ときの忘れもの 今月のお勧め

■2024年2月13日(火)  村上早 MURAKAMI Saki 《カフカ》

村上早 MURAKAMI Saki
《カフカ》
2014年
銅版、雁皮刷り(リフトグランド)
イメージサイズ:100.0×135.0cm
シートサイズ:126.0×161.0cm
A.P.
サインあり

村上早 MURAKAMI Saki
1992年群馬県高崎市生まれ。高崎市立高崎経済大学附属高等学校を卒業後、2010年に武蔵野美術大学に入学し銅版画を始める。同大学院在学中の2015年に「FACE 2015 損保ジャパン日本興亜美術賞」優秀賞、「第6回山本鼎版画大賞展」大賞、「トーキョーワンダーウォール賞」の連続受賞で注目を集める。2016年に同大学院造形研究科修士課程美術専攻版画コース修了。故郷の高崎市にアトリエを構える。「引用」


■2024年1月30日(火)  草間彌生 Yayoi KUSAMA 《花》

草間彌生 Yayoi KUSAMA
《花》
1984年
シルクスクリーン
イメージサイズ: 53 x 45.5cm
シートサイズ: 61 x 53.5cm
Ed. 100, AP 10
サイン入り
※レゾネNo.34(阿部出版 2005年新版)

草間彌生 Yayoi KUSAMA
1929年長野県生まれ。49年京都市立美術工芸学校卒。57年渡米。無限に増殖する網や水玉の作品を制作、ソフトスカルプチャーなど環境彫刻の先駆けをなし、ボディペインティング、反戦運動など多数のハプニングを行う。75年帰国。93年ベネチア・ビエンナーレに参加。98-99年ニューヨークMoMA他で大回顧展が巡回し、20世紀の最も優れた女性作家の評価を決定的にした。2004年には【クサマトリックス】(森美術館)と【草間彌生―永遠の現在】(東京国立近代美術館)の二つの大展覧会が開催された。2000年芸術選奨文部大臣賞、2001年朝日賞、2006年高松宮殿下記念世界文化賞(第18回)を受賞。

草間さんが版画を発表したのは帰国後の79年からですが、当初は全く売れませんでした。版元の私たちには辛いことでしたが、草間さんの自作に寄せる自信は揺るぎないものでした。これだけ自己の才能を信じられる作家はそうはいない。バブル崩壊で男が自信喪失する中、経済的にも力をつけてきた女性達が、抑圧された女性の才能をアートで開花させた草間さんに圧倒的な支持を寄せ、空前の草間ブームを呼んだのはご承知の通りです。


■2024年1月16日(火)  オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO 《重なりの円》

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
《重なりの円》
1978年
キャンバスに油彩
100×100cm
サインあり

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(~56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。

瑛九、山口長男、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家オノサト先生は、油彩のほかに約200点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン)を残しました。版元の私がアトリエに通い出した70年代はアトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活でした。東京国立近代美術館など多くの美術館に作品が収蔵されていますが、本格的な回顧展と画集の刊行が待たれます。


■2023年12月26日(火)  倉俣史朗 Shiro KURAMATA ≪Cahier 2》より《74.花瓶(1990)、花瓶》

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
≪Cahier 2》より《74.花瓶(1990)、花瓶》
17.5×24.0cm
12版 9色 12度刷り

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
1960年代後半から革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年"Furniture in Irregular Forms"シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2023年12月19日(火)  倉俣史朗 Shiro KURAMATA 《Flower Vase #1302》

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
《Flower Vase #1302》
アクリル、ガラス管
W11.0×D11.0×H21.0cm
撮影:桜井ただひさ

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
1960年代後半から革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年"Furniture in Irregular Forms"シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2023年12月12日(火)  倉俣史朗 Shiro KURAMATA 《倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier 1》より《68.ミス ブランチ(1988)》

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
《倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier 1》より《68.ミス ブランチ(1988)》
25.0×32.0cm
15版 13色 15度刷り

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
1960年代後半から革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年"Furniture in Irregular Forms"シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2023年12月5日(火)  倉俣史朗 Shiro KURAMATA 《Sealing of rose (薔薇の封印)》

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
《Sealing of rose (薔薇の封印)》
2004年
アクリル
H20.0×20.0×6.0cm
作品底にシール付き

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
1960年代後半から革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年"Furniture in Irregular Forms"シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2023年11月28日(火)  オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO 《作品》 (黒とグレー)

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
《作品》 (黒とグレー)
1958年
水彩
18.8x28.2cm
サインあり

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(~56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。

瑛九、山口長男、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家オノサト先生は、油彩のほかに約200点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン)を残しました。版元の私がアトリエに通い出した70年代はアトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活でした。東京国立近代美術館など多くの美術館に作品が収蔵されていますが、本格的な回顧展と画集の刊行が待たれます。


■2023年9月12日(火)  関根伸夫 Nobuo SEKINE 《空相―円》

関根伸夫 Nobuo SEKINE
《空相―円》
1977年
ブロンズ
W55.5×D20.0×H56.0cm
台座W35.0×D15.0×H10.2cm
刻サインあり
*レゾネ No.147

関根伸夫 Nobuo SEKINE
1942年9月12日埼玉県生まれ。1962年多摩美術大学油絵科入学、1966年多摩美術大学大学院油画研究科入学、斉藤義重に師事(1968年卒業)。1968年に第8回現代美術展《位相No.6》、神戸須磨離宮公園現代彫刻展《位相―大地》、第5回長岡現代美術館賞展《位相―スポンジ》などで次々と受賞。日本発の現代美術ムーブメント[もの派]を代表する作家として活躍する。1970年第35回ヴェニス・ビエンナーレに《空相》出品。これを機に渡欧し、1971年帰国。

1973年環境美術研究所を設立(2010年閉所)。1977年デンマーク・ルイジアナ美術館にセキネ・コーナーが完成。1978年ルイジアナ美術館他でヨーロッパ巡回展を開催。2010年上海へ移住。2012年ロサンゼルス南部のパロスバーデス半島に移住し制作活動を行なう。2019年 5月13日ロサンゼルス郊外のトーランス市の病院にて永逝(享年76)。


■2023年9月5日(火)  毛綱毅曠 Kiko Mozuna 《題不詳》

毛綱毅曠 Kiko Mozuna
《題不詳》
1985年
紙にドローイング、コラージュ
イメージサイズ:94.0×36.0cm
シートサイズ:94.0×36.0cm
フレームサイズ:107.0×50.0cm
サインあり

毛綱毅曠 Kiko Mozuna
1941年北海道・釧路生まれの建築家。神戸大学で学んだのち、1978年に毛綱毅曠建築事務所を設立。都市や建築は宇宙の記憶を遺伝子として持っていると提唱し、独自の宇宙論に裏打ちされた建築物の設計を数多く手がけた。母親の住宅でもある入れ子構造の建築[反住器]は、代表作の一つ。

[釧路市立博物館][釧路市湿原展望資料館]では、日本建築学会賞を受賞した。著書に『都市の遺伝子』(青土社)、『記憶の建築』(PARCO出版)など。1995年からは多摩美術大学美術学部・建築学科の教授に就任。2001年に逝去した。


■2023年8月15日(火)  細江英公 Eikoh HOSOE 《Sagrada Familia 203》

細江英公 Eikoh HOSOE
《Sagrada Familia 203》
1975年 ヴィンテージ・ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:44.9×44.6cm
シートサイズ:60.6×50.7cm
サインあり

細江英公 Eikoh HOSOE
1933年山形県に生まれる。1950年英語を学ぶため米軍居住地に通い、アメリカ人の子供たちを撮影。1951年第1回「富士フォトコンテスト」で最高賞を受賞し、写真家を志す。1954年東京写真短期大学(現・東京工芸大学)写真技術科卒業。デモクラート美術家協会の瑛九と出会い、強い影響を受ける。1956年銀座・小西六フォトギャラリーにて初個展。1959年「VIVO」の設立に参加(1961年解散)。1960年日本写真批評家協会新人賞、富士フォトコンテスト年間作家賞受賞。1963年写真集『薔薇刑』で日本写真批評家協会作家賞受賞。1970年写真集『鎌鼬』で芸術選奨文部大臣賞受賞。

1975年東京写真大学短期大学部(現・東京工芸大学)の教授となる。1982年全米とパリで個展開催、パリ市賞受賞。1983年アルル国際写真フェスティバル名誉賞受賞。1994年東京工芸大学芸術学部教授に就任。日本写真協会年度賞(1993年)受賞。1995年清里フォトアートミュージアムの初代館長に就任。1998年東京工芸大学芸術学部(2003年で定年退職)及び大学院芸術学研究科(修士)課程教授に就任(2002年博士課程教授に就任)。紫綬褒章受章。2003年ロンドンにて英王立写真協会創立150周年特別記念メダル受章。2006年日本人初のルーシー賞(アメリカ)受賞。2010年文化功労者に選ばれる。2017年旭日重光章叙勲。


■2023年2月28日(火)  松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO 《作品》

松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
《作品》
1946年2月
紙にペン、水彩、コラージュ
Image size: 23.5x30.0cm
Sheet size: 24.2x32.7cm
サインあり
※『松本竣介素描』(1977年 株式会社綜合工房)口絵

松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
松本竣介(旧名佐藤俊介)は1912年東京に生まれ、2歳のときに岩手に移り少年時代を盛岡で過ごす。松本姓となるのは1936年に松本禎子と結婚してからである。 盛岡中学の入学後に聴力を失い、画家を志す。同級生には舟越保武がいる。1929年中学を中退し、上京、太平洋画会研究所に通う。1935年前衛グループNOVAの同人となり、二科展に初入選。翌年松本禎子と結婚し、二人で月刊の随筆雑誌『雜記帳』を創刊する(綜合工房刊、14号で廃刊)。同誌には林芙美子、難波田龍起、高村光太郎、萩原朔太郎らが文章を、藤田嗣治、鶴岡政男、麻生三郎らがデッサンや口絵を寄せた。1940年銀座の日動画廊で初個展を開催。

1941年美術雑誌『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し、「生きてゐる画家」を投稿、同誌4月号に掲載された。同年盛岡・川徳画廊で「舟越保武・松本俊介二人展」を開催。戦時中は1943年靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成し、第3回展まで開催した。戦後1946年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。1947年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加し、翌1948年毎日新聞主催の連合展に「彫刻と女」「建物」を出品、これが絶筆となり、僅か36歳の短い生涯を終えた。


■2023年2月14日(火)  磯崎新 Arata ISOZAKI "MOCA #1"

磯崎新 Arata ISOZAKI
"MOCA #1"
1983年
シルクスクリーン
イメージサイズ:46.5×98.0cm
シートサイズ:73.0×103.5cm
Ed.75
サインあり

磯崎新 Arata ISOZAKI
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』など多数。

早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。


■2023年2月1日(水)  関根伸夫 Nobuo SEKINE 《鉱物シリーズ》

関根伸夫 Nobuo SEKINE
《鉱物シリーズ》
1965年
キャンバスに油彩
51.5×75.0cm
*レゾネNo.15

関根伸夫 Nobuo SEKINE
1942年9月12日埼玉県生まれ。1962年多摩美術大学油絵科入学、1966年多摩美術大学大学院油画研究科入学、斉藤義重に師事(1968年卒業)。1968年に第8回現代美術展《位相No.6》、神戸須磨離宮公園現代彫刻展《位相―大地》、第5回長岡現代美術館賞展《位相―スポンジ》などで次々と受賞。日本発の現代美術ムーブメント[もの派]を代表する作家として活躍する。1970年第35回ヴェニス・ビエンナーレに《空相》出品。これを機に渡欧し、1971年帰国。

1973年環境美術研究所を設立(2010年閉所)。1977年デンマーク・ルイジアナ美術館にセキネ・コーナーが完成。1978年ルイジアナ美術館他でヨーロッパ巡回展を開催。2010年上海へ移住。2012年ロサンゼルス南部のパロスバーデス半島に移住し制作活動を行なう。2019年 5月13日ロサンゼルス郊外のトーランス市の病院にて永逝(享年76)。


■2023年1月24日(火)  磯崎新 Arata ISOZAKI 《内部風景III 増幅性の空間ーアラタ・イソザキ》

磯崎新 Arata ISOZAKI
《内部風景III 増幅性の空間ーアラタ・イソザキ》
1979年
アルフォト
80.0x60.0cm
Ed. 8
サインあり

磯崎新 Arata ISOZAKI
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』など多数。

早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。


■2023年1月10日(火)  葉栗剛 HAGURI Takeshi 《紋紋力士像・阿》

葉栗剛 HAGURI Takeshi
《紋紋力士像・阿》
2021年
H200×W120×D70cm
木彫 楠木、アクリル
サインあり

葉栗剛 HAGURI Takeshi
1957年名古屋市に生まれる。1982年に愛知県立芸術大学彫刻科を卒業し、1984年に愛知県立芸術大学大学院を修了。卒業後は木彫を主に制作しているが、野外作品はアルミニウム素材を使用する。 主な個展は1996年・1998年 村松画廊(東京)、2006年 中京大学 C・スクエア(名古屋)、2009年千葉県アンデルセン公園こども美術館、2013年 静岡松坂屋百貨店、2014年・2019年 ときの忘れもの、2019年 Art Miamiなど多数。 主なグループ展は1996年 神戸具象彫刻大賞展、2000年 フォクトランド国際彫刻シンポジウム(ドイツ)、2001年 富獄ビエンナーレ展(静岡県立美術館)、2013年 第16回岡本太郎現代 芸術賞」展 ほか。

2014年以降はときの忘れものより毎年国内外のアートフェアに出展。主なフェアは2014年 Art Osaka、2014年・2017年・2020年 Art Nagoya、2016年、2017年、2018年 Art Stage Singapore、2016年・2018年・2019年 Art Taipei、2017年・2018年・2019年 ArtMiami、2020年 LA Art Showなど。 国内では愛知県立日進西高等学校、ふれあい公園(静岡県春野町)、伊自良村総合運動公園(岐阜県)、愛知県立西春高等学校 愛西市立佐屋小学校(愛知県)、長久手町立北小学校(愛知県)、海外ではエアルバッハFLUR(ドイツ)に作品が設置されている。


■2023年1月3日(火)  ジョナス・メカス Jonas MEKAS 《ピクニック》

ジョナス・メカス Jonas MEKAS
《ピクニック》
2009年
CIBA print
35.4×27.5cm
サインあり

ジョナス・メカス Jonas MEKAS
1922年リトアニア生まれ。ソ連次いでナチス・ドイツがリトアニアを占領。強制収容所に送られるが、45年収容所を脱走、難民キャンプを転々とし、49年アメリカに亡命。16ミリカメラで自分の周りの日常を日記のように撮り始める。65年『営倉』がヴェネツィア映画祭で最優秀賞受賞。83年初来日。89年NYにアンソロジー・フィルム・アーカイヴズを設立。2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。

『リトアニアへの旅の追憶』『ウォルデン』の作者は映像を志す人にとって神様のような人ですが、前衛映画の蒐集保存のための美術館建設計画を進めていた頃のメカスさんは「フィルムは山ほどあるがお金がない」状態で、少しでも応援しようと83年に日本にお招きし7点の版画をつくって貰いました。それがメカスさん独自の写真作品制作のきっかけです。メカスさんの写真と版画はときの忘れものでいつでもご覧になれます。 2019年1月23日死去、享年96。


■2022年12月27日(火)  戸村茂樹 Shigeki TOMURA 《北緯40度 5》

戸村茂樹 Shigeki TOMURA
《北緯40度 5》
2020
銅版画エッチング
イメージサイズ:14.6×14.6cm
Ed.24
サインあり

戸村茂樹 Shigeki TOMURA
1951(昭和26)八戸市生まれ。岩手大学特設美術科卒業。1973年から75年にかけて国画会展に出品。その後84年から版画制作に専念し、85年岩手県優秀美術選奨受賞作家展(萬鉄五郎記念美術館)、87年版画「期待の新人作家」大賞展買上賞。また、89年、91年、第6回、7回ウッジ国際小版画展(ポーランド)で名誉メダル賞を連続受賞。98年第2回ブラティスラヴァ国際エクスリブリストリエンナーレグランプリ(スロバキア)を受賞するなど海外においても多数の受賞を重ねる。

ロシア、イギリス、ドイツ、アメリカなど、海外での作品発表も多い。 現在は盛岡市在住。風景描写の中に、現実には見えないが確実に存在しているものを、自然の時の移ろいや空気感に託して、一本一本丹念に線に刻み込んで描く。


■2022年12月20日(火)  ハ・ミョンウン 河明殷 Ha Myoung-eun "Operapink BRUSH"

ハ・ミョンウン 河明殷 Ha Myoung-eun
"Operapink BRUSH"
2022年
ミクストメディア
89.0×35.0×3.0cm
サインあり

ハ・ミョンウン(河明殷) HA Myoung-eun
韓国の若い世代を代表する女性アーティスト。20世紀のポップアートを用いて、さまざまな素材のオブジェへと再解釈して、独自の作品を作る。2011年ソンシン女子大学一般大学院西洋画科卒業。

主な個展:2009年「A master piece of painting Preznt展」ギャラリーS101(ソンシン女子大学)、2011年「A master piece BRUSH」Gana Art Wilギャラリー(ソウル)。その他グループ展、団体展多数。受賞歴:2010年マノフィン新進作家公募優秀賞、2011年ギャラリードール 選定作家。


■2022年12月13日(火)  仁添まりな NIZOE Marina 《泉》

仁添まりな NIZOE Marina
《泉》
2018年
絹本着彩・パネル・絹・岩絵具・水干絵具・墨
(左右組)117.0X80.0X3.0cm
(1パネル)117.0X40.0X3.0cm
サインあり

仁添まりな NIZOE Marina
1993 年、沖縄県北谷町生まれ。2010 年、沖縄県立芸術大学美術工芸学部絵画専攻(日本画コース)に入学。日本画を学びながら、学部3 年次から琉球絵画の研究を始める。2021 年に同大学院博士課程を修了し、現在は沖縄県立芸術大学の非常勤講師として働きながら県内外で作家活動を行っている。「琉球絵画の花鳥楽園」を一貫したテーマとして扱う。

中国の影響を受けた琉球絵画の花鳥画には、中国から伝来した花と鳥の吉祥を意味する組み合わせが多く取り入れられ、人々の願いを込めて描かれていたことに関心を抱き、現代に通じる吉祥画題として、自らの作品にアレンジを加えながら取り入れている。琉球絵画の描法を積極的に取り入れ、伝統的な吉祥の画題を、現代の琉球絵画で描く楽園として制作していくことで、伝統と革新を試みている。


■2022年12月06日(火)  瑛九 Q Ei 《三人のバレリーナ》

瑛九 Q Ei
《三人のバレリーナ》
1953年
フォト・デッサン
27.3x21.9cm
裏面にタイトルと年記あり

瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォト・デッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォト・デッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォト・デッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2022年11月29日(火)  瑛九 Q Ei 《題不詳》

瑛九 Q Ei
《題不詳》
フォト・コラージュ
26.0×33.3cm/26.0×36.4cm

瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォト・デッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォト・デッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォト・デッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2022年11月22日(火)  アンディ・ウォーホル Andy WARHOL "KIKU(小)"

アンディ・ウォーホル Andy WARHOL
"KIKU(小)"
1983年
シルクスクリーン
イメージ・サイズ:22.0×29.0cm
シートサイズ:23.0×30.cm

◆限定、サインはありません。
1983年の『アンディ・ウォーホル展』カタログに挿入したオリジナル作品の断裁前のフルマージンの作品です。

アンディ・ウォーホル Andy WARHOL
1928年8月6日アメリカ・ピッツバーグ生まれ。本名“Andrew Warhola”。49年カーネギー工科大学卒業。52年ニューヨーク・ヒューゴー画廊でドローイングによる初個展。56年友人と約6週間で世界一周旅行、日本にも立ち寄る。62年[ファクトリー]を設立。同年8月5日モンローの死に会い[マリリン]を制作。63年映画の制作を始める。68年ファクトリーで狙撃される。74年10月大丸の大個展のため来日。1987年永逝。

83年[アンディ・ウォーホル全国展]を企画した私は、ウォーホルに日本の花をテーマに、日本の刷り師を使いエディションを作って欲しいと頼んだ。刷り上がった千数百枚の『KIKU』『LOVE』連作6点を担いで、生まれて初めてN.Y.に行きウォーホルにサインを貰ったのだが、「君も描いてあげるよ」と言われたのに遠慮してしまったのが今となっては悔しい!89年にファクトリーを再訪した時は既に主はいなかった…。


■2022年11月01日(火)  元永定正 Sadamasa MOTONAGA 《ノーベル賞オマージュゆかわ》

元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ノーベル賞オマージュゆかわ》
1983年
シルクスクリーン
イメージサイズ:65.7x46.0cm
シートサイズ:76.0x56.0cm
Ed.100
サインあり

元永定正 Sadamasa MOTONAGA
1922年三重県生まれ。県立上野商業学校卒。55年関西を拠点にする[具体美術協会]に参加、吉原治良に師事する。絵具のたらし込みなど流動感ある絵画によって、折から世界を席巻したアンフォルメルの画家として一躍注目を浴びる。64年現代日本美術展で受賞したのをはじめ、各種国際展などで活躍。83年には日本芸術大賞を受賞し、名実共に日本を代表する抽象画家としての地位を確立した。2011年10月3日、死去。享年88。

「僕は知性派じゃなく、アホ派です」という元永さんは油彩やインスタレーションだけでなく、70年代からは版画制作にも精力的に取り組んでいますが、自作のネーミングは抜群のセンスです。私がエディションしたものだけでも[ふにゃらくにゃら][さきんちょにおれんじとぶるう][ひかりでているあかしかく][ぱぱぴぴぷう][かさねいろだま][おれぐりん]などなど、読むだけで楽しくなります。


■2022年10月11日(火)  瑛九 Q Ei 《作品》

瑛九 Q Ei
《作品》
1959年 
油彩・キャンバス
45.5×53.0cm (F10)
画面左下にサインと年記

瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォト・デッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォト・デッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォト・デッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。


■2022年10月04日(火)  葉栗剛 Takeshi HAGURI 〈男気〉《般若》

葉栗剛 Takeshi HAGURI
〈男気〉《般若》
2019年
木彫 楠木、アクリル
H105.0×W62.0×D20.0cm
サインあり3.2×54.0cm

葉栗剛 Takeshi HAGURI
1957年名古屋市に生まれる。1982年に愛知県立芸術大学彫刻科を卒業し、1984年に愛知県立芸術大学大学院を修了。卒業後は木彫を主に制作しているが、野外作品はアルミニウム素材を使用する。 主な個展は1996年・1998年 村松画廊(東京)、2006年 中京大学 C・スクエア(名古屋)、2009年千葉県アンデルセン公園こども美術館、2013年 静岡松坂屋百貨店、2014年・2019年 ときの忘れもの、2019年 Art Miamiなど多数。 主なグループ展は1996年 神戸具象彫刻大賞展、2000年 フォクトランド国際彫刻シンポジウム(ドイツ)、2001年 富獄ビエンナーレ展(静岡県立美術館)、2013年 第16回岡本太郎現代 芸術賞」展 ほか。

2014年以降はときの忘れものより毎年国内外のアートフェアに出展。主なフェアは2014年 Art Osaka、2014年・2017年・2020年 Art Nagoya、2016年、2017年、2018年 Art Stage Singapore、2016年・2018年・2019年 Art Taipei、2017年・2018年・2019年 ArtMiami、2020年 LA Art Showなど。 国内では愛知県立日進西高等学校、ふれあい公園(静岡県春野町)、伊自良村総合運動公園(岐阜県)、愛知県立西春高等学校 愛西市立佐屋小学校(愛知県)、長久手町立北小学校(愛知県)、海外ではエアルバッハFLUR(ドイツ)に作品が設置されている。


■2022年9月27日(火)  ル・コルビュジエ Le Corbusier 《モデュロール》

ル・コルビュジエ Le Corbusier
《モデュロール》
1956年
リトグラフ
イメージサイズ:70.5×53.0cm
シートサイズ:73.2×54.0cm
版上サインあり

ル・コルビュジエ Le Corbusier
建築家。1887年スイスのジュラ地方ラ・ショー・ド・ファン生まれ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1906年初めての住宅[ファレ邸]を設計。1917年パリに出るが、翌年左目を失明する。『エスプリ・ヌーボー』の創刊に関わり、美術運動にも参加。1922年建築事務所設立。代表作[サヴォア邸][ロンシャン礼拝堂][ラ・トゥーレット修道院][国立西洋美術館]他。1965年水泳中にカプ・マルタンで死去(78歳)。

ライト、ミースと並ぶ20世紀建築界の巨匠はリトグラフによる詩画集『直角の詩』など多くの版画を残しました。[近代建築の五原則]を提唱、近代建築国際会議(CIAM)メンバーとして近代建築理論の最大の指導者でした。油彩、彫刻、版画を制作、生涯絵筆を手放しませんでしたが、その死は悲劇的でした(母なる海に帰ったともいえますが)。そのあたりのことは磯崎新『栖十二』の美しいオマージュをお読み下さい。


■2022年9月20日(火)  関根伸夫 Nobuo SEKINE 《位相-大地 1》

関根伸夫 Nobuo SEKINE
《位相-大地 1》
1986年
シルクスクリーン
(刷り:岡部徳三)
イメージサイズ:87.2×186.5cm
シートサイズ:100.6×199.4cm
Ed.25
サインあり

関根伸夫 Nobuo SEKINE
1942年埼玉県生まれ。68年多摩美術大学大学院油画研究科卒業。同大学で斉藤義重に師事。第8回現代美術展、神戸須磨離宮公園現代彫刻展、第5回長岡現代美術館賞展などで次々と受賞。美術界に旋風を巻き起こす。日本 発の現代美術ムーブメント[もの派]を代表する作家として活躍する。70年ヴェニス・ビエンナーレ出品。73年環境美術研究所設立。78年デンマーク・ルイジアナ美術館他でヨーロッパ巡回展を開催。

須磨の公園の大地に大きな穴(円筒)をスコップで ひたすら掘り、掘り出した土をその穴の脇に円筒形に 積み上げた [位相ー大地]。彫刻の既成概念をひっくり返したこの作品は数週間の命で、人々の記憶にしか残りません。も し延々と その作業を続けたとしたら地球の中身は空っぽになり、隣にまったく同じ地球が生まれます。位相幾何学を援用 した思考 実験ともいうべき壮大なスケールのこの作品で関根先生は一躍スターとなりました。 2019年5月永眠。


■2022年9月13日(火)  靉嘔 Ay-O "move by rainbow an animale!" #13

靉嘔 Ay-O
"move by rainbow an animale!" #13
1963年
ミクスドメディア
47.2×47.9×17.2cm
サインあり

靉嘔 Ay-O
1931年茨城県生まれ。本名・飯島孝雄。54年東京教育大学卒。53年瑛九ら「デモクラート美術家協会」に参加。55年池田満寿夫らと[実在者]を結成。58年渡米、以後ニューヨークと日本を行き来する。62年ハプニングを中心とする前衛芸術グループ[フルクサス]に参加。71年のサンパウロ・ビエンナーレはじめ各国際展で次々と受賞。全ての物体、イメージを虹色で分解し再構築した虹の作品で世界的な評価を受ける。

1974年美術界に入り、版元として初めてエディションしたのが靉嘔さんの "I love you (Love letters)" でした。世界一を目指そうと未だ誰もやったことのないシルクスクリーン手刷りで限定11,111部という途方もない作品でした。 刷り上がった作品をトラックで靉嘔さんのアトリエに運び込み16時間ぶっ通しでサインして貰いました。お互い若かった!一目で虹=靉嘔とわかるほど、その作風は独創的でオリジナリティは強烈です。


■2022年9月6日(火)  塩見允枝子 SHIOMI Mieko 《晩餐と白昼夢のための特選スパイス》

塩見允枝子 SHIOMI Mieko
《晩餐と白昼夢のための特選スパイス》
1995年
ミクスドメディア
瓶高:16.2cm
箱サイズ:21.5×13×9cm
Ed.12
サインとナンバー入り

塩見允枝子(1938-) SHIOMI Mieko
1938年岡山市生まれ。1961年東京芸術大学楽理科卒業。在学中より小杉武久氏らと「グループ・音楽」を結成し、即興演奏やテープ音楽の制作を行う。1963年ナム・ジュン・パイクによってフルクサスに紹介され、翌年マチューナスの招きでニューヨークへ渡る。1965年航空郵便による「スペイシャル・ポエム」のシリーズを開始し、10年間に9つのイヴェントを行う。一方、初期のイヴェント作品を発展させたパフォーマンス・アートを追求し、インターメディアへと至る。1970年大阪へ移住。以後、声と言葉を中心にした室内楽を多数作曲。 1990年ヴェニスのフルクサス・フェスティヴァルに招待されたことから欧米の作家達との交流が復活。

1992年ケルンでの「FLUXUS VIRUS」、1994年ニューヨークでのジョナス・メカスとパイクの共催による「SeOUL NYmAX」などに参加すると同時に、国内でも「フルクサス・メディア・オペラ」「フルクサス裁判」などのパフォーマンスや、「フルクサス・バランス」などの共同制作の視覚詩を企画する。

1995年パリのドンギュイ画廊、98年ケルンのフンデルトマルク画廊で個展。その他、欧米での幾つかのグループ展への出品やエディションの制作にも応じてきた。 2012年東京都現代美術館でのトーク&パフォーマンス「インターメディア/トランスメディア」で、一つのコンセプトを次々に異なった媒体で作品化していく「トランスメディア」という概念を提唱。 音楽作品やパフォーマンスの他に、視覚詩、オブジェクト・ポエムなど作品は多岐にわたり、国内外の多くの美術館に所蔵されている。現在、京都市立芸術大学・芸術資源研究センター特別招聘研究員。


■2022年8月30日(火)  宮脇愛子 Aiko MIYAWAKI "Work" (5)

宮脇愛子 Aiko MIYAWAKI
"Work" (5)
2013年
紙に銀ペン
イメージサイズ:23.2×28.5cm
シートサイズ :29.8×42.0cm
サインと年記あり

宮脇愛子 Aiko MIYAWAKI
1929年東京生まれ。1952年日本女子大学文学部史学科卒業。阿部展也、斎藤義重に師事。1957-66年欧米各地に滞在し、制作活動を行なう。真鍮、石、ガラスを用いた立体作品のほか油彩や墨絵を制作。代表的な彫刻作品《うつろひ》は、モンジュイック・オリンピック広場(バルセロナ)、ラ・デファンス(パリ)、奈義町現代美術館など世界各地にコレクションされている。1998年神奈川県立近代美術館で回顧展、国内外で多数開催。晩年は車椅子での不自由な闘病生活にもかかわらず創作意欲は衰えず、油彩や ドローイングを制作し続けた。2014年8月20日84歳で永逝。

宮脇のシルクスクリーンや銅版画からは繊細で静かな華やかさが漂う。マン・レイが撮影したモナリザのポーズの若き日の宮脇の肖像写真は、夫君の磯崎新のデザインでシルクスクリーンのポスターになった。しなやかな金属ワイヤによる[うつろい]がもたらす軽やかで爽やかな空間のゆらぎは、宮脇の独創で、自然と人間の感性が共鳴する新たな現代美術の可能性を人々に訴えかけている。


■2022年8月23日(火)  ジョン・ケージ John CAGE "Fontana Mix(Orange/Tan)"

ジョン・ケージ John CAGE
"Fontana Mix(Orange/Tan)"
1982年
シルクスクリーン、紙、フィルム3枚組
56.7x76.5cm
Ed.97
サインあり

ジョン・ケージ John CAGE
1912年アメリカ、ロサンゼルスに生まれる。ロサンゼルスのハイスクールを優秀な成績で卒業し、クレアモントのポモナ・カレッジに入学するが、学業に興味を失い渡欧の計画を立てる。1930年パリで建築家エルノ・ゴールドフィンガーに建築を学んだ後、マジョルカではじめて作曲を行なうが、当時の作品は現存しない。1931年にアメリカに戻り、ピアニストのリチャード・ビューリックに音楽を学ぶ。

のちにヘンリー・カウエルの紹介でアルノルト・シェーンベルクに師事し、1934年から1937年にかけて南カリフォルニア大学のシェーンベルクのクラスで学んだ。音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家として知られる。「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いるなど、実験音楽家として前衛芸術全体に影響を与え、独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげた。代表的な作品に『4分33秒』がある。 1992年没、享年79。


■2022年8月9日(火)  ジャン・ベルト・ヴァンニ Gian Berto VANNI "THE LITTLE GIRL AT DAWN"

ジャン・ベルト・ヴァンニ Gian Berto VANNI
"THE LITTLE GIRL AT DAWN"
ジャン・ベルト・ヴァンニ銅版画集『love』6点セットより
2014年
ソフトグランドエッチング(刷り:白井四子男)
イメージサイズ:14.8×14.8cm
シートサイズ:35.0×27.0cm
Ed.20
サインあり
ときの忘れものエディション
※単品での頒布もあり

ジャン・ベルト・ヴァンニ Gian Berto VANNI
1927年、ローマに生まれる。1946~48年、サンルカアカデミー、ローマ大学建築学部に学ぶ。1947年アンドレ・モーリアック作「アスモデ」、ヴィットリオ・セルモンテ作「私たちの美しい城」の舞台美術を担当(後者はマルチェロ・マストロヤンニのデビュー作)。1949~60年パリ在住。1952~53年フルブライト奨学金を得て、エール大学にて絵画を学ぶ(同期にヨゼフ・アルバース)。1953年、ヴィラジュイフ市の住宅計画に参加、100棟のアパートの色彩決定に携わる。1954年、ルチアーノ・エマー監督、映画「ピカソ」のカラー・アドバイザーを務める。.1959年、ルネ・デュピュイ演出「フィガロの結婚」の舞台美術を担当。

1960~79年、ローマ在住(1966年はモロッコ在住)。1963~74年、シルクスクリーン・ワークショップを開設、指導―アルジフ(イスラエル)、コルフ(ギリシア)、チケフェル(イタリア)、クサダシ(トルコ)、ジェルバ(チュニジア)、アガディール(モロッコ)、マラケシュ(モロッコ)、モンタリヴェ(フランス)、ヴィテル(フランス)、ポルト・ペトロ(スペイン)。1966年、ケルン市主催、ライン・ティバ絵画展で第一席受賞。1979年からニューヨーク在住。1983年、来日しイタリア大使館後援により東京・ギャラリー方寸にて個展開催。以後、奈良・西田画廊、小浜・ギャラリーM、仙台・ギャラリー青城、久留米・筑後画廊他にて個展。1984年、クーパーユニオン美術学校教授となる。2017年、死去。


■2022年8月2日(火)  奈良原一高 Ikko NARAHARA 澁澤龍彦オマージュ〈スター・レクイエムーシブサハ〉 (1) 天界の温度…

奈良原一高 Ikko NARAHARA
澁澤龍彦オマージュ〈スター・レクイエムーシブサハ〉 (1) 天界の温度…
1995年
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:33.0×22.0cm
シートサイズ:35.5×28.0cm
Ed.4

奈良原一高 Ikko NARAHARA
1931年福岡県生まれ。本姓は楢原。中央大学法学部卒業後、早稲田大学大学院で美術史を専攻。前衛美術に傾倒し、1955年には池田満寿夫、靉嘔らが結成したグループ「実在者」に参加。在学中の1956年に、初個展「人間の土地」を開催し、ほぼ無名の新人の個展としては例外的な反響を呼び、鮮やかなデビューを飾った。それに続き、1958年には極限状況を生きる人間にフォーカスを当てた「王国」を発表、日本写真批評家協会賞新人賞受賞。1959年東松照明・細江英公・川田喜久治・佐藤明・丹野章と、写真家によるセルフ・エージェンシー「VIVO」を結成(1961年解散)。

その後滞欧し、帰国後の出版した写真集 『ヨーロッパ静止した時間』で、日本写真批評家協会賞作家賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞。1975年写真集 『消滅した時間』、1986年写真集『ヴェネツィアの夜』で日本写真協会賞年度賞。1996年紫綬褒章受章。2002年パリ写真美術館で、2004年東京都写真美術館で回顧展が開催されるなど、国内外で高く評価されている。2005年日本写真協会賞功労賞受賞。 2020年死去。


■2022年7月26日(火)  ロベール・ドアノー Robert DOISNEAU "La baiser de l'Hotel de Ville, Paris" パリ市庁舎前のキス

ロベール・ドアノー Robert DOISNEAU
"La baiser de l'Hotel de Ville, Paris" パリ市庁舎前のキス
1950年(1977年プリント)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:23.9×32.1cm
シートサイズ:30.2×40.2cm
サインあり

ロベール・ドアノー Robert DOISNEAU
1912年パリ郊外のジョンティイ生まれ。印刷会社でリトグラフの仕事を経験後、1931年写真家に転向。1934年ルノー自動車で広告、工業写真家として勤務し、1939年に独立するが、すぐに召集を受ける。パリ陥落後はレジスタンス活動に加わる。戦後は1946年にラフォ通信社に参加し、フリー写真家として「パリ・マッチ」などのフォトジャーナリズム分野で活躍。一方、1948年から1952年まではファッション誌の「ヴォーグ」の仕事も行う。

パリの庶民生活をエスプリを持って撮影し、もっともフランス的な写真家として根強い人気がある。1947年にコダック賞、1956年にニエペス賞を受賞。また、シカゴ美術館(1960年)、フランス国立図書館(1968年)、ジョージ・イーストマン・ハウス(1972年)をはじめ世界中の主要美術館で回顧展が開催されています。1994年、歿。


■2022年7月19日(火)  安藤忠雄 Tadao ANDO 《ベネトン・アートスクールII》

安藤忠雄 Tadao ANDO
《ベネトン・アートスクールII》
1998年
シルクスクリーン
イメージサイズ:39.0×111.5cm
シートサイズ:60.0×120.0cm
A版:Ed.10
B版:Ed.35
サインあり

◆安藤忠雄、初の大型版画集「安藤忠雄版画集 1998」の10点中の1点。

安藤忠雄 Tadao ANDO
建築家、東京大学名誉教授。1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、69年安藤忠雄建築研究所を設立。[住吉の長屋]により79年日本建築学会賞受賞、衝撃的なデビュー。代表作に[六甲の集合住宅][光の教会][ファブリカ/ベネトンアートスクール][フォーワース現代美術館][直島コンテンポラリーミュージアム][表参道ヒルズ]他。吉田五十八賞、日本芸術院賞、プリツカー賞、高松宮殿下記念世界文化賞、UIA賞他を受賞。2010年文化勲章受章。著書『連戦連敗』『旅』他多数。
学歴なしでいきなり東大教授に就任したときは世間をあったといわせましたが、阪神・淡路震災復興支援にも尽力するなど、安藤さんほど建築家という職業を世に知らしめた人はいないでしょう。84年から版画制作に取り組み、『安藤忠雄版画集 1998』をときの忘れものより出版。ニューヨークMoMA、パリ・ポンピドゥーセンターなど世界各地で建築展を開催、出品される美しいドローイング、版画類は世界中のコレクター垂涎の的です。


■2022年7月12日(火)  恩地孝四郎 Koshiro ONCHI "Composition"

恩地孝四郎 Koshiro ONCHI
"Composition"
1953年
リトグラフ
イメージサイズ:44.0×28.0cm
シートサイズ:51.0×39.5cm
Ed.20
サインあり
※『恩地孝四郎版画集』掲載No.403(1975年 形象社)

恩地孝四郎 Koshiro ONCHI
1891年東京生まれ。竹久夢二に感化を受ける。東京美術学校で洋画・彫刻を学ぶが中退。藤森静雄・田中恭吉と[月映]を刊行。萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の装幀と挿画を担当、28年『北原白秋全集』の装幀で装本家の地位を確立。抽象画の先駆者、また日本の版画界のリーダーとして大きな足跡を残した。『飛行官能』『海の童話』『博物誌』『虫・魚・介』など優れた自作装画本を刊行した。1955年永逝(享年63)。

繊細でシャープな抽象作品の数々が、創作版画のみならず日本における抽象表現の先駆として高く評価されている恩地孝四郎ですが、94年に横浜美術館で開催された回顧展では、初期から晩期にいたる版画作品をはじめ、本の装幀、オブジェ、写真作品などが網羅され、この画家の才能がいかに時代に先駆けていたかを改めて再認識させるものでした。


■2022年7月5日(火)  細江英公 Eikoh HOSOE "Casa Battlo 123"

細江英公 Eikoh HOSOE
"Casa Battlo 123"
1979年
ヴィンテージ・ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:44.9×57.4cm
シートサイズ:50.6×60.6cm
サインあり

細江英公 HOSOE Eikoh
写真家。清里フォトアートミュージアム館長。1933年山形県生まれ。本名・敏廣。18歳のときに[富士フォトコンテスト学生の部]で最高賞を受賞し、写真家を志す。52年東京写真短期大学(現東京工芸大学)入学。デモクラート美術家協会の瑛九と出会い強い影響を受ける。54年卒業。56年小西六ギャラリーで初個展。63年三島由紀夫をモデルに撮った[薔薇刑]で評価を確立し、70年[鎌鼬(かまいたち)]で芸術選奨文部大臣賞受賞。

[薔薇刑][鎌鼬][抱擁][おとこと女]などの写真集は今や稀覯本です。瑛九の周辺に集まった画家たちの中では最年少だった細江先生ですが、98年紫綬褒章、2003年には英国王立写真協会創立百五十周年記念特別賞を受賞するなど、国内外において高い評価を獲得しています。功なり名を遂げても一ケ所に安住することなく、時代の先端をカメラを通して見つめ、謙虚で若い才能を愛する姿勢は一貫しています。 


■2022年6月28日(火)  オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO 《二つの丸》

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
《二つの丸》
1958年
水彩
28.2x37.8cm
サインあり

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
1912年長野県生まれ。その後群馬県桐生に移り住む。本名・小野里利信。津田青楓洋画塾に学ぶ。35年黒色洋画展を結成。38年自由美術家協会会員となる(~56年、以後無所属)。41年に一兵卒として出征、戦後のシベリア抑留を経て48年に帰国後は桐生のアトリエでひたすら円を描き続けた。64年・66年にはベニス・ビエンナーレに日本代表として出品。戦前、戦後と親友の瑛九とともに前衛美術の道を歩み続けた。86年永逝。

瑛九、山口長男、菅井汲らとともに日本を代表する抽象画家オノサト先生は、油彩のほかに約200点の版画作品(リトグラフ、シルクスクリーン)を残しました。版元の私がアトリエに通い出した70年代はアトリエをほとんど一歩も出ず、終日絵筆を握る孤高の生活でした。東京国立近代美術館など多くの美術館に作品が収蔵されていますが、本格的な回顧展と画集の刊行が待たれます。


■2022年6月21日(火)  ル・コルビュジエ Le Corbusier 《開いた手》

ル・コルビュジエ Le Corbusier
《開いた手》
1963年
リトグラフ
シートサイズ:65.0x50.0cm
版上サイン

ル・コルビュジエ Le Corbusier
建築家。1887年スイスのジュラ地方ラ・ショー・ド・ファン生まれ。本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1906年初めての住宅[ファレ邸]を設計。1917年パリに出るが、翌年左目を失明する。『エスプリ・ヌーボー』の創刊に関わり、美術運動にも参加。1922年建築事務所設立。代表作[サヴォア邸][ロンシャン礼拝堂][ラ・トゥーレット修道院][国立西洋美術館]他。1965年水泳中にカプ・マルタンで死去(78歳)。

ライト、ミースと並ぶ20世紀建築界の巨匠はリトグラフによる詩画集『直角の詩』など多くの版画を残しました。[近代建築の五原則]を提唱、近代建築国際会議(CIAM)メンバーとして近代建築理論の最大の指導者でした。油彩、彫刻、版画を制作、生涯絵筆を手放しませんでしたが、その死は悲劇的でした(母なる海に帰ったともいえますが)。そのあたりのことは磯崎新『栖十二』の美しいオマージュをお読み下さい。


■2022年6月14日(火)  伊藤公象 ITO Kosho 《pearl blueの襞—空へ・ソラから》

伊藤公象 ITO Kosho
《pearl blueの襞—空へ・ソラから》
2016年
磁土・陶土
φ185.0×H20.0cm(サイズ可変)

伊藤公象 ITO Kosho
石川県金沢市に生まれる。1972年茨城県笠間市に伊藤知香と現伊藤アトリエを設立。1997年女子美術大学教授、同大学院教授(1999年定年及び満期退職)。2002年金沢美術工芸大学大学院専任教授(2009年任期満了退職。現在、金沢美術工芸大学大学院 名誉客員教授)。

主な活動として、1978年「インド・トリエンナーレ」日本代表として参加し、ゴールドメダル受賞。1984年「ヴェネチア・ビエンナーレ」に日本代表として参加。1985年伊藤公象企画の野外展示会「'85 涸沼・土の光景」(茨城県涸沼湖畔にて)をプロデュースし、「瀬戸内国際」や「越後妻有」等、大規模な野外国際芸術祭のルーツと評価される。2002年英国国立テート・ギャラリーのセント・アイビス美術館にて個展「ウイルス-地の襞、海襞」開催。2009年「伊藤公象 WORKS 1974~2009」展(茨城県陶芸美術館、東京都現代美術館の巡回展)2016年「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭」に参加。穂積家住宅の庭園にて多軟面体のインスタレーションを披露。2018年新潟県「水と土の芸術祭2018」に参加、メイン会場にてインスタレーション「地表の襞 エロスとタナトスの迫間」を展示。現在も笠間の伊藤アトリエで精力的に制作活動を行う。


■2022年5月31日(火)  松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke 《人》

松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke
《人》
1946年
紙にインク、墨
イメージサイズ:24.5×17.5cm
シートサイズ:28.0×19.0cm
※『松本竣介とその時代』(大川美術館 2011年)p.34所収 No.68
※『没後70年松本竣介展』(ときの忘れもの 2018年)p.7 所収 No.3

松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke
松本竣介(旧名佐藤俊介)は1912年東京に生まれ、2歳のときに岩手に移り少年時代を盛岡で過ごす。松本姓となるのは1936年に松本禎子と結婚してからである。 盛岡中学の入学後に聴力を失い、画家を志す。同級生には舟越保武がいる。1929年中学を中退し、上京、太平洋画会研究所に通う。1935年前衛グループNOVAの同人となり、二科展に初入選。翌年松本禎子と結婚し、二人で月刊の随筆雑誌『雜記帳』を創刊する(綜合工房刊、14号で廃刊)。同誌には林芙美子、難波田龍起、高村光太郎、萩原朔太郎らが文章を、藤田嗣治、鶴岡政男、麻生三郎らがデッサンや口絵を寄せた。1940年銀座の日動画廊で初個展を開催。1941年美術雑誌『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し、「生きてゐる画家」を投稿、同誌4月号に掲載された。同年盛岡・川徳画廊で「舟越保武・松本俊介二人展」を開催。戦時中は1943年靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成し、第3回展まで開催した。戦後1946年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。1947年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加し、翌1948年毎日新聞主催の連合展に「彫刻と女」「建物」を出品、これが絶筆となり、僅か36歳の短い生涯を終えた。


■2022年5月24日(火)  松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke 《コップを持つ子ども》

松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke
《コップを持つ子ども》
1942年
紙に鉛筆、コンテ、木炭
イメージサイズ:34.0×27.0cm
シートサイズ:34.8×27.2cm
サインあり

松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke
松本竣介(旧名佐藤俊介)は1912年東京に生まれ、2歳のときに岩手に移り少年時代を盛岡で過ごす。松本姓となるのは1936年に松本禎子と結婚してからである。 盛岡中学の入学後に聴力を失い、画家を志す。同級生には舟越保武がいる。1929年中学を中退し、上京、太平洋画会研究所に通う。1935年前衛グループNOVAの同人となり、二科展に初入選。翌年松本禎子と結婚し、二人で月刊の随筆雑誌『雜記帳』を創刊する(綜合工房刊、14号で廃刊)。同誌には林芙美子、難波田龍起、高村光太郎、萩原朔太郎らが文章を、藤田嗣治、鶴岡政男、麻生三郎らがデッサンや口絵を寄せた。1940年銀座の日動画廊で初個展を開催。1941年美術雑誌『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し、「生きてゐる画家」を投稿、同誌4月号に掲載された。同年盛岡・川徳画廊で「舟越保武・松本俊介二人展」を開催。戦時中は1943年靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成し、第3回展まで開催した。戦後1946年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。1947年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加し、翌1948年毎日新聞主催の連合展に「彫刻と女」「建物」を出品、これが絶筆となり、僅か36歳の短い生涯を終えた。


■2022年5月10日(火)  松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke 《作品》

松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke
《作品》
1945年
紙にペン、水彩
イメージサイズ:16.0×12.0cm
シートサイズ:27.5×20.0cm
サインあり
※「松本竣介展」(1997年 南天子画廊)の出品作品。

松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke
松本竣介(旧名佐藤俊介)は1912年東京に生まれ、2歳のときに岩手に移り少年時代を盛岡で過ごす。松本姓となるのは1936年に松本禎子と結婚してからである。 盛岡中学の入学後に聴力を失い、画家を志す。同級生には舟越保武がいる。1929年中学を中退し、上京、太平洋画会研究所に通う。1935年前衛グループNOVAの同人となり、二科展に初入選。翌年松本禎子と結婚し、二人で月刊の随筆雑誌『雜記帳』を創刊する(綜合工房刊、14号で廃刊)。同誌には林芙美子、難波田龍起、高村光太郎、萩原朔太郎らが文章を、藤田嗣治、鶴岡政男、麻生三郎らがデッサンや口絵を寄せた。1940年銀座の日動画廊で初個展を開催。1941年美術雑誌『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し、「生きてゐる画家」を投稿、同誌4月号に掲載された。同年盛岡・川徳画廊で「舟越保武・松本俊介二人展」を開催。戦時中は1943年靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成し、第3回展まで開催した。戦後1946年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。1947年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加し、翌1948年毎日新聞主催の連合展に「彫刻と女」「建物」を出品、これが絶筆となり、僅か36歳の短い生涯を終えた。


■2022年5月7日(土)  松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke 《作品》

松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke
《作品》
紙にペン
イメージサイズ:19.8×14.5cm
シートサイズ:26.0×18.2cm

松本竣介 MATSUMOTO Shunsuke
松本竣介(旧名佐藤俊介)は1912年東京に生まれ、2歳のときに岩手に移り少年時代を盛岡で過ごす。松本姓となるのは1936年に松本禎子と結婚してからである。 盛岡中学の入学後に聴力を失い、画家を志す。同級生には舟越保武がいる。1929年中学を中退し、上京、太平洋画会研究所に通う。1935年前衛グループNOVAの同人となり、二科展に初入選。翌年松本禎子と結婚し、二人で月刊の随筆雑誌『雜記帳』を創刊する(綜合工房刊、14号で廃刊)。同誌には林芙美子、難波田龍起、高村光太郎、萩原朔太郎らが文章を、藤田嗣治、鶴岡政男、麻生三郎らがデッサンや口絵を寄せた。1940年銀座の日動画廊で初個展を開催。1941年美術雑誌『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し、「生きてゐる画家」を投稿、同誌4月号に掲載された。同年盛岡・川徳画廊で「舟越保武・松本俊介二人展」を開催。戦時中は1943年靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成し、第3回展まで開催した。戦後1946年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。1947年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加し、翌1948年毎日新聞主催の連合展に「彫刻と女」「建物」を出品、これが絶筆となり、僅か36歳の短い生涯を終えた。


■2022年4月26日(火)  中村潤 Megu NAKAMURA 《オレキエッテ》

中村潤 Megu NAKAMURA
《オレキエッテ》
2022年
紙、糸
H37.0×W60.0×D45.0cm / H3.0×W4.8×D3.6cm
サインあり

中村潤 Megu NAKAMURA
1985年生まれ。京都府在住。2011年京都市立芸術大学大学院彫刻専攻修了。主な展覧会に「「市」@ACG Villa Kyoto」(ACG Villa Kyoto、2021、京都)、「HOME PARTY 06 –蝶や花や(ちやほや)-」(みずのき美術館、2020、京都)、「Tricolore2019―中村潤・尾崎森平・谷川桐子展」(ギャラリーときの忘れもの、2019、東京)、個展「さて」(gallery morning kyoto、2019、京都)、「ART OSAKA 2019」ホテルグランヴィア大阪(大阪)、個展「Showcase Gallery 2018-2019」(横浜市民ギャラリーあざみ野エントランスロビー、2018、神奈川)、「清流の国ぎふ芸術祭 Art Award IN THE CUBE2017」(岐阜県美術館、2017、岐阜、入賞)、個展「めいめいの重なり」(アートスペース虹、2017、京都)、「Art Court Frontier 2014 #12」(アートコートギャラリー、2014、大阪)、「ゲンビどこでも企画公募2011展」(広島市現代美術館、2011、広島、審査員特別賞)など。ほか、ワークショップも多数実施。


■2022年4月12日(火)  尾形一郎 尾形優 Yu OGATA & ICHIRO OGATA ONO 《オアハカ 4-C Oaxaca 4-C》

尾形一郎 尾形優 Yu OGATA & ICHIRO OGATA ONO
《オアハカ 4-C Oaxaca 4-C》
1995年(1997年プリント)
クリスタルプリント
94.0×74.0cm
Ed.1
サインあり

尾形一郎 尾形優 Yu OGATA & ICHIRO OGATA ONO
尾形一郎(小野一郎)
1960年京都府生まれ。主な写真集に「ウルトラバロック」(新潮社)、「HOUSE」(フォイル)、著書に「極彩色メキシコ巡礼」(晶文社)などがある。

尾形優
1964年東京都生まれ。1987年早稲田大学理工学部建築学科卒業。一級建築士事務所タイルの家主宰。代表作に「タイルの家」、「フォトハウス」などがある。


■2022年4月5日(火)  佐藤研吾 Kengo SATO 《囲い込むための空洞 3》

佐藤研吾 Kengo SATO
《囲い込むための空洞 3》
2022年
クリ、鉄媒染、鉄
40.0×40.0×90.0cm
Signed
Photo by comuramai

佐藤研吾 Kengo SATO
建築家、一級建築士
1989年神奈川県横浜生まれ。
2011年東京大学工学部建築学科卒業。
2013年早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。
同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。
2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professorに就任。
同年より東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。

2016年より福島県大玉村で藍染めの活動をする歓藍社に所属。
同年よりインドでのデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
2017年に「インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く」でSDレビュー2017の鹿島賞を受賞。
2018年より福島県大玉村地域おこし協力隊。
インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら、創作活動に取り組んでいる。
URL: http://korogaro.net/


■2022年3月29日(火)  佐藤研吾 Kengo SATO 《囲い込むための空洞 1》

佐藤研吾 Kengo SATO
《囲い込むための空洞 1》
2022年
クリ、鉄媒染、鉄
60.0×60.0×110.0cm 
Signed
Photo by comuramai

佐藤研吾 Kengo SATO
建築家、一級建築士
1989年神奈川県横浜生まれ。
2011年東京大学工学部建築学科卒業。
2013年早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。
同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。
2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professorに就任。
同年より東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。

2016年より福島県大玉村で藍染めの活動をする歓藍社に所属。
同年よりインドでのデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
2017年に「インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く」でSDレビュー2017の鹿島賞を受賞。
2018年より福島県大玉村地域おこし協力隊。
インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら、創作活動に取り組んでいる。
URL: http://korogaro.net/


■2022年3月22日(火)  倉俣史朗 Shiro KURAMATA 《ミス ブランチ(1988)》 

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
《ミス ブランチ(1988)》 
《倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier 3》より
2022年
シルクスクリーン A版 10点組(25部)/B版 《68.ミス ブランチ(1988)》入り11点組(10部)
37.5×48.0cm
限定 35部(1/35~35/35)、
《68.ミス ブランチ(1988)》のみ75部
(1集に35部[1~35]、3集に10部[36~45]まで挿入)
発行 ときの忘れもの

倉俣史朗 Shiro KURAMATA
1960年代後半から革新的な作品を発表した世界的デザイナー。アクリル、グラス、アルミニウム、スチールメッシュを多用した作品が多い。 1934年、東京都生まれ。東京都立工芸高等学校木材科で学び、1953年から帝国器材に勤める。1953年から56年まで桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、1957年に三愛の宣伝課に就職、ウィンドウディスプレイなどのデザインを手掛ける。1965年クラマタデザイン事務所を設立。1967年、横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。

このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していく。 1970年"Furniture in Irregular Forms"シリーズで世界に広く認知される。1972年毎日デザイン賞を受賞。1981年エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントであるメンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。1990年フランス文化省芸術文化勲章を受勲。 1991年、急性心不全のため死去。享年56。


■2022年3月7日(火)  Colla:J "CollaːJ Turing Box 2008-05 Hirosaki civic center"

Colla:J
"CollaːJ Turing Box 2008-05 Hirosaki civic center"
Design by Kunio Maekawa
2021年
フォトコラージュ
17.0×32.0×3.8cm
サインあり

Web Magazine Colla:J
Colla:Jは、日本人の美意識とは何かを考えます。 ものと人、人と人、人と地域の交流から生れる、出会いの素晴らしさを表現します。 ものづくりの根源にある、創造の喜びと価値を再発見します。 クリエーターの創造力を刺戟する誌面づくりを目指します。 運営は、Colla:Jのコンセプトに賛同頂いたサポーター企業様のご協力により行っています(閲覧は無料です)。


■2022年3月1日(火)  駒井哲郎 Tetsuro KOMAI 《樹木》〈日本の四季〉より秋

駒井哲郎 Tetsuro KOMAI
《樹木》〈日本の四季〉より秋
1975年
エッチング(4点組の1点)
イメージサイズ:25.5×23.5cm
シートサイズ:44.0×34.0cm
Ed.30
サインあり
発行:北辰画廊
※レゾネNo.321(美術出版社)

駒井哲郎 Tetsuro KOMAI
1920年東京生まれ。35年西田武雄に銅版画を学び始める。42年東京美術学校卒。50年春陽会賞、翌年第1回サンパウロ・ビエンナ-レで受賞。木版の棟方志功とともにいち早く世界の舞台で高い評価を獲得し、戦後の美術界に鮮烈なデビューを飾る。53年資生堂画廊で初個展。54年渡仏。56年南画廊の開廊展は駒井哲郎展だった。72年東京芸術大学教授。銅版画のパイオニアとして大きな足跡を残す。1976年永逝(享年56)。

銅版画の詩人と謳われた駒井先生は15歳の少年時代から56歳で亡くなるまで銅版画一筋の生涯でした。名作『束の間の幻影』はじめ、心にしみるエッチング作品を多数残し、長谷川潔、池田満寿夫とともに銅版画の魅力を人々に知らしめた功績は大きなものがあります。


■2022年2月22日(火)  長谷川潔 Kiyoshi HASEGAWA 《樹と村の小寺院》

長谷川潔 Kiyoshi HASEGAWA
《樹と村の小寺院》
1959年
エッチング
イメージサイズ:33.5×24.0cm
シートサイズ:51.5×38.0cm
Ed.100
サインあり

長谷川潔 Kiyoshi HASEGAWA
1891年(明治24年)、銀行家であった長谷川一彦の長男として横浜市に生まれる。裕福な家庭に育つが、1902年に父が、次いで麻布中学校卒業前に母・欣子が死去。虚弱体質であったため、好きであった美術の道へ進む。1910年(明治43年)麻布中学校を卒業。葵橋洋画研究所で黒田清輝から素描を、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二から油彩を学ぶ。また、バーナード・リーチからエッチング技法の指導を受けた。1913年(大正2年)に文芸同人誌『仮面』に参加、表紙や口絵を木版画で制作する。1918年(大正7年)フランスへ渡航。

版画技法の研鑽に励み、サロン・ドートンヌ等に出品。1925年(大正14年)初の版画の個展を開催。翌年サロン・ドートンヌ版画部の会員となり、パリ画壇で確固たる地位を築いた。その後の第二次世界大戦の勃発時にはフランス在住の多くの画家が帰国するが、長谷川はフランスに留まる。経済的にも苦難が続くが、銅版画技法を極め、自らが復活させたメゾチントの名作を数多く発表した。1980年(昭和55年)12月13日、パリの自宅で死去。享年89。渡仏してから一度も日本へ帰ることはなかった。


■2022年2月15日(火)  瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI "Ⅴ- 44"

瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
"Ⅴ- 44"
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:14.5×11.2cm
シートサイズ:26.1×19.4cm
※『瀧口修造の造形的実験』(2001年)No.207と対

瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
詩人・美術評論家・造形作家。シュルレアリスムの紹介・普及に注力し、戦前戦後を通じ日本の前衛芸術の、理論的・精神的支柱といえる存在であった。1903年、富山県に生まれる。慶應義塾大学在学中にA.ブルトン『超現実主義と絵画』を全訳(30年)、一連の実験的な詩も発表。31年に卒業後、36年頃まで映画製作所PCLに勤務。その傍ら、ブルトンらと文通し、シュルレアリスム関連文献の翻訳や美術評論を発表。37年、山中散生とともに「海外超現実主義作品展」を開催。多くの前衛芸術グループを指導したが、特高から危険視され、41年、検挙・拘留された。戦後、活動を再開。51~57年、タケミヤ画廊の208回の展覧会を企画し、河原温、草間彌生、加納光於など多数の作家を発掘。北代省三、山口勝弘、武満徹、湯浅譲二らが結成した「実験工房」も支援。58年、ヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして訪欧(L.フォンタナに投票)、ブルトン、M.デュシャン、S.ダリらと面会。

赤瀬川原平の「千円札裁判」(65~70年)では特別弁護人を務める。63年、架空の「オブジェの店」の開店を構想、店名の命名をデュシャンに依頼し、「ローズ・セラヴィ」を贈られる。最晩年までデュシャン研究に従事。79年に没した。 主著に『近代芸術』(38年)、『ミロ』(40年)、『余白に書く』(66年)、『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』(67年)、『シュルレアリスムのために』(68年)など。 造形作家との共作に、阿部芳文(展也)との『妖精の距離』(37年)、瑛九、北川民次、泉茂、利根山光人、青原俊子との『スフィンクス』(54年)、デュシャン、J.ジョーンズ、J.ティンゲリー、荒川修作が作品を寄せた『マルセル・デュシャン語録』(68年)、J.ミロとの『手づくり諺』(70年)、同『ミロの星とともに』(78年)、岡崎和郎との『檢眼圖』(77年)など。 (執筆:土渕信彦)


■2022年2月8日(火)  駒井哲郎 KOMAI Tetsuro 『人それを呼んで反歌という』より《食卓にて、夏の終りに》

駒井哲郎 KOMAI Tetsuro
『人それを呼んで反歌という』より《食卓にて、夏の終りに》
1965年
銅版(エッチング、リフトグランド・エッチング)
イメージサイズ:27.0×44.2cm
シートサイズ:32.8×51.2cm
Ed.60
※レゾネNo.205(都美)、No.200(美術出版社)

駒井哲郎 KOMAI Tetsuro
1920年東京生まれ。35年西田武雄に銅版画を学び始める。42年東京美術学校卒。50年春陽会賞、翌年第1回サンパウロ・ビエンナ-レで受賞。木版の棟方志功とともにいち早く世界の舞台で高い評価を獲得し、戦後の美術界に鮮烈なデビューを飾る。53年資生堂画廊で初個展。54年渡仏。56年南画廊の開廊展は駒井哲郎展だった。72年東京芸術大学教授。銅版画のパイオニアとして大きな足跡を残す。1976年永逝(享年56)。

銅版画の詩人と謳われた駒井先生は15歳の少年時代から56歳で亡くなるまで銅版画一筋の生涯でした。名作『束の間の幻影』はじめ、心にしみるエッチング作品を多数残し、長谷川潔、池田満寿夫とともに銅版画の魅力を人々に知らしめた功績は大きなものがあります。


■2022年2月1日(火)  杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro “Shrine 01"

杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
“Shrine 01"
2021年
ブナ材
80.0×35.0×50.0cm
Ed.4
サインあり
制作は家具職人Serge Borgmannと協働

※展覧会カタログ『スイスのかたち、日本のかたち』p.9掲載

杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
浜松出身。一級建築士。 日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーター ズントーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。2021年土屋紘奈とatelier tsuを共同主宰。

一人で初めてインドを旅したこと。トルコからエジプトまで乗り合いバスで縦断したこと。イベリア諸国を2ヶ月かけて周ったこと。フランス中西部からピレネー山脈を抜けてイベリア半島の先まで、約1400kmを歩いて巡礼したこと。 上手な言い回しをしようとするよりも、自分の経験からくる言葉を大切にしたい。そして、世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています」


■2022年1月25日(火)  杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro “Line & Fill 08"

杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
“Line & Fill 08"
2020年
水彩
29.7×21.0cm
サインあり

※展覧会カタログ『スイスのかたち、日本のかたち』p.35掲載

杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
浜松出身。一級建築士。 日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーター ズントーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。2021年土屋紘奈とatelier tsuを共同主宰。

一人で初めてインドを旅したこと。トルコからエジプトまで乗り合いバスで縦断したこと。イベリア諸国を2ヶ月かけて周ったこと。フランス中西部からピレネー山脈を抜けてイベリア半島の先まで、約1400kmを歩いて巡礼したこと。 上手な言い回しをしようとするよりも、自分の経験からくる言葉を大切にしたい。そして、世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています」


■2022年1月18日(火)  杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro “Temple 02"

杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
“Temple 02"
2020年
ブナ材、シルバー 
41.5x32.0x92.0cm
サインあり
制作は家具職人Serge Borgmannと協働

杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
浜松出身。一級建築士。 日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーター ズントーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。2021年土屋紘奈とatelier tsuを共同主宰。

一人で初めてインドを旅したこと。トルコからエジプトまで乗り合いバスで縦断したこと。イベリア諸国を2ヶ月かけて周ったこと。フランス中西部からピレネー山脈を抜けてイベリア半島の先まで、約1400kmを歩いて巡礼したこと。 上手な言い回しをしようとするよりも、自分の経験からくる言葉を大切にしたい。そして、世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています」


■2022年1月11日(火)  磯崎新 Arata ISOZAKI "MOCA #1"

磯崎新 Arata ISOZAKI
"MOCA #1"
1983年
シルクスクリーン
イメージサイズ:46.5×98.0cm
シートサイズ:73.0×103.5cm
Ed.75
サインあり

磯崎新 ISOZAKI Arata
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』など多数。

早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。


■2022年1月4日(火)  瑛九 Q Ei 《赤にむらがる黄》

瑛九 Q Ei
《赤にむらがる黄》
1958年
油彩・ボード
37.9×45.7cm
裏にサインあり

瑛九 Q Ei
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォト・デッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォト・デッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。

明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォト・デッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。




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