ときの忘れもの 今月のお勧め
■2017年05月01日(月)  植田正治 《砂丘人物》
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植田正治
《砂丘人物》
1950年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
26.7×23.7cm
サインあり

植田正治 Shoji UEDA
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。

1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005~2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。


■2017年04月01日(土)  堀尾貞治 《20 October 2016》
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堀尾貞治
《20 October 2016》
2016年
ドローイング
シートサイズ: 108.5×77.0cmm
サインあり

堀尾貞治 Sadaharu HORIO
1939年神戸に生まれる。三菱重工に勤務する傍ら、美術活動を精力的に継続。1957年より芦屋市展に連続出品。1964年より京都アンデパンダンに連続出品。

1965年第15回具体美術展に出品、翌年会員となり、1972年の解散まで参加。1968年吉原治良に師事する。「あたりまえのこと」をテーマに、年間100回以上の展示・パフォーマンスを行なっている。


■2017年03月11日(土)  石山修武 《アフリカの谷の門を出た者がいた》
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石山修武
《アフリカの谷の門を出た者がいた》
2016年
銅版
イメージサイズ: 36.0x28.8cm
シートサイズ: 50.0x39.5cm
Ed. 3
サインあり

石山修武 Osamu ISHIYAMA
建築家、早稲田大学教授。1944年生まれ。66年早稲田大学卒業。同大学院建設工学科修士課程終了。75年[幻庵]で衝撃的なデビュー。[伊豆の長八美術館]で85年吉田五十八賞、[リアス・アーク美術館]で95年日本建築学会賞、96年ヴェネチア・ビエンナーレでは瓦礫が散乱する廃墟を出現させ金獅子賞を受賞。著書『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』『現代の職人』『笑う住宅』『石山修武画文集 世田谷村日記』他。

雑誌『室内』連載のエッセイでファンになった方も多いでしょう。雪原に屹立する[十勝ヘレン・ケラー記念塔]に登ったときの震えるような感動を忘れられません。石山さんはまさに画家的資質をもった建築家だと確信しました。でなければあんな闇の建築を作れるはずがない。2004年春から突如始まった銅版画制作は到底はじめてとは思われぬ銅版の刻みが見事です。さすが建築界の異端児、豊かな色彩のドローイングも素晴らしい。


■2017年02月02日(木)  ソニア・ドローネ 《作品》
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ソニア・ドローネ
《作品》
リトグラフ
65.0x53.0cm
Ed. 75
サインあり

ソニア・ドローネ Sonia DELAUNAY
20世紀の前衛画家の中で女性として大きな足跡を残したソニア・ドローネ。昔、新聞社時代、お昼時に歩いて数分の竹橋の国立近代美術館によく通った。常設展示されていた夫のロベールの細長い「リズムー螺旋」を見るのが楽しみだった。ソニアとロベールの二人展が開かれたのも同美術館だった。新聞社を辞めて美術の世界に入ってから、パリに出張する機会が増えた。ロベールとソニアの夫婦の作品にたくさんめぐり合うことができた。ちょうど1980年代後半、パリにはソニアの作品を専門に扱う大きなギャラリーがあり、そこで彼女のテキスタイル作品、花瓶などのセラミック作品、そして版画を買い込んだものだ。ロシアのウクライナに生れたソニア・テルク(1885-1979)は、カールスルーエで絵を習い始め、1905年にパリに出て、アカデミー・ド・ラ・パレットで、アメデ・オザンファンやスゴンザックとともに学んだ。

1910年ロベール・ドローネ(Robert Delaunay, 1885年-1941年)と結婚した。パリ生まれのロベールはワシリー・カンディンスキー(ロシア)、ピエト・モンドリアン(オランダ)とともに抽象絵画の先駆者の一人であり、リズムと色彩に満ちた画風は「オルフィスム」といわれた。エッフェル塔を描いた連作はよく知られている。夫妻はともにディアギレフのロシア・バレエに協力し、彼女は衣装を担当した。ロベールより長命だったソニアは、油彩だけでなく、テキスタイルや版画など多方面にその才能を開花させた。特に色彩豊かな版画作品(リトグラフ、銅版)は素晴らしい。


■2017年01月07日(土)  オノサト・トシノブ 《二つの丸 黒と赤》
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オノサト・トシノブ
《二つの丸 黒と赤》
1958年
油彩、キャンバス
16.2x23.2cm
サインあり

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(~56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。

瑛九、山口長男、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家オノサト先生は、油彩のほかに約200点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン)を残しました。版元の私がアトリエに通い出した70年代はアトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活でした。東京国立近代美術館など多くの美術館に作品が収蔵されていますが、本格的な回顧展と画集の刊行が待たれます。


■2016年12月01日(木)  野口琢郎 《Landscape#32》
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野口琢郎
《Landscape#32》
2014年
箔画(木パネル、漆、金・銀・プラチナ箔、石炭、樹脂、透明アクリル絵具)
227.3×145.5cm
サインあり

作家コメント
画像で見て頂くと一目瞭然ですが、まず一番目立っていた金地の盛り上げ部分を、部分的に残した以外はノミで全て剥がし、左下の水玉部分他、何ヶ所かもヤスリで表面を削りました。 ノミでパネルまで傷つけてしまった箇所はパテで補修し、削った部分にそれぞれまた地の漆を塗り直してから、密度にこだわってコツコツと箔押しをした結果、元の作品よりも質の高い、良い作品に仕上げる事ができました。不思議なもので、細部を描き密度が増した事で全体の迫力が増し、作品のサイズまで大きく感じます。 また、石炭によって黒い道を描いた事で、作品を寝かして俯瞰するとまるで本当の町を見渡しているようにも見えます。

野口琢郎 Takuro NOGUCHI
1975年京都府生まれ。1997年京都造形芸術大学洋画科卒業。2000年長崎市にて写真家・東松照明の助手に就く。2001年京都西陣の生家に戻り、家業である箔屋野口の五代目を継ぐため修行に入る。その後も精力的に創作活動を続け、2004年の初個展以来毎年個展を開催している。


■2016年11月01日(火)  光嶋裕介 《ベルリン》
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光嶋裕介
《ベルリン》
2016年
和紙にインク
45.0×90.0cm
サインあり

作家コメント
雲のような、大地のような、予期せぬ形で混ざり合う白黒の和紙のなかに、古典主義の建築家シンケルを、モダニストのミースを、シャローンのフェルハーモニーを描き込んでいく。思いが赴くままにペンを進めていく。ひとつの建築を描き、余白との関係性を考慮しながら、次の建築を描き足していく。直感的に全体のバランスを意識しながらジャズのインプロビゼーション(即興)のようにして、ドローイングを描いていく。現実と幻想の狭間を彷徨いながら、独特な質感が獲得されていく。それは、建築群によって立ち上がる空間の質感のようなもの。

光嶋裕介 Yusuke KOSHIMA
建築家、一級建築士。 1979年米国ニュージャージー州生。 87年に日本に帰国。 以降、カナダ(トロント)、 イギリス(マンチェスター)、 東京で育ち、最終的に 早稲田大学大学院修士課程建築学を 2004年に卒業。 同年にザウアブルッフ・ハットン・ アーキテクツ(ベルリン)に就職。 2008年にドイツより帰国し、 光嶋裕介建築設計事務所を主宰。 2010年に桑沢デザイン研究所、 2011年に日本大学短期大学部にて 非常勤講師に就任。


■2016年10月01日(土)  秋葉シスイ「次の嵐を用意している」
akiba_32.JPG 600×481 140K 秋葉シスイ
《次の嵐を用意している》(24)
2016年
油彩、キャンバス
112.0x162.0cm (P100号)
サインあり

作家コメント
一番新しく描いた絵は、そのときの自分の状態と反して、とても静かで穏やかな絵になりました。
自分が心がけていることに、「深刻でない暗さ」というのがあります。
淋しさとか、取り残される感覚とか、それも肯定するような絵でありたいのです。
毎回コメントを求められる度に言っていますが、海の音を聞いていると、焚き火の炎を見ていると心が落ち着くように、自分の絵もそういう存在に近づけたらいいなと思います。
自分は恵まれた環境をいただいていて、大学を卒業してからもずっと絵を描き続けています。
「淡々と、続ける。」
これを今より大切にしながら、また絵を描いていきたいと思います。

秋葉シスイ Sisui AKIBA(1984-)
1984年千葉県生まれ。2007年和光大学表現学部芸術学科卒業。同年フタバ画廊で初個展「そこから」を開催。個展:2009年「向かう」(小島びじゅつ室/東京)、2010年「メロディーはない」(gallery坂巻/東京)、主なグループ展:2008年2009年「4 winds」(ときの忘れもの/東京)、2009年「この世界とのつながりかた」(ボーダレス・アートミュージアムNO-MA/滋賀)。
人物が佇む静謐とした風景や、遠くに何かの気配が存在する風景、又それすら何もない風景を描き続けている。

■2014年08月20日(水)  ウィージー 《コニー・アイランド、1940年7月28日午後4時》
weegee_05_coney-island.JPG 600×481 140Kウィージー
《コニー・アイランド、1940年7月28日午後4時》
1940年(Printed later)
Gelatin Silver Print
26.9×34.0cm
裏面にスタンプあり

1940年は記録的な猛暑が続き、ニューヨーカーはどのように乗り切ったのかを撮影するよう依頼されたことから、この写真が生まれました。
この作品は、1945年に発行した写真集『Naked City』の表紙にもなり、ジョージ・マイケルのCDジャケット(1990年)にもなっている代表的な作品のひとつです。
遥か彼方地平線までびっしりと人で埋め尽くされ、ジャンプしている人、大きく手をあげている人、担いでもらっている人など、人々の視線からは、今撮られようとしていることがわかっていることが読み取れます。

ウィージー WEEGEE(1899-1968)
1899年オーストリアのズロチエフ(現ポーランド領)生まれ。本名ウジェル・H・フェリグ (後にアーサー・フェリグ, 1899-1968)。1910年家族とともにアメリカへ移住。家計を助けるため14歳で学校をやめ、皿洗いや映画館のバイオリニスト、パスポート写真スタジオのアシスタントなどに従事した後、1924年にアクメ・ニューズピクチャーズ(現UPI通信社)の暗室技師として採用。1935年にフリーランスとなり、ニューヨーク市警マンハッタン本部を足掛りに殺人現場や交通事故、火事場の救出作業等を大型フラッシュで撮影し、数々の新聞に掲載される。警察無線を傍受し、愛車のシボレーで事故現場や殺人現場に先回りして数多くのスクープ写真で名を馳せた世界で最も名の知られたタブロイド紙写真家。警官と同時に現場に着くことがあり、警官に「占い(Ouija)板でも持っているのか?」と聞かれたことから Ouija から Weegee という異名が生まれたそうだ。1940年ニューヨークの近代美術館で展覧会を開催し、世に知られるようになり、1945年に出版した『裸の街』で時代の寵児となる。ニューヨークの暗部にシニカルな視線を注ぎ、直截的かつドラマティックな独自のスタイルを確立した。

■2014年07月22日(火)  ザオ・ウーキー 《無題》
29.jpg 600×386 55Kザオ・ウーキー
《無題》
1959年
アクアチント
イメージサイズ:34.5x59.3cm
シートサイズ :50.0x65.0cm
Ed.29/75
サインあり

今回紹介する作品は難波田龍起先生のアトリエに飾られていたザオ・ウーキーの銅版画です。黒の中にうっすらと浮かぶ青、中国水墨画の伝統に根ざした、東洋と西洋の美意識が融合したザオ・ウーキーの叙情的抽象の世界が難波田先生の心を捉えたのでしょうか。

ここ数年、ザオ・ウーキー(趙無極)の評価は高騰しており、オークションで銅版画が100万円を超すことも珍しくありません。
宗王朝にまでさかのぼる北京の名門の家系に生まれたザオ・ウーキーは杭州の国立美術学校に学び、1948年にパリに移住。翌年には早くも個展をひらき“中国のボナール”と評され大成功を収めます。アンフォルメル(非定形絵画)運動の渦中に身を投じながら、次第に独自の画風を成熟させます。ヨーロッパ各地を旅し、古典から現代美術に至るまで貪欲に吸収していった彼は「パリの影響が私の技術形成すべてに及んでいることを否定できなくとも、私の個性が確立されるにしたがって、次第に中国を再発見した」と語っています。
1964年、ウーキーの最大の支持者アンドレ・マルローの助力でフランス国籍を取得し、83年には故国北京で個展を開催。日本にもしばしば訪れており、箱根・彫刻の森美術館に「アンドレ・マルローに捧ぐ」(1976)が収蔵されています。

■ザオ・ウーキー Zao Wou-ki 趙無極(1921-2013)
1921年北京に生まれる。宋朝の王族の血を引く名家であり、高い教養を学べる環境に育つ。1941年出身校である杭州美術学校の講師となり、作品展を開く。1948年渡仏しアカデミー・グラン・ショミエールに通う。詩人のアンリ・ミショーや、画家ジョルジュ・マチウ、ピエール・スーラージュらと交流する。その頃パウル・クレーを知り、その記号的な題材の扱い方を模倣しながら、クレーが中国美術に目を向けていたことに注目。このことがザオ自身の出自を再確認するきっかけになる。1957年にアメリカを旅行し、フランツ・クライン、マーク・ロスコらアメリカ抽象表現主義の作家たちと知り合い影響を受ける。1960年代は中国の書を思わせる不定形が画面に立ち現れ、やがて動的なブラッシュワークが画面全体に広がる作風を展開する。さらに1980年代以降は色彩を空間に解き放つような画面に転換し、中国山水画や抽象表現主義を融合するかのような作品を制作した。

■2014年06月21日(土)  葉栗剛 〈男気〉 《祭りより・・・》
haguri_03.jpg 760×1140 278K葉栗剛
〈男気〉 《祭りより…》
2013年
木彫(寄木つくり)楠木、彩色
H210.0cm
サインあり

ときの忘れものは1995年の開廊以来、秋山祐徳太子(ブリキ彫刻)、北郷悟(テラコッタ、ブロンズ)、井桁裕子(桐塑)、宮脇愛子(真鍮、ガラス)など幾人かの立体の展覧会を開催したことはありますが、木彫による個展を開催したのは、先月開催した葉栗剛が初めてです。
先月の葉栗剛展では、2体の大作〈男気〉シリーズを中心に、9点の木彫作品を展示しました。

狭い会場、扱い経験のほとんどない木彫作品とあって、開催を躊躇する気持ちもあったのですが、それを上回る魅力と面白さに私たちは取り付かれました。
作家と知り合ったのも偶然で、昨年8月のアートフェア「ART NAGOYA」のレセプション会場で森本悟郎さんに紹介されました。あの夜は「あいちトリエンナーレ」のオープニングと重なり、愛知の美術関係者はほとんどそちらに流れ、レセプション会場にいた森本さんはよほどのへそ曲がりなのか(笑)と思ったほどでした。
その場でタブレット端末で葉栗さんに作品画像を見せてもらい興味をいだきました。ちょうどノリタケの森で個展があるというので名古屋滞在を一日延ばして実作をまとめて拝見することができ、その場で二体の木彫作品を購入したのでした。

2メートルを超す大作には皆さん圧倒されるでしょう。
来月上旬のART OSAKA 2014にも出展予定です。近隣にお住まいの方は是非お出かけ下さい。


葉栗剛 Takeshi HAGURI(1957-)
1957年名古屋市に生まれる。1982年に愛知県立芸術大学彫刻科を卒業し、1984年に愛知県立芸術大学大学院を修了。卒業後は木彫を主に制作しているが、野外作品はアルミニウム素材を使用する。主な個展は1996年・1998年 村松画廊(東京)、2006年 中京大学 C・スクエア(名古屋)、2009年千葉県アンデルセン公園こども美術館など多数。主なグループ展は1996年 神戸具象彫刻大賞展、2000年 フォクトランド国際彫刻シンポジウム(ドイツ)、2001年 富獄ビエンナーレ展(静岡県立美術館)、2013年 第16回岡本太郎現代 芸術賞」展 ほか。義をひろげた。愛知県立日進西高等学校、ふれあい公園(静岡県春野町)、伊自良村総合運動公園(岐阜県)、愛知県立西春高等学校 愛西市立佐屋小学校(愛知県)、長久手町立北小学校(愛知県) に作品が設置されている。

■2014年05月20日(火)  ジョン・ケージ "Fontana Mix (Light Grey)"
cage_01_Fontana-Mix.jpg 600×472 82Kジョン・ケージ
"Fontana Mix"(Light Grey)
1982
シルクスクリーン、紙フィルム4枚組
Image size: 50.0×70.0cm
Sheet size: 56.5×76.5cm
Ed.97
鉛筆サインあり
刷り:岡部徳三

今回ご紹介するのはジョン・ケージの作品です。
音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家とさまざまな貌をもつジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cage Jr.、1912年9月5日~1992年8月12日)が制作した希少な版画作品は実は日本でつくられました。
プロデュースしたのは名人刷り師・岡部徳三さんです。
実験音楽家としてジョン・ケージは前衛芸術全体に大きな影響を与え、独特の音楽論や表現によって、音楽の定義をひろげた20世紀の巨人といっていいでしょう。「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』があります。

岡部さんが刷ったこの作品、図版だけではよくわからないでしょう。
まるでジョン・ケージの楽譜のような複雑さですが、この作品は4つのパーツから成り立っています。

1)一番下側の紙(56.2×76.5cm)には、曲線が刷られています。
紙の上に3枚の透明なフィルムが重ねてあります。
それぞれサイズが違うので、セッティングの仕方で、絵柄が変化します。

2)大きいフィルム(56.5×76.0cm)には水玉が刷られています。
3)中サイズのフィルム(23.0×74.0cm)には格子縞が刷られています。
4)小サイズのフィルム(6.0×79.0cm)には直線が刷られています。

つまり、1)の紙と2)の大判フィルムはほぼ同じサイズですので、セッティングしても皆同じですが、
3)と4)はそれぞれ細長いので、セッティング(置き方)の仕方で、見え方が違ってくるわけです。
ジョン・ケージの音楽を思わせる版画作品です。


ジョン・ケージ John CAGE(1912-1992)
1912年アメリカ、ロサンゼルスに生まれる。ロサンゼルスのハイスクールを優秀な成績で卒業し、クレアモントのポモナ・カレッジに入学するが、学業に興味を失い渡欧の計画を立てる。1930年パリで建築家エルノ・ゴールドフィンガーに建築を学んだ後、マジョルカではじめて作曲を行なうが、当時の作品は現存しない。1931年にアメリカに戻り、ピアニストのリチャード・ビューリックに音楽を学ぶ。のちにヘンリー・カウエルの紹介でアルノルト・シェーンベルクに師事し、1934年から1937年にかけて南カリフォルニア大学のシェーンベルクのクラスで学んだ。音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家として知られる。「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いるなど、実験音楽家として前衛芸術全体に影響を与え、独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげた。

■2014年04月15日(火)  瑛九 《いじわる》 "Malicious"
qei_130_ijiwaru.jpg 438×600 198K瑛九
いじわる》 "Malicious"
1953年
エッチング (First state) (自刷り)
36.2×26.8cm
Ed.1
鉛筆サイン及び年記あり
※都夫人私家版銅版レゾネNo.144
※林グラフィックプレスNo.16

瑛九は1951年から1958年までの僅か足掛け8年の間に銅版画を約350点制作しました。
短期間に集中して制作した瑛九のエネルギーも凄いものですが、実際に刷られた数(自刷り)は極くまれに銅版画集などで25部刷ったものもありますが、ほとんどは1部から数部です。
中でも珍しいのが今回新発見の「いじわる」(ファースト・ステート)で、1部しか存在しない作品です。


瑛九 Q Ei(1911-1960)
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

■2013年07月30日(火)  瀧口修造の詩による版画集 『スフィンクス』
takiguchi01_01.jpg 493×600 103K瀧口修造
瀧口修造の詩による版画集 『スフィンクス』
限定50部
1954年
アイデア:久保貞次郎
編集:福島辰夫
表紙デザイン・レイアウト:山城隆一
挿絵:北川民次、瑛九、泉茂、加藤正、利根山光人、青原俊子(内間)
瀧口修造、北川民次、久保貞次郎、福島辰夫のサインあり

今回ご紹介するのは、瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』です。
ときの忘れものでは、1997年10月に開催した久保貞次郎追悼集刊行記念展で一度ご紹介しています。

『スフィンクス』は1954年に限定50部刊行されました。
瀧口修造の1930年代の詩に、北川民次瑛九泉茂、加藤正、利根山光人、青原俊子(内間)の6名の版画を組み合わせたもので、奥付に<アイデア久保貞次郎・編集福島辰夫>とありますが、久保先生が実質的な版元で、制作の実務を福島さんが担当されたようです。
1番本から6番本までには、通常の6枚の版画に加え、各作家のオリジナル・デッサンがそれぞれ1枚ずつ入っており、1番本は瑛九です。

ときの忘れものは、2冊を所蔵しています。
先ず、限定1/50、文字通り一番。岡鹿之助の旧蔵本で、瑛九のオリジナル・デッサンが挿入され、奥付には瀧口修造、北川民次、福島辰夫、久保貞次郎の4人の自筆ペン・サインが記入されています。
なぜ1番本が岡鹿之助の旧蔵本かというと、これは亭主の推測ですが、久保先生は(意外に思われるかも知れませんが)岡鹿之助を非常に尊敬しており、おそらく刊行後、真っ先に献呈されたのではないかと思います。

もう一冊は、限定48/50。こちらの奥付には瀧口修造、北川民次、久保貞次郎の3人の自筆ペン・サインが記入されています。

福島辰夫のサインが片方にあり、片方にないのはどうもたいした理由ではないようです。
なぜなら、この詩画集の2冊を詳細にチェックすると、6人の作家のサインもあったり、なかったりするからです。おそらくサイン漏れと思われます。

■2013年07月20日(土)  E.J.ベロック「Untitled」
bellocq_02_untitled.jpg 461×600 46KE.J.ベロック
Untitled
ゼラチンシルバープリント
25.2×20.2cm
裏面にサインあり

その生涯が謎に包まれ、生前はまったく知られること無く、遺された娼婦の写真が没後にフリードランダーによって再発見されたE.J.ベロックの作品をご紹介します。
この写真を撮影したのはベロックですが、モデルである笑みを浮かべた女性の視線の先には別のカメラマンが居たのではないか、と想像してしまいます。
画面の右下に写り込んでいるのはおそらく人の肩でしょう。
この肩と左上にある何かの影は同じような形で画面を切り取っていて、この写真がどのような状況で撮影されたのか判然としないまま、ミステリアスな印象を残しています。

ベロックについては、小林美香さんのエッセイ「写真のバックストーリー」第33回でも取りあげていただきました。


E.J.ベロック Ernest James BELLOCQ(1873-1949)
1873年生まれ。1949年、歿。写真家。ベロックの手によるものとして知られる現存の写真は、すべてニューオリンズの紅燈街「ストーリーヴィル」の娼館で撮られており、そこで働く女性たちが被写体として登場している。おおむねの女性たちは、やわらかな太陽光の差しこむ場所にいて、着衣でもヌードでも、こわばりを解いたゆったりとした時間のなかにあるように見える。こうした、男性が撮したように思えない極めてニュートラルなエロスが現在でも人々を魅了している。
ベロックの存在が写真史に登録されることになったのは、1958年ニューヨークからやってきた写真家リー・フリードランダーがあるギャラリーを訪れ、ベロック撮影の乾板を見出し関心を抱いたことをきっかけとする。1966年フリードランダーは、ベロックの乾板89点を買い取り、焼付け作業を行う。こうして1970年にニューヨーク近代美術館で公開されるなど、ベロックの女性たちは再出現した。

■2013年07月10日(水)  国吉康雄「綱渡りの女」
kuniyoshi_06.jpg 409×550 32K国吉康雄
綱渡りの女
1938年
リトグラフ
39.5x30.0cm
サインあり

1906年、国吉康雄は弱冠17歳の時に渡米し、以後4年間をロサンゼルス周辺で過ごします。労働に明け暮れる毎日を送りながら、次第に画家になりたいと考えるようになり、1910年にニューヨークを目指して東海岸へと移りました。
1916年にアート・スチューデンツ・リーグに入学。そこで出会った師や友人たちとの交遊と勉学が、国吉を芸術家に育て上げます。1922年、ニューヨークのダニエル画廊で個展を開き、以後同所での作品発表により、アメリカ美術界での地歩を着実に築いていきました。

1930年代に入り評価が高まる一方で、悪化する国際情勢のもと、アメリカで暮らす国吉にとって、日本人であることが大きな障害となり始めました。この時期の作品には、国吉の代表的なモチーフであるサーカスや酒場で働く女性たちが多く登場します。この作品もまた、その頃制作されたものです。
下からライトが照らされているのか、傘を持ってポーズをとる女の表情は陰影が濃くなり際立っています。国吉が描く女たちの身体はいずれも肉付きを誇張するようにデフォルメされ、女の美しさ、逞しさを感じさせます。
サーカスの女の哀愁と美をモノクロ一色のリトグラフで表現したこの作品は、日本版画史のみならず、20世紀を代表する名作版画と言えるでしょう。

日本では、2004年に東京国立近代美術館で大規模な回顧展が開催されましたが、特筆すべきはアメリカでの生前からの高い評価です。

1929年、ニューヨーク近代美術館での「19人の現代アメリカ作家展」の出品作家に選ばれたことで、その評価を決定的なものとします。
1948年にはホイットニー美術館で、現存作家としては初の回顧展を開催し、さらに1952年には第26回ヴェネツィア・ビエンナーレに、アメリカ代表として出品します。
同年の移民帰化法の成立により、ようやくアメリカ市民権を保有する資格が生じたものの、その手続きが完了するのを前に、翌年胃癌のため亡くなりました。
国吉の死去に際し、アメリカの新聞は「アメリカ最高の芸術家ヤスオ・クニヨシ死す」と報じ、アメリカ画壇における不動の地位と人望を讃えました。

困難な時代をアメリカ人画家になる事を夢見て懸命に生き抜き、見事にその夢を実現した国吉。彼は母校のリーグを中心に後進の指導にあたるかたわら、美術家組合の初代会長としてアーティストの地位向上のためにも尽力しました。
現在では、ベン・シャーン、エドワード・ホッパーらとともに、20世紀前半のアメリカを代表する画家の一人として評価され、その名声は世界的なものとなっています。

国吉康雄 Yasuo KUNIYOSHI(1889-1953)
1889年岡山県に生まれる。1906年アメリカ・シアトル移住。1910年ニューヨークに渡り、美術を学び始める。 1914年ホーマー・ボッスの指導するニューヨーク市の進歩的な美術学校、インディペンデント・スクールに入学。1916年にはアート・スチューデンツ・リーグに入学し、1920年4月までそこで学ぶ(終わりの3年間は特待生であった)。 ケネス・ヘイズ・ミラーに師事し、多大な影響を受ける。1922年ニューヨークのダニエル画廊で《国吉康雄油絵素描展》を開催。 1928年、1925年につづきヨーロッパに旅行し、ジュール・パスキンらパリの美術家たちと親交を深める。この頃石版画制作に没頭する。 1929年ニューヨーク近代美術館での《19人の現代アメリカ作家展》出品作家に選ばれる。
1931年父親を見舞うため日本に旅行。日本での初個展が東京三越百貨店と大阪三越百貨店で同時開催される。1932年アメリカに帰国。 翌年からアート・スチューデント・リーグで教鞭をとる(1953年まで)。 1937年アメリカ美術家会議の一員として1940年まで活発に活動する。 1942年の真珠湾攻撃により、日本に向けて停戦勧告のため短波ラジオ放送を行うなど日本の軍事侵略に抗議する活動を行う。 1948年ホイットニー美術館で回顧展が開催。これは同美術館がアメリカの現存作家に関して行なう個人展覧会の最初のものであった。 1952年ヴェネチアビエンナーレのアメリカ代表に選ばれる。 1953年アメリカ市民権の獲得を目前にニューヨークで亡くなる。享年63。

■2013年06月30日(日)  北川民次「男」
tamiji_06.jpg 422×600 60K北川民次

1934年
素描
46.5×34.0cm
サインあり

北川民次を知る人は先ずメキシコを思い浮かべるでしょう。
1914年、北川はアメリカのオレゴン州在住の兄を頼り渡米します。ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグの夜学に通い、ジョン・スローンに師事、学友には国吉康雄がいました。その後1921年にメキシコに渡り、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ディエゴ・リベラらと交友を持ち、メキシコ革命を標榜する彼らの壁画運動に影響を受けます。北川は革命後の美術を民衆のものにすることを目指した野外美術学校の教師として活動し、メキシコの児童画に取り組むなかで、アカデミックな美術概念から開放された独自の作風を形成します。
この作品は北川が日本に帰国する2年前に描かれました。穏やかな男の表情が印象的です。ところどころ太く引いた線は流動的で、すこし丸まった背中や足に手を掛けているポーズなどからリラックスしているように感じます。メキシコで一人の生活者として日々を送り絵を描いていた北川だからこそ、何気ない人々の一瞬を捉えることが出来たのでしょう。

北川民次 Tamiji KITAGAWA(1894-1989)
1894年静岡県生まれ。早 稲田大学を中退して1914(大正3)年渡米。ニューヨークのアート・スチューデ ンツ・リーグでジョン・スローンに師事、学友に国吉康雄がいた。1923(大正 12)年メキシコに渡り、シケイロス、リベラ等と交友、メキシコ・ルネサンス を標榜する壁画運動に賛同、またメキシコ郊外のトラルパムで児童美術教育に携わる。1931(昭和6)年タスコに野外美術学校を移して校長となる。1936(昭和 11)年帰国。翌年の第29回二科展に《タスコの祭》ほかを出品し注目を浴びる。
メキシコの風土や人々を描く独特の画風は多くのファンを集め、二科展、日本国際美術展で活躍した。1979(昭和53)年二科会会長となるも同会を退会、以後、悠々自適の生活を送り、明治、大正、昭和、平成の四代を見事に生き抜き、1989年瀬戸で歿した。
まさに大人の風格をもった作家でした。生涯に400点近い版画を制作しています。

■2013年06月20日(木)  ベン・ニコルソン「柱と木」
nicholson_03_column_and_tree.jpg 412×600 67Kベン・ニコルソン
柱と木
1967年
エッチング
29.5×20.7cm
Ed.50
サインあり

縦長の画面に簡潔な線で描かれているモチーフ。
右側の木はともかく、真ん中の大きなモチーフは、タイトルを見て柱であることに気がつきます。
背景はなく、色や細部よりもそのものが持つ形に興味があったように思えます。
白い画面に引かれた黒い線は、ニコルソンの代表作であるホワイトレリーフで表現された陰影のリズムにも通じるものがあるように感じられます。

ベン・ニコルソンは1894年イギリスに生まれ、ロンドンのスレード美術学校で学びます。画家である父親ウィリアムの影響から重厚なリアリズム作品を出発点とし、1920年代には静物画や風景画をおもに描いていました。
やがてパリでジョルジュ・ブラックらに出会い、モンドリアンやドローネーらが名を連ねていた「アブストラクション・クレアション」(抽象=創造)に参加。これを契機にヘンリー・ムーアらと共に、抽象芸術グループ「ユニット・ワン」を結成し、イギリスに本格的な抽象美術の土壌を築きました。
1930年代末から戦後にかけてはセント・アイヴスで抽象化の進んだ静物画や風景画を描き、1950年代後半からはスイスで暮らし、生涯精力的に創作活動を続けました。

リアリズムから出発し、具象と抽象の間を揺れ動きながらその繊細な接点を探求し続けたニコルソンの作品は、シンプルでありながらも観る者の感性にリズムを響かせてくれます。

ベン・ニコルソン Ben NICHOLSON(1894-1982)
1894年、イギリスのバッキンガムシャー生まれ。両親が画家であった。 ロンドンのスレード美術学校で学んだあと、ヨーロッパ諸国やアメリカ各地を旅し、第一次大戦後もロンドンとパリを往復し、アルプ、ミロ、モンドリアンと出会う。 1933年からグループ「ユニット・ワン」に参加していたが、モンドリアンに出会うことで、抽象的構成主義への傾向が確固なものとなる。
1937年にはナウム・ガポらとともに「サークル」を出版し、イギリスに構成主義美術を広げた。抽象作品については、白い彫刻レリーフなど、幾何学的抽象作品を制作した。単なる絵画にとどまらず、彫刻的な要素をたぶんに含む作品が多く、しかも、白や淡い色のものなど、色彩が抑えられている作品が多い。1982年、歿。

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