松本竣介研究ノート 第26回
情報官鈴木庫三について 上
小松﨑拓男
図1
朝日晃『松本竣介』本文ページより
松本竣介の「生きてゐる画家」という文章の投稿が、1941年3月3日発行された美術雑誌『みづゑ』の4月号に掲載された。この文章は同じ年の1月号に載った座談記事「国防国家と美術(座談会)-画家は何をなすべきか-」の反論であった。
この内容や経緯については、朝日晃の評伝『松本竣介』にも、松本が朱を入れた座談記事や原稿をもとに比較的詳しく書かれており、よく知られたものであるだろう(図1)。また、時節はまだ日米開戦前、すなわち真珠湾攻撃が行われる半年以上も前の出来事である。日米の開戦は予測されていたとはしても、戦争は中国大陸で行われている本土を遠く離れた出来事であった頃のことである。さらにこの一文が存在することが、松本竣介を「抵抗の画家」と見なす要因の一つともなった。
この評伝『松本竣介』の中で、朝日晃は座談会に出席した三人の軍人の消息を調べ、連絡を取った事実を伝えている。それによれば、陸軍情報部の秋山邦雄少佐、黒田千吉郎中尉は存命であったが、座談会に関しては記憶になく、また最も強硬派と目されていた鈴木庫三少佐はすでに死去していたとある(注1)。
図2
佐藤卓己『言論統制』
2004年1冊の新書が公刊される。佐藤卓己の『言論統制』という中公新書だ(図2)。当時話題にもなり、2ヶ月の間に4版も版を重ねている。副題に「情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」とあり、あの最も強硬な態度と言動をとっていた鈴木庫三少佐に関する詳細な履歴と事績が紹介された、新書にしては相当に分厚い書物である。これらは鈴木の残した膨大な日記、手記類、当時彼が執筆した多くの著作物をもとに、さらに当時の歴史状況や関係者の証言などを含めた綿密な調査、記録の集成でもあり、鈴木庫三(図3)の実像を明らかにした労作である。
図3
少尉に任官時の鈴木庫三(佐藤卓己『言論統制』より)
評伝『松本竣介』の記述でも、「もっとも過激な発言に徹底終始するのは鈴木庫三」、「情報将校の自称愛国者の衣をつけた鈴木少佐」「専門外の軍人鈴木」といった形容が散見される。ここに表されているのは、強圧的に軍による情報統制を強要してくる、暴力的で無教養な軍人といったある種のステレオタイプ化された鈴木庫三少佐像である。このわかりやすいファシスト軍人鈴木少佐像を覆したのが、この『言論統制』だった。佐藤は言う、「はたして実在の鈴木庫三は本当に『知的ならざる軍人』だったのだろうか。鈴木庫三が残した膨大な著作、論文、日記、手稿から浮き上がるのは、それとはまったく異なる姿である」(注2)と。
それでは一体、この情報将校として辣腕を振るっていたとされる鈴木庫三少佐とはどのような人物であったのか、詳しくは『言論統制』を読んでもらうのがいいとは思うが、ここでも簡単に同書から紹介しておきたい。
鈴木庫三は茨城県の豪農の第7子として生まれるが、幼くして養父母のもとに預けられ、養父母によって育てられた。しかし養父先は小作人で貧困に喘ぎ、鈴木は実家に経済援助を仰ぎ、なんとか高等小学校を卒業する。さらに養家の家業である農業を助けながら、猛烈な勉学をして、砲兵工科学校に入学し、陸軍軍人としての道を歩み始める。その後陸軍士官学校を卒業、少尉任官、陸軍砲工科学校を経て、30歳で輜重兵(しちょうへい)中尉任官。輜重兵という兵站を担う部隊の将官として教育と軍務につきながら、翌年には日本大学文学部(注3)への進学を果たし、34歳での卒業時は首席であった。さらに、研究室助手、大学院進学、陸軍からの東京帝国大学派遣生に選ばれ、大学院論文を提出後、東京大学を卒業している。専門は、倫理学に始まり、最終的には教育学を領域としている。これらは全て軍務に服するとともに、受験と自己研鑽の猛烈な勉学の成果であって、その努力の様子は並大抵のものではない。軍内部でのさまざまな人間関係や軋轢もあり、そこに至る道は決して平坦なものではなかった。刻苦と努力の人である。
陸軍省に提出した2500枚にも及ぶ長大な大学院論文「国家的生活の倫理学的生活」をはじめとして、教育辞典での「陸軍教育」の項の執筆、「軍隊教育の特色と軍隊教育学の成立」「建軍の本義」などなど論文、雑誌掲載の文章、上官の代筆を含めて夥しい著作がある。
特に「総力戦国家」から「国防国家」への転換に向けて、この「国防国家」という言葉を50本以上の論文のタイトルとして国民の間に喧伝し、定着させたのが、鈴木庫三であり、その功績は大きかった。松本竣介が「生きてゐる画家」を投稿する切掛となった座談会のタイトルにも、この「国防国家」の文字が踊っている。
つまり、この情報将校、鈴木庫三少佐は、軍刀を振りかざして他を威圧するような暴力的な軍人ではなく、専門的で、当時の政策を遂行するために数多くの論文を執筆した極めて<知的な軍人>であったのだ。だが、そうした実相に触れれば触れるほど、なおのこと戦中の問題を考える時には、軍人=悪者のような短絡的で類型的な視点だけでは見えてこない状況が存在するということなのだ。(続く)
注1 朝日晃『松本竣介』日動出版 1977年 p.170
注2 佐藤卓己『言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書1759 中央公論社 2004年 p.48
注3 学部の名称は『言論統制』内で使われている記述に従った。
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●京都府京都文化博物館
「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展は板橋区立美術館での展示が終了し、6月5日~7月25日に京都で巡回開催されます。
松本竣介、難波田龍起、福沢一郎、オノサト・トシノブらの戦前・戦中期の作品を展示。
板橋区立美術館の弘中智子さんによる展覧会紹介を4月22日ブログに掲載しました。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
情報官鈴木庫三について 上
小松﨑拓男
図1朝日晃『松本竣介』本文ページより
松本竣介の「生きてゐる画家」という文章の投稿が、1941年3月3日発行された美術雑誌『みづゑ』の4月号に掲載された。この文章は同じ年の1月号に載った座談記事「国防国家と美術(座談会)-画家は何をなすべきか-」の反論であった。
この内容や経緯については、朝日晃の評伝『松本竣介』にも、松本が朱を入れた座談記事や原稿をもとに比較的詳しく書かれており、よく知られたものであるだろう(図1)。また、時節はまだ日米開戦前、すなわち真珠湾攻撃が行われる半年以上も前の出来事である。日米の開戦は予測されていたとはしても、戦争は中国大陸で行われている本土を遠く離れた出来事であった頃のことである。さらにこの一文が存在することが、松本竣介を「抵抗の画家」と見なす要因の一つともなった。
この評伝『松本竣介』の中で、朝日晃は座談会に出席した三人の軍人の消息を調べ、連絡を取った事実を伝えている。それによれば、陸軍情報部の秋山邦雄少佐、黒田千吉郎中尉は存命であったが、座談会に関しては記憶になく、また最も強硬派と目されていた鈴木庫三少佐はすでに死去していたとある(注1)。
図2佐藤卓己『言論統制』
2004年1冊の新書が公刊される。佐藤卓己の『言論統制』という中公新書だ(図2)。当時話題にもなり、2ヶ月の間に4版も版を重ねている。副題に「情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」とあり、あの最も強硬な態度と言動をとっていた鈴木庫三少佐に関する詳細な履歴と事績が紹介された、新書にしては相当に分厚い書物である。これらは鈴木の残した膨大な日記、手記類、当時彼が執筆した多くの著作物をもとに、さらに当時の歴史状況や関係者の証言などを含めた綿密な調査、記録の集成でもあり、鈴木庫三(図3)の実像を明らかにした労作である。
図3少尉に任官時の鈴木庫三(佐藤卓己『言論統制』より)
評伝『松本竣介』の記述でも、「もっとも過激な発言に徹底終始するのは鈴木庫三」、「情報将校の自称愛国者の衣をつけた鈴木少佐」「専門外の軍人鈴木」といった形容が散見される。ここに表されているのは、強圧的に軍による情報統制を強要してくる、暴力的で無教養な軍人といったある種のステレオタイプ化された鈴木庫三少佐像である。このわかりやすいファシスト軍人鈴木少佐像を覆したのが、この『言論統制』だった。佐藤は言う、「はたして実在の鈴木庫三は本当に『知的ならざる軍人』だったのだろうか。鈴木庫三が残した膨大な著作、論文、日記、手稿から浮き上がるのは、それとはまったく異なる姿である」(注2)と。
それでは一体、この情報将校として辣腕を振るっていたとされる鈴木庫三少佐とはどのような人物であったのか、詳しくは『言論統制』を読んでもらうのがいいとは思うが、ここでも簡単に同書から紹介しておきたい。
鈴木庫三は茨城県の豪農の第7子として生まれるが、幼くして養父母のもとに預けられ、養父母によって育てられた。しかし養父先は小作人で貧困に喘ぎ、鈴木は実家に経済援助を仰ぎ、なんとか高等小学校を卒業する。さらに養家の家業である農業を助けながら、猛烈な勉学をして、砲兵工科学校に入学し、陸軍軍人としての道を歩み始める。その後陸軍士官学校を卒業、少尉任官、陸軍砲工科学校を経て、30歳で輜重兵(しちょうへい)中尉任官。輜重兵という兵站を担う部隊の将官として教育と軍務につきながら、翌年には日本大学文学部(注3)への進学を果たし、34歳での卒業時は首席であった。さらに、研究室助手、大学院進学、陸軍からの東京帝国大学派遣生に選ばれ、大学院論文を提出後、東京大学を卒業している。専門は、倫理学に始まり、最終的には教育学を領域としている。これらは全て軍務に服するとともに、受験と自己研鑽の猛烈な勉学の成果であって、その努力の様子は並大抵のものではない。軍内部でのさまざまな人間関係や軋轢もあり、そこに至る道は決して平坦なものではなかった。刻苦と努力の人である。
陸軍省に提出した2500枚にも及ぶ長大な大学院論文「国家的生活の倫理学的生活」をはじめとして、教育辞典での「陸軍教育」の項の執筆、「軍隊教育の特色と軍隊教育学の成立」「建軍の本義」などなど論文、雑誌掲載の文章、上官の代筆を含めて夥しい著作がある。
特に「総力戦国家」から「国防国家」への転換に向けて、この「国防国家」という言葉を50本以上の論文のタイトルとして国民の間に喧伝し、定着させたのが、鈴木庫三であり、その功績は大きかった。松本竣介が「生きてゐる画家」を投稿する切掛となった座談会のタイトルにも、この「国防国家」の文字が踊っている。
つまり、この情報将校、鈴木庫三少佐は、軍刀を振りかざして他を威圧するような暴力的な軍人ではなく、専門的で、当時の政策を遂行するために数多くの論文を執筆した極めて<知的な軍人>であったのだ。だが、そうした実相に触れれば触れるほど、なおのこと戦中の問題を考える時には、軍人=悪者のような短絡的で類型的な視点だけでは見えてこない状況が存在するということなのだ。(続く)
注1 朝日晃『松本竣介』日動出版 1977年 p.170
注2 佐藤卓己『言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書1759 中央公論社 2004年 p.48
注3 学部の名称は『言論統制』内で使われている記述に従った。
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●京都府京都文化博物館
「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展は板橋区立美術館での展示が終了し、6月5日~7月25日に京都で巡回開催されます。松本竣介、難波田龍起、福沢一郎、オノサト・トシノブらの戦前・戦中期の作品を展示。
板橋区立美術館の弘中智子さんによる展覧会紹介を4月22日ブログに掲載しました。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
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