「編集続行中」
版画掌誌ときの忘れもの第3号(2000年9月刊行)
本号で特集した草間彌生のフォトコラージュが「作品として」認知され注目を浴びてきたのはここ数年のことである。ハプニングの宣伝ビラや週刊誌『クサマズ・オージー』の表紙などに、草間は自らの作品写真を切り抜き、コラージュにして使った。それらは単なる記録、資料としてしか見られていなかったが、1996年N.Y.のPaulaCooper Galleryが「Yayoi Kusama The 1950s and 1960s」展を開きフォトコラージュを作品として展示し、売った。画期的なことだった。
草間が初めて版画を制作したのは、N.Y.から帰国して随分経った1979年、シルクスクリーンによる「靴をはいて野にゆこう」が第一作である。版元はなく作家自身の出版だった。刷りを手掛けたのは本誌のメインプリンター石田了一氏である。1982年私が主宰していた現代版画センターが版元となりレゾネNo.7「南瓜」など7点をエディションしたが、全く売れなかった。国際的名声と数々のスキャンダラスな伝説はコレクターの購買欲をそそらなかったらしい。『草間彌生版画集』(1992年、阿部出版)には1979年から92年までの157点が収録されているが、凡例で「版元のうち、ボックスギャラリー(名古屋)と現代版画センター(東京)の2社は現存しない」とわざわざ注記してある。時代が早すぎたのだろう。
版元には恵まれなかったが、石田氏や岡部徳三氏、木村希八氏など名刷り師が草間の版画制作を支えた。特に石田氏は職人としてのあらゆる技を駆使して草間版画の展開に大きく寄与した。本誌挿入の3点にも、それぞれ今までになかった試みがなされており、お楽しみいただけると思う。
パーヴェル・V・リュバルスキー、この「歴史の彼方に忘れ去られた」作家のリノカット原版8点が80年の流転を経ていま私の目の前にある。1920年10月「日本に於ける最初のロシア画展覧会」、翌21年10月「第2回未来派美術協会展」に出品された版画の原版である。
随分昔、創作版画の蒐集に熱中していた頃、「君が持っていた方がいいから」とコレクターH氏から和紙に刷られた4点のリノカット版画を進呈された。いつか調べなければと気になりながら10数年が過ぎた。あるとき旧知の品川清氏のお宅に伺い、氏のコレクションを見せていただいていると、偶然同じものを見つけた。驚いて問うと、氏が原版を所蔵しており、以前ご自分で刷って仲間に配布したと言うではないか。私がH氏から進呈された4点も品川氏が刷ったものだった。
団子坂の古物店に8枚一絡げに積んであったリノカット原版を誰のものとも知らず購入され、ベコベコになっていた版をボンドでベニヤ板に張り付け直し、和紙に自分で刷ってみたのだという。氏が参加しているコレクター組織「PCS」の1975(昭和50)年11月15日の第33回例会で会員に無償配布され、それが私や後述する小野忠重氏の手に渡ったのだろう。研究者の誰ひとり注目しなかった時代に自らの見識で原版を買った品川氏はコレクターの鑑である(氏はリュバルスキーのことは全くご存じなかった)。
因みにPCS(プリント・コレクターズ・サロン)とは「版画を愛するもの同志で、作品入手の便宜を分ちあい、また作家との交流をたかめ、会員相互の親睦に資することを目的」に、1969(昭和44)年浪川正男氏、神尾格氏らによって結成された。駒井哲郎、関野準一郎など多くの作家の版画の頒布を行ない、機関誌『PCS』を11号まで刊行、今まで83回の例会(頒布会)を開いている。
かつては修学旅行先になるほど身近だった朝鮮半島やロシア・シベリア地方と日本の文化交流の歴史は、戦後の冷戦構造の下、長く封印されたままだった。近年、戦前の前衛美術運動の研究が進み、大正から昭和にかけ多くの海外作家や作品がロシア経由で将来されていたことが解明されつつある。小野忠重氏が『近代日本の版画』(1971年、三彩社)他でわずかに触れたぐらいで、専門の美術史研究者すら全く顧みることのなかったこの作家のことが注目され出したのはつい最近である。以下の三つの展覧会がその契機となった。
1) 1994年 7月輝開主催「青美(一)展」/サブタイトルには「版画誌から落ちていた青年美術家たちの“詩と版画”誌」とあり、1921(大正10)年 4月未来派美術協会会員の後藤忠光(1896~1986)が編集発行した版画誌を発掘、紹介した。同誌には後藤らの版画とともにリュバルスキーのリノカット版画が挿入されていた。
2) 1995年 9月小野忠重版画館主催「初期リノカット展」/小野忠重氏が所蔵していたリュバルスキーのリノカット後刷り8点を展示したが、小野氏は既に没しており、同館所蔵の後刷りが品川氏によるものだとは関係者の誰も気付かなかった。
3)1996年 6月西宮市大谷記念美術館主催「未来派の父 露国画伯来朝記 -ブルリュークと日本の未来派」展/「ロシア・ウラジオストックから来日、持参した500点もの作品で大正時代の日本に衝撃を与えた画家D・ブルリュークの日本での活動の詳細を」追った企画展で、前項小野忠重版画館所蔵のリノカット後刷り8点が出品されたが、やはり出品作が品川氏による後刷りだとは関係者の誰も知る由もなかった。
整理すると1) の「青美(一)展」には、1921年に原版から刷られた1点が出品された。2) と3) には、数奇な運命を辿ったであろう原版8点を入手した品川氏が1975年に後刷りしたものが出品されたことになる。
そこで原版を品川氏から委ねられていた私は、五十殿利治氏(筑波大学)、水沢勉氏(神奈川県立近代美術館)、滝沢恭司氏(町田市立国際版画美術館)に原版が現存すること、品川氏が後刷りを行っていたことを伝えたのだった。その後、この3人はロシアへ現地調査に赴くなど精力的に研究を進められている。
8点のリノカット原版は、いつ誰の手によって日本にもたらされたのか確かなことは不明である。その後半世紀を経て古物商に渡るまでの経緯はさらに謎である。
本号では現在までの発掘成果を発表した。いつかリュバルスキーの展覧会を開きたいし、原版からの後刷りも、もう少し時間をかけて実現したい。編集後記ではなく「編集続行中」とした所以である。
ともに美術館の学芸員から大学に転じた気鋭の研究者である小泉晋弥氏、五十殿利治氏には、今までの研究成果に加え、新しい視点からの意欲的なテキストを執筆していただいた。
(2000年8月 綿貫不二夫)
~~~~~~~~~~~~~~
リュバルスキーのリノカット(品川清による後刷り)4点と、原版8枚
版画集『Prostistutka』より5番
《満ち足りた生活》
1920年頃 リノカット(1975年品川清による原版からの後刷り)
イメージサイズ:13.5×9.3cm
※『版画掌誌ときの忘れもの』第3号A・B版に図版掲載
版画集『Prostistutka』より6番
《まさかのときに》
1920年頃 リノカット(1975年品川清による原版からの後刷り)
イメージサイズ:15.5×7.0cm
※『版画掌誌ときの忘れもの』第3号A・B版に図版掲載
版画集『Prostistutka』より8番
《まだ清純なからだ…》
1920年頃 リノカット(1975年品川清による原版からの後刷り)
イメージサイズ:12.2×10.1cm
※『版画掌誌ときの忘れもの』第3号A・B版に図版掲載
版画集『Prostistutka』より11番
《救世騎士団》
1920年頃 リノカット(1975年品川清による原版からの後刷り)
イメージサイズ:13.5×8.5cm
※『版画掌誌ときの忘れもの』第3号A・B版に参考掲載

*画廊亭主敬白
2000年9月に刊行した『版画掌誌ときの忘れもの 第3号 草間彌生/パーヴェル・V・リュバルスキー』は、その後の草間ブームのおかげでA版、B版とも完売となりました。今回B版を買い戻すことができ久しぶりの展観が実現しました。
第3号では編集後記ではなく「編集続行中」としたのはリュバルスキーの原版からの後刷りをどのような方針で進めるか、当時は資料不足もあって躊躇したからです。
<1920年10月1日、ブルリュークはパリモフとともに敦賀に上陸するが、そのトランクにはリュバルスキーのリノカットと原版が収められていた。それはその後ブルリュークとともに、東京をはじめ、大阪や名古屋を巡り、雑誌にも挿入された。リュバルスキーの作品はリュバルスキー自身が想像できないほど数多くの日本人の目に触れることになったのであった。作者の手からひとたび作品が離れると、作品は独自の生命を持ち始めるのはよくいわれることであるが、リュバルスキー作品の場合も同様に、日本に渡り、作者も与かり知らないような評価を得ることになる。>
< >内は昨日掲載した五十殿利治先生の論考からの引用ですが、1920年にもたらされたリュバルスキー(1891~1968)のリノカット原版8枚が半世紀を経て、1975年頃、団子坂の古物店の店先に出現、近くに住んでいた品川清さん(2005年死去、品川工先生の従弟)が入手し後刷りしました。亭主の手元には原版8枚と上掲の後刷り4点(品川清刷り)があります。
ブルリュークが日本に持ち込んでから100年、この原版をどのように生かせばロシア未来派の作家たちと大正期の日本の前衛美術の顕彰になるのか、ひいては古い顧客の品川清さんへの手向けにもしたい。遺された人生と相談しながら考えている最中であります。
●『版画掌誌ときの忘れもの第3号』









~~~~~~~~~~~~~~
●本日のお勧め作品は『版画掌誌 ときの忘れもの 第3号 草間彌生/パーヴェル・V・リュバルスキー』です。
20世紀を代表する作家の地位を世界的に確立した草間彌生(b.1929)のフォトコラージュ特集と、1920(大正9)年「日本に於ける最初のロシア画展覧会」に出品され、そのリノカット原版が発見されたロシア人画家パーヴェル・V・リュバルスキー(1891-1968)の謎の生涯を特集。

2000年刊行, B4型変形(32×26cm)、綴じ無し、表紙/箔押・シルクスクリーン刷り、本文/24頁、限定135部
執筆=小泉晋弥(茨城大学助教授)、五十殿利治(筑波大学助教授)
B版(限定100部)
草間彌生の版画「南瓜」1点入り
草間彌生
《南瓜》
2000年
シルクスクリーン・コラージュ(刷り:石田了一)
27.0×21.0cm
Ed.135 Signed
※レゾネNo.294(阿部出版 2005年新版)
◆ときの忘れものは「第2回エディション展/版画掌誌ときの忘れもの」を開催しています(予約制/WEB展)。
観覧ご希望のかたは事前に電話またはメールでご予約ください。
会期=2021年1月6日[水]—1月23日[土]*日・月・祝日休廊

『版画掌誌 ときの忘れもの』 は優れた同時代作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘を目指し創刊したオリジナル版画入り大型美術誌です。第1号~第5号の概要は1月6日ブログをご覧ください。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第2回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。
●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
版画掌誌ときの忘れもの第3号(2000年9月刊行)
本号で特集した草間彌生のフォトコラージュが「作品として」認知され注目を浴びてきたのはここ数年のことである。ハプニングの宣伝ビラや週刊誌『クサマズ・オージー』の表紙などに、草間は自らの作品写真を切り抜き、コラージュにして使った。それらは単なる記録、資料としてしか見られていなかったが、1996年N.Y.のPaulaCooper Galleryが「Yayoi Kusama The 1950s and 1960s」展を開きフォトコラージュを作品として展示し、売った。画期的なことだった。草間が初めて版画を制作したのは、N.Y.から帰国して随分経った1979年、シルクスクリーンによる「靴をはいて野にゆこう」が第一作である。版元はなく作家自身の出版だった。刷りを手掛けたのは本誌のメインプリンター石田了一氏である。1982年私が主宰していた現代版画センターが版元となりレゾネNo.7「南瓜」など7点をエディションしたが、全く売れなかった。国際的名声と数々のスキャンダラスな伝説はコレクターの購買欲をそそらなかったらしい。『草間彌生版画集』(1992年、阿部出版)には1979年から92年までの157点が収録されているが、凡例で「版元のうち、ボックスギャラリー(名古屋)と現代版画センター(東京)の2社は現存しない」とわざわざ注記してある。時代が早すぎたのだろう。
版元には恵まれなかったが、石田氏や岡部徳三氏、木村希八氏など名刷り師が草間の版画制作を支えた。特に石田氏は職人としてのあらゆる技を駆使して草間版画の展開に大きく寄与した。本誌挿入の3点にも、それぞれ今までになかった試みがなされており、お楽しみいただけると思う。
パーヴェル・V・リュバルスキー、この「歴史の彼方に忘れ去られた」作家のリノカット原版8点が80年の流転を経ていま私の目の前にある。1920年10月「日本に於ける最初のロシア画展覧会」、翌21年10月「第2回未来派美術協会展」に出品された版画の原版である。
随分昔、創作版画の蒐集に熱中していた頃、「君が持っていた方がいいから」とコレクターH氏から和紙に刷られた4点のリノカット版画を進呈された。いつか調べなければと気になりながら10数年が過ぎた。あるとき旧知の品川清氏のお宅に伺い、氏のコレクションを見せていただいていると、偶然同じものを見つけた。驚いて問うと、氏が原版を所蔵しており、以前ご自分で刷って仲間に配布したと言うではないか。私がH氏から進呈された4点も品川氏が刷ったものだった。
団子坂の古物店に8枚一絡げに積んであったリノカット原版を誰のものとも知らず購入され、ベコベコになっていた版をボンドでベニヤ板に張り付け直し、和紙に自分で刷ってみたのだという。氏が参加しているコレクター組織「PCS」の1975(昭和50)年11月15日の第33回例会で会員に無償配布され、それが私や後述する小野忠重氏の手に渡ったのだろう。研究者の誰ひとり注目しなかった時代に自らの見識で原版を買った品川氏はコレクターの鑑である(氏はリュバルスキーのことは全くご存じなかった)。
因みにPCS(プリント・コレクターズ・サロン)とは「版画を愛するもの同志で、作品入手の便宜を分ちあい、また作家との交流をたかめ、会員相互の親睦に資することを目的」に、1969(昭和44)年浪川正男氏、神尾格氏らによって結成された。駒井哲郎、関野準一郎など多くの作家の版画の頒布を行ない、機関誌『PCS』を11号まで刊行、今まで83回の例会(頒布会)を開いている。
かつては修学旅行先になるほど身近だった朝鮮半島やロシア・シベリア地方と日本の文化交流の歴史は、戦後の冷戦構造の下、長く封印されたままだった。近年、戦前の前衛美術運動の研究が進み、大正から昭和にかけ多くの海外作家や作品がロシア経由で将来されていたことが解明されつつある。小野忠重氏が『近代日本の版画』(1971年、三彩社)他でわずかに触れたぐらいで、専門の美術史研究者すら全く顧みることのなかったこの作家のことが注目され出したのはつい最近である。以下の三つの展覧会がその契機となった。
1) 1994年 7月輝開主催「青美(一)展」/サブタイトルには「版画誌から落ちていた青年美術家たちの“詩と版画”誌」とあり、1921(大正10)年 4月未来派美術協会会員の後藤忠光(1896~1986)が編集発行した版画誌を発掘、紹介した。同誌には後藤らの版画とともにリュバルスキーのリノカット版画が挿入されていた。
2) 1995年 9月小野忠重版画館主催「初期リノカット展」/小野忠重氏が所蔵していたリュバルスキーのリノカット後刷り8点を展示したが、小野氏は既に没しており、同館所蔵の後刷りが品川氏によるものだとは関係者の誰も気付かなかった。
3)1996年 6月西宮市大谷記念美術館主催「未来派の父 露国画伯来朝記 -ブルリュークと日本の未来派」展/「ロシア・ウラジオストックから来日、持参した500点もの作品で大正時代の日本に衝撃を与えた画家D・ブルリュークの日本での活動の詳細を」追った企画展で、前項小野忠重版画館所蔵のリノカット後刷り8点が出品されたが、やはり出品作が品川氏による後刷りだとは関係者の誰も知る由もなかった。
整理すると1) の「青美(一)展」には、1921年に原版から刷られた1点が出品された。2) と3) には、数奇な運命を辿ったであろう原版8点を入手した品川氏が1975年に後刷りしたものが出品されたことになる。
そこで原版を品川氏から委ねられていた私は、五十殿利治氏(筑波大学)、水沢勉氏(神奈川県立近代美術館)、滝沢恭司氏(町田市立国際版画美術館)に原版が現存すること、品川氏が後刷りを行っていたことを伝えたのだった。その後、この3人はロシアへ現地調査に赴くなど精力的に研究を進められている。
8点のリノカット原版は、いつ誰の手によって日本にもたらされたのか確かなことは不明である。その後半世紀を経て古物商に渡るまでの経緯はさらに謎である。
本号では現在までの発掘成果を発表した。いつかリュバルスキーの展覧会を開きたいし、原版からの後刷りも、もう少し時間をかけて実現したい。編集後記ではなく「編集続行中」とした所以である。
ともに美術館の学芸員から大学に転じた気鋭の研究者である小泉晋弥氏、五十殿利治氏には、今までの研究成果に加え、新しい視点からの意欲的なテキストを執筆していただいた。
(2000年8月 綿貫不二夫)
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リュバルスキーのリノカット(品川清による後刷り)4点と、原版8枚
版画集『Prostistutka』より5番《満ち足りた生活》
1920年頃 リノカット(1975年品川清による原版からの後刷り)
イメージサイズ:13.5×9.3cm
※『版画掌誌ときの忘れもの』第3号A・B版に図版掲載
版画集『Prostistutka』より6番《まさかのときに》
1920年頃 リノカット(1975年品川清による原版からの後刷り)
イメージサイズ:15.5×7.0cm
※『版画掌誌ときの忘れもの』第3号A・B版に図版掲載
版画集『Prostistutka』より8番《まだ清純なからだ…》
1920年頃 リノカット(1975年品川清による原版からの後刷り)
イメージサイズ:12.2×10.1cm
※『版画掌誌ときの忘れもの』第3号A・B版に図版掲載
版画集『Prostistutka』より11番《救世騎士団》
1920年頃 リノカット(1975年品川清による原版からの後刷り)
イメージサイズ:13.5×8.5cm
※『版画掌誌ときの忘れもの』第3号A・B版に参考掲載

*画廊亭主敬白
2000年9月に刊行した『版画掌誌ときの忘れもの 第3号 草間彌生/パーヴェル・V・リュバルスキー』は、その後の草間ブームのおかげでA版、B版とも完売となりました。今回B版を買い戻すことができ久しぶりの展観が実現しました。
第3号では編集後記ではなく「編集続行中」としたのはリュバルスキーの原版からの後刷りをどのような方針で進めるか、当時は資料不足もあって躊躇したからです。
<1920年10月1日、ブルリュークはパリモフとともに敦賀に上陸するが、そのトランクにはリュバルスキーのリノカットと原版が収められていた。それはその後ブルリュークとともに、東京をはじめ、大阪や名古屋を巡り、雑誌にも挿入された。リュバルスキーの作品はリュバルスキー自身が想像できないほど数多くの日本人の目に触れることになったのであった。作者の手からひとたび作品が離れると、作品は独自の生命を持ち始めるのはよくいわれることであるが、リュバルスキー作品の場合も同様に、日本に渡り、作者も与かり知らないような評価を得ることになる。>
< >内は昨日掲載した五十殿利治先生の論考からの引用ですが、1920年にもたらされたリュバルスキー(1891~1968)のリノカット原版8枚が半世紀を経て、1975年頃、団子坂の古物店の店先に出現、近くに住んでいた品川清さん(2005年死去、品川工先生の従弟)が入手し後刷りしました。亭主の手元には原版8枚と上掲の後刷り4点(品川清刷り)があります。
ブルリュークが日本に持ち込んでから100年、この原版をどのように生かせばロシア未来派の作家たちと大正期の日本の前衛美術の顕彰になるのか、ひいては古い顧客の品川清さんへの手向けにもしたい。遺された人生と相談しながら考えている最中であります。
●『版画掌誌ときの忘れもの第3号』









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●本日のお勧め作品は『版画掌誌 ときの忘れもの 第3号 草間彌生/パーヴェル・V・リュバルスキー』です。
20世紀を代表する作家の地位を世界的に確立した草間彌生(b.1929)のフォトコラージュ特集と、1920(大正9)年「日本に於ける最初のロシア画展覧会」に出品され、そのリノカット原版が発見されたロシア人画家パーヴェル・V・リュバルスキー(1891-1968)の謎の生涯を特集。

2000年刊行, B4型変形(32×26cm)、綴じ無し、表紙/箔押・シルクスクリーン刷り、本文/24頁、限定135部
執筆=小泉晋弥(茨城大学助教授)、五十殿利治(筑波大学助教授)
B版(限定100部)
草間彌生の版画「南瓜」1点入り
草間彌生《南瓜》
2000年
シルクスクリーン・コラージュ(刷り:石田了一)
27.0×21.0cm
Ed.135 Signed
※レゾネNo.294(阿部出版 2005年新版)
◆ときの忘れものは「第2回エディション展/版画掌誌ときの忘れもの」を開催しています(予約制/WEB展)。
観覧ご希望のかたは事前に電話またはメールでご予約ください。
会期=2021年1月6日[水]—1月23日[土]*日・月・祝日休廊
映像制作:WebマガジンColla:J 塩野哲也

『版画掌誌 ときの忘れもの』 は優れた同時代作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘を目指し創刊したオリジナル版画入り大型美術誌です。第1号~第5号の概要は1月6日ブログをご覧ください。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第2回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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