橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」第8回
ハウ・ハイ・ザ・ムーン (1986)
《ミス・ブランチ》(1988)とともに倉俣の代表作として知られる肘掛椅子《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》 (1986)は、エキスパンドメタルと呼ばれる金網を溶接しただけのミニマルな椅子だ(注1)。ジャズのスタンダードナンバーに因んだ作品名は、メッキを施した金網のきらきらとした輝きがスイングのリズムを想起させるからだろうか。ジャズファンだった倉俣は多くの家具作品にジャズナンバーのタイトルを付けているが、そういえば、エキスパンドメタルを初めて素材とした椅子も《Sing Sing Sing》(1985、注2)の名を付けられている。
実のところ、筆者にとって《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》は《Glass Chair》(1976、第4回参照)と同様、座るのを一寸ためらってしまう椅子である。座った途端、《Glass Chair》のガラスが外れてしまうのではないかと思うように、《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》のフレームのない金網面がへこんで崩れるシーンを想像するからだ。
無論、実際には心配には及ばない。強度のあるエキスパンドメタルが使われ、座面下の空間にも支えのエキスパンドメタルが入っているからだ(注3)。さらにエキスパンドメタルは金網に見えるとはいえ、実は針金を編んだものではなく、1枚の金属板に千鳥格子状の切れ込みを入れ、左右に押し広げて網目をつくったものである。したがって、元は1枚の金属板だからそう簡単にはへこまない。
《Sing Sing Sing》や内田繁の名作椅子《セプテンバー》(1977)はともにスチールパイプのフレームがメッシュの座を支えているのが見て取れるから、壊れるといった不安は抱かないが、倉俣はおそらく最初からフレームレスな、網目だけで出来た椅子をつくりたかったのだろう。しかし、その理由は《Glass Chair》のように座ることに不安を抱かせることではなく、別のところにある。1987年に倉俣は《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》について次のように記した。
「この椅子で試みたことは、従来の椅子の形態はそのままにして、ボリュームを消し去り、物理的にも、視覚的にも軽く、風が飛び抜ける。在ってないようなもの……そんなことを考えながらデザインしました。
いずれにしましても、意識・無意識のうちに無重力願望が、僕がものを造る時の下敷きになっているのかもしれません。そういう意味でこれは「無重力願望の椅子」といえるでしょう。」(注4)
本連載で何度か触れたように、「無重力」や「非存在」の表現は倉俣の永遠のテーマであり、彼はそれをさまざまな素材で試みてきた。エキスパンドメタルはまさにこのふたつのコンセプトを表現し得る素材であり、《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》は「無重力」「非存在」の完璧な具現化というべきだが、ここでは「風が飛び抜ける」という彼の言葉に注目したい。この言葉が想起させるのは、1980年代の伊東豊雄や長谷川逸子などの建築家によるエキスパンドメタルやパンチングメタル(金属板に無数の丸穴をあけたもの)を用いた、風が吹き抜けるような建築である。1970年代後半にテラゾーを用いていた倉俣が1983年にアパレルショップのインテリアでスチールメッシュを大々的に使ったのはそうした時代背景があるかもしれないが、それでもなお、倉俣のメッシュの使い方は想像を超えた驚くべきものだった。
というのも、風が吹き抜けるインテリアや建築といえば、通常は風を遮断する壁そのものをメッシュに置き代えることを考えるだろう。だが、香港・コーゼイベイのスポーツ洋品ブランド「エスプリ」のパイロットショップ(1983)で倉俣が行ったのはなんと部屋の壁と天井とを60ミリ角のスチールメッシュ(直径6ミリ)で覆うことだったのだ。より正確に言えば、メッシュの壁は建築躯体の壁と天井とを覆っているように見えながら、実は、巨大な鳥籠として天井からぶら下がり、床からも浮いている(注5)。ここでもやはり、「無重力」のコンセプトが見て取れるものの、重要なのは鳥籠やフェンスがどこに置かれようと、置かれた場所に「内と外」の2つの領域を生じさせることが巧みに利用されていることだ。倉俣は1986年に沖健次によるインタビューで次のように述べた。
「《エスプリ 香港》で僕のやりたかったことは、外壁まで内から建築を包むことと、もう一つは向う側にも何かあるのを、こちら側から見るというような状態で皮層的ではなく鳥籠のような空間を作れたら、少しは落語に近づいたと思う。」(注6)
「落語に近づいたと思う」というのは、ひょっとしたら、《ランプ オバQ》(1972)をひっくり返して福岡・小倉フォロンの「ISSEY MIYAKE」(1985)をつくったように(第7回参照)、フェンスで囲まれたコンクリートの建築をひっくり返して《エスプリ 香港》をつくった、ということなのかと個人的には想像する。多木浩二が指摘した倉俣のトポロジー的空間思考がここでも立ち現れている(注7)。
翌年の《ISSEY MIYAKE MEN 渋谷西武》(1987)は、《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》を完全にインテリアに転化させた、どこから見ても鳥籠のような空間になった。三宅一生が《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》を目にして、「この椅子の中みたいな空間をブティックにしたい」(注8)と言ったことがこの虚構的空間を生んだ。のちに倉俣も「とにかく、あの椅子の中に入り込んだような体験をしてもらいたかった」と語っている(注9)。
渋谷西武B館1階の幅12メートルの店舗は、スチールエキスパンドメタルの箱の中にスチールエキスパンドメタルのトンネルを入れたような二重のメッシュ壁の構築物である。もっともこの構築物は床から立ち上がっているわけではなく、構築物全体を13個のユニットに輪切りにしたものが天井からぶら下がり、空間で固定されている。
《ISSEY MIYAKE MEN 渋谷西武》の反響はすさまじく、実に多くの人が各誌にコメントを寄せた。たとえば、建築家の八束はじめは「形であって形でない。いわば空蝉のようなもの」と評し(注10)、インテリア・デザイナーの渡辺妃佐子は「ネットの網目がもつ過剰なイルージョンが視点の移動に従って、動的な装飾を醸し出している」と記した(注11)。渡辺の言葉はこのインテリアの虚構的性格を見事に言い当てており、実際、二重のメッシュ壁によって距離感が薄れ、めまいを覚える人もいたらしい。この虚構感の創出は、晴れた日に突然雨が降ってくる「キツネの嫁入り」の感覚が発想のヒントになったようだ(注12)。最後に倉俣が「メッシュ」について語った言葉を挙げておこう。
「メッシュの作品に関して言うと、あそこで僕は、一枚の板から余分なものをどんどん消去していって、かろうじて自立している面をメッシュで表現しているんです。それでよくミニマリズムの作家だという言い方をされるんだけど、本当はもうひとつそれとは反対のこともやっているんです。メッシュはクロームメッキをかけることによって網目が輝いて、増殖していくように見えるんですね。ですから、消し去っていく作業と増殖させる作業を同時にやっているわけです。
大体僕は、装飾という概念は希薄なんだけれども、消去していく中で増殖していく細胞のようなメッシュの網目などに、僕なりの装飾を見出しているのかもしれません」(注13)
確かに倉俣は矛盾の共存を愛するデザイナーであった。彼のなかでは装飾も数多くの矛盾のひとつなのである。
(はしもと けいこ)
注1:《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》の素材は3ミリロッドのスチールエキスパンドメタルで、仕上げにはニッケル・メッキと銅メッキの2種類がある。シングルだけでなくダブルもある。1986年12月にパリ、イヴ・ガストゥーギャラリーで発表、翌年3月に東京・南青山のイデーで銅メッキのヴァージョンが展示された。製作は寺田鉄工所、のちにヴィトラが製作。
注2:《Sing Sing Sing》の図版・解説は右を参照。田中一光監修、植田実・原美術館ほか編『倉俣史朗』(展覧会カタログ)東京・財団法人アルカンシェール美術財団、1996年、50頁:No. 9図版、58頁:榎本文夫によるNo. 9の解説。
注3:寺田鉄工所のヴァージョンとヴィトラのヴァージョンでは支えのエキスパンドメタルの構造が若干異なる。
注4:倉俣史朗「無重力願望の椅子」『家庭画報』1987年3月号(vol. 30, no. 3)、180頁。
注5:《エスプリ 香港・コーゼイベイ》(1983)は当時のエスプリのマネージャー、ダグ・トムキンズの依頼で手がけられた。掲載記事の例として右を参照。竹内章元「エスプリ香港店」『日経アーキテクチュア』1984年1月号、52-57頁。
注6:倉俣史朗「インタビュー 内部からの風景4 倉俣史朗」(沖健次によるインタビュー)『SD』1986年5月号(no. 260)、46頁。
注7:倉俣のトポロジー的空間思考については右を参照。多木浩二「零への饒舌」倉俣史朗『倉俣史朗の仕事 The Works of Shiro Kuramata 1967-1974』東京:鹿島出版会、1976年、6-11頁(多木浩二『建築・夢の軌跡』東京:青土社、1998年、97-112頁に再録)。
注8: 伊藤明子「イッセイ・ミヤケ・メンズ」『日経アーキテクチュア 別冊インテリア 1987-I』1987年、51頁。
注9: 同上、52頁。
注10:八束はじめ「空蝉のエレガンス」『icon』1987年7月号(vol. 6)、36頁。
注11: 渡辺妃佐子「デザイナーはデミウルゴスとして生まれてきたのだろうか。」『icon』198年5月号(vol. 5)、56頁。
注12:「イッセイ ミヤケ メンズ」『商店建築』1987年5月号(vol. 32, no. 5)、119頁。
注13:倉俣史朗「『うつせみ』のインテリア」(インタヴュー)『CHANCE』1988年夏号(no. 7)、8頁。
■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。東京都現代美術館、兵庫県立美術館学芸員を経て博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」(神戸大学)を執筆。以来、倉俣を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行う。倉俣に関する共著に『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』(株式会社ADP、2010)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』(アートプラニング レイ、2013年)、Atlas of Furniture Design, Vitra Design Museum, 2019(倉俣に関する全項目執筆)など。
◆橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」は奇数月12日の更新です。
●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。
倉俣史朗 Shiro KURAMATA
「Perfume Bottle No. 3」
2008年
ボディ:クリスタル
キャップ:アルマイト仕上げ
6.8x5.0x5.0cm
Ed.30
保証書付き(倉俣美恵子夫人のサイン入り)
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
ハウ・ハイ・ザ・ムーン (1986)
《ミス・ブランチ》(1988)とともに倉俣の代表作として知られる肘掛椅子《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》 (1986)は、エキスパンドメタルと呼ばれる金網を溶接しただけのミニマルな椅子だ(注1)。ジャズのスタンダードナンバーに因んだ作品名は、メッキを施した金網のきらきらとした輝きがスイングのリズムを想起させるからだろうか。ジャズファンだった倉俣は多くの家具作品にジャズナンバーのタイトルを付けているが、そういえば、エキスパンドメタルを初めて素材とした椅子も《Sing Sing Sing》(1985、注2)の名を付けられている。
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《Sing Sing Sing》や内田繁の名作椅子《セプテンバー》(1977)はともにスチールパイプのフレームがメッシュの座を支えているのが見て取れるから、壊れるといった不安は抱かないが、倉俣はおそらく最初からフレームレスな、網目だけで出来た椅子をつくりたかったのだろう。しかし、その理由は《Glass Chair》のように座ることに不安を抱かせることではなく、別のところにある。1987年に倉俣は《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》について次のように記した。
「この椅子で試みたことは、従来の椅子の形態はそのままにして、ボリュームを消し去り、物理的にも、視覚的にも軽く、風が飛び抜ける。在ってないようなもの……そんなことを考えながらデザインしました。
いずれにしましても、意識・無意識のうちに無重力願望が、僕がものを造る時の下敷きになっているのかもしれません。そういう意味でこれは「無重力願望の椅子」といえるでしょう。」(注4)
本連載で何度か触れたように、「無重力」や「非存在」の表現は倉俣の永遠のテーマであり、彼はそれをさまざまな素材で試みてきた。エキスパンドメタルはまさにこのふたつのコンセプトを表現し得る素材であり、《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》は「無重力」「非存在」の完璧な具現化というべきだが、ここでは「風が飛び抜ける」という彼の言葉に注目したい。この言葉が想起させるのは、1980年代の伊東豊雄や長谷川逸子などの建築家によるエキスパンドメタルやパンチングメタル(金属板に無数の丸穴をあけたもの)を用いた、風が吹き抜けるような建築である。1970年代後半にテラゾーを用いていた倉俣が1983年にアパレルショップのインテリアでスチールメッシュを大々的に使ったのはそうした時代背景があるかもしれないが、それでもなお、倉俣のメッシュの使い方は想像を超えた驚くべきものだった。
というのも、風が吹き抜けるインテリアや建築といえば、通常は風を遮断する壁そのものをメッシュに置き代えることを考えるだろう。だが、香港・コーゼイベイのスポーツ洋品ブランド「エスプリ」のパイロットショップ(1983)で倉俣が行ったのはなんと部屋の壁と天井とを60ミリ角のスチールメッシュ(直径6ミリ)で覆うことだったのだ。より正確に言えば、メッシュの壁は建築躯体の壁と天井とを覆っているように見えながら、実は、巨大な鳥籠として天井からぶら下がり、床からも浮いている(注5)。ここでもやはり、「無重力」のコンセプトが見て取れるものの、重要なのは鳥籠やフェンスがどこに置かれようと、置かれた場所に「内と外」の2つの領域を生じさせることが巧みに利用されていることだ。倉俣は1986年に沖健次によるインタビューで次のように述べた。
「《エスプリ 香港》で僕のやりたかったことは、外壁まで内から建築を包むことと、もう一つは向う側にも何かあるのを、こちら側から見るというような状態で皮層的ではなく鳥籠のような空間を作れたら、少しは落語に近づいたと思う。」(注6)
「落語に近づいたと思う」というのは、ひょっとしたら、《ランプ オバQ》(1972)をひっくり返して福岡・小倉フォロンの「ISSEY MIYAKE」(1985)をつくったように(第7回参照)、フェンスで囲まれたコンクリートの建築をひっくり返して《エスプリ 香港》をつくった、ということなのかと個人的には想像する。多木浩二が指摘した倉俣のトポロジー的空間思考がここでも立ち現れている(注7)。
翌年の《ISSEY MIYAKE MEN 渋谷西武》(1987)は、《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》を完全にインテリアに転化させた、どこから見ても鳥籠のような空間になった。三宅一生が《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》を目にして、「この椅子の中みたいな空間をブティックにしたい」(注8)と言ったことがこの虚構的空間を生んだ。のちに倉俣も「とにかく、あの椅子の中に入り込んだような体験をしてもらいたかった」と語っている(注9)。
渋谷西武B館1階の幅12メートルの店舗は、スチールエキスパンドメタルの箱の中にスチールエキスパンドメタルのトンネルを入れたような二重のメッシュ壁の構築物である。もっともこの構築物は床から立ち上がっているわけではなく、構築物全体を13個のユニットに輪切りにしたものが天井からぶら下がり、空間で固定されている。
《ISSEY MIYAKE MEN 渋谷西武》の反響はすさまじく、実に多くの人が各誌にコメントを寄せた。たとえば、建築家の八束はじめは「形であって形でない。いわば空蝉のようなもの」と評し(注10)、インテリア・デザイナーの渡辺妃佐子は「ネットの網目がもつ過剰なイルージョンが視点の移動に従って、動的な装飾を醸し出している」と記した(注11)。渡辺の言葉はこのインテリアの虚構的性格を見事に言い当てており、実際、二重のメッシュ壁によって距離感が薄れ、めまいを覚える人もいたらしい。この虚構感の創出は、晴れた日に突然雨が降ってくる「キツネの嫁入り」の感覚が発想のヒントになったようだ(注12)。最後に倉俣が「メッシュ」について語った言葉を挙げておこう。
「メッシュの作品に関して言うと、あそこで僕は、一枚の板から余分なものをどんどん消去していって、かろうじて自立している面をメッシュで表現しているんです。それでよくミニマリズムの作家だという言い方をされるんだけど、本当はもうひとつそれとは反対のこともやっているんです。メッシュはクロームメッキをかけることによって網目が輝いて、増殖していくように見えるんですね。ですから、消し去っていく作業と増殖させる作業を同時にやっているわけです。
大体僕は、装飾という概念は希薄なんだけれども、消去していく中で増殖していく細胞のようなメッシュの網目などに、僕なりの装飾を見出しているのかもしれません」(注13)
確かに倉俣は矛盾の共存を愛するデザイナーであった。彼のなかでは装飾も数多くの矛盾のひとつなのである。
(はしもと けいこ)
注1:《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》の素材は3ミリロッドのスチールエキスパンドメタルで、仕上げにはニッケル・メッキと銅メッキの2種類がある。シングルだけでなくダブルもある。1986年12月にパリ、イヴ・ガストゥーギャラリーで発表、翌年3月に東京・南青山のイデーで銅メッキのヴァージョンが展示された。製作は寺田鉄工所、のちにヴィトラが製作。
注2:《Sing Sing Sing》の図版・解説は右を参照。田中一光監修、植田実・原美術館ほか編『倉俣史朗』(展覧会カタログ)東京・財団法人アルカンシェール美術財団、1996年、50頁:No. 9図版、58頁:榎本文夫によるNo. 9の解説。
注3:寺田鉄工所のヴァージョンとヴィトラのヴァージョンでは支えのエキスパンドメタルの構造が若干異なる。
注4:倉俣史朗「無重力願望の椅子」『家庭画報』1987年3月号(vol. 30, no. 3)、180頁。
注5:《エスプリ 香港・コーゼイベイ》(1983)は当時のエスプリのマネージャー、ダグ・トムキンズの依頼で手がけられた。掲載記事の例として右を参照。竹内章元「エスプリ香港店」『日経アーキテクチュア』1984年1月号、52-57頁。
注6:倉俣史朗「インタビュー 内部からの風景4 倉俣史朗」(沖健次によるインタビュー)『SD』1986年5月号(no. 260)、46頁。
注7:倉俣のトポロジー的空間思考については右を参照。多木浩二「零への饒舌」倉俣史朗『倉俣史朗の仕事 The Works of Shiro Kuramata 1967-1974』東京:鹿島出版会、1976年、6-11頁(多木浩二『建築・夢の軌跡』東京:青土社、1998年、97-112頁に再録)。
注8: 伊藤明子「イッセイ・ミヤケ・メンズ」『日経アーキテクチュア 別冊インテリア 1987-I』1987年、51頁。
注9: 同上、52頁。
注10:八束はじめ「空蝉のエレガンス」『icon』1987年7月号(vol. 6)、36頁。
注11: 渡辺妃佐子「デザイナーはデミウルゴスとして生まれてきたのだろうか。」『icon』198年5月号(vol. 5)、56頁。
注12:「イッセイ ミヤケ メンズ」『商店建築』1987年5月号(vol. 32, no. 5)、119頁。
注13:倉俣史朗「『うつせみ』のインテリア」(インタヴュー)『CHANCE』1988年夏号(no. 7)、8頁。
■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。東京都現代美術館、兵庫県立美術館学芸員を経て博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」(神戸大学)を執筆。以来、倉俣を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行う。倉俣に関する共著に『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』(株式会社ADP、2010)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』(アートプラニング レイ、2013年)、Atlas of Furniture Design, Vitra Design Museum, 2019(倉俣に関する全項目執筆)など。
◆橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」は奇数月12日の更新です。
●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。
倉俣史朗 Shiro KURAMATA「Perfume Bottle No. 3」
2008年
ボディ:クリスタル
キャップ:アルマイト仕上げ
6.8x5.0x5.0cm
Ed.30
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