中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第20回
豊田市美術館
特別常設展示「岡﨑乾二郎の認識―抽象の力―現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」
「抽象芸術」について説明を求められたときに、すんなりと回答を云えるだろうか。一般的に「抽象芸術」とは、モチーフを具体的に表現するよりも色や形(質感、量感)の表現を追求した言語化し難い美術表現のひとつである。また、芸術家の名前を挙げて作品のあるがままを解説しても、聞き手は理解できないかもしれない。しかし、そのような「抽象芸術」のイメージに一石を投ずる画期的な展覧会が行われた。


※本展は既に終了した展覧会であり、掲載時期が大幅に遅れたことを予めお詫びしたい。
なお、本展の担当者である千葉真智子学芸員は、ときの忘れものの2017年5月9日ブログに展示にかんする記事を寄稿している。
また、企画者である岡﨑乾二郎「抽象の力」を併せて参照されたい。
【岡﨑乾二郎:http://abstract-art-as-impact.org/jp-text.html】
丘の上に佇む美術館。自然に溶け込むフォルムでありながら、8カ所の展示室、ギャラリー、ミュージアムショップ、レストラン、ライブラリーを備えた広々とした空間がある。表の広場には彫刻が設置され、別棟に茶室もある。
今回、取材にご協力いただいた千葉真智子学芸員は、本展について「作品が生き生きしている」という印象を語られた。美術館で行われる展覧会は、たとえば、「没後50周年記念展」というように作者の生没年を念頭に掲げた記念事業として開催される場合が多々ある。しかし、本展は岡﨑乾二郎氏が担当した展示企画が際立つものであり、岡﨑氏が作品一点一点を選定し、最新の研究成果を取り入れていることで、「抽象」の見方、例えば当時の技法や地域的な広がり、時代性、思想などを考えるきっかけを与えるものであった。そもそも、博物館法に則って運営されている美術館では、当然学芸員が常駐し、展覧会を企画している。本展で変わっていた点は、特別展ではなく常設展(主に同館収蔵の展示物を活用したもの)を外部の人物が企画したということに驚きを感じた。遠巻きに考えれば、同館学芸員がコレクションの新たな活用法を模索した結果であったとしても、この取り組みにより、千葉学芸員が「作品が生き生きしている」と感じたことは、鑑賞者である我々にも通じるものとなった。様々な発見を予感させる、非常にポジティブな雰囲気に包まれた会場であった。
展覧会の入り口はバウハウス、デッサウを思わせるデザイン。
会場では、そこかしこに作品理解を深めるための工夫があった。
壁一面に展示されているのは、明治9年発行の教科書『幼稚園(おさなごのその)』である。玩具を通して色、形、数の基礎について学び、また、整然と並べられた玩具から子供の創造力を養うことを目的とした冊子である。さまざまな幾何学的な図像が教科書にちりばめられ、観ていると好奇心が湧いてくる。
原色で彩られた木製の玩具。背景に展示されている田中敦子《’94B》(1994年、合成樹脂エナメル塗料、カンヴァス)とイメージが重なる。
モジャモジャと絡まりあって球状の形態になった針金は、高松次郎《点》(1961年、ラッカー、針金)の作品である。これも田中敦子の《’94B》とリンクする。それはまた、神経細胞の染色体かシナプスか、宇宙空間に浮かぶ塵をも想像させる。インスピレーションを得た芸術家は手先や頭を動かし、試行錯誤を重ねる。ことばをひとつひとつ紡いで物語がつくられるように、「作品」は制作される。
本展は、これまで位置づけられてきた「抽象芸術」の概念を解きほぐすような展示で抽象芸術に関する作品一点一点と向き合うことに重きが置かれた。一点を集中的にみると、「抽象芸術」として紹介されている作品が、はたして今までそういう位置づけであったかという疑問を感じるだろう。
ところで、作品を理解する方法として体系的に論じているE・パノフスキー『イコロジー研究』は、図像解釈の方法を段階的に示したもので、第一段階の自然的主題は、色や形(質感、量感)等を視覚から得る理解のこと。第二段階の伝習的主題は、作品に表現された図像の具体的なモチーフから意味や物語の理解を深めること。第三段階は、作品が制作された背景に着目するもので、時代・地域・文化(習慣)・思想(宗教)等、作品の着想や根源的なものに迫ることである。とりわけ「美術史」に位置づけられる有名作品は、少なくともこれら三つの段階を見出す事ができる、というのである。近代は「視覚の時代」といわれる。評論家や観衆の客観的な視点が加わり、次第に作品制作へ傾ける美術家の意識やモチベーションは変わっていった。パノフスキーを挙げたのは、図像を解釈しようとする行為そのものに近代の個人主義的なまなざしがあり、その後にあらゆる美術史家や哲学者、批評家、そして美術家に影響を与えることとなったことを頭の片隅に置く必要があると感じているためである。このような環境で芸術作品の表現が深まり、抽象芸術は派生してきたのかもしれない。
たとえば、会場には、熊谷守一《シヂミ蝶》(1958年、油彩、板)が展示され、その隣には、うごめく無数の虫を記録した日記帳(1902–1922年)があった。熊谷守一は、見たものを寝かせてから筆をおろす画家である。実際に日記帳を見返してこの作品を描いたのかどうかは定かではないが、脳裏に焼き付いたイメージであったに違いない。芸術家がどのように作品制作に至ったかを日記帳を通じて視覚的にみることができる。小さな体で石ころの周りをひらひらと舞う紫色のシジミ蝶。そこには、シジミ蝶が見せる穏やかな生の痕跡が美しく表現されている。
壁一面に展示されているバインダーは、『現代建築大観』(1929年頃、個人蔵)の一部が挟み込まれている。元は帙に入っている作品集のようだが、このように一枚一枚展示されているところを見ると、かなりヴォリュームが増して見えた。バインダーを使用した展示は、一見遊び心を感じさせるが、建築デザインを見比べられる機能的な面も備えた展示空間に仕上がっていた。手前には、ドナルド・ジャッドがデザインしたミニマルな形状の《椅子》(1988年制作、マホガニー)が展示されている。
テクノロジーの発達でモノが豊かになり、集団(共同体)ではなく個人で物事を考える社会が「近代」である。個人主義的な発想はモノの見方や創作物にも表れ、次第に個人の「感覚」、「感情」が重要視されるようになった。やがて、個人でありながら万人にも受け入れられる客観的な意識をも作品に込めようとする。岡﨑乾二郎氏は、恩地孝四郎の作品を例に次のように書いている。
『月映』は北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥という同時代の詩人たちの仕事との共鳴をもって結成されたが、これらの詩人たちの仕事はいまだ表出されなかった感情、思考の流れを強い視覚的イメージによって喚起、結びつけることにおいて、象徴主義からイマジズムへの架け橋をするような新しさがあった。『月映』はそれに呼応し、見慣れた外部世界には対応物をもたない、より喚起力のあるイメージの創出こそを目指したのである。
(中略)
つまり版画は複数の別の画面を重ねて、一枚の画面を作り出す、統合の芸術だということだ。最後に統合されて出現するイメージは元の個々の版木のどこにも存在しない。まさにフレーベルの《恩物》(積み木)の幾何形態を回転したときに現れる像と同様である。イメージは版を刷るという作業の中でのみ現れる僥倖だった、ともいっていいだろう。(「抽象の力」より)
こちらは、坂田一男《コンポジション》など3点。フランスでポスト印象主義やキュビスムを学んだことが基礎となっているものの、帯状に連続するモノトーンの情景は、抽象ともミニマリズムともいえる。作家独自の表現が展開されている。
向かって右側の熊谷守一の作品の隣には、ハンス・アルプ《灰色の上野黒い形態の星座》(1937年、木)、《ひと、ひげ、へそ》(1928-29年、木)があり、左側に斎藤義重《作品》、《トロウッド》(1973年再制作)が展示されている。色・形が似通ってみえるユーモラスな作品群。覗きケースは、ジョン・ケージによって点・線・面が組み合わされた独特な楽譜《Fontana Mix》(1982年、シルクスクリーン、個人蔵)の展示があった。
長谷川三郎の版木とその作品の《自然》(1953年、木版)。ひと彫りひと彫りの積み重ねで版木が作られ、版木6点が組み合わさって、一つの画面(版画作品)が生まれる。その過程が、視覚的に示されている。
第二次世界大戦後、長谷川は、可変的なトポロジカルな構造を形成する方法として《マルチ・ブロック》という版画技法を開発する[fig.135]。蒲鉾板を使い彫ったブロック状の版木をランダムに画面にばらまき、そのつど異なる画面を構成する手法である。《環境》という用語を長谷川が用いていたように、これは環境デザインや音楽の作曲にも応用できる方法である。戦後、長谷川と交流をもった現代音楽家ジョン・ケージ(1912-1992)の図形楽譜はあきらかに長谷川の絵画の構造を踏襲してもいた。
ところで「新しい写真と絵画」という論考は実はそもそも、長谷川が瑛九の作品に見出した可能性を論じた文章だった。1930年代という重苦しい時代になされた、もっとも奇蹟的な達成は瑛九のフォトデッサンにあったといっていい。
(中略)
1936年1月、瑛九は長谷川三郎を訪ね、のちに『眠りの理由』(1936)[fig.137]としてまとめられることになる一連のフォトデッサンを見せる(そして、もちろん長谷川はその可能性を見逃さなかった)。その翌年、瑛九を加えて自由美術家協会が結成される。
瑛九のフォトデッサンの上では、本来、異なる時間に属するモノ(当然、同じ空間尺度も持ちえない)たち、また、そのモノたちを照らした、同じく別の時に輝いたはずの光たちが、一つの画面を充たし、ありえるはずがない一つの光として溶解し互いを反照しあっていた。いつ、どこにも定位できない時間と空間。にもかかわらず、これらの異なる次元にあるモノたちはありえるはずのない同じ《いま、ここ》で一緒に一つの光を呼吸しあっている。その確実性が驚くべき実在感をもって顕現している。
(「抽象の力」より)
岡﨑氏が指摘するように瑛九は意識的に光を駆使して作品を制作していることが分かるテキストがある。瑛九は1930年「フォトグラムの自由な制作のために」(『フォトタイムス』7巻8号)の中で「光にたいする鋭敏なる印画紙の力をかりてかつてなにものをも他の材料の使用をゆるさなかったコンストラクションが生まれ、又ぼうだいなる現実を構成せんとすれば作者の意のままに表現できる」と書いている。若くして核心に触れるこのフォトグラム論は、今では、瑛九の作品評価に欠かせないものである。写真(印画紙)の際限のない可能性と、現実を捉え表現しようと果敢に取り組む意欲が上記の一文に垣間見える。これが長谷川三郎をも巻き込む瑛九作品の根底にあるものなのだろう。
向かって左側には、恩地孝四郎《ポエムNo.22 葉っぱと雲》(1953年、マルチブロックプリント)、隣は瑛九がフォト・デッサンを制作する際に作られた型紙(制作年不詳、紙、個人蔵)と、1936年頃に制作された瑛九のフォト・デッサン(1936年、個人蔵)である。瑛九は、自作の型紙や身の回りの物、ペン書きしたセロファンを印画紙の上に置き、様々な表現を実験的に組み合わせて、ひとつの画面をつくりあげた。切り取る型紙も様々で、印画紙を再利用することもままあった。2011年ときの忘れもので瑛九の型紙が一堂に展示され、うらわ美術館でも2015年「作家の手の内――スケッチ、デッサン、エスキース」展で瑛九の型紙が展示された。
こちらも瑛九の作品。フォト・デッサン集『眠りの理由』表紙の別バージョン(1936年、個人蔵)。また、白い輪と眼鏡のある作品、ぼんやりと車輪のある作品、赤や緑で着彩された作品などひとつとして同じフォト・デッサンはない。何れも実験的に様々な工夫で画面構成を試みている1936年頃の作である。
インターネットの普及や物流の発達により、個人の「感覚」、「感情」が地域や国を超えて表現できるようになった昨今。私たちは別のステージに昇ったのかもしれない。そろそろ俯瞰的に日本で表現活動をした芸術家ついて見直し、当時の「抽象芸術」を再評価する動きがもっと活発になってよい頃である。岡﨑乾二郎氏企画の「抽象の力」展は、そのような気構えが感じられた展覧会であった。
***
ちょっと寄道…
愛知県への取材は、今回で2度目となった。瑛九と何かと縁のある愛知県。前回の訪問では、愛知芸術文化センター内の愛知県美術館やアートライブラリーへお邪魔した。こちらには、瑛九研究の大著『瑛九 評伝と作品』(1976年、青龍洞)の著者山田光春の収集資料が保管されている。山田は1912年愛知県生まれであった。
今回、名古屋市美術館へも足を伸ばす事になったのは、豊田市美術館への取材が叶ったことが大きいが、同館で積極的にコレクションしている作品に関心があった為である。
以下に挙げる展示は、やはり会期が終了したあとで恐縮だが、興味深い内容であった為に紹介したい。それは、常設展示として企画されていた「メキシコ・ルネサンス:日本に与えた影響―北川民次と二科会の画家」展である。
名古屋市美術館は開館以前の1983年から収集をはじめており、1985年以降は、郷土ゆかりの作家である荻須高徳、北川民次、荒川修作、河原温、桑山忠明の5人を重要作家として位置付け、彼らと関係の深い4つのジャンルを収集の柱に据えている。それは、「1、郷土の美術/2、エコール・ド・パリ/3、メキシコ・ルネサンス/4、現代の美術」である。このなかで、北川民次と河原温については、瑛九とも関係があった人物である。特に北川民次については、瑛九が美術教育に関心をもちはじめた当時から一目を置いていた人物であった。
名古屋市美術館前。開館30分前に到着し、建物の写真撮影のために公園内を散策した。すると、改修工事に入るという告知が貼られていた。美術館建設ラッシュに開館した建物は、都市部を中心にどこもかしこも老朽化による改修工事ラッシュに突入している。
こちらは常設展示室の一室で、向かって右側から
フリーダ・カーロ《死の仮面を被った少女》1938年、北川民次《赤津陶工の家》1941年(左下に朱書きで「二千六百一年/北川民次寫/赤津陶工ノ家」とある)、ディエゴ・リベラ《プロレタリアの団結》1933年【部分】。解説パネルには、冒頭次のように書かれていた。「オロスコ、リベラ、シケイロスの三巨匠による壁画運動をはじめ、1920年代から40年代にかけて展開したメキシコ近代美術は、同時代の美術家たちに少なからぬ影響を与えています。」
建物を取り壊す際に撤去されることの多い壁画で、更に中心的人物のひとりであるリベラの作品が、一部でも名古屋市美術館で観覧できるのは、たいへん貴重なことである。
ところで、メキシコの美術運動は、昭和戦前期の1923年に北川民次がメキシコに渡ったことから日本へ伝えられ、影響を受けた芸術家は多い。その中でも、瑛九、藤田嗣治、岡本太郎については壁画の制作にも取り組んでいる。周知のとおり、岡本太郎の作品の中でも格別に大きい《明日の神話》は、渋谷駅構内(JRと井の頭間の連絡通路)で見られる。もとはメキシコにあった壁画で2008年に移設された。また、藤田嗣治が制作した大壁画としられている《秋田の行事》についても、2013年に新設された秋田県立美術館へと移設された。瑛九の代表作のひとつである《カオス》は、元は真岡市の久保ギャラリー(現久保記念観光文化交流館・美術品展示室)の外壁に設置されたが、現在東京都現代美術館に収蔵されている。
北川民次に影響を受けた芸術家の中でも、愛知県出身の竹田鎮三郎は、若い頃から民次に師事し、現在もメキシコで活動を続けている。近年では、2006年跡見学園女子大学花溪記念資料館、2013年プロモ・アルテギャラリー、2015年川崎市岡本太郎美術館で個展が開催された。また、竹田の活動は自身の創作活動だけに留まらず、岡本太郎の《明日の神話》移設に携わった他、児童美術の活動も行っており、非常にバイタリティのある作家である。彼の活動記録を確認できる例である「ガテマラと児童画交換 メキシコにいる、竹田鎮三郎君の世話で神奈川、埼玉の幼小中の児童画五十二点をガマテラに送った。ガマテラの日本児童画展は十月九日より十六日まで開かれ、新聞、TVなどでさわがれ、すこぶる好評だった。引きつづき各地に巡回されるよし」(1964年、創造美育)という記述からは、民次のメキシコでの美術教育を継承し、久保貞次郎の仕事にも協力していたことが分かる。日本から遠く離れたメキシコの地で、地道に活動を行ってきた民次の弟子である竹田鎮三郎が検証される日がくることを期待したい。
手前は、北川民次《トラルパム霊園のお祭り》1930年
画面にところどころ明るい色を配し、細部にわたって描かれている本作は、民次の作品の中でも比較的珍しい。続いて、マリア・イスキエルド《生きている静物》1947年、ホセ・クレメンテ・オロスコ《メキシコ風景》1932年などが並ぶ。
右側から、安藤幹衛《守る》1975年、《解放》1957年、北川民次《雑草の如くⅡ》1948年。画面を見ると大胆で力強いイメージが描き出される一方で、何度も置いている筆跡からは繊細な一面も併せ持っていることが分かる。特に二次大戦前後に反響のあったメキシコ美術は、庶民の生活を逞しく描く特徴があり、日本においても芸術家を始め多くの人々の心に響いた。大画面にもなるメッセージ性の強い表現から、公共の場における美術の可能性が開け、人種や宗教などの社会問題を体現する美術表現として評価されるようになった。
美術館に伺った際に同時開催していた「異郷のモダニズム-満洲写真全史-」展についても非常に興味深く拝見させていただいた。異国の地での写真撮影で、報道写真や記録写真が充実するのは想像に難くない。しかし、そればかりでなく、幽玄な風景や見慣れない建物や調度品を目の当たりにして撮影されたピクトリアリズム写真も展示されていたことも、この当時の写真の面白いところであった。霞か煙が一面に漂うシルエットの写真、荒れた大地の凹凸をメインに捉えた写真など。瑛九も活動していた1930年頃の写真動向についても何れこの場を借りて言及したい。
今回、豊田市と名古屋市の美術館を訪れたが、何れもコレクションが豊かで、どの会場も鑑賞者が多かった。おそらく、利用者へのサービスが長けており、駅から美術館への導線はもちろんのこと、近隣施設との連携や街歩きのガイドマップも充実しているためであろう。また、まだ日本で定着していない寄付金制度を設けており、リーフレットの作成・配布は好感が持てた。地域の人や他県の人も安心して鑑賞できる展示会場づくりには、従来行ってきた事と時代にあった動向とを吟味しながら、将来を見据えた活動を展開していく必要がある。豊田市や名古屋市は新旧を意識し、しっかりとした軸を持っていることが分かり、美術館としての機能を最大限生かそうという努力が感じられた。
なお、これまで展覧会の会期中に記事を執筆することを第一の目的としていたが、展覧会終了後に記事を掲載することになり、取材先の美術館および読者にお詫び申し上げたい。現在の豊田市美術館では「奈良美智 for better or worse」展、「森千裕-omoide in my head」展を開催している。また、名古屋市美術館は、現在は改修工事のために休館中で10月7日からは「ランス美術館」展、「中村正義をめぐる画家たち」展が開催される予定である。
(なかむら まき)
●今日のお勧め作品は、瑛九です。
瑛九
《(作品名不詳)》
フォトデッサン
27.0×22.0cm
裏面にサインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
豊田市美術館
特別常設展示「岡﨑乾二郎の認識―抽象の力―現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」
「抽象芸術」について説明を求められたときに、すんなりと回答を云えるだろうか。一般的に「抽象芸術」とは、モチーフを具体的に表現するよりも色や形(質感、量感)の表現を追求した言語化し難い美術表現のひとつである。また、芸術家の名前を挙げて作品のあるがままを解説しても、聞き手は理解できないかもしれない。しかし、そのような「抽象芸術」のイメージに一石を投ずる画期的な展覧会が行われた。


※本展は既に終了した展覧会であり、掲載時期が大幅に遅れたことを予めお詫びしたい。
なお、本展の担当者である千葉真智子学芸員は、ときの忘れものの2017年5月9日ブログに展示にかんする記事を寄稿している。
また、企画者である岡﨑乾二郎「抽象の力」を併せて参照されたい。
【岡﨑乾二郎:http://abstract-art-as-impact.org/jp-text.html】
丘の上に佇む美術館。自然に溶け込むフォルムでありながら、8カ所の展示室、ギャラリー、ミュージアムショップ、レストラン、ライブラリーを備えた広々とした空間がある。表の広場には彫刻が設置され、別棟に茶室もある。今回、取材にご協力いただいた千葉真智子学芸員は、本展について「作品が生き生きしている」という印象を語られた。美術館で行われる展覧会は、たとえば、「没後50周年記念展」というように作者の生没年を念頭に掲げた記念事業として開催される場合が多々ある。しかし、本展は岡﨑乾二郎氏が担当した展示企画が際立つものであり、岡﨑氏が作品一点一点を選定し、最新の研究成果を取り入れていることで、「抽象」の見方、例えば当時の技法や地域的な広がり、時代性、思想などを考えるきっかけを与えるものであった。そもそも、博物館法に則って運営されている美術館では、当然学芸員が常駐し、展覧会を企画している。本展で変わっていた点は、特別展ではなく常設展(主に同館収蔵の展示物を活用したもの)を外部の人物が企画したということに驚きを感じた。遠巻きに考えれば、同館学芸員がコレクションの新たな活用法を模索した結果であったとしても、この取り組みにより、千葉学芸員が「作品が生き生きしている」と感じたことは、鑑賞者である我々にも通じるものとなった。様々な発見を予感させる、非常にポジティブな雰囲気に包まれた会場であった。
展覧会の入り口はバウハウス、デッサウを思わせるデザイン。
会場では、そこかしこに作品理解を深めるための工夫があった。壁一面に展示されているのは、明治9年発行の教科書『幼稚園(おさなごのその)』である。玩具を通して色、形、数の基礎について学び、また、整然と並べられた玩具から子供の創造力を養うことを目的とした冊子である。さまざまな幾何学的な図像が教科書にちりばめられ、観ていると好奇心が湧いてくる。
原色で彩られた木製の玩具。背景に展示されている田中敦子《’94B》(1994年、合成樹脂エナメル塗料、カンヴァス)とイメージが重なる。
モジャモジャと絡まりあって球状の形態になった針金は、高松次郎《点》(1961年、ラッカー、針金)の作品である。これも田中敦子の《’94B》とリンクする。それはまた、神経細胞の染色体かシナプスか、宇宙空間に浮かぶ塵をも想像させる。インスピレーションを得た芸術家は手先や頭を動かし、試行錯誤を重ねる。ことばをひとつひとつ紡いで物語がつくられるように、「作品」は制作される。本展は、これまで位置づけられてきた「抽象芸術」の概念を解きほぐすような展示で抽象芸術に関する作品一点一点と向き合うことに重きが置かれた。一点を集中的にみると、「抽象芸術」として紹介されている作品が、はたして今までそういう位置づけであったかという疑問を感じるだろう。
ところで、作品を理解する方法として体系的に論じているE・パノフスキー『イコロジー研究』は、図像解釈の方法を段階的に示したもので、第一段階の自然的主題は、色や形(質感、量感)等を視覚から得る理解のこと。第二段階の伝習的主題は、作品に表現された図像の具体的なモチーフから意味や物語の理解を深めること。第三段階は、作品が制作された背景に着目するもので、時代・地域・文化(習慣)・思想(宗教)等、作品の着想や根源的なものに迫ることである。とりわけ「美術史」に位置づけられる有名作品は、少なくともこれら三つの段階を見出す事ができる、というのである。近代は「視覚の時代」といわれる。評論家や観衆の客観的な視点が加わり、次第に作品制作へ傾ける美術家の意識やモチベーションは変わっていった。パノフスキーを挙げたのは、図像を解釈しようとする行為そのものに近代の個人主義的なまなざしがあり、その後にあらゆる美術史家や哲学者、批評家、そして美術家に影響を与えることとなったことを頭の片隅に置く必要があると感じているためである。このような環境で芸術作品の表現が深まり、抽象芸術は派生してきたのかもしれない。
たとえば、会場には、熊谷守一《シヂミ蝶》(1958年、油彩、板)が展示され、その隣には、うごめく無数の虫を記録した日記帳(1902–1922年)があった。熊谷守一は、見たものを寝かせてから筆をおろす画家である。実際に日記帳を見返してこの作品を描いたのかどうかは定かではないが、脳裏に焼き付いたイメージであったに違いない。芸術家がどのように作品制作に至ったかを日記帳を通じて視覚的にみることができる。小さな体で石ころの周りをひらひらと舞う紫色のシジミ蝶。そこには、シジミ蝶が見せる穏やかな生の痕跡が美しく表現されている。
壁一面に展示されているバインダーは、『現代建築大観』(1929年頃、個人蔵)の一部が挟み込まれている。元は帙に入っている作品集のようだが、このように一枚一枚展示されているところを見ると、かなりヴォリュームが増して見えた。バインダーを使用した展示は、一見遊び心を感じさせるが、建築デザインを見比べられる機能的な面も備えた展示空間に仕上がっていた。手前には、ドナルド・ジャッドがデザインしたミニマルな形状の《椅子》(1988年制作、マホガニー)が展示されている。テクノロジーの発達でモノが豊かになり、集団(共同体)ではなく個人で物事を考える社会が「近代」である。個人主義的な発想はモノの見方や創作物にも表れ、次第に個人の「感覚」、「感情」が重要視されるようになった。やがて、個人でありながら万人にも受け入れられる客観的な意識をも作品に込めようとする。岡﨑乾二郎氏は、恩地孝四郎の作品を例に次のように書いている。
『月映』は北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥という同時代の詩人たちの仕事との共鳴をもって結成されたが、これらの詩人たちの仕事はいまだ表出されなかった感情、思考の流れを強い視覚的イメージによって喚起、結びつけることにおいて、象徴主義からイマジズムへの架け橋をするような新しさがあった。『月映』はそれに呼応し、見慣れた外部世界には対応物をもたない、より喚起力のあるイメージの創出こそを目指したのである。
(中略)
つまり版画は複数の別の画面を重ねて、一枚の画面を作り出す、統合の芸術だということだ。最後に統合されて出現するイメージは元の個々の版木のどこにも存在しない。まさにフレーベルの《恩物》(積み木)の幾何形態を回転したときに現れる像と同様である。イメージは版を刷るという作業の中でのみ現れる僥倖だった、ともいっていいだろう。(「抽象の力」より)
こちらは、坂田一男《コンポジション》など3点。フランスでポスト印象主義やキュビスムを学んだことが基礎となっているものの、帯状に連続するモノトーンの情景は、抽象ともミニマリズムともいえる。作家独自の表現が展開されている。
向かって右側の熊谷守一の作品の隣には、ハンス・アルプ《灰色の上野黒い形態の星座》(1937年、木)、《ひと、ひげ、へそ》(1928-29年、木)があり、左側に斎藤義重《作品》、《トロウッド》(1973年再制作)が展示されている。色・形が似通ってみえるユーモラスな作品群。覗きケースは、ジョン・ケージによって点・線・面が組み合わされた独特な楽譜《Fontana Mix》(1982年、シルクスクリーン、個人蔵)の展示があった。
長谷川三郎の版木とその作品の《自然》(1953年、木版)。ひと彫りひと彫りの積み重ねで版木が作られ、版木6点が組み合わさって、一つの画面(版画作品)が生まれる。その過程が、視覚的に示されている。第二次世界大戦後、長谷川は、可変的なトポロジカルな構造を形成する方法として《マルチ・ブロック》という版画技法を開発する[fig.135]。蒲鉾板を使い彫ったブロック状の版木をランダムに画面にばらまき、そのつど異なる画面を構成する手法である。《環境》という用語を長谷川が用いていたように、これは環境デザインや音楽の作曲にも応用できる方法である。戦後、長谷川と交流をもった現代音楽家ジョン・ケージ(1912-1992)の図形楽譜はあきらかに長谷川の絵画の構造を踏襲してもいた。
ところで「新しい写真と絵画」という論考は実はそもそも、長谷川が瑛九の作品に見出した可能性を論じた文章だった。1930年代という重苦しい時代になされた、もっとも奇蹟的な達成は瑛九のフォトデッサンにあったといっていい。
(中略)
1936年1月、瑛九は長谷川三郎を訪ね、のちに『眠りの理由』(1936)[fig.137]としてまとめられることになる一連のフォトデッサンを見せる(そして、もちろん長谷川はその可能性を見逃さなかった)。その翌年、瑛九を加えて自由美術家協会が結成される。
瑛九のフォトデッサンの上では、本来、異なる時間に属するモノ(当然、同じ空間尺度も持ちえない)たち、また、そのモノたちを照らした、同じく別の時に輝いたはずの光たちが、一つの画面を充たし、ありえるはずがない一つの光として溶解し互いを反照しあっていた。いつ、どこにも定位できない時間と空間。にもかかわらず、これらの異なる次元にあるモノたちはありえるはずのない同じ《いま、ここ》で一緒に一つの光を呼吸しあっている。その確実性が驚くべき実在感をもって顕現している。
(「抽象の力」より)
岡﨑氏が指摘するように瑛九は意識的に光を駆使して作品を制作していることが分かるテキストがある。瑛九は1930年「フォトグラムの自由な制作のために」(『フォトタイムス』7巻8号)の中で「光にたいする鋭敏なる印画紙の力をかりてかつてなにものをも他の材料の使用をゆるさなかったコンストラクションが生まれ、又ぼうだいなる現実を構成せんとすれば作者の意のままに表現できる」と書いている。若くして核心に触れるこのフォトグラム論は、今では、瑛九の作品評価に欠かせないものである。写真(印画紙)の際限のない可能性と、現実を捉え表現しようと果敢に取り組む意欲が上記の一文に垣間見える。これが長谷川三郎をも巻き込む瑛九作品の根底にあるものなのだろう。
向かって左側には、恩地孝四郎《ポエムNo.22 葉っぱと雲》(1953年、マルチブロックプリント)、隣は瑛九がフォト・デッサンを制作する際に作られた型紙(制作年不詳、紙、個人蔵)と、1936年頃に制作された瑛九のフォト・デッサン(1936年、個人蔵)である。瑛九は、自作の型紙や身の回りの物、ペン書きしたセロファンを印画紙の上に置き、様々な表現を実験的に組み合わせて、ひとつの画面をつくりあげた。切り取る型紙も様々で、印画紙を再利用することもままあった。2011年ときの忘れもので瑛九の型紙が一堂に展示され、うらわ美術館でも2015年「作家の手の内――スケッチ、デッサン、エスキース」展で瑛九の型紙が展示された。
こちらも瑛九の作品。フォト・デッサン集『眠りの理由』表紙の別バージョン(1936年、個人蔵)。また、白い輪と眼鏡のある作品、ぼんやりと車輪のある作品、赤や緑で着彩された作品などひとつとして同じフォト・デッサンはない。何れも実験的に様々な工夫で画面構成を試みている1936年頃の作である。インターネットの普及や物流の発達により、個人の「感覚」、「感情」が地域や国を超えて表現できるようになった昨今。私たちは別のステージに昇ったのかもしれない。そろそろ俯瞰的に日本で表現活動をした芸術家ついて見直し、当時の「抽象芸術」を再評価する動きがもっと活発になってよい頃である。岡﨑乾二郎氏企画の「抽象の力」展は、そのような気構えが感じられた展覧会であった。
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ちょっと寄道…
愛知県への取材は、今回で2度目となった。瑛九と何かと縁のある愛知県。前回の訪問では、愛知芸術文化センター内の愛知県美術館やアートライブラリーへお邪魔した。こちらには、瑛九研究の大著『瑛九 評伝と作品』(1976年、青龍洞)の著者山田光春の収集資料が保管されている。山田は1912年愛知県生まれであった。
今回、名古屋市美術館へも足を伸ばす事になったのは、豊田市美術館への取材が叶ったことが大きいが、同館で積極的にコレクションしている作品に関心があった為である。
以下に挙げる展示は、やはり会期が終了したあとで恐縮だが、興味深い内容であった為に紹介したい。それは、常設展示として企画されていた「メキシコ・ルネサンス:日本に与えた影響―北川民次と二科会の画家」展である。
名古屋市美術館は開館以前の1983年から収集をはじめており、1985年以降は、郷土ゆかりの作家である荻須高徳、北川民次、荒川修作、河原温、桑山忠明の5人を重要作家として位置付け、彼らと関係の深い4つのジャンルを収集の柱に据えている。それは、「1、郷土の美術/2、エコール・ド・パリ/3、メキシコ・ルネサンス/4、現代の美術」である。このなかで、北川民次と河原温については、瑛九とも関係があった人物である。特に北川民次については、瑛九が美術教育に関心をもちはじめた当時から一目を置いていた人物であった。
名古屋市美術館前。開館30分前に到着し、建物の写真撮影のために公園内を散策した。すると、改修工事に入るという告知が貼られていた。美術館建設ラッシュに開館した建物は、都市部を中心にどこもかしこも老朽化による改修工事ラッシュに突入している。
こちらは常設展示室の一室で、向かって右側からフリーダ・カーロ《死の仮面を被った少女》1938年、北川民次《赤津陶工の家》1941年(左下に朱書きで「二千六百一年/北川民次寫/赤津陶工ノ家」とある)、ディエゴ・リベラ《プロレタリアの団結》1933年【部分】。解説パネルには、冒頭次のように書かれていた。「オロスコ、リベラ、シケイロスの三巨匠による壁画運動をはじめ、1920年代から40年代にかけて展開したメキシコ近代美術は、同時代の美術家たちに少なからぬ影響を与えています。」
建物を取り壊す際に撤去されることの多い壁画で、更に中心的人物のひとりであるリベラの作品が、一部でも名古屋市美術館で観覧できるのは、たいへん貴重なことである。
ところで、メキシコの美術運動は、昭和戦前期の1923年に北川民次がメキシコに渡ったことから日本へ伝えられ、影響を受けた芸術家は多い。その中でも、瑛九、藤田嗣治、岡本太郎については壁画の制作にも取り組んでいる。周知のとおり、岡本太郎の作品の中でも格別に大きい《明日の神話》は、渋谷駅構内(JRと井の頭間の連絡通路)で見られる。もとはメキシコにあった壁画で2008年に移設された。また、藤田嗣治が制作した大壁画としられている《秋田の行事》についても、2013年に新設された秋田県立美術館へと移設された。瑛九の代表作のひとつである《カオス》は、元は真岡市の久保ギャラリー(現久保記念観光文化交流館・美術品展示室)の外壁に設置されたが、現在東京都現代美術館に収蔵されている。
北川民次に影響を受けた芸術家の中でも、愛知県出身の竹田鎮三郎は、若い頃から民次に師事し、現在もメキシコで活動を続けている。近年では、2006年跡見学園女子大学花溪記念資料館、2013年プロモ・アルテギャラリー、2015年川崎市岡本太郎美術館で個展が開催された。また、竹田の活動は自身の創作活動だけに留まらず、岡本太郎の《明日の神話》移設に携わった他、児童美術の活動も行っており、非常にバイタリティのある作家である。彼の活動記録を確認できる例である「ガテマラと児童画交換 メキシコにいる、竹田鎮三郎君の世話で神奈川、埼玉の幼小中の児童画五十二点をガマテラに送った。ガマテラの日本児童画展は十月九日より十六日まで開かれ、新聞、TVなどでさわがれ、すこぶる好評だった。引きつづき各地に巡回されるよし」(1964年、創造美育)という記述からは、民次のメキシコでの美術教育を継承し、久保貞次郎の仕事にも協力していたことが分かる。日本から遠く離れたメキシコの地で、地道に活動を行ってきた民次の弟子である竹田鎮三郎が検証される日がくることを期待したい。
手前は、北川民次《トラルパム霊園のお祭り》1930年画面にところどころ明るい色を配し、細部にわたって描かれている本作は、民次の作品の中でも比較的珍しい。続いて、マリア・イスキエルド《生きている静物》1947年、ホセ・クレメンテ・オロスコ《メキシコ風景》1932年などが並ぶ。
右側から、安藤幹衛《守る》1975年、《解放》1957年、北川民次《雑草の如くⅡ》1948年。画面を見ると大胆で力強いイメージが描き出される一方で、何度も置いている筆跡からは繊細な一面も併せ持っていることが分かる。特に二次大戦前後に反響のあったメキシコ美術は、庶民の生活を逞しく描く特徴があり、日本においても芸術家を始め多くの人々の心に響いた。大画面にもなるメッセージ性の強い表現から、公共の場における美術の可能性が開け、人種や宗教などの社会問題を体現する美術表現として評価されるようになった。美術館に伺った際に同時開催していた「異郷のモダニズム-満洲写真全史-」展についても非常に興味深く拝見させていただいた。異国の地での写真撮影で、報道写真や記録写真が充実するのは想像に難くない。しかし、そればかりでなく、幽玄な風景や見慣れない建物や調度品を目の当たりにして撮影されたピクトリアリズム写真も展示されていたことも、この当時の写真の面白いところであった。霞か煙が一面に漂うシルエットの写真、荒れた大地の凹凸をメインに捉えた写真など。瑛九も活動していた1930年頃の写真動向についても何れこの場を借りて言及したい。
今回、豊田市と名古屋市の美術館を訪れたが、何れもコレクションが豊かで、どの会場も鑑賞者が多かった。おそらく、利用者へのサービスが長けており、駅から美術館への導線はもちろんのこと、近隣施設との連携や街歩きのガイドマップも充実しているためであろう。また、まだ日本で定着していない寄付金制度を設けており、リーフレットの作成・配布は好感が持てた。地域の人や他県の人も安心して鑑賞できる展示会場づくりには、従来行ってきた事と時代にあった動向とを吟味しながら、将来を見据えた活動を展開していく必要がある。豊田市や名古屋市は新旧を意識し、しっかりとした軸を持っていることが分かり、美術館としての機能を最大限生かそうという努力が感じられた。
なお、これまで展覧会の会期中に記事を執筆することを第一の目的としていたが、展覧会終了後に記事を掲載することになり、取材先の美術館および読者にお詫び申し上げたい。現在の豊田市美術館では「奈良美智 for better or worse」展、「森千裕-omoide in my head」展を開催している。また、名古屋市美術館は、現在は改修工事のために休館中で10月7日からは「ランス美術館」展、「中村正義をめぐる画家たち」展が開催される予定である。
(なかむら まき)
●今日のお勧め作品は、瑛九です。
瑛九《(作品名不詳)》
フォトデッサン
27.0×22.0cm
裏面にサインあり
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