土] 17時必着

1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏と、同じく50年代から丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を携えて全国を巡回した反骨の評論家Y氏の旧蔵作品を入札方式で頒布します。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950~70年代の前衛の時代を駆け抜けた作家たちの希少なコレクションです。
*下記の画像はクリックすると拡大しますが容量の関係で鮮明ではありません。より鮮明な作品画像は下記のURLにてご覧ください(クリックすると拡大します)。
http://www.tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk1612/284/284_list.jpg

出品予定:
赤瀬川原平「零円札」、荒木経惟『センチメンタルな旅』、池田龍雄、伊坂義夫、石内都『YOKOSUKA STORY』、猪瀬辰男、入野忠芳、岩崎巴人、岡本太郎、オノ・ヨーコ Yoko ONO『Grapefruit』、小山田チカエ、河原温「印刷絵画」、絹谷幸二、俊寛(久保俊寛)、桑原盛行、小松省三、近藤竜男、斎藤義重、桜井孝身、篠原有司男、白髪一雄、勝呂忠、スズキシン一、ヌリート・マソン・関根、多賀新、高山良策、田口雅巳、谷川晃一、田淵安一、たべけんぞう、利根山光人、土橋醇、豊島弘尚、中村宏、古沢岩美、三浦久美子、水谷勇夫、緑川俊一、南桂子+浜口陽三、元永定正、横尾忠則、ヨシダ・ヨシエ、吉仲太造、吉原治良、依田邦子、K Noriko(K・ノリコ)、Eugene BRANDS(ユージーン・ブランズ)、Beatriz SANCHEZ(ベアトリス・サンチェス)、Gerard Schneider(ゲラルド・シュネーデル)、Salvador y Domenech DALI (サルヴァドール・ダリ)、Mark TOBEY(マーク・トビー)、Roberto CRIPPA(ロベルト・クリッパ)、Pierre ALECHINSKY(ピエール・アレシンスキー)、Jean TINGUELY(ジャン・ティンゲリー)、
『具体』機関誌4号・8号、
『五人組写真集 REVOLUTION』季刊第1号(1972年 池田昇一、伊藤久、鈴木完侍、彦坂尚嘉、矢野直一)、
「色彩と空間展」南画廊ポスター1966年(磯崎新、山口勝弘、アン・トルーイット、サム・フランシス、三木富雄、田中信太郎、湯原和夫、五東衛(清水九兵衛)、東野芳明)、
「現代美術フェスティバル」ポスター1970年(荒川修作、岡本信次郎、馬場彬、三木富雄、元永定正、山口勝弘、吉仲太造、村上善男、伊藤隆道、野田哲也、高松次郎、柵山龍司、池田満寿夫、若尾和呂、瀬木愼一)
●本日の瑛九情報!
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たゞ一つ湯婆残りぬ室の隅 漱石
明治41年12月22日夏目漱石から瑛九の父・杉田作郎に送られた書簡に同封された俳句(短冊)です。(ただひとつたんぽのこりぬへやのすみ)
杉田直(俳号・作郎)は独学で医術開業試験に合格。東京帝国大学医局に学び、明治31年宮崎市で眼科医を開業し92歳の天寿を全うしました。若き日(東京時代)俳句結社「秋声会」同人となり、戸川残花・巌谷小波・尾崎紅葉らと親交、のち子規門の「ホトトギス」に入り、内藤鳴雪・夏目漱石・高浜虚子らと交流しました。宮崎では俳誌「つくし」を主宰。荻原井泉水の「層雲」同人となり、また宮崎俳句会を結成しました。
杉田直(俳号:作郎)と長男正臣(俳号:井蛙)はともに俳人でした。親子が集めた俳諧関係の資料類は、1985年(昭和60)宮崎県立図書館に約1万2千点にのぼる杉田文庫として寄贈されました。

杉田正臣著
『父/暁天/瑛九抄』
2000年
鉱脈社刊行
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
珍しい写真集やポスターも出品していますが、もう少し詳しく説明せよとのリクエストがあったので、再掲載します。



ロットNo.2 荒木経惟
『センチメンタルな旅』オリジナル本
1971年
写真集(109頁)
24.0×24.0×0.7cm
1000部限定
1971年に私家版として限定千部刊行された幻の写真集。奥付もなく、表紙には「1000部限定 特価1000円」とあり、裏表紙には荒木経惟・陽子の当時の住所まで手書き文字で記載(印刷)されています。表紙にやや汚れがあり。残念なことにテキストのペラ丁はありません。
■荒木経惟 Nobuyoshi ARAKI(1940-)
1959年千葉大学写真印刷工学科に入学。1963年カメラマンとして電通に入社(72年退社)。1964年写真集「さっちん」にて第1回太陽賞受賞。1968年同じく電通に勤務していた青木陽子と出会い、1971年結婚。1981年有限会社アラーキー設立。1988年AaR Room設立。1990年妻・陽子が他界。翌年写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』を新潮社より出版。「アラーキー」の愛称とともに多彩な活躍を続け、『遺作 空2』『チロ愛死』『道』他、膨大な数の写真集を刊行。海外での評価も高く、90年代以降世界で最も注目を集めるアーティストの一人となる。
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ロットNo.5 石内都『YOKOSUKA STORY』
出版社:写真通信社
1979年
写真集(106頁)
23.5×29.0×1.2cm
この写真集『YOKOSUKA STORY』(1979年)も荒木経惟『センチメンタルな旅』と同じく、今回の目玉作品。写真ファン垂涎のまと。石内さんが育った街の空気、気配、記憶をとらえた初期三部作のひとつで、石内写真の原点です。本体の状態は良好ですが、腰巻きには汚れ破れがあります。
■石内 都 Miyako ISHIUCHI(1947- )
群馬県生まれ。神奈川県横須賀市で育つ。多摩美術大学デザイン科織コース専攻中退。
1978年最初の写真集『絶唱・横須賀ストーリー』を刊行(写真通信社)。1979年写真集「APARTMENT」および写真展「アパート」にて第4回木村伊兵衛賞受賞。1999年第15回東川賞国内作家賞、第11回写真の会賞受賞。2006年日本写真協会賞作家賞受賞。2009年毎日芸術賞受賞。2013年紫綬褒章受章。
同じ年生まれの女性の手と足をクローズアップした『1・9・4・7』以降、身体の傷跡を撮ったシリーズを展開。2005年母の遺品を撮影した『Mother's 2000-2005 未来の刻印』で第51回ヴェネチア・ビエンナーレの日本代表に選出され世界的に注目を集める。2007年より現在まで続く、原爆で亡くなった人々の遺品を撮影した『ひろしま』も国際的に評価され、近年は国内外の美術館やギャラリーで個展を多数開催。2012年には、大正・昭和に流行した着物・銘仙を撮った『絹の夢』を発表、2014年には子どもの着物を撮り下ろした『幼き衣へ』を発表するなど、皮膚や衣類と時間とのかかわりをテーマにした写真を精力的に撮り続けている。2014年日本人としては濱谷浩、杉本博司に次いで3人目の「写真界のノーベル賞」と言われるハッセルブラッド国際写真賞受賞。2015年J・ポール・ゲティ美術館(ロサンゼルス)の個展「Postwar Shadows」では『ひろしま』がアメリカの美術館で初公開され、大きな反響を呼んだ。
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ロットNo.10 オノ・ヨーコYoko ONO『Grapefruit』(1970年版)
書籍(275頁)
14.0×14.5×2.5cm

Yoko ONO『Grapefruit』Publisher's Note
■オノ・ヨーコ Yoko ONO(1933-)
銀行家小野英輔・磯子の長女として東京で生まれる。1952年、学習院大学哲学科に入学。翌年、アメリカに移住し、サラ・ローレンス大学で作曲と詩を学ぶ。1960年からニューヨークを拠点に、前衛芸術家として本格的な活動を開始。前衛芸術グループ「フルクサス」の活動に参加し、イベント、コンサート、作品展などを行なう。 66年9月には活動の拠点をロンドンに移し、同年11月に個展「未完成の絵画とオブジェ」を開催。その会場でビートルズのジョン・レノンと出会い、1969年結婚。ジョンとともに創作活動や平和活動を行う。1980年のジョンの死後も、創作活動や音楽活動などを通して「愛と平和」のメッセージを世界に向けて発信している。個展は1971年「THIS IS NOT HERE」エバーソン美術館(ニューヨーク)、1989年ホイットニー美術館(ニューヨーク)、1990年「踏み絵」草月美術館(東京)、1997年「HAVE YOU SEEN THE HORIZON LATETY?」オックスフォード近代美術館、2000年「YES YOKO ONO」ジャパン・ソサエティー(ニューヨーク)など多数開催。1993年ヴェネチア・ビエンナーレ、2001年横浜トリエンナーレに出品、2003~2004年は日本において大規模な回顧展「YES オノ・ヨーコ展」が巡回開催された。
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ロットNo.13 河原温『美術手帖』臨時増刊No.155
「絵画の技法と絵画のゆくえ」(1959年3月)
1959年3月発行
雑誌(126頁)
21.0×15.0×0.5cm
*河原温「印刷絵画 I・発想と提案 II・技術」収載。
美帖がなぜそんなに高価なの? と言われそうですが、半世紀前の臨時増刊号でしかも河原温についての最重要文献とあれば仕方ありません。
ロットNo.12として出品した河原温の「印刷絵画」について、河原自らがその発想と技法を45ページにわたって詳細に執筆しています。図版(モノクロ)も豊富に掲載されており、当時の河原の手仕事の様子がよくわかります。
■河原温 On KAWARA(1933-2014)
愛知県刈谷市生まれ。愛知県立八中学校(現愛知県立刈谷高等学校)卒業。1952年上京、新宿のコーヒー店「ブラック」で初個展を開催したが出品作品等の詳細は不明。翌年からアンデパンダン展に出品し、「浴室」「物置小屋」シリーズで時代の閉塞感を表わし注目される。デモクラートの作家たちが集まった浦和の瑛九のアトリエにも出入りし若い作家たちと交流した。後年の河原はインタビューや写真撮影に応じなくなり、自作について文章を書くこともなくなったが、1950年代には『美術手帖』『美術批評』などに寄稿し、座談会、アンケートなどにおいても盛んに発言していた。
離日直前の1959年に「印刷絵画」の制作を手掛けた。その発想と技法について『美術手帖』誌155号(1959年臨時増刊号「絵画の技法と絵画のゆくえ」)に45ページにわたって自ら解説した文章を載せている。同記事で確認できる限りでは「印刷絵画」は少なくとも3点制作されたが、あまり話題にならずに終わってしまった。今回出品する「印刷絵画」はY氏旧蔵の希少作品である。
その後、メキシコ、パリなどを経て、65年より活動の拠点をニューヨーク へと移し、1966年1月4日より「日付絵画」(デイト・ペインティング)の制作を開始する。時間、空間、意識、存在といっ たコンセプチュアルアートにおける第一人者として国際的にきわめて高い評価を受けている。後年の河原はインタビューや写真撮影に応じなくなり、自作について文章を書くこともなくなった。
渡米後の作品は、1950年代の具象的な作品群とは作風もコンセプトも全く異なるもので、「時間」や「存在」をテーマとした、観念的なものとなる。1966年から描き続けられている「日付絵画」("Today"シリーズ)は、リキテックス(画材の名称)で単一色に塗られたキャンバスに、その「絵」が制作された日の日付だけを、筆触を全く残さない職人技で丹念に「描いた」ものである。制作はその日の0時からキャンバスの下塗りを始め、起床後に黒色などで地を塗り、白で『年月日』を書き入れ、その日のうちに完成させる。完成後の保管は、その日の新聞を入れた箱におさめられている。またその日の24時までに描き終わらなければ廃棄される。
他に常に同じ"I am still alive."という文面の電報を世界各地から発信するシリーズ、過去と未来それぞれ百万年の年号をタイプした「One Million Years」、絵葉書にその日河原が起床した時刻だけを記して特定の相手に郵送する「I Got Up」など、いくつかのシリーズがある。画家本人は1966年以降、カタログ等にも一切経歴を明らかにせず、公式の場に姿を見せず、作品について自己の言葉で語らず、1966年以降の本人の写真やインタビューなども存在しないなど、その実像は謎に包まれている。
2002年、カッセルのドクメンタでは『One Million Years』が展示されるとともに、ブースに入ったアナウンサーが5分間『One Million Years』を朗読するパフォーマンスが行われた。没後2015年にはニューヨーク、グッゲンハイム美術館で回顧展が開催された。
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ロットNo.55吉原治良 他
『具体』4号
出版:具体編集委員会
1956年7月1日発行
機関紙(34頁)
24.2×26.0×0.3cm
「具体」の機関誌が国際的にも高い評価を得ているのはなぜか。指導者の吉原治良が創立当初から「国際化」を目指し、機関誌に英文を併記したことがポイントでしょう。
<地元芦屋で三流、東京で二流、世界で一流>の評価を得た具体の面目躍如です。
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ロットNo.56吉原治良 他
『具体』8号
出版:具体編集委員会
1957年9月29日発行
機関紙(88頁)
25.0×26.5×0.6cm
この8号のセールスポイントは「ケース」付だということです。白いケースがそのまま残っている例は少ない。中身はもちろん良好です。

箱と本体
■吉原治良 Jiro YOSHIHARA(1905-1972)
抽象画家、および実業家。吉原製油社長。大阪の北野中学校在学中に油絵をはじめる。関西学院高等商業学部卒業。渡仏後の1928年に初個展を開き公募展などにも絵画を出展した。当初は魚を題材に描き、敬愛する藤田嗣治に作品を見てもらう機会を得るが独自性のなさを指摘され、幾何学的な抽象絵画へと徐々に転換した。1938年には東郷青児主催の二科会の抽象画家らと「九室会」を結成。戦後は吉原製油社長としての実業のかたわら絵画・デザインの発表を再開し、やがて不定形の形を激しい筆致で描いた抽象画を描き始めた。
当時、最先端の流行でもあった海外オートクチュールメゾンのファッションショーの舞台装置をプロデュースするなど時代の波にも乗る。同時に、居住していた芦屋市で若い美術家らを集めて画塾などを行っており、そこから1954年に前衛的な美術を志向する「具体美術協会」を結成しリーダーとなった。1962年には中之島にあった自分の所有する土蔵を改造して具体美術協会の本拠となるギャラリー「グタイピナコテカ」を開き、会員たちの個展を開催した。1972年67歳で死去とともに「具体」は解散した。
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ロットNo.57五人組写真集編集委員会
(池田昇一、伊藤久、鈴木完侍、彦坂尚嘉、矢野直一)
『五人組写真集 REVOLUTION』
季刊第1号(1972年)
出版社:写真集編集委員会
1972年3月20日発行
写真集
29.0×21.0cm
55部限定

奥付
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ロットNo.4 伊坂義夫JUNIER WONDERLAND
オフセット
103.0×73.0cm
■伊坂義夫 Yoshio ISAKA(1950-)
東京生まれ。本郷高校デザイン科を卒業後、1970年より作品発表をはじめ、10代を記念してギャラリーオカベで初個展「は~い、駆け足で誘惑しちゃいなさい!」。1972年三島事件をヒントに日の丸シリーズを制作。1981岡本信治郎と「少年戦記」を合作。国内外で個展やグループ展を開催し、国際版画展などに出品。2002年切手博物館で個展。切手コラージュで人気を得、ヨシダ・ヨシエ、岡本信治郎などとの共作発表や、光学機器の制作、音楽活動など幅広い活動を展開している。
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ロットNo.58「色彩と空間展」南画廊ポスター
磯崎新、山口勝弘、アン・トルーイット、サム・フランシス、三木富雄、田中信太郎、湯原和夫、五東衛(清水九兵衛)、東野芳明
1966年
オフセット
105.0×74.5cm
1966年9月に志水楠男の南画廊で開催された展覧会のポスター。当時36歳の新進美術評論家だった東野芳明が企画・構成したもので「空間の実体としての色彩を考え、作品とみるものとの新しい関係<環境>を作り出そうとする試み。新しい工業的素材を用いて設計図に基づいた<発注芸術>による作品>が展示された。
<環境>と<発注芸術>という新しい言葉(概念)を使用した先駆的な事例でしょう。
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ロットNo.59「現代美術フェスティヴァル」ポスター・出品リスト
出品作家:フレッチャー・ベントン、クリスチャン・ボルタンスキー、ピーター・ブリューニング、エウジェニオ・カルミ、セザールとマルセル・ルフラン、ダニル、マーク・ド・ロズニー、マルチェジアンニ・エリオ、グラヴィン‐キャンベル、アラン・ジャッケ、コスタ・カラハリオス、ハンス・クットシェル、ジョセフ・コズス、ピョートル・コワルスキー、ジャン・ル・ガック、サミエル・メイティン、ジョルヴィアック・ミシェル、ルイザ・ミレール、アレックス・ムリナルチック、タニア・モーラン、ナイマン、ニコス、レブ・ヌスベルク、デニス・オッペンハイム、ジーナ・パネ、メル・ラモス、カール・フレデリック・ロイテルスワード、ミモ・ロッテラ、ジャン‐ミシェル・サヌジュアン、ジャン‐フレデリック・シュニーデル、アリーナ・スザボクズニコフ、ティム・ウルリヒ、バーナー・ヴェネット、コンスタンティン・クセナキス
荒川修作、岡本信次郎、馬場彬、三木富雄、元永定正、山口勝弘、吉仲太造、村上善男、伊藤隆道、野田哲也、高松次郎、柵山龍司、池田満寿夫、若尾和呂、瀬木愼一
1970年 オフセット
発行:現代美術フェスティヴァル委員会
72.0×47.5cm
フランスの美術評論家でヌーボーレアリスム (nouveau realisme 新現実主義の提唱者ピエール・レスタニー(Pierre Restany)と日本の瀬木愼一の二人によって選ばれたヨーロッパ、アメリカ、日本の最も先鋭な48人の展覧会のポスター兼カタログ。横浜展は1970年11月3日~11日に横浜市民ギャラリーで開催され、その後盛岡展が1970年11月29日~12月8日に盛岡・サンビル・デパート7階特設会場で開催された。
ヌーボーレアリスムとは1960年ミラノで開かれた Y.クライン,J.ティンゲリー,F.アルマン,R.アンスら6人のグループ展の出品作にレスタニーが与えた名称。作品がいずれも再現という手段によらず、工業化された現代社会の現実に,断片的な事物をそのまま提示することで肉薄することを唱えた。
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◆「戦後の前衛美術‘50-70 Part III S氏 & Y氏コレクション(入札)」
会期:2016年12月3日[土]―12月10日[土] *日曜、月曜、祝日休廊
入札締切り:12月10日[土] 17時必着

1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏と、同じく50年代から丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を携えて全国を巡回した反骨の評論家Y氏の旧蔵作品を入札方式で頒布します。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950~70年代の前衛の時代を駆け抜けた作家たちの希少なコレクションです。
*下記の画像はクリックすると拡大しますが容量の関係で鮮明ではありません。より鮮明な作品画像は下記のURLにてご覧ください(クリックすると拡大します)。
http://www.tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk1612/284/284_list.jpg

出品予定:
赤瀬川原平「零円札」、荒木経惟『センチメンタルな旅』、池田龍雄、伊坂義夫、石内都『YOKOSUKA STORY』、猪瀬辰男、入野忠芳、岩崎巴人、岡本太郎、オノ・ヨーコ Yoko ONO『Grapefruit』、小山田チカエ、河原温「印刷絵画」、絹谷幸二、俊寛(久保俊寛)、桑原盛行、小松省三、近藤竜男、斎藤義重、桜井孝身、篠原有司男、白髪一雄、勝呂忠、スズキシン一、ヌリート・マソン・関根、多賀新、高山良策、田口雅巳、谷川晃一、田淵安一、たべけんぞう、利根山光人、土橋醇、豊島弘尚、中村宏、古沢岩美、三浦久美子、水谷勇夫、緑川俊一、南桂子+浜口陽三、元永定正、横尾忠則、ヨシダ・ヨシエ、吉仲太造、吉原治良、依田邦子、K Noriko(K・ノリコ)、Eugene BRANDS(ユージーン・ブランズ)、Beatriz SANCHEZ(ベアトリス・サンチェス)、Gerard Schneider(ゲラルド・シュネーデル)、Salvador y Domenech DALI (サルヴァドール・ダリ)、Mark TOBEY(マーク・トビー)、Roberto CRIPPA(ロベルト・クリッパ)、Pierre ALECHINSKY(ピエール・アレシンスキー)、Jean TINGUELY(ジャン・ティンゲリー)、
『具体』機関誌4号・8号、
『五人組写真集 REVOLUTION』季刊第1号(1972年 池田昇一、伊藤久、鈴木完侍、彦坂尚嘉、矢野直一)、
「色彩と空間展」南画廊ポスター1966年(磯崎新、山口勝弘、アン・トルーイット、サム・フランシス、三木富雄、田中信太郎、湯原和夫、五東衛(清水九兵衛)、東野芳明)、
「現代美術フェスティバル」ポスター1970年(荒川修作、岡本信次郎、馬場彬、三木富雄、元永定正、山口勝弘、吉仲太造、村上善男、伊藤隆道、野田哲也、高松次郎、柵山龍司、池田満寿夫、若尾和呂、瀬木愼一)
●本日の瑛九情報!
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たゞ一つ湯婆残りぬ室の隅 漱石
明治41年12月22日夏目漱石から瑛九の父・杉田作郎に送られた書簡に同封された俳句(短冊)です。(ただひとつたんぽのこりぬへやのすみ)
杉田直(俳号・作郎)は独学で医術開業試験に合格。東京帝国大学医局に学び、明治31年宮崎市で眼科医を開業し92歳の天寿を全うしました。若き日(東京時代)俳句結社「秋声会」同人となり、戸川残花・巌谷小波・尾崎紅葉らと親交、のち子規門の「ホトトギス」に入り、内藤鳴雪・夏目漱石・高浜虚子らと交流しました。宮崎では俳誌「つくし」を主宰。荻原井泉水の「層雲」同人となり、また宮崎俳句会を結成しました。
杉田直(俳号:作郎)と長男正臣(俳号:井蛙)はともに俳人でした。親子が集めた俳諧関係の資料類は、1985年(昭和60)宮崎県立図書館に約1万2千点にのぼる杉田文庫として寄贈されました。

杉田正臣著
『父/暁天/瑛九抄』
2000年
鉱脈社刊行
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
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