「私が出会ったアートな人たち」第4回
「小コレクター運動で出会ったアートな人たち」
アートフル勝山の会 荒井由泰
「アートフル勝山の会」については先に少しふれたが、1977年、国際芸術文化都市・ニューヨークから何もない福井県勝山市(現在の人口23000人)に戻ってきた。大きな落差である。自分で動かないと芸術文化と出会えないとの想いから仲間を募って1978年に「アートフル勝山の会」を立ち上げ、市民向けにコンサートや展覧会をはじめた。
当初、何もない勝山市と思っていたが、福井そして勝山では創造美育運動(創美)や小コレクター運動が1950年代はじめから始まり、地域に根付いていることや創美や小コレクター運動を実践してきた人が身近に存在することを改めて認識した。アートフルの初期の展覧会は勝山市内にある中西(末治)コレクションを市民に紹介することからスタートした。勝山市で創美および小コレクター運動を推進したのは、中村一郎(木水育男とともに福井創美の先駆者の一人)、原田勇、堀栄治(大野市)の各氏であり、彼らの熱意と活動が中西末治と中上光雄・陽子夫妻をコレクターに育てあげた。結果的には私もその影響を受け、コレクターの道を歩むことになったが、創美・小コレクターの先輩たちから見れば第三世代に位置するのだろう。
当初は意識しなかったが、アートフル勝山の活動は、まさに小コレクターを増やす運動そのものであった。30年余の活動でアート作品そしてアーティストとの出会いを多くの方にプロデュースできたことを誇りに思う。
今回は私自身が刺激を受けた名コレクターの中西末治氏そしてアートフル勝山の会の活動の中で親しくお付き合いいただき、創美や小コレクター運動の真髄を学んだ原田勇氏と堀栄治氏の素顔を皆さんにお伝えしたい。
一番身近なアートフル勝山の会の会員であり、アートコレクター、そしてパトロンでもあった中上夫妻については最終回で述べることとする。
① 中西末治(機料店経営・アートコレクター 1911~1973年)
中西氏は繊維産業が盛んであった勝山市で織物工場に織機や織機の部品などを販売する機料店を経営しており、当初は書画骨董に興味があったようだ。地元の創美の先生方(中村一郎、原田勇、堀栄治)との出会いを契機に現代美術に関心が移り、小コレクターそして本格的コレクターへの道を歩んだ。
1955年に勝山市で開催された「現代作家7人展」(北川民次、瑛九ほか)が先生方との最初の出会いだった。1958年に同じく地元で開催された「現代版画3人展」(瑛九・靉嘔・池田満寿夫 各10点程度が展示)で毎日ように会場に足を運び、池田満寿夫の版画を何点か購入した。堀氏が著した「福井創美の歩み」によると1960年に乞われて譲った瑛九の油彩(4号)を契機に本格的な蒐集がはじまった。とにかく作品蒐集に対する情熱が半端でなく、次々と瑛九、北川民次、池田満寿夫らの名品を手に入れた。また、市民に見てもらいたいと海外アーティストにまで蒐集の範囲が広がった。1962年には中西氏の世話役で、第13回全国小コレクターの会が2日間にわたり、勝山市で開催され、討論やオークションが行われた。また、中西宅(中西ギャラリー)で作品鑑賞会も開催された。
第13回全国小コレクターの会案内状 申込先 中西末治
1973年(昭和48年)、私がニューヨークにおり、版画蒐集をはじめたばかりの時だが62歳の若さで急逝された。そのため残念ながらコレクション談義などご一緒できる機会に恵まれなかった。
1977年に勝山に戻った際、中西コレクションの全貌を拝見できた。瑛九の油彩・版画「旅人」、池田満寿夫の50年代の初期作品から60年代の名作・代表作群「聖なる手」「タエコの朝食」など、北川民次の油彩「焼け跡」1945 (現在 名古屋市美術館所蔵)、オノサト・トシノブの油彩・水彩、駒井哲郎の色彩銅版画「黄色い家」、浜田知明のエッチング「初年兵哀歌(歩哨)」、浜口陽三のメゾチント「雲」などの作品を思い出す。海外作品では版画が中心だが、ピカソ、ミロ、シャガール、マチス、アンソール、ルドンをはじめ、シュールレアリズム、ウィーン幻想派の作品等の作品があった。ミロ、シャガール、マチスは名作だった。極め付きはフォンタナの2本の切り目が入ったキャンバス(末治さんが亡くなったとき新聞紙で包まれて見つかり、危うく処分されそうになったとの話を聞いた)であった。そうそう、小品だったがジャコメッティのドローイングもあった。
中西コレクションを借り受け、1978年に「池田満寿夫版画名作展」(50,60年代の代表作)、「現代版画の巨匠たち」(駒井・浜田・浜口の代表作)、1979年に「北川民次展」(中上コレクションを含め油彩8点を含む25作品)、そして1980年「中西コレクション展」(外国人アーティストの44作品)を開催した。
北川民次展ポスター
中西コレクション展ポスター
中西氏は1960~73年の短い期間であったが、現代美術コレクションに全精力を注がれた。その情熱は驚くべきものがある。原田氏の中西氏に対する追悼の文章が残っている。「中西氏は透徹した眼で時に直情径行であり、時には沈思明晰であった」と作品に向き合う姿勢を回想している。名品に出会うと貪欲に入手に動いた。一方、勝山市の総合美術鑑賞展に毎回(3回)積極的に出展するとともに、「瑛九回顧展」(1970 勝山市民会館)にも実行委員として参加するなど、コレクションを若い人に見てもらうことにも熱心に取り組んだ。美術館を造ることも頭にあったに違いない。しかし、道半ばで急逝された。私もコレクターの端くれとして、中西氏の残念な想いが痛いほど分かる。
ありし日の中西氏 瑛九作品とともに
瑛九回顧展パンフレット 実行委員 中村一郎、原田勇、堀栄治、中西末治、中上光雄
展示作品リスト
その中西コレクションだが、家の事情もあって、残念ながらすべて離散してしまった。コレクションというものは蒐集した本人の芸術活動であって、その後の行方は知るところでない。一時的に預かった文化財がうまく他人に引き継がれていることを願うばかりだ。
左から2番目中西氏、その隣中村一郎氏、一番右瑛九夫人(都さん)
市内での展覧会にて 中西氏とオノサト作品
② 原田勇(福井市出身、勝山で数学と美術の教師を務め、1985年勝山中学校校長を最後に退職。創美・小コレクター運動実践者 1924~2012年)
同じ教師であった奥さんが亡くなった後、娘さんとの同居のため、2002年、勝山市を離れ、千葉県八千代市に移り住んだ。勝山市の文化誌に寄稿した「遠ざかる勝山とぼくの昭和史」によると1949年に勝山市で運よく教師の口に声がかかり、教師生活がスタートした。そもそも理科系出身で数学を担当したが、美術が好きだったことから美術の教鞭も取った。そこで児童美術教育に熱心な中村一郎、木水育男らと出会い、久保貞次郎の主宰する児童美術研究会への参加(1952年)が機縁となり美術を通してのほんもの教育を目指した「創造美育運動」、さらにはほんものの作家と芸術の支持を目指した「小コレクター運動」に深くかかわることになった。
原田勇(ヨコシマシャツ)、隣 中上光雄(ネクタイ)、その隣 中村一郎(横顔 メガネ)
全国的にも「創美」と「小コレクター」運動が両輪のように動き出したが、その中でも福井の活動は目覚ましいものがあった。原田は活動の中心におりながら、瑛九の会の事務局を引き受けるなど原田らしさを発揮する。
原田先生にはアートフル勝山の活動に積極的に参加・協力いただき、創美や小コレクター運動で行われていた芸術に縁がなかった人たちをアートの世界に引き込む遊び(オークションや100円じゃんけん)なども伝授いただいた。ギャラリートークやレセプションの際に楽しい会を催し、初めてアートを手にした人も多かった。そして確実に小コレクターに変身した。
アートフル主催の北川民次展にて 原田と私
また、展覧会の紹介原稿を依頼すると快く引き受けてくださった。さらには私がコレクションした作品等の感想を求めた時には的確な言葉を返す審美眼も有していた。先生は文才も豊かだった。「美術と教育の小径で」(1981)、「オノサト・トシノブ 実在への招喚」(1987)など、我々に何冊かの小冊子を残してくれた。おかげで瑛九やオノサト・トシノブらのアーティストへの距離感や関係性、さらには当時の創美や小コレクター運動への熱烈な思い入れを我々に伝えてくれる。
原田筆の小冊子
中西コレクション展で解説する原田
2002年に「はらだいさむ油彩展」(アートフル勝山の会主催)を開催し、蔵書の販売、自分のコレクションのオークションを行った。本人の言を借りれば、まさに「生前葬」というべきイベントだった。原田先生らしさが心憎い。多くの思い出と足跡を我々に残してくださった功績に心から感謝したい。
はらだいさむ展での原田
原田のトーク 販売する書籍とともに
「はらだいさむ展」案内状
「はらだいさむ展」案内状
③ 堀栄治(教師、小学校の校長を務めた。1924年~2012年)
勝山市のとなりの大野市で教師を務め、中村、原田らとともに、勝山市・大野市を中心に創美そして小コレクター運動を実践するリーダー的な存在だった。
堀栄治と泉茂 アートフル主催の泉茂展にて
大野市に古民家を改造した「COCONOアートプレイス」という大野市立美術館がある。そこには小コレクター運動で市民がコレクションした作品(瑛九、池田満寿夫、北川民次、オノサト・トシノブ他)と地域と縁が深い靉嘔や木村利三郎らの作品が展示されている。まさに小コレクター運動の証とも言うべき美術館だ。
大野市で市民が多くのアート作品を所蔵しているのは堀氏の功績が大きい。とにかく氏のアートやアーティスト(瑛九、池田満寿夫、靉嘔ら)に対する思い入れの大きさには頭がさがる。瑛九頒布会や池田満寿夫・靉嘔らの頒布会を何回も開催している。氏の流儀はアーティストを応援するために身銭を切って作品を購入し、それらを仲間たちに薦め、購入してもらうスタイルだ。なかば強引な販売もあったと聞く。そのため反感もあったようだ。特に教師が絵の販売に関わることに対しても批判があった。しかし、堀氏とその仲間らの金儲けと縁のない献身のおかげで、大野市にたくさんの作品が残った。現代美術(版画を含め)が飲食店を含め、身近に、そしてごく普通に存在している。かつて多くの電話ボックスに靉嘔に版画が飾られたことを思い出す。これらはまさに地域の文化度の高さの証明と言える。
氏の晩年、お宅に出向いて、昔話を直接お聞きしたことがある。瑛九宅を訪ねた際、米びつにコメがない現実を見て、見るに見かねて作品を購入し、仲間に販売したことなどを聞いた。今となれば信じがたいが、瑛九の晩年は生活が本当にきびしく、それを支えたのが堀氏をはじめとする福井の創美の仲間たちだった。
池田満寿夫にしても無名の時代に堀氏は作品の販売に奔走した。彼を連れて、可能性のあるお宅を周ったがなかなか売れなかった話も聞いた。皮肉にも大野市には売れずに寄贈した作品が残った
。
瑛九が亡くなって、福井の仲間たちは「瑛九ロス」におちいった。氏によれば
瑛九と同じハートを持っていたのは靉嘔だった。その後、靉嘔に寄り添い、応援すべく、堀氏と仲間たちは大野市を中心に、靉嘔(AY-O)展や靉嘔の版画の頒布に力を注ぐことになる。その中心に堀氏がいつもいた。2004年には市民がコレクションした400点の作品を展示した作品展が開催された。まさにあふれる虹の迫力に圧倒された。
大野市での靉嘔展にて
堀と靉嘔
氏はもちろん美術教育にも熱心で中村や原田とともに野外美術学校などにも積極的に取り組んだ。また、「福井創美の歩み」を読んでいると、県外での美術展にも仲間とともに足しげく出かけ、海外にも足を運んでいる。美術に対する真摯な姿勢には感心するばかりだ。たくさんのほんものを見ることで眼を磨き、仲間とともに作家や作品に対し評論・論議するあふれるエネルギーを持っていた。今の時代、そんな熱い時代があったことに嫉妬してしまう。
堀氏発行の福井創美の歩み
次回は「アートフルで出会ったアーティストたち」と題して、思い出に残るアーティストたちの話をしたい。次回もぜひお読みください。
(あらい よしやす)
・荒井由泰のエッセイ「私が出会ったアートな人たち」は偶数月の8日に掲載します。次回は12月8日の予定です。
■荒井由泰(あらいよしやす)
1948年(昭和23年)福井県勝山市生まれ。会社役員/勝山商工会議所会頭/版画コレクター
1974年に「現代版画センター」の会員になる
1978年アートフル勝山の会設立 小コレクター運動を30年余実践してきた
ときのわすれものブログに「マイコレクション物語」等を執筆
●『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み―中上光雄・陽子コレクションによる―』図録
2015年 96ページ 25.7x18.3cm
発行:中上邸イソザキホール運営委員会(荒井由泰、中上光雄、中上哲雄、森下啓子)
出品作家:北川民次、難波田龍起、瑛九、岡本太郎、オノサト・トシノブ、泉茂、元永定正、 木村利三郎、丹阿弥丹波子、吉原英雄、靉嘔、磯崎新、池田満寿夫、野田哲也、関根伸夫、小野隆生、舟越桂、北川健次、土屋公雄(19作家150点)
執筆:西村直樹(福井県立美術館学芸員)、荒井由泰(アートフル勝山の会代表)、野田哲也(画家)、丹阿弥丹波子(画家)、北川健次(美術家・美術評論)、綿貫不二夫
ときの忘れもので扱っています(頒価:1,100円(税込み))。メールにてお申し込みください。
~~~~~~~~~~~~
*画廊亭主敬白
今年は瑛九らによってデモクラート美術家協会が創立されてからちょうど70年にあたります(1951年~1957年解散)。40歳だった瑛九のほかはみな若く、泉茂が29歳。瑛九の周囲に集まった靉嘔、池田満寿夫、吉原英雄、磯辺行久、細江英公などみな20代の若者でした。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第3回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。1月28日には第3回目の特別頒布会を開催しました。お気軽にお問い合わせください。
●多摩美術大学美術館で「多摩美の版画、50年」展が2月14日(日)まで開催されています(関根伸夫、島州一、吉田克朗、本田眞吾、駒井哲郎、靉嘔、他)
●東京都現代美術館で「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」が2月14日(日)まで開催されています。
●佐藤美術館で「永井桃子展」が2月21日(日)まで開催されています。
●東京国立近代美術館で「MOMATコレクション 特集:「今」とかけて何と解く?」が2月23日(火・祝日)まで開催されています(瑛九、松本竣介、野田英夫、駒井哲郎、難波田龍起、国吉康雄、ジョエル・シャピロ、他)。
●京都国立近代美術館で「分離派建築会100年 建築は芸術か?」が3月7日(日)まで開催されています。
●東京オペラシティアートギャラリーで「難波田龍起 初期の抽象」が3月21日(日)まで開催されています。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
「小コレクター運動で出会ったアートな人たち」
アートフル勝山の会 荒井由泰
「アートフル勝山の会」については先に少しふれたが、1977年、国際芸術文化都市・ニューヨークから何もない福井県勝山市(現在の人口23000人)に戻ってきた。大きな落差である。自分で動かないと芸術文化と出会えないとの想いから仲間を募って1978年に「アートフル勝山の会」を立ち上げ、市民向けにコンサートや展覧会をはじめた。
当初、何もない勝山市と思っていたが、福井そして勝山では創造美育運動(創美)や小コレクター運動が1950年代はじめから始まり、地域に根付いていることや創美や小コレクター運動を実践してきた人が身近に存在することを改めて認識した。アートフルの初期の展覧会は勝山市内にある中西(末治)コレクションを市民に紹介することからスタートした。勝山市で創美および小コレクター運動を推進したのは、中村一郎(木水育男とともに福井創美の先駆者の一人)、原田勇、堀栄治(大野市)の各氏であり、彼らの熱意と活動が中西末治と中上光雄・陽子夫妻をコレクターに育てあげた。結果的には私もその影響を受け、コレクターの道を歩むことになったが、創美・小コレクターの先輩たちから見れば第三世代に位置するのだろう。
当初は意識しなかったが、アートフル勝山の活動は、まさに小コレクターを増やす運動そのものであった。30年余の活動でアート作品そしてアーティストとの出会いを多くの方にプロデュースできたことを誇りに思う。
今回は私自身が刺激を受けた名コレクターの中西末治氏そしてアートフル勝山の会の活動の中で親しくお付き合いいただき、創美や小コレクター運動の真髄を学んだ原田勇氏と堀栄治氏の素顔を皆さんにお伝えしたい。
一番身近なアートフル勝山の会の会員であり、アートコレクター、そしてパトロンでもあった中上夫妻については最終回で述べることとする。
① 中西末治(機料店経営・アートコレクター 1911~1973年)
中西氏は繊維産業が盛んであった勝山市で織物工場に織機や織機の部品などを販売する機料店を経営しており、当初は書画骨董に興味があったようだ。地元の創美の先生方(中村一郎、原田勇、堀栄治)との出会いを契機に現代美術に関心が移り、小コレクターそして本格的コレクターへの道を歩んだ。
1955年に勝山市で開催された「現代作家7人展」(北川民次、瑛九ほか)が先生方との最初の出会いだった。1958年に同じく地元で開催された「現代版画3人展」(瑛九・靉嘔・池田満寿夫 各10点程度が展示)で毎日ように会場に足を運び、池田満寿夫の版画を何点か購入した。堀氏が著した「福井創美の歩み」によると1960年に乞われて譲った瑛九の油彩(4号)を契機に本格的な蒐集がはじまった。とにかく作品蒐集に対する情熱が半端でなく、次々と瑛九、北川民次、池田満寿夫らの名品を手に入れた。また、市民に見てもらいたいと海外アーティストにまで蒐集の範囲が広がった。1962年には中西氏の世話役で、第13回全国小コレクターの会が2日間にわたり、勝山市で開催され、討論やオークションが行われた。また、中西宅(中西ギャラリー)で作品鑑賞会も開催された。
第13回全国小コレクターの会案内状 申込先 中西末治1973年(昭和48年)、私がニューヨークにおり、版画蒐集をはじめたばかりの時だが62歳の若さで急逝された。そのため残念ながらコレクション談義などご一緒できる機会に恵まれなかった。
1977年に勝山に戻った際、中西コレクションの全貌を拝見できた。瑛九の油彩・版画「旅人」、池田満寿夫の50年代の初期作品から60年代の名作・代表作群「聖なる手」「タエコの朝食」など、北川民次の油彩「焼け跡」1945 (現在 名古屋市美術館所蔵)、オノサト・トシノブの油彩・水彩、駒井哲郎の色彩銅版画「黄色い家」、浜田知明のエッチング「初年兵哀歌(歩哨)」、浜口陽三のメゾチント「雲」などの作品を思い出す。海外作品では版画が中心だが、ピカソ、ミロ、シャガール、マチス、アンソール、ルドンをはじめ、シュールレアリズム、ウィーン幻想派の作品等の作品があった。ミロ、シャガール、マチスは名作だった。極め付きはフォンタナの2本の切り目が入ったキャンバス(末治さんが亡くなったとき新聞紙で包まれて見つかり、危うく処分されそうになったとの話を聞いた)であった。そうそう、小品だったがジャコメッティのドローイングもあった。
中西コレクションを借り受け、1978年に「池田満寿夫版画名作展」(50,60年代の代表作)、「現代版画の巨匠たち」(駒井・浜田・浜口の代表作)、1979年に「北川民次展」(中上コレクションを含め油彩8点を含む25作品)、そして1980年「中西コレクション展」(外国人アーティストの44作品)を開催した。
北川民次展ポスター
中西コレクション展ポスター中西氏は1960~73年の短い期間であったが、現代美術コレクションに全精力を注がれた。その情熱は驚くべきものがある。原田氏の中西氏に対する追悼の文章が残っている。「中西氏は透徹した眼で時に直情径行であり、時には沈思明晰であった」と作品に向き合う姿勢を回想している。名品に出会うと貪欲に入手に動いた。一方、勝山市の総合美術鑑賞展に毎回(3回)積極的に出展するとともに、「瑛九回顧展」(1970 勝山市民会館)にも実行委員として参加するなど、コレクションを若い人に見てもらうことにも熱心に取り組んだ。美術館を造ることも頭にあったに違いない。しかし、道半ばで急逝された。私もコレクターの端くれとして、中西氏の残念な想いが痛いほど分かる。
ありし日の中西氏 瑛九作品とともに
瑛九回顧展パンフレット 実行委員 中村一郎、原田勇、堀栄治、中西末治、中上光雄
展示作品リストその中西コレクションだが、家の事情もあって、残念ながらすべて離散してしまった。コレクションというものは蒐集した本人の芸術活動であって、その後の行方は知るところでない。一時的に預かった文化財がうまく他人に引き継がれていることを願うばかりだ。
左から2番目中西氏、その隣中村一郎氏、一番右瑛九夫人(都さん)
市内での展覧会にて 中西氏とオノサト作品② 原田勇(福井市出身、勝山で数学と美術の教師を務め、1985年勝山中学校校長を最後に退職。創美・小コレクター運動実践者 1924~2012年)
同じ教師であった奥さんが亡くなった後、娘さんとの同居のため、2002年、勝山市を離れ、千葉県八千代市に移り住んだ。勝山市の文化誌に寄稿した「遠ざかる勝山とぼくの昭和史」によると1949年に勝山市で運よく教師の口に声がかかり、教師生活がスタートした。そもそも理科系出身で数学を担当したが、美術が好きだったことから美術の教鞭も取った。そこで児童美術教育に熱心な中村一郎、木水育男らと出会い、久保貞次郎の主宰する児童美術研究会への参加(1952年)が機縁となり美術を通してのほんもの教育を目指した「創造美育運動」、さらにはほんものの作家と芸術の支持を目指した「小コレクター運動」に深くかかわることになった。
原田勇(ヨコシマシャツ)、隣 中上光雄(ネクタイ)、その隣 中村一郎(横顔 メガネ)全国的にも「創美」と「小コレクター」運動が両輪のように動き出したが、その中でも福井の活動は目覚ましいものがあった。原田は活動の中心におりながら、瑛九の会の事務局を引き受けるなど原田らしさを発揮する。
原田先生にはアートフル勝山の活動に積極的に参加・協力いただき、創美や小コレクター運動で行われていた芸術に縁がなかった人たちをアートの世界に引き込む遊び(オークションや100円じゃんけん)なども伝授いただいた。ギャラリートークやレセプションの際に楽しい会を催し、初めてアートを手にした人も多かった。そして確実に小コレクターに変身した。
アートフル主催の北川民次展にて 原田と私また、展覧会の紹介原稿を依頼すると快く引き受けてくださった。さらには私がコレクションした作品等の感想を求めた時には的確な言葉を返す審美眼も有していた。先生は文才も豊かだった。「美術と教育の小径で」(1981)、「オノサト・トシノブ 実在への招喚」(1987)など、我々に何冊かの小冊子を残してくれた。おかげで瑛九やオノサト・トシノブらのアーティストへの距離感や関係性、さらには当時の創美や小コレクター運動への熱烈な思い入れを我々に伝えてくれる。
原田筆の小冊子
中西コレクション展で解説する原田2002年に「はらだいさむ油彩展」(アートフル勝山の会主催)を開催し、蔵書の販売、自分のコレクションのオークションを行った。本人の言を借りれば、まさに「生前葬」というべきイベントだった。原田先生らしさが心憎い。多くの思い出と足跡を我々に残してくださった功績に心から感謝したい。
はらだいさむ展での原田
原田のトーク 販売する書籍とともに
「はらだいさむ展」案内状
「はらだいさむ展」案内状③ 堀栄治(教師、小学校の校長を務めた。1924年~2012年)
勝山市のとなりの大野市で教師を務め、中村、原田らとともに、勝山市・大野市を中心に創美そして小コレクター運動を実践するリーダー的な存在だった。
堀栄治と泉茂 アートフル主催の泉茂展にて大野市に古民家を改造した「COCONOアートプレイス」という大野市立美術館がある。そこには小コレクター運動で市民がコレクションした作品(瑛九、池田満寿夫、北川民次、オノサト・トシノブ他)と地域と縁が深い靉嘔や木村利三郎らの作品が展示されている。まさに小コレクター運動の証とも言うべき美術館だ。
大野市で市民が多くのアート作品を所蔵しているのは堀氏の功績が大きい。とにかく氏のアートやアーティスト(瑛九、池田満寿夫、靉嘔ら)に対する思い入れの大きさには頭がさがる。瑛九頒布会や池田満寿夫・靉嘔らの頒布会を何回も開催している。氏の流儀はアーティストを応援するために身銭を切って作品を購入し、それらを仲間たちに薦め、購入してもらうスタイルだ。なかば強引な販売もあったと聞く。そのため反感もあったようだ。特に教師が絵の販売に関わることに対しても批判があった。しかし、堀氏とその仲間らの金儲けと縁のない献身のおかげで、大野市にたくさんの作品が残った。現代美術(版画を含め)が飲食店を含め、身近に、そしてごく普通に存在している。かつて多くの電話ボックスに靉嘔に版画が飾られたことを思い出す。これらはまさに地域の文化度の高さの証明と言える。
氏の晩年、お宅に出向いて、昔話を直接お聞きしたことがある。瑛九宅を訪ねた際、米びつにコメがない現実を見て、見るに見かねて作品を購入し、仲間に販売したことなどを聞いた。今となれば信じがたいが、瑛九の晩年は生活が本当にきびしく、それを支えたのが堀氏をはじめとする福井の創美の仲間たちだった。
池田満寿夫にしても無名の時代に堀氏は作品の販売に奔走した。彼を連れて、可能性のあるお宅を周ったがなかなか売れなかった話も聞いた。皮肉にも大野市には売れずに寄贈した作品が残った
。
瑛九が亡くなって、福井の仲間たちは「瑛九ロス」におちいった。氏によれば
瑛九と同じハートを持っていたのは靉嘔だった。その後、靉嘔に寄り添い、応援すべく、堀氏と仲間たちは大野市を中心に、靉嘔(AY-O)展や靉嘔の版画の頒布に力を注ぐことになる。その中心に堀氏がいつもいた。2004年には市民がコレクションした400点の作品を展示した作品展が開催された。まさにあふれる虹の迫力に圧倒された。
大野市での靉嘔展にて
堀と靉嘔氏はもちろん美術教育にも熱心で中村や原田とともに野外美術学校などにも積極的に取り組んだ。また、「福井創美の歩み」を読んでいると、県外での美術展にも仲間とともに足しげく出かけ、海外にも足を運んでいる。美術に対する真摯な姿勢には感心するばかりだ。たくさんのほんものを見ることで眼を磨き、仲間とともに作家や作品に対し評論・論議するあふれるエネルギーを持っていた。今の時代、そんな熱い時代があったことに嫉妬してしまう。
堀氏発行の福井創美の歩み次回は「アートフルで出会ったアーティストたち」と題して、思い出に残るアーティストたちの話をしたい。次回もぜひお読みください。
(あらい よしやす)
・荒井由泰のエッセイ「私が出会ったアートな人たち」は偶数月の8日に掲載します。次回は12月8日の予定です。
■荒井由泰(あらいよしやす)
1948年(昭和23年)福井県勝山市生まれ。会社役員/勝山商工会議所会頭/版画コレクター
1974年に「現代版画センター」の会員になる
1978年アートフル勝山の会設立 小コレクター運動を30年余実践してきた
ときのわすれものブログに「マイコレクション物語」等を執筆
●『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み―中上光雄・陽子コレクションによる―』図録
2015年 96ページ 25.7x18.3cm発行:中上邸イソザキホール運営委員会(荒井由泰、中上光雄、中上哲雄、森下啓子)
出品作家:北川民次、難波田龍起、瑛九、岡本太郎、オノサト・トシノブ、泉茂、元永定正、 木村利三郎、丹阿弥丹波子、吉原英雄、靉嘔、磯崎新、池田満寿夫、野田哲也、関根伸夫、小野隆生、舟越桂、北川健次、土屋公雄(19作家150点)
執筆:西村直樹(福井県立美術館学芸員)、荒井由泰(アートフル勝山の会代表)、野田哲也(画家)、丹阿弥丹波子(画家)、北川健次(美術家・美術評論)、綿貫不二夫
ときの忘れもので扱っています(頒価:1,100円(税込み))。メールにてお申し込みください。
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*画廊亭主敬白
今年は瑛九らによってデモクラート美術家協会が創立されてからちょうど70年にあたります(1951年~1957年解散)。40歳だった瑛九のほかはみな若く、泉茂が29歳。瑛九の周囲に集まった靉嘔、池田満寿夫、吉原英雄、磯辺行久、細江英公などみな20代の若者でした。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第3回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。1月28日には第3回目の特別頒布会を開催しました。お気軽にお問い合わせください。●多摩美術大学美術館で「多摩美の版画、50年」展が2月14日(日)まで開催されています(関根伸夫、島州一、吉田克朗、本田眞吾、駒井哲郎、靉嘔、他)
●東京都現代美術館で「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」が2月14日(日)まで開催されています。
●佐藤美術館で「永井桃子展」が2月21日(日)まで開催されています。
●東京国立近代美術館で「MOMATコレクション 特集:「今」とかけて何と解く?」が2月23日(火・祝日)まで開催されています(瑛九、松本竣介、野田英夫、駒井哲郎、難波田龍起、国吉康雄、ジョエル・シャピロ、他)。
●京都国立近代美術館で「分離派建築会100年 建築は芸術か?」が3月7日(日)まで開催されています。
●東京オペラシティアートギャラリーで「難波田龍起 初期の抽象」が3月21日(日)まで開催されています。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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