既にブログやメルマガでご案内の通り、建築家の石山修武先生と六角鬼丈先生の新作エディションを銀座のギャラリーせいほうで発表いたします。
新作版画のほかに立体作品も出品されます。

「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」
会期=2017年1月10日[火]―1月21日[土] 11:00-18:30 ※日・祝日休廊
主催/会場:ギャラリーせいほう
〒104-0061 東京都中央区銀座8-10-7 東成ビル1F TEL. 03-3573-2468
協力:ときの忘れもの
●オープニングパーティー
1月10日(火)17:00~19:00
ぜひお出かけください。
石山修武先生が2004年以来、忙しい建築設計の合間を縫って銅版画を精力的に制作し続けてきたことは1月4日のブログに書きましたが、その成果はときの忘れものでの2004年、2006年、2008年の3回の個展、さらに2015年旧古河庭園内大谷美術館での個展で発表してきました。
今回、六角鬼丈先生の新作版画をときの忘れもののエディションとして発表できるに至ったのは、石山先生のおかげといっても過言ではありません。
石山先生は皆さんご存知の通り、早稲田大学教授の時代からネットで『世田谷村日記』を蜿蜒と書き続けておられます。
ときの忘れもののブログも年中無休ですが、石山先生の日記はその比ではありません。日々起こった様々な出来事、事件、会った人たちのこと、あるいは進行中(準備中)の仕事の中身まで赤裸々に綴っています。
私たちはそこまではとても書けない。進行しているといっても、諸々の事情で中止になったり延期になったりすることはしばしばです。それをいちいち書いていたら大勢の人に迷惑をおかけすることになるし、第一収拾がつかない。
石山先生はそんなことはお構いなし。おそるべき度胸というか、無手勝流というか・・・・・
六角先生との二人展実現に向けての動きも克明に記されています。
以下例によって世田谷村日記から引用します(抜粋です。全文をお読みになりたい方は『世田谷村日記』にアクセスしてください)。
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●2015年11月1日
六角鬼丈に会う。
昨日は午後から夜にかけて杉並区西荻窪の六角鬼丈邸を訪問して鬼丈さんにお目にかかり、良い時間を過ごすことができた。六角さんとは一時期かなり濃密に付き合ったような気もする。若い頃、六角鬼丈はわたくしよりも数歩先を歩いていた。本人は嫌がるだろうがスターであった。何によってスターであったかと言えば、この自邸の設計により歴然とその才能の形を世に知らしめたのである。建築ジャーナリズム最盛期の頃でもあり、六角さんは今から考えれば驚く程にあった建築雑誌、振り返れば「ペーパー」の時代の歴然とした先頭を走っていた。ただし我々とは違って良い品格の持主であったから、自分で「俺は今、先頭に居るぞ」と大言壮語の一切が無かった。
我々と言うのは毛綱モン太、石井和紘、石山修武、そして六角鬼丈である。後年、と言いたいところだが、出会ってすぐに血気盛ん、と言うよりも早く早く成り上がりたいの気持が強かった我々は「婆娑羅」の名を冠したグループを結成した。気持ちだけは「メタボリズム」グループに対抗してやれとの意気があった。当時華の中の華であった黒川紀章、菊竹清訓のスター達に、背伸びしてでも立ち向かってやれのヤクザ言葉で言えば鉄砲玉みたいな連中ではあった。
婆娑羅の名は毛綱モン太の命名であった。毛綱はアノニマス建築と言うよりも、その概念自体の研究者(アカデミスト)であった神戸大学の向井正也の弟子筋であったから歴史趣味らしきが濃厚で、日本中世の婆娑羅大名山名宗全等の美学の傾奇好み、過剰過多の振る舞いを伴った生き方らしきをヨーロッパ、ルネサンスの人間復興、人知主義と結びつける才の持主であった。
何しろ、何かやって名をあげたいの気持が有り余っていたから、しかし状況の認識は皆たけていたから、そりゃいいぞ、それで行こうと相なった。
毛綱の知の形式とは違っていたが、頭の回転はそれよりも余程クルクル廻る類の知、言葉の才があった石井和紘は当然リーダーシップを取ろうと思案したが、毛綱の命名の妙には流石に異を唱えようが無く、婆娑羅鍋とやらのデカイ絵を描いて、その名を相対化させようとしたりもした。相対化は当時から磯崎新の持札であったが、石井はそれをより端的に茶化そうとしたのだった。
磯崎新のメタボリズムグループへの立場も、要するに茶化してやれの一語に尽きた。
アイロニー、パロディーの批評性とは突き詰めれば茶化してヤレ、笑ってヤレなのである。笑いの薄い茶化しは石井和紘の持味でもあった。その意味では石井は磯崎新の才質の形をより正直に、赤裸裸に所有していた。
4名のグループなのに、初めから集まりは二分化していた。六角・毛綱の形而上的傾向と石井・石山のいわば形而下的傾向とに。
婆娑羅大名群たらんとしたのに内状実体は小さなペアーが平氏源氏に分裂していた。その気質においてである。
アレから何十年経った。毛綱、石井は今はすでにこの世に居ない。毛綱の本性は「建築への想いを捨てることは出来ぬ。それならば君傾城の婆娑羅ゴト」であった。ヨーロッパルネサンスの渦中に身を投じたかった。が、地の利時の運に恵まれてはいない。それならば精一杯この極東の島国日本で婆娑羅事をやるしかない、であった。ある意味では歴史主義的な思考からの発想を身上としていた。
石井和紘は言説による建築設計の大衆化、すなわちエンターテイメント化にすこぶる付きの才があった。建築そのものの設計の質よりも、それをどう説明するかに関心があった。今の時代には無い才質の持主であった。
時は巡り、そんな才質の人影も消え失せた。婆娑羅の生き残りとも言えよう六角、石山はそれぞれに独立した。しかし毛綱の言でもあった、建築への想い捨て難しはまだ双方共に消えてはいない。
本日の六角邸訪問には幾つかの目的があった。旧交を暖めるの茶飲み話は二の次である。
第一は、これは同行の佐藤研吾、つまりは次次世代に託す意味もあり。インドでの大学にアジア学部、あるいは研究所設立に六角鬼丈の協力を得たいの願い。六角は親子三代東京芸大教授をあい務めるという、まさに伝家の宝刀の持主であり、実力の持主である。
父、祖父共に岡倉天心とは深い縁もある。その小史もあり、佐藤は、特に東京で、インドでの講座設立準備のためのセミナーを準備中であり、六角の意見をうかがうの、目的があり、わたくしはその後援者として同席したのである。
答えは?
六角鬼丈が今、その一端を担っている、岡倉天心、フェロノサが寄進した奈良、櫻井の大蔵寺弁事堂、改修の基金集めを佐藤研吾が若い者として下支えする。それならば考えてみても良い。である。
六角鬼丈も内外で重要な役職をこなしてきたから、話は形而上の世界だけではすまされない。それで、佐藤は勧進活動を喜んですることになった。具体の固有性の先に普遍の抽象は視えてくるの考えである。
第二は石山から六角へ。二人の二人展をやりたいの申し入れである。婆娑羅の影を引きずるのではなく、新しいモノのプレゼンテーションである。
もう面倒クセイよの答えになるかと予想して話は長引くかと覚悟していたが、コレはあっけらかんと「やってみるか」となった。
六角邸、旧「クレヴァスの家」スケッチは今日は出来なかった。六角邸は通りから少し奥まった小路の行き止まりにあり、その全景は断片しか見えぬ。スケッチは容易ではない。勿論、かの名作「クレヴァスの家」はしかと見たが、この内部のスケッチはとても難しいので先ずはお手上げ。肝心のクレヴァスと六角が呼んだスペースは直角が消えているので、透視図的なスケッチが不能であるので再び訪れて別の方法で描くしかないだろう。
しかし、そのスケッチ技術に関わる問題よりも何よりも、六角鬼丈のアトリエに置かれていた住宅の模型にわたくしは驚いたのである。六角邸はクレヴァスの家に同程度のボリュームが増築された。謂わば新旧の複合住宅であり建築である。この複合住宅の模型が良かった。複雑にして単純。新旧が融合して何とも呼べぬ体のモノに変化している。
旧クレヴァスの家はその劇的な裂け目と言う、シンボリズムが強いモノであった。強烈であるが、それ故に旧くなりやすい性格もあった。ところが大きな増築群が融合され、建築の姿は内外一変していた。
これが、勿論ある種の有機性と出現させている。そればかりではなく全く新しい「都市性」をも出現させている。それに驚いた。増築を含めたこの小建築は名作である。クレヴァスの家の先見性については更に述べねばならぬが、この増築と旧建築の実に知的な都市性は着目すべきである。
六角鬼丈自邸はいわゆる良き中央線文化の中心である中央線西荻窪に在る。中央線は高架であり北と南は駅舎により分化されぬが、やはり北と南はチョット何もかもが異なる。改札口を南へ出ると広場は無くすぐに細い路地裏状の飲み屋街が70メーター位2本奇妙な場所を作り出してる。
わたくしの居る京王線烏山にもそんなここは場所はあるけれど駅に直結していない。だからここは務め人は会社の帰りに寄りやすいであろう。酔ってノレンを出れば少しよろけたって安全に歩いてそれぞれの家に帰ることができるし、自由業に近い連中も行き帰り歩いて出入りできる。
案の定、打ち合わせ、見学を終えて六角鬼丈は「マア、チョッとやってゆこう」とこの駅前路地の旨い小さな寿司屋に我々を誘った。6・7名で一杯になるような、高級屋台である。この一角の駅前文化のグレードは我が町千歳烏山よりかなり高い。中央線文化の厚みを感じさせられる。
個人住宅の良し悪しは一軒の住宅に自閉される世界ではない。その周囲、間近にどんな風な飲み屋だけではない地域サービス空間が作り出されているかに大きく左右される。子供がいる家だったら、近くに良い幼稚園や学校があるか、あるいは家を構成する男や女にとっては家を出て、くつろげる場所が近くにどれ位あるかって事にもなろう。
その駅前の魅力的な小路群から、六角邸までは楽に歩いてゆける。
閑静なしかし、ほとんどが新しく建て直された住宅街の、通りに面して少し凹んだ路地状の空間の行き止まりに六角邸は建つ。路地には円い砂利をつめた小さな円形の何だかこれは不思議な造形物が5つ連続している。六角鬼丈のことだから、何やら由縁があるのかも知れない。奥の門扉はきれいなモダーン、デザインである。毛綱だったら石を挟みつけた妙な呪術的なデザインやらかしたろうなとホッとする。毛綱には随分まじない、その他で脅かしつけられたモノである。
増築部分は住み心地の良いケレン味のないデザインである。内に六角独特の「伝家の宝塔」らしきの家具が数点納まっている。六角でなければ「伝家の宝塔」はイヤ味にも通じかねぬが、六角がやるとイヤ味ではないのが不思議である。家系に誇りを持つ、先祖をうやまうは道教の基本だが、それをドーンと派手にやらかしたのが毛綱風であり、六角はなまじ誇らなくても良いレッキとした家系の歴史があるのでそれをケチなどはつけられない。うらやましい限りである。
複合住宅の模型は50分の1のスケール、勿論六角鬼丈の手作りである。旧いクレヴァスの家は木製で40年程の歳月が経ち経年変化して黒ずんでいる。六角本来の物神性が、それで自然に表現されている。新しい増築部分は白い紙で作られている。それで黒ずんだ旧作と白く清新な部分がオーッ、いいなと時間の表現(歴史)としてもそこに在った。これは六角鬼丈自身の又言わずもがなの「伝家の宝塔」だな。この模型一つでこれからの10年は喰ってゆけるぜと、わたくしは形而下的に直観した。
この小さな複合住宅の模型には中央線西荻窪のまさに都市性が表現されている。クレヴァスの家の平面図は土地の形状から、その非直角の透視図法的斜線が導き出されたと設計者本人が解説してくれた。その土地の形状そのまんまの斜線の反対側は設計当初は広い空地であったろうが、六角の建築家としての本能が直角に向けて開放したようだ。そして直角が主体の増築部が補完された。
黒・白の時間の対比と透視図法的斜線と直角とが複層しているのである。その融合と衝突の妙が得も言えぬ自動生成的複雑さを作り出している。建築の内と両者に囲い込まれた外が融合された。これが「都市性」の表現の素である。内の外にもう一つの内が生み出され、アノニマス的としか言い様のない全体が出現している。そして建築家本来の才質でもある「クレヴァスの家」の象徴性が実に複雑に秘匿されることになった。
六角邸の全体は街、すなわち外からは視えない。つまり、スケッチが出来ない。在るのは全て内の断片であり、その内にはキラリノ象徴性が隠れているのだ。都市はすべて内部空間の集合にならざるを得ない現実が自然に生成されたのだ。ここには神社もあり、小さな路地もあり、庭も体内化されて在る。象徴的に在る。その象徴性が、再び言うが見事にエレガントに無理なく表現されたのである。
今、現在の建築家がなし得る最良の可能性がここに表現された。恐らく六角は数十年の歳月、すなわち時を味方にしてこれを成した。時を味方にするのも又、建築家の特権であり、才覚そのものだ。
●2016年2月12日
世田谷村には今日も少なからぬ職人衆がはいっている。渡邊大志に昨日作成したアニミズム紀行9の絵巻物編及び「開放系技術小論」を説明して、小冊子にまとめるように依頼。ほとんど全てのわたくしのキャリアが入っているので、これは彼に任せるのが一番であろう。
昨日は六角鬼丈さんと連絡して、インド・バローダデザインアカデミーの今春のレクチャー他を相談した。インターネットによる六角鬼丈作品群に関するレクチャーとなる。インドの若者たちに彼の作品がどのように伝わるか、楽しみである。
2、わたくしと六角鬼丈とは作品の傾向がだいぶ異なり、そして大いに同じである。シェイクスピアの常套句のようだが、そうとしか言い様が無い。彼の思考、および実践のバックボーンを今の時代に引き寄せて要約すれば、近代建築の芸術的意味を純粋な形式で表現し続けているに尽きる。時代は一律な工学の時代に流れようとしている。彼は東京芸術大学の存在の意味を、その要として問い続けたとも言えるだろう。「伝家の宝塔」はそんな意味からすれば芸大の伝統としての伝家と、自分史つまりは家系の伝家とをダブらせてのマニフェストである。
岡本太郎の『今日の芸術』での今の芸術の意味と同様に、しかし更に日本近代の芸術の意味=価値を別の形で考え続けたのである。これも又、シェイクスピアの同じで異なるのルフランであるが、岡本がアヴァンギャルドとして今日の芸術の意味をストレートに問いただしたのと、同じで異なり、より伝統の幹に接続しようとした。東京芸大は日本の伝統の保持育成をその使命とする。その使命とやらの過剰な才質を折り合わせる困難さの中での建築創作の数々であった。造形の才質が過剰である、はともすれば形態追求の売淫者に堕す傾向が多分にある。その恐れらしきを六角は親子三代にわたる芸大教授の家系への矜持、そして日本の芸術の伝統の中心に居ることの自覚で強く踏みとどまり続けた。他に見ることが出来ぬ不偏振りではあった。
来年、予定している六角、石山二人展は、だから、同じで、異なるの二極同融が面白く、自然に出れば良いのではなかろうか。
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上掲の日記によれば、お二人の展覧会は2015年11月1日に決まったらしい。
<二人展をやりたいの申し入れである。婆娑羅の影を引きずるのではなく、新しいモノのプレゼンテーションである。
もう面倒クセイよの答えになるかと予想して話は長引くかと覚悟していたが、コレはあっけらかんと「やってみるか」となった。>
●本日の瑛九情報!
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瑛九の会機関誌『眠りの理由』を順次紹介しています。
『眠りの理由 No.2(季刊)』
限定500部
1966年8月1日 瑛九の会発行
編集発行者:尾崎正教
58ページ 24.6×17.6cm
目次:
瑛九-----------------------------オノサト・トシノブ 2
瑛九伝Ⅱ-----------------------山田光春 4
思い出--------------------------杉田栄 述 43
思い出すことなど(二)-------杉田正臣 45
思い出--------------------------日高笑子 49
--------エッチング---------瑛九
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
●「今月のお勧め作品」を更新しました。
新作版画のほかに立体作品も出品されます。

「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」
会期=2017年1月10日[火]―1月21日[土] 11:00-18:30 ※日・祝日休廊
主催/会場:ギャラリーせいほう
〒104-0061 東京都中央区銀座8-10-7 東成ビル1F TEL. 03-3573-2468
協力:ときの忘れもの
●オープニングパーティー
1月10日(火)17:00~19:00
ぜひお出かけください。
石山修武先生が2004年以来、忙しい建築設計の合間を縫って銅版画を精力的に制作し続けてきたことは1月4日のブログに書きましたが、その成果はときの忘れものでの2004年、2006年、2008年の3回の個展、さらに2015年旧古河庭園内大谷美術館での個展で発表してきました。
今回、六角鬼丈先生の新作版画をときの忘れもののエディションとして発表できるに至ったのは、石山先生のおかげといっても過言ではありません。
石山先生は皆さんご存知の通り、早稲田大学教授の時代からネットで『世田谷村日記』を蜿蜒と書き続けておられます。
ときの忘れもののブログも年中無休ですが、石山先生の日記はその比ではありません。日々起こった様々な出来事、事件、会った人たちのこと、あるいは進行中(準備中)の仕事の中身まで赤裸々に綴っています。
私たちはそこまではとても書けない。進行しているといっても、諸々の事情で中止になったり延期になったりすることはしばしばです。それをいちいち書いていたら大勢の人に迷惑をおかけすることになるし、第一収拾がつかない。
石山先生はそんなことはお構いなし。おそるべき度胸というか、無手勝流というか・・・・・
六角先生との二人展実現に向けての動きも克明に記されています。
以下例によって世田谷村日記から引用します(抜粋です。全文をお読みになりたい方は『世田谷村日記』にアクセスしてください)。
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●2015年11月1日
六角鬼丈に会う。
昨日は午後から夜にかけて杉並区西荻窪の六角鬼丈邸を訪問して鬼丈さんにお目にかかり、良い時間を過ごすことができた。六角さんとは一時期かなり濃密に付き合ったような気もする。若い頃、六角鬼丈はわたくしよりも数歩先を歩いていた。本人は嫌がるだろうがスターであった。何によってスターであったかと言えば、この自邸の設計により歴然とその才能の形を世に知らしめたのである。建築ジャーナリズム最盛期の頃でもあり、六角さんは今から考えれば驚く程にあった建築雑誌、振り返れば「ペーパー」の時代の歴然とした先頭を走っていた。ただし我々とは違って良い品格の持主であったから、自分で「俺は今、先頭に居るぞ」と大言壮語の一切が無かった。
我々と言うのは毛綱モン太、石井和紘、石山修武、そして六角鬼丈である。後年、と言いたいところだが、出会ってすぐに血気盛ん、と言うよりも早く早く成り上がりたいの気持が強かった我々は「婆娑羅」の名を冠したグループを結成した。気持ちだけは「メタボリズム」グループに対抗してやれとの意気があった。当時華の中の華であった黒川紀章、菊竹清訓のスター達に、背伸びしてでも立ち向かってやれのヤクザ言葉で言えば鉄砲玉みたいな連中ではあった。
婆娑羅の名は毛綱モン太の命名であった。毛綱はアノニマス建築と言うよりも、その概念自体の研究者(アカデミスト)であった神戸大学の向井正也の弟子筋であったから歴史趣味らしきが濃厚で、日本中世の婆娑羅大名山名宗全等の美学の傾奇好み、過剰過多の振る舞いを伴った生き方らしきをヨーロッパ、ルネサンスの人間復興、人知主義と結びつける才の持主であった。
何しろ、何かやって名をあげたいの気持が有り余っていたから、しかし状況の認識は皆たけていたから、そりゃいいぞ、それで行こうと相なった。
毛綱の知の形式とは違っていたが、頭の回転はそれよりも余程クルクル廻る類の知、言葉の才があった石井和紘は当然リーダーシップを取ろうと思案したが、毛綱の命名の妙には流石に異を唱えようが無く、婆娑羅鍋とやらのデカイ絵を描いて、その名を相対化させようとしたりもした。相対化は当時から磯崎新の持札であったが、石井はそれをより端的に茶化そうとしたのだった。
磯崎新のメタボリズムグループへの立場も、要するに茶化してやれの一語に尽きた。
アイロニー、パロディーの批評性とは突き詰めれば茶化してヤレ、笑ってヤレなのである。笑いの薄い茶化しは石井和紘の持味でもあった。その意味では石井は磯崎新の才質の形をより正直に、赤裸裸に所有していた。
4名のグループなのに、初めから集まりは二分化していた。六角・毛綱の形而上的傾向と石井・石山のいわば形而下的傾向とに。
婆娑羅大名群たらんとしたのに内状実体は小さなペアーが平氏源氏に分裂していた。その気質においてである。
アレから何十年経った。毛綱、石井は今はすでにこの世に居ない。毛綱の本性は「建築への想いを捨てることは出来ぬ。それならば君傾城の婆娑羅ゴト」であった。ヨーロッパルネサンスの渦中に身を投じたかった。が、地の利時の運に恵まれてはいない。それならば精一杯この極東の島国日本で婆娑羅事をやるしかない、であった。ある意味では歴史主義的な思考からの発想を身上としていた。
石井和紘は言説による建築設計の大衆化、すなわちエンターテイメント化にすこぶる付きの才があった。建築そのものの設計の質よりも、それをどう説明するかに関心があった。今の時代には無い才質の持主であった。
時は巡り、そんな才質の人影も消え失せた。婆娑羅の生き残りとも言えよう六角、石山はそれぞれに独立した。しかし毛綱の言でもあった、建築への想い捨て難しはまだ双方共に消えてはいない。
本日の六角邸訪問には幾つかの目的があった。旧交を暖めるの茶飲み話は二の次である。
第一は、これは同行の佐藤研吾、つまりは次次世代に託す意味もあり。インドでの大学にアジア学部、あるいは研究所設立に六角鬼丈の協力を得たいの願い。六角は親子三代東京芸大教授をあい務めるという、まさに伝家の宝刀の持主であり、実力の持主である。
父、祖父共に岡倉天心とは深い縁もある。その小史もあり、佐藤は、特に東京で、インドでの講座設立準備のためのセミナーを準備中であり、六角の意見をうかがうの、目的があり、わたくしはその後援者として同席したのである。
答えは?
六角鬼丈が今、その一端を担っている、岡倉天心、フェロノサが寄進した奈良、櫻井の大蔵寺弁事堂、改修の基金集めを佐藤研吾が若い者として下支えする。それならば考えてみても良い。である。
六角鬼丈も内外で重要な役職をこなしてきたから、話は形而上の世界だけではすまされない。それで、佐藤は勧進活動を喜んですることになった。具体の固有性の先に普遍の抽象は視えてくるの考えである。
第二は石山から六角へ。二人の二人展をやりたいの申し入れである。婆娑羅の影を引きずるのではなく、新しいモノのプレゼンテーションである。
もう面倒クセイよの答えになるかと予想して話は長引くかと覚悟していたが、コレはあっけらかんと「やってみるか」となった。
六角邸、旧「クレヴァスの家」スケッチは今日は出来なかった。六角邸は通りから少し奥まった小路の行き止まりにあり、その全景は断片しか見えぬ。スケッチは容易ではない。勿論、かの名作「クレヴァスの家」はしかと見たが、この内部のスケッチはとても難しいので先ずはお手上げ。肝心のクレヴァスと六角が呼んだスペースは直角が消えているので、透視図的なスケッチが不能であるので再び訪れて別の方法で描くしかないだろう。
しかし、そのスケッチ技術に関わる問題よりも何よりも、六角鬼丈のアトリエに置かれていた住宅の模型にわたくしは驚いたのである。六角邸はクレヴァスの家に同程度のボリュームが増築された。謂わば新旧の複合住宅であり建築である。この複合住宅の模型が良かった。複雑にして単純。新旧が融合して何とも呼べぬ体のモノに変化している。
旧クレヴァスの家はその劇的な裂け目と言う、シンボリズムが強いモノであった。強烈であるが、それ故に旧くなりやすい性格もあった。ところが大きな増築群が融合され、建築の姿は内外一変していた。
これが、勿論ある種の有機性と出現させている。そればかりではなく全く新しい「都市性」をも出現させている。それに驚いた。増築を含めたこの小建築は名作である。クレヴァスの家の先見性については更に述べねばならぬが、この増築と旧建築の実に知的な都市性は着目すべきである。
六角鬼丈自邸はいわゆる良き中央線文化の中心である中央線西荻窪に在る。中央線は高架であり北と南は駅舎により分化されぬが、やはり北と南はチョット何もかもが異なる。改札口を南へ出ると広場は無くすぐに細い路地裏状の飲み屋街が70メーター位2本奇妙な場所を作り出してる。
わたくしの居る京王線烏山にもそんなここは場所はあるけれど駅に直結していない。だからここは務め人は会社の帰りに寄りやすいであろう。酔ってノレンを出れば少しよろけたって安全に歩いてそれぞれの家に帰ることができるし、自由業に近い連中も行き帰り歩いて出入りできる。
案の定、打ち合わせ、見学を終えて六角鬼丈は「マア、チョッとやってゆこう」とこの駅前路地の旨い小さな寿司屋に我々を誘った。6・7名で一杯になるような、高級屋台である。この一角の駅前文化のグレードは我が町千歳烏山よりかなり高い。中央線文化の厚みを感じさせられる。
個人住宅の良し悪しは一軒の住宅に自閉される世界ではない。その周囲、間近にどんな風な飲み屋だけではない地域サービス空間が作り出されているかに大きく左右される。子供がいる家だったら、近くに良い幼稚園や学校があるか、あるいは家を構成する男や女にとっては家を出て、くつろげる場所が近くにどれ位あるかって事にもなろう。
その駅前の魅力的な小路群から、六角邸までは楽に歩いてゆける。
閑静なしかし、ほとんどが新しく建て直された住宅街の、通りに面して少し凹んだ路地状の空間の行き止まりに六角邸は建つ。路地には円い砂利をつめた小さな円形の何だかこれは不思議な造形物が5つ連続している。六角鬼丈のことだから、何やら由縁があるのかも知れない。奥の門扉はきれいなモダーン、デザインである。毛綱だったら石を挟みつけた妙な呪術的なデザインやらかしたろうなとホッとする。毛綱には随分まじない、その他で脅かしつけられたモノである。
増築部分は住み心地の良いケレン味のないデザインである。内に六角独特の「伝家の宝塔」らしきの家具が数点納まっている。六角でなければ「伝家の宝塔」はイヤ味にも通じかねぬが、六角がやるとイヤ味ではないのが不思議である。家系に誇りを持つ、先祖をうやまうは道教の基本だが、それをドーンと派手にやらかしたのが毛綱風であり、六角はなまじ誇らなくても良いレッキとした家系の歴史があるのでそれをケチなどはつけられない。うらやましい限りである。
複合住宅の模型は50分の1のスケール、勿論六角鬼丈の手作りである。旧いクレヴァスの家は木製で40年程の歳月が経ち経年変化して黒ずんでいる。六角本来の物神性が、それで自然に表現されている。新しい増築部分は白い紙で作られている。それで黒ずんだ旧作と白く清新な部分がオーッ、いいなと時間の表現(歴史)としてもそこに在った。これは六角鬼丈自身の又言わずもがなの「伝家の宝塔」だな。この模型一つでこれからの10年は喰ってゆけるぜと、わたくしは形而下的に直観した。
この小さな複合住宅の模型には中央線西荻窪のまさに都市性が表現されている。クレヴァスの家の平面図は土地の形状から、その非直角の透視図法的斜線が導き出されたと設計者本人が解説してくれた。その土地の形状そのまんまの斜線の反対側は設計当初は広い空地であったろうが、六角の建築家としての本能が直角に向けて開放したようだ。そして直角が主体の増築部が補完された。
黒・白の時間の対比と透視図法的斜線と直角とが複層しているのである。その融合と衝突の妙が得も言えぬ自動生成的複雑さを作り出している。建築の内と両者に囲い込まれた外が融合された。これが「都市性」の表現の素である。内の外にもう一つの内が生み出され、アノニマス的としか言い様のない全体が出現している。そして建築家本来の才質でもある「クレヴァスの家」の象徴性が実に複雑に秘匿されることになった。
六角邸の全体は街、すなわち外からは視えない。つまり、スケッチが出来ない。在るのは全て内の断片であり、その内にはキラリノ象徴性が隠れているのだ。都市はすべて内部空間の集合にならざるを得ない現実が自然に生成されたのだ。ここには神社もあり、小さな路地もあり、庭も体内化されて在る。象徴的に在る。その象徴性が、再び言うが見事にエレガントに無理なく表現されたのである。
今、現在の建築家がなし得る最良の可能性がここに表現された。恐らく六角は数十年の歳月、すなわち時を味方にしてこれを成した。時を味方にするのも又、建築家の特権であり、才覚そのものだ。
●2016年2月12日
世田谷村には今日も少なからぬ職人衆がはいっている。渡邊大志に昨日作成したアニミズム紀行9の絵巻物編及び「開放系技術小論」を説明して、小冊子にまとめるように依頼。ほとんど全てのわたくしのキャリアが入っているので、これは彼に任せるのが一番であろう。
昨日は六角鬼丈さんと連絡して、インド・バローダデザインアカデミーの今春のレクチャー他を相談した。インターネットによる六角鬼丈作品群に関するレクチャーとなる。インドの若者たちに彼の作品がどのように伝わるか、楽しみである。
2、わたくしと六角鬼丈とは作品の傾向がだいぶ異なり、そして大いに同じである。シェイクスピアの常套句のようだが、そうとしか言い様が無い。彼の思考、および実践のバックボーンを今の時代に引き寄せて要約すれば、近代建築の芸術的意味を純粋な形式で表現し続けているに尽きる。時代は一律な工学の時代に流れようとしている。彼は東京芸術大学の存在の意味を、その要として問い続けたとも言えるだろう。「伝家の宝塔」はそんな意味からすれば芸大の伝統としての伝家と、自分史つまりは家系の伝家とをダブらせてのマニフェストである。
岡本太郎の『今日の芸術』での今の芸術の意味と同様に、しかし更に日本近代の芸術の意味=価値を別の形で考え続けたのである。これも又、シェイクスピアの同じで異なるのルフランであるが、岡本がアヴァンギャルドとして今日の芸術の意味をストレートに問いただしたのと、同じで異なり、より伝統の幹に接続しようとした。東京芸大は日本の伝統の保持育成をその使命とする。その使命とやらの過剰な才質を折り合わせる困難さの中での建築創作の数々であった。造形の才質が過剰である、はともすれば形態追求の売淫者に堕す傾向が多分にある。その恐れらしきを六角は親子三代にわたる芸大教授の家系への矜持、そして日本の芸術の伝統の中心に居ることの自覚で強く踏みとどまり続けた。他に見ることが出来ぬ不偏振りではあった。
来年、予定している六角、石山二人展は、だから、同じで、異なるの二極同融が面白く、自然に出れば良いのではなかろうか。
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上掲の日記によれば、お二人の展覧会は2015年11月1日に決まったらしい。
<二人展をやりたいの申し入れである。婆娑羅の影を引きずるのではなく、新しいモノのプレゼンテーションである。
もう面倒クセイよの答えになるかと予想して話は長引くかと覚悟していたが、コレはあっけらかんと「やってみるか」となった。>
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瑛九-----------------------------オノサト・トシノブ 2
瑛九伝Ⅱ-----------------------山田光春 4
思い出--------------------------杉田栄 述 43
思い出すことなど(二)-------杉田正臣 45
思い出--------------------------日高笑子 49
--------エッチング---------瑛九
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