鈴木素直「瑛九・鈔」
第6回 二人の関係
瑛九・池田満寿夫版画展
瑛九という風変わりな名前と芥川賞受賞作家池田との取り合わせを奇異に思う人は多いだろう。
瑛九と国際的に売れっ子の版画家池田満寿夫との関係については、池田自身のことばを借りた方がわかりやすいだろう。
「一人の人間が生きていく上で必ず他の人間からの影響、感化、かれへの絶対的な服従、熱狂とそれへの背反とがあるものだ。私は私に必要であったそれらの人の中でも、もっとも私の精神をうばった人物について語ろうと思う。(中略)私はルンペンのような生活をしていて、芸術家は失業者であろうかという問題が私の内にあった。かれは答えた。『資本主義社会での画家の闘争は絵を売って生きていくことしかない』」(池田二十七歳、雑誌「美術手帳」)。
いかに生きるか、何を創造すべきかなどを対等に語り合ったことや、瑛九はどういうふうに優れた芸術家であったかについて、池田は雑誌や著書の中で、彼独特の流れるような文体で、いくどとなくかいている。この文章は、それらの中では最初のものと思われる。彼はつづけていう。
「この偉大な精神の瑛九は『つばさ』(絶筆油絵)をかきかけている間に死んでしまった。私はその半月前から瑛九とは絶交状態にあった。私にはどうしてもかれの影響からのがれ、 かれの期待を裏切らなければ自分は沈んでしまうと信じたからだ。一人の尊敬する人間の死が悲しみをともなった解放感を私に与えてくれたことは、なにに対する冒とくであろうか? 人はだれでも一流の芸術を造ろうとする。私は二流の芸術でたくさんだと思う。――」
今、池田はそのことば通りの道を進んでいる。二十一歳の彼を版画制作へ導いた瑛九との出会いから瑛九の死までの四年余りの時間が、いかにすさまじいものであったか、この引用文からも察せられる。
一方、瑛九は無名時代の池田をどうみていたのか。
「池田満寿夫君はコッケイなくらい率直な面と少女のような憶病なところがあってチャーミングな性格をかたちづくっています。彼は生活の苦しさによろけながらもなんとかしてそれを克服して自分を主張しようとしています。色エッチングにも彼のチャーミングな特質が表れていて諸君をひきつけずにはおかないでしょう。――」と二十二歳の池田が瑛九のすすめで自家出版した「色彩銅版画集」に序文をよせている。そしてそれはつぎのような励ましのことばで終わっている。
「池田君がこの困難な道に一歩ふみ入れている姿勢は仲々興味があります。一部でもこの色エッチシグ集が多く売れて、彼の今後の制作の源動になることを心から望んでいます」
さて、今回の版画展には、池田の作品では初期のものはないが、瑛九がなくなった昭和三十五年以降の版画二十五点(石版画、銅版画)を北九州市立美術館より借りて展示するという。別に池田が描いた瑛九肖像デッサン一点もある。瑛九の作品は、市所有のもの、浦和市に住む都夫人をはじめ個人蔵の版画から選んだ石版画、銅版画各二十五点。ちなみに瑛九は晩年の二年間に百五十八点の石版画、七年間に二百七十八点の銅版画を制作している。
宮崎では、石版画、銅版画を手掛けている画家が少ないだけに、反響を呼ぶ版画展になるだろう。特に瑛九の銅版画には、彼自身の自刷り作品と彼の没後池田の手や林グラフィックプレスによって刷られ刊行された作品とがある。瑛九と池田の刷り感覚を比較するのによい機会でもあり、実作者の勉強の場にもなるだろう。
瑛九と池田とに共通するものが何であったか、それが作品となるとどうちがうのかを見きわめるのに不足しない点数の版画展である。
※於橘ジャスコ 77・11・13~20
(すずき すなお)
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より再録。
■鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。
鈴木素直
『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm
目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
~~~~
『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)
1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
*同図録・銅版入り特装版(限定150部)
~~~~
鈴木素直
『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm
目次:
・鏡より
鏡
ことば
・夏に向ってより
夏に向って
その時小さいあなたへ
春一番
野鳥 I
野鳥 II
入江 I
入江 II
小さいカゴの中で
病院にて
孟蘭盆
夏草 I
夏草 II
大いなる儀式
ムラから
来歴
・女たちより
秋
雨
夜
川
鳥
・夏日より
春
いつも同じ石
海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書
~~~~
鈴木素直
『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm
目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図
~~~~
鈴木素直
『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm
目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
~~~~
鈴木素直さん(左)
鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。
●鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瑛九です。
瑛九 Q Ei
《庭》
1957年
リトグラフ
33.5×21.0cm
E.P.
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

第6回 二人の関係
瑛九・池田満寿夫版画展
瑛九という風変わりな名前と芥川賞受賞作家池田との取り合わせを奇異に思う人は多いだろう。
瑛九と国際的に売れっ子の版画家池田満寿夫との関係については、池田自身のことばを借りた方がわかりやすいだろう。
「一人の人間が生きていく上で必ず他の人間からの影響、感化、かれへの絶対的な服従、熱狂とそれへの背反とがあるものだ。私は私に必要であったそれらの人の中でも、もっとも私の精神をうばった人物について語ろうと思う。(中略)私はルンペンのような生活をしていて、芸術家は失業者であろうかという問題が私の内にあった。かれは答えた。『資本主義社会での画家の闘争は絵を売って生きていくことしかない』」(池田二十七歳、雑誌「美術手帳」)。
いかに生きるか、何を創造すべきかなどを対等に語り合ったことや、瑛九はどういうふうに優れた芸術家であったかについて、池田は雑誌や著書の中で、彼独特の流れるような文体で、いくどとなくかいている。この文章は、それらの中では最初のものと思われる。彼はつづけていう。
「この偉大な精神の瑛九は『つばさ』(絶筆油絵)をかきかけている間に死んでしまった。私はその半月前から瑛九とは絶交状態にあった。私にはどうしてもかれの影響からのがれ、 かれの期待を裏切らなければ自分は沈んでしまうと信じたからだ。一人の尊敬する人間の死が悲しみをともなった解放感を私に与えてくれたことは、なにに対する冒とくであろうか? 人はだれでも一流の芸術を造ろうとする。私は二流の芸術でたくさんだと思う。――」
今、池田はそのことば通りの道を進んでいる。二十一歳の彼を版画制作へ導いた瑛九との出会いから瑛九の死までの四年余りの時間が、いかにすさまじいものであったか、この引用文からも察せられる。
一方、瑛九は無名時代の池田をどうみていたのか。
「池田満寿夫君はコッケイなくらい率直な面と少女のような憶病なところがあってチャーミングな性格をかたちづくっています。彼は生活の苦しさによろけながらもなんとかしてそれを克服して自分を主張しようとしています。色エッチングにも彼のチャーミングな特質が表れていて諸君をひきつけずにはおかないでしょう。――」と二十二歳の池田が瑛九のすすめで自家出版した「色彩銅版画集」に序文をよせている。そしてそれはつぎのような励ましのことばで終わっている。
「池田君がこの困難な道に一歩ふみ入れている姿勢は仲々興味があります。一部でもこの色エッチシグ集が多く売れて、彼の今後の制作の源動になることを心から望んでいます」
さて、今回の版画展には、池田の作品では初期のものはないが、瑛九がなくなった昭和三十五年以降の版画二十五点(石版画、銅版画)を北九州市立美術館より借りて展示するという。別に池田が描いた瑛九肖像デッサン一点もある。瑛九の作品は、市所有のもの、浦和市に住む都夫人をはじめ個人蔵の版画から選んだ石版画、銅版画各二十五点。ちなみに瑛九は晩年の二年間に百五十八点の石版画、七年間に二百七十八点の銅版画を制作している。
宮崎では、石版画、銅版画を手掛けている画家が少ないだけに、反響を呼ぶ版画展になるだろう。特に瑛九の銅版画には、彼自身の自刷り作品と彼の没後池田の手や林グラフィックプレスによって刷られ刊行された作品とがある。瑛九と池田の刷り感覚を比較するのによい機会でもあり、実作者の勉強の場にもなるだろう。
瑛九と池田とに共通するものが何であったか、それが作品となるとどうちがうのかを見きわめるのに不足しない点数の版画展である。
※於橘ジャスコ 77・11・13~20
(すずき すなお)
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より再録。
■鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。
鈴木素直『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm
目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
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『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
*同図録・銅版入り特装版(限定150部)
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鈴木素直『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm
目次:
・鏡より
鏡
ことば
・夏に向ってより
夏に向って
その時小さいあなたへ
春一番
野鳥 I
野鳥 II
入江 I
入江 II
小さいカゴの中で
病院にて
孟蘭盆
夏草 I
夏草 II
大いなる儀式
ムラから
来歴
・女たちより
秋
雨
夜
川
鳥
・夏日より
春
いつも同じ石
海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書
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鈴木素直『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm
目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図
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鈴木素直『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm
目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
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鈴木素直さん(左)鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。
●鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瑛九です。
瑛九 Q Ei《庭》
1957年
リトグラフ
33.5×21.0cm
E.P.
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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