皆様こんにちわ。
ときの忘れもの国内担当のスタッフMです。
ときの忘れものでは、「没後60年 第29回瑛九展」(Web展/アポイントメント制)を開催しておりますが、本日5月30日が最終日です。
すでにご覧になった方もいらっしゃると思いますが、初めて制作した動画を第一部と第二部の2本をユーチューブで公開しています。
今回は、瑛九のフォト・デッサンをご紹介いたします。
ご存じの通り、フォト・デッサンは各一枚しか存在しません。
満生和昭氏(大分市美術館 初代館長)の調査によると、総数は2,000点以上あるのではないかとのことです。画廊亭主によると、瑛九の並外れた集中力を考えれば、3,000点位つくったかも知れないとも(綿貫不二夫「瑛九 について vol.6」より)。
今回の展覧会のために私は山田光春先生の著書を読みながら瑛九の制作過程を追ってきましたが、何度読んでもこの桁外れのパワーに驚きを隠せません。

左)瑛九《二人》フォトデッサン 右)瑛九「貝」油彩
瑛九は、1930年の写真雑誌「フォトタイムス」8月号「MODERN PHOTO SEC」に「フォトグラムの自由な製作のために」と題した写真評論を寄せています。
「私はかつて画家であった。その眼で現代の写真界の芸術的とよばれるものをみたとき、自由なるべき――ブラッシュにくらべてなんとレンズは自由に自然の一角を技術者の頭のままにうつしとってくれることか――写真技術が、なんと不自由にとりあつかわれているかを知って唖然とした。(中略)芸術写真界はなんとねぼけた昨日の顔で無愛想なことか。よろしい、私はいさぎよく彼等と別れのあいさつをしよう。」
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.82-83より引用)
この評論を書いた瑛九は当時19歳です。早熟です。
その後、1935年に久保貞次郎先生と出会い、翌1936年に画家 長谷川三郎氏と美術評論家 外山卯三郎氏に印画紙による100点もの作品を見せたところ、その独創的な美しい作品に驚嘆し、これらの作品を「フォト・デッサン」とすること、ペンネ-ムを「Q Ei]とすることを決めたといわれています。同年 フォト・デッサン集「眠りの理由」を刊行します。

(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.180より引用)
長谷川三郎氏は瑛九との初めての出会いをこう語っています。
「君が初めて目黒の私のアトリエを訪ねて呉れたのは一九三五年(ママ)、ああもう十五、六年も前でしたね。その時君は、大きなスーツケース一杯のフォト・デッサンと素描とを、突然、僕の目の前に差し出しましたね。驚きましたよ、あの時は。マン・レイとかモホリ・ナギーとかのフォト・グラムの事は少しは知って居りましたが、そんなものの真似ではなくて、立派に個性的な独創を具えた美しい作品ばかりだったのだから。
三人で、フォト・デッサンという言葉や、針金を曲げてサインのQ・EIというペンネームをつくったのも、その日のうちでしたね。そしてあれは、T氏のきもいりで、『眠りの理由』と名づけた作品集として刊行されたのでしたね。」
1951年8月号 みづゑ「手紙・瑛九さんへ」に長谷川三郎氏が寄せた文章。
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.121より引用)
T氏というのは、外山卯三郎氏のことです。
また、山田光春先生によると瑛九が長谷川氏のアトリエを訪れたのは、一九三五年とあるのは記憶違いか誤植ではないかということです。正しくは1936年であろうと書かれています。
瑛九《二人》 1951年 フォト・デッサン
瑛九《作品》 1954年頃 フォト・デッサン
瑛九は『眠りの理由』を発表後も油彩と並行しながらフォト・デッサンを制作し続けます。
最後に都夫人の言葉を引用して終わりたいと思います。
「彼は静かにアトリエで画を描き、疲れると庭に出て、私の育てた花の虫をとったり、枯葉をとったり、犬と遊んだり……ただただ絵を描くためにこの世に生れて来た人でした。」
1960年 4月号 LAGOJO 杉田都「Karamia Hicjo」に都夫人が寄せた文章です。
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.439より引用)
「没後60年 第29回瑛九展」は本日で終了となります。
コロナウイルス禍で皆様にお会いできないのは残念でしたが、少しでも瑛九の魅力をお伝えできればと初めて動画を制作いたしました。お楽しみいただけたでしょうか。
日常が戻ってくるまでにはまだ時間がかかりそうですが、どうかお元気でお過ごしください。
(スタッフM)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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◎昨日読まれたブログ(archive)/2015年12月18日|森下泰輔「戦後・現代美術事件簿 第5回~草間彌生・築地署連行事件」
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◆没後60年 第29回瑛九展(Web展/アポイントメント制)では初めて動画を制作し、第一部と第二部をYouTubeで公開しています。
特別寄稿・大谷省吾さんの「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」もあわせてお読みください。
◆ときの忘れものは版画・写真のエディション作品などをアマゾンに出品しています。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
ときの忘れもの国内担当のスタッフMです。
ときの忘れものでは、「没後60年 第29回瑛九展」(Web展/アポイントメント制)を開催しておりますが、本日5月30日が最終日です。
すでにご覧になった方もいらっしゃると思いますが、初めて制作した動画を第一部と第二部の2本をユーチューブで公開しています。
今回は、瑛九のフォト・デッサンをご紹介いたします。
ご存じの通り、フォト・デッサンは各一枚しか存在しません。
満生和昭氏(大分市美術館 初代館長)の調査によると、総数は2,000点以上あるのではないかとのことです。画廊亭主によると、瑛九の並外れた集中力を考えれば、3,000点位つくったかも知れないとも(綿貫不二夫「瑛九 について vol.6」より)。
今回の展覧会のために私は山田光春先生の著書を読みながら瑛九の制作過程を追ってきましたが、何度読んでもこの桁外れのパワーに驚きを隠せません。

左)瑛九《二人》フォトデッサン 右)瑛九「貝」油彩瑛九は、1930年の写真雑誌「フォトタイムス」8月号「MODERN PHOTO SEC」に「フォトグラムの自由な製作のために」と題した写真評論を寄せています。
「私はかつて画家であった。その眼で現代の写真界の芸術的とよばれるものをみたとき、自由なるべき――ブラッシュにくらべてなんとレンズは自由に自然の一角を技術者の頭のままにうつしとってくれることか――写真技術が、なんと不自由にとりあつかわれているかを知って唖然とした。(中略)芸術写真界はなんとねぼけた昨日の顔で無愛想なことか。よろしい、私はいさぎよく彼等と別れのあいさつをしよう。」
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.82-83より引用)
この評論を書いた瑛九は当時19歳です。早熟です。
その後、1935年に久保貞次郎先生と出会い、翌1936年に画家 長谷川三郎氏と美術評論家 外山卯三郎氏に印画紙による100点もの作品を見せたところ、その独創的な美しい作品に驚嘆し、これらの作品を「フォト・デッサン」とすること、ペンネ-ムを「Q Ei]とすることを決めたといわれています。同年 フォト・デッサン集「眠りの理由」を刊行します。

(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.180より引用)
長谷川三郎氏は瑛九との初めての出会いをこう語っています。
「君が初めて目黒の私のアトリエを訪ねて呉れたのは一九三五年(ママ)、ああもう十五、六年も前でしたね。その時君は、大きなスーツケース一杯のフォト・デッサンと素描とを、突然、僕の目の前に差し出しましたね。驚きましたよ、あの時は。マン・レイとかモホリ・ナギーとかのフォト・グラムの事は少しは知って居りましたが、そんなものの真似ではなくて、立派に個性的な独創を具えた美しい作品ばかりだったのだから。
三人で、フォト・デッサンという言葉や、針金を曲げてサインのQ・EIというペンネームをつくったのも、その日のうちでしたね。そしてあれは、T氏のきもいりで、『眠りの理由』と名づけた作品集として刊行されたのでしたね。」
1951年8月号 みづゑ「手紙・瑛九さんへ」に長谷川三郎氏が寄せた文章。
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.121より引用)
T氏というのは、外山卯三郎氏のことです。
また、山田光春先生によると瑛九が長谷川氏のアトリエを訪れたのは、一九三五年とあるのは記憶違いか誤植ではないかということです。正しくは1936年であろうと書かれています。
瑛九《二人》 1951年 フォト・デッサン
瑛九《作品》 1954年頃 フォト・デッサン瑛九は『眠りの理由』を発表後も油彩と並行しながらフォト・デッサンを制作し続けます。
最後に都夫人の言葉を引用して終わりたいと思います。
「彼は静かにアトリエで画を描き、疲れると庭に出て、私の育てた花の虫をとったり、枯葉をとったり、犬と遊んだり……ただただ絵を描くためにこの世に生れて来た人でした。」
1960年 4月号 LAGOJO 杉田都「Karamia Hicjo」に都夫人が寄せた文章です。
(山田光春「瑛九 評伝と作品」(1976年、株式会社青龍洞) p.439より引用)
「没後60年 第29回瑛九展」は本日で終了となります。
コロナウイルス禍で皆様にお会いできないのは残念でしたが、少しでも瑛九の魅力をお伝えできればと初めて動画を制作いたしました。お楽しみいただけたでしょうか。
日常が戻ってくるまでにはまだ時間がかかりそうですが、どうかお元気でお過ごしください。
(スタッフM)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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◎昨日読まれたブログ(archive)/2015年12月18日|森下泰輔「戦後・現代美術事件簿 第5回~草間彌生・築地署連行事件」
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◆没後60年 第29回瑛九展(Web展/アポイントメント制)では初めて動画を制作し、第一部と第二部をYouTubeで公開しています。
特別寄稿・大谷省吾さんの「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」もあわせてお読みください。
◆ときの忘れものは版画・写真のエディション作品などをアマゾンに出品しています。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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