小さな本

 ルリユールとの最初の出会いは、栃折久美子著「手製本を楽しむ」だった。家人が持っていたこの本の存在を永らく知らずにいたのだが、ある日の会話がきっかけになって、本と栃折さんの存在を知り、奥付の著者紹介欄に書かれていた「栃折久美子ルリユール工房」へ通うようになるまでに、長い時間はかからなかった。そして、約3年後にベルギーへ留学することになる。

図1栃折久美子著「手製本を楽しむ」大月書店刊
1984年発行


 フランス語で「一目惚れ」のことをcoup de foudre(クー・ド・フードゥル)という。foudreとは稲妻のことで、直訳すると「稲妻→雷の一撃」ということになる。闇夜に光る稲妻を想像してほしい。一目惚れという瞬間的な感情の高まりを、なんとよく表している言葉ではないかと感心する。ルリユール工房へ通い始めてからの、ごく短時間でのルリユールへの心情的な傾倒を考えると、私にとってのルリユールは、まさにcoup de foudreであった。

 閑話休題。
 この「手製本を楽しむ」を今、自分自身の作業に役立てることはほとんどなく、生徒さんに「こんなこともできる」と説明する時などに見せることがあるだけだが、かつて、この本で覚えたものとして、辞書の再製本がある。栃折さんは、辞書の項目の中で「紙より弱いヤンピ」と説明している。ヤンピとは羊革のことで、山羊革より耐久性がない。辞書の革装は、概ね羊革である。私の場合、十代の頃から使っていた和仏辞典を山羊革で製本し直したことがあり、その経験が修復でも多いに役立っている。図書館・美術館等の修復ではまずない種類として、個人から、聖書や同種の、いわゆるソフトカバーの本の再製本を頼まれることがある。それ自体は、いつでも、どこでも手に入る本であるが、お金では買えない、それぞれの依頼主だけが持つ価値があり、それゆえに傷んだ本をなおそうという強い意志が働く。今はネットで検索ができるので、難しいことではないかもしれないが、広い世界の中での出会いは、依頼主からみても私の立場からみても、やはりご縁というべきかもしれない。

図2図3
再製本した初代の和仏辞典
和仏辞典自体は翻訳の仕事でも出番が少なく、現在使っているのは二代目。隣は傷み始めた仏和辞典の一冊。

 北海道在住の精神科医の方から、聖書の再製本をご依頼いただいたことがある。18歳の時から30年間使い続けてきた聖書ということだった。かつて他の本を頼んだことがある大阪の製本会社に、この聖書の修復を頼んだところ、残念な仕上がりで戻ってきて、やり直してくれる人を探していたという。修復した辞書の写真を添付ファイルにして、メールでやりとりを行い依頼を受けることになったが、その際に「あなたに巡り会うために、大阪の製本会社への依頼という回り道があった」といった趣旨のことを、その方が書いてこられた。つまり、「良いことに巡り会うには試練(悪いこと)が必要だった。試練を経て良いことに巡り会えた、と(キリスト教の)信者は考えるのです」というお話だった。私は信徒ではないが、若い頃から西欧に興味があり、それならばキリスト教の知識は不可欠と考えているから、聖書や関連の書物は多少とも読んでいたが、知識の枠はなかなか越えられないもので、自分の心に寄り添うまでには到らない。この依頼者のようなお話を聞くと、宗教が良い方向に向いているのであれば、人生を穏やかに過ごしたり、心のなぐさめとなる手立てなのだと思える。
 こんなふうに、それぞれの人生と思いが、依頼された本の中に閉じ込められている。修復は仕事であり、図書館・美術館からのような、規模が大きい依頼も生業としては重要であるが、個人の依頼の小さな本には、どのようなお話が聞けるのか(出会いがあるのか)という二義的な、しかし大きな楽しみがついてくるのである。
(文:平まどか
平(大)のコピー


●作品紹介~平まどか制作
詩集返戻10-1


詩集返戻10-2


詩集返戻10-3


詩集返戻10-4
「詩集 返禮」
富岡多惠子著
1957年 山河出版社刊

・パッセカルトン・カーフ総革装
・パーチメント・カーフ・山羊革嵌め込み
・手染め見返し
・タイトル箔押し:中村美奈子
・制作年 2016年
・184x153x15mm

*学生時代に自費出版した詩集という。翌1958年にH氏賞を受賞。自費出版ゆえか、表紙も本文もそっけない。乾いた語り口が好きだったが、実は小説や評論の方をよく読んだ。

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●ルリユール用語集
ルリユールには、なじみのない用語が数々あります。そこで、frgmの作品をご覧いただく際の手がかりとして、用語集を作成しました。

本の名称
01各部名称(1)天
(2)地
(3)小口(前小口)
(4)背
(5)平(ひら)
(6)見返し(きき紙)
(7)見返し(遊び紙)
(8)チリ
(9)デコール(ドリュール)
(10)デコール(ドリュール)


額縁装
表紙の上下・左右四辺を革で囲い、額縁に見立てた形の半革装(下図参照)。

角革装
表紙の上下角に三角に革を貼る形の半革装(下図参照)。

シュミーズ
表紙の革装を保護する為のジャケット(カバー)。総革装の場合、本にシュミーズをかぶせた後、スリップケースに入れる。

スリップケース
本を出し入れするタイプの保存箱。

総革装
表紙全体を革でおおう表装方法(下図参照)【→半革装】。

デコール
金箔押しにより紋様付けをするドリュール、革を細工して貼り込むモザイクなどの、装飾の総称。

二重装
見返しきき紙(表紙の内側にあたる部分)に革を貼る装幀方法。

パーチメント
羊皮紙の英語表記。

パッセ・カルトン
綴じ付け製本。麻紐を綴じ糸で抱き込むようにかがり、その麻紐の端を表紙芯紙に通すことにより、ミゾのない形の本にする。
製作工程の早い段階で本体と表紙を一体化させ、堅固な構造体とする、ヨーロッパで発達した製本方式。

半革装
表紙の一部に革を用いる場合の表記。三種類のタイプがある(両袖装・額縁装・角革装)(下図参照)【→総革装】。
革を貼った残りの部分は、マーブル紙や他の装飾紙を貼る。

夫婦函
両面開きになる箱。総革装の、特に立体的なデコールがある本で、スリップケースに出し入れ出来ない場合に用いる。

ランゲット製本
折丁のノドと背中合わせになるように折った紙を、糸かがりし、結びつける。背中合わせに綴じた紙をランゲットと言う。
全ての折丁のランゲットを接着したあと、表装材でおおい、装飾を施す。和装本から着想を得た製本形態(下図参照)。

両袖装
小口側の上下に亘るように革を貼る形の半革装(下図参照)。

様々な製本形態
両袖装両袖装


額縁装額縁装


角革装角革装


総革装総革装


ランゲット装ランゲット製本


●本日のお勧め作品は、パウル・クレーです。
DSCF3756_600パウル・クレー Paul Klee
"Three Heads"

1919年
リトグラフ
イメージサイズ:12.1×14.8cm
シートサイズ:19.7×23.4cm
版上サイン

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◆frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。