石原輝雄のエッセイ「美術館でブラパチ」─8
『土曜日にフランソア』
展覧会 さまよえる絵筆──東京・京都 戦時下の前衛画家たち
京都文化博物館3階展示室
2021年6月5日(土)~7月25日(日)
北脇昇『非相称の相称構造(窓)』と『浦島物語』(一部)
新幹線の「のぞみ」は東京と京都を2時間7分で結ぶ。最終でビールを呑んでひと眠りなんてのも、この速さだと京都駅で乗り過ごしそうな塩梅。昨今の高速化は酒好きの楽しみを奪いますな。コロナ禍で移動を自粛しているので、楽しみの入口にも立てない困った状況です。
さて、隔月連載二回目は、超特急「つばめ」が7時間25分で両都市を結んでいた戦前の話。このブログでは場違いとなるのを承知で、鉄道ファンの血が騒ぐ。──C53型蒸気機関車牽引の下り列車が関ヶ原超えの片勾配区間で補機を走行中に切り離す荒業をしていた時代。乗務員は「そんなの、なんでもない」と語ったと云う。
京都駅に東京からの御一行を迎えに行きましょう(ハハ)。「皆様は2時間余分にかかる急行かしら」お連れするのは三条通高倉角の日本銀行京都支店、辰野金吾と長野宇平治設計のイギリス風(辰野式)赤レンガ白石材装飾銅板葺、玄関は三条通りに面している。金庫棟を抜けて京都文化博物館の3階展示室にお上がりください。こちらは1998年の公共建築百選に選ばれています。いけない、時代が交錯してきたので本題に入りたい。
京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)
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東京の板橋区立美術館(以下: 板橋)と地元の京都文化博物館(以下: 文博)が共同で開催している『さまよえる絵筆──東京・京都 戦時下の前衛画家たち』展は、盧溝橋事件で日中戦争が始まり日独伊三国防共協定が調印された1937年前後を中心に終戦までの10年間を扱っている。筆者の関心領域からシュルレアリスム絵画を取り巻く時代状況を俯瞰出来るかと会場の前に立ったのだが、懐かしさと共に新しい多くの視点を与えられた。50年間、何を観てきたのだろうかと自責を伴う体験となったのである。文博の学芸員・清水智世は「自由の領域が狭められ、彼ら自身を支えた『前衛画家』としてのアイデンティティを次第に喪失する中で、ある者は西洋の『古典』に新しさを見出し、またある者は『地方』の風景を発見する旅に出た」と指摘する。展覧会については、すでに重要なレポートを板橋の学芸員・弘中智子が4月22日に当ブログへ寄稿されているので、ここでは、京都会場での印象を報告したい。
8-1 3階展示室
まず、過度の自己主張をしない不思議なサインが迎える。近寄って見れば穏やかなグラデーションが染みや黴の増殖のようで、比率を変えてもおさまるデザインが、街中の雑草のようにも見え、不安の明示を上手く視覚化している。文博の天井は低い。吉井忠の西洋絵画への憧れから東北へ繋がり戻る道を選ぶか、福沢一郎の鏡の面対称をわたしでは解釈しきれない『二重像』から始めるか、どうしたものか。
福沢一郎、小川原脩、松本竣介、麻生三郎
柱にさりげなく、「画家・団体 相関図」が掲げられているのが心憎い。京都の側からすると津田青楓画塾がはずせなく、今展には含まれないけど下郷羊雄の仕事が、名古屋生まれの北脇昇にも繋がるのを思い出させてしまう。文献資料類の収まるケースと作品たちのバランスが、絶妙に勘案され、会場に緊張感を与えている。鋭さ故に「孤独」を感じさせる松本竣介や麻生三郎の人物描写の横に『雑記帳』が置かれ、家族から友人へと広がる「連帯の挨拶」に眼がウルウルとなった。これについては、2019年に当ブログで言及があったと記憶する。難波田龍起の作品も壁を振り返れば掛けられているのだから、雑誌のリアリティが直接、迫ってくるのです。こちら側のケースでは難波田のギリシャ彫刻から阿修羅像などの素描数点を〆るようにアルス刊の『埴輪』が置かれている。これは落ち着きますな。手の痕跡と活字の印圧、眼を転じれば長谷川三郎の捉える京都の町並みが日常品の毛糸や綿や小豆で表現されている。壁に掛けず平置された重力の具合が新鮮なのです。会場で時代の閉塞感を象徴的に表わしているのは、靉光の大作『静物(雉)』。照応するスケッチブックもよろしいな。
松本竣介『顔(自画像)』『りんご』
雑誌『雑記帳』
麻生三郎、靉光
寺田政明『かぼちゃと山』、難波田龍起『ヴィナスと少年』他
難波田龍起『阿修羅像』他
長谷川三郎『都制』『新聞コラージュ』
前述の寄稿で弘中智子は展覧会を5つの章で構成したと解説されているが、最初の3章(西洋古典絵画への関心、新人画会とそれぞれのリアリズム、古代芸術への憧憬)までを観ると東京と京都では、展示作品に大きな違いがあるように感じられた。リストによると京都に送られてきたのは42点で、杉全直と山口薫作品の他、福沢一郎『女』と吉井忠『女(麦の穂を持つ女)』と云った重要作、松本竣介の『橋(東京駅裏)』と『市内風景』の気になる都市景観などを含む19点が、「つばめ」にも急行にも乗らなかった模様。残念ですな──となると、これは、別の展覧会と解した方が良いのだろうか。
8-2 共同制作『浦島物語』
「京都の『伝統』と『前衛』」に絞った第5章(東京より20点多い)が、雨上がりの空にかかる虹のように会場に夢をつないでいる。その共同制作『浦島物語』を、ゆっくり楽しみ始めた。これは、1937年9月に大禮記念京都美術館(現: 京都市京セラ美術館)で催された第3回新日本洋画協会展に出品された会の指導者・北脇昇による設計書に基づいた油彩14点。遊戯性が強くパリのカフェなどを舞台に即興で行われたシュルレアリスト達の「優美な死骸」から着想を得たと北脇自身が説明するものの、偶然性を除く矛盾に満ちた実験で、これまで「精神の自由」から遠いとわたしは評価をしてこなかった。なれど、美しく並べられ、今では忘れられた20歳代の画家たちの、眼前の画布からしか追想できなかった生涯に、会場で略歴へのアプローチが示され「評価」などと口にした我が身が情けない。──として、観客も逆説の中に居る。「設計書」の記載を手がかりに「憧憬」から「批判的現実」までの『浦島物語』を貫く解釈、「青色」から「白」までの背景色、「桃色」から「青色」までの主題色が、次第に量を減らし、量を増す。──と示す北脇は各人の画風から全体を予想していたのだろうか、若い画家たちは指導を仰ぎながら筆を運んだのか、わたしは実態を知りたい。北脇と年齢が近く「竜宮の生活『厭飽』」を受け持った小栗美二の対応はどうだったのか。一直線に並べて掛けられた画布たちが、今も語り合っているように感じられる。小栗については後述したい。
共同制作『浦島物語』全14点他
8-3 北脇昇と小牧源太郎
個人的な回想。京都に移り住んだ70年代中頃、三条通白川橋近くの画廊で水指の左上で赤い楓の種子が飛行する北脇昇の油彩を観た。細い階段を昇った部屋の視線の先に掛けられ、室外の光が画面と照応し時代を遡る孤独が現れていた。欲しかった。これに手を出していたら、その後のコレクター人生は変わったものになっていただろうと思う。名古屋時代に中村義一の『日本の前衛絵画 その反抗と挫折──Kの場合』(美術出版社)を読んで惹かれ、わたしの中に北脇が住んでいた時期。京都市美術館(当時)で『眠られぬ夜のために』の実物を観て、やられてしまった直後だったのである。以来、折に触れて北脇の仕事に注目してきた、シュルレアリスム絵画として観る立場が強かった。今展で楽しんでいる北脇は、これまでの彼と異なる。彼の人生と云う生活の場面に立ち会っている感覚。小品が多いためなのか、研究所の会員達の作品と共に鑑賞しているためなのか、盟友・小牧源太郎と対峙する緊張の故なのか。ケースを覗き込み、機関誌『TOILE』6号の表紙と『浦島物語』に参加した画家たちの名前を突合させたり、北脇になったつもりで自宅・廣誠院の連子窓越しに14点を俯瞰したり。清水智世の仕組んだ会場構成の妙にわたし取り込まれたのです。幸せ。
独立美術京都研究所機関誌『TOILE』6号他
長寿だった小牧源太郎は51歳で世を去った北脇について、父親不在の出自からくる性格の「相反並在性が常人に比して極端なまでに乖離している」点を踏まえつつ、これが「全制作と全実踐を解く鍵として糸のように連綿として続く内的矛盾の実在の真の姿(相)ではなかったか」と古沢岩美美術館の月報25号(1977年)に書いている。また、津田青楓画塾東京の幹事も務めた後輩にあたる今井憲一は、北脇には習得した技法を「思い切って投げ捨て、裏がえす必要があった」とし「最初にとった方法は、従来の油絵筆を捨てる事、つまり新しい技法には新しい道具を使え、と言う事であった。即ちローラーでの地塗り、霧吹きでのぼかし、フロッタージュ等がそれであった」と具体的に振り返る。そして、もう一人の先輩小牧については「伝統的な技法には頭から染っていなかったので、転向の苦労はなかった筈である。自分の世界が、独特な自分の技法を生み出す、生え抜きのシュール・リアリストだと言えよう」と讃えるテキストを京都市美術館ニュース43号(1962年)に寄せている。
壁面に小牧源太郎(左から3点)と北脇昇(右から2点)、中央の『生誕譜No.1』を除いて京都会場のみで展示。他
画塾を牽引する「おいといない」(意味は後述)三者の立ち位置を考えながら、時局に影響され画材確保にも窮したであろう会員たちに我が身を重ねる。文博の会場は巡路が緩やかで、1937年前後の幾つもの川筋が『浦島物語』のところに集まっているように思う。
共同制作『鴨川風土記序説』他
8-4 京都朝日会館での『海外超現実主義作品展』
ここで共同制作が発表される3ヶ月前の6月24日~29日に京都朝日会館で催された『海外超現実主義作品展』にふれたい。会場のケースに若手である安田謙、松崎政雄らも制作に参加した同館の大壁画を紹介する雑誌の頁が開かれているからである。作品展のもたらした影響については多くの研究者がすでに論じているので、わたしは「海外直送、作家自選の作品で、水絵、素描、版画、80点に及び、作品写真、資料は350点を展示する」とある京都日日新聞6月26日の記事を引用したい。そこには「反響を喚起すべく」27日午後7時から山中散生、30日午後7時から瀧口修造による座談会と講演会が行われるとある。──北脇の尽力で実現した瀧口らの上洛と伝えられるが、1935年の時刻表によれば、東京9時発の「つばめ」は京都着4時25分、これはないか。それはそれとして、新聞には主催が京都朝日カメラクラブ、後援が東京みづゑ社、京都独立美術研究所、朝日カメラ京都支部の3社と記載されている。本稿執筆で新聞(マイクロ版)を閲覧した折、この展覧会を報告する山中散生の記事(『みづゑ』1937年8月号)に使われた京都会場の写真が、モンタージュになっている長年持った謎が解けた(先行研究で言及がありながら新聞紙面でなければ訴求しなかったのは何故だろう)、新興写真の視点が入っていたのである。ならば、左下の写真で、撮影者を観ている若い女性は誰だろう、探求のコマをまた見付けてしまった。山中は国際的な交流を意図して日本の画家たちの参加を協議したのだが、「何人を選ぶかということについて行詰まった」と打ち明け、海外勢のみとなったのを「諸君に対する友誼的な平手打ちとならば幸いである」と記事を結んでいる。
雑誌『アトリヱ』京都朝日会館壁画紹介頁
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小牧源太郎
『さまよえる絵筆──東京・京都 戦時下の前衛画家たち』展をここまで巡ると、流れ着いた1940年代の小牧源太郎の「護符のような符号の絵画」(瀧口)が貯水地を満たし、1941年3月に瀧口修造と福沢一郎が検挙・拘留された直後の第2回美術文化協会展(4月)で「弾圧を避ける為、会員の出品作を全員相互で審査し、陳列するか否かを挙手によって決めた」「展覧会はそれで一とまず無事に開かれたが、会員どうしの相互審査は会員間の不信を深めて行った。今迄高揚されていた前衛精神はこの時を転機として下降線を迫り初めた」そして、「同志は5、6名になっていたが、応召や徴用の激化などでわたしの目の前から、それぞれの世界に消えていった」と小牧が回想するように、流れは暗渠の方に吸い込まれて行く。わたしは、トボトボと道なりに歩を進めて会場の裏側に居る感覚。
8-5 小栗美二
今回の展示では、文献資料と絵画作品が「緊張感を与えている」とすでに書いたが、これは、付け足しとして扱われがちだった雑誌や新聞等に注がれる学芸員の造詣の深さ、「愛」ゆえだと思う。時代を語らせる表情に溢れる一次資料の魅力は、同じように「愛」を感じるわたしには良く判る。雑誌『美・批評』や『世界文化』から眼をあげると、爽やかな希望のように小栗美二の油彩『雨あがる 各務原近郊にて』が掛けられている。シュルレアリスム絵画かどうかは別として、今展で一番わたしに語りかける。年齢としては北脇と小牧の間にあって、情熱を秘めながら野にある松の木に自身を仮託させた表現。雲が流れ去り青空が再び現れる予感のような陽の当たり具合。各務原のある岐阜(可児郡)に生まれた小栗は映画人として京都に暮らし、戦後は部落解放運動にも参加する。1951年の正月10日に書かれた『葱』と題したエッセイで「時代(社会)を底辺にして、左から技術、右から思想、二つの辺の結んだ頂点から引き降ろした中心の点線に個性と書き添えた図式」(『部落』21号)と述べて、左右に振れた先輩や友人の絵に言及している。それが雪の風景につながって市井の人の生活の様子を垣間見た。およそ70年の時を経てわたしも京都に住んでいるが、同じように、各務原の野にいるように思う。
小栗美二『雨あがる 各務原近郊にて』『貝』(左前)、 雑誌『美・批評』『世界文化』他
8-6 今井憲一と『京大俳句』など
さらに次室のウィンドウ越しに広がる文献資料との相乗効果は、今井憲一が第10回独立美術展(1940年)で独立美術賞を獲得した『湿地帯』と、表紙を描いた『京大俳句』の6冊の他、『同志社派』や『学生評論』などが、表紙や挿画を担当した画家たち(有馬宇月、浅野竹二、井澤元一ら)の忘れられた名前(?)と重なって、頁を捲りたい衝動を強くする。判型や活字などの書容設計による、思想や文学の入れ物を越えた佇まいを身近に感じるのは、所蔵先の管理シールが認められない点にあるのだろう。これらは、個人の研究資料だと聞いた。その人が先人の思いを今に移し替えた。廃刊に追い込まれた雑誌を前に、本当に感謝申し上げたい。
今井憲一『湿地帯』他、吉井忠東北地方素描他
雑誌『京大俳句』
雑誌『同志社派』『学生評論』
8-7 裕福な画家たち
名古屋人には耳慣れない京言葉に「おいといない」がある。画廊などの噂話でよく聞いた。お金にこだわらない客に物を薦める時にやわらげて使う言葉らしい。わたしは「おいといない」の分類には入れてもらえないけど、北脇昇、小牧源太郎、今井憲一の画業を紐解く鍵があるように思った。北脇が京都市の指定文化財に登録(2004年)されるほどの「明治期の優れた数奇屋邸宅」で育っている他、小牧は京丹後のちりめん問屋、今井は東本願寺門前の門徒旅館三河屋の生まれと云うことで、三人とも生活の心配をすることなく画業に打ち込めたと推測する。北脇の場合、義理の叔母が邸宅を臨済宗の寺・廣誠院に変えたほどの熱心な仏教信徒であった事は、特筆すべきかもしれない。
シュルレアリスム絵画を、貧しい若者の抵抗の姿勢、素人画家の素朴な技法からなる深層心理の表現といった先入観で捉えていたわたしは、現実は別のところにあると知った。廣誠院は現在の日本銀行京都支店の南東、高瀬川一之船入にあたる押小路通木屋町西入るにある。文博からだと徒歩で20分ほどだろうか。「おいといない」人たちとは対極にあったと推測する瀧口修造は、1942年か43年にこの北脇の自宅を訪ねている。自筆年譜によると41年の冬に釈放された後、日本文化史図録をつくる名目で京都、奈良へ撮影旅行をしており、そうした折の一日を同席した小牧源太郎が前述の月報25号に続けて書いている。長くなるが引用したい。「私が着いた時にはすでに瀧口氏は来ておられ、炬燵をかこんで向い合ったが、交された会話はほんの僅かであとは沈黙の行。三者三人何を思念しているのであろうか。時間は無限の進行を一瞬停止してしまったかのようである。静止した時間。時間のない時間。静寂があたりを被う。しかし時計は音もなく廻っていたらしい。その間一時間半か、或は二時間か、やがて『ではこれで……』と云うわけで瀧口氏は帰って行かれた」、回想は「この時の会合は重く深く私の頭に滲透している。終生忘れることはないであろう」と続く。
北脇昇『竜安寺石庭測図』他
北脇、小牧らの共同制作『鴨川風土記序説』を第3回美術文化協会展に出品したのは1942年5月、翌年には結成された京都洋画家連盟による陸海軍献納画展覧会に二人とも参加、献納をはたしている。多くの洋画家が三国同盟に沿った古典絵画や日本の伝統に基づく価値観を示す題材に移行し前衛表現は途絶する。画材の配給を受け発表を続けるためには、なるほど、そのとおりだと思い会場を巡る。あるいは、板橋の弘中智子のように「自身の立ち位置を確認し、時代のリアルな感覚を伝えるための新たな表現を模索していたことが分かる」と指摘するのも可能であるだろう。そして、それも困難となった。北脇昇が廣誠院に遺した2曲1隻の屏風には彼らしい墨画に対して「飽なき探究 逞しき実践」と筆を走らせた、1944年の元旦、彼も画業から離れたのである。
小牧源太郎『木の葉仏』、北脇昇屏風『飽なき探究 逞しき実践』
廣誠院(木屋町通押小路橋西詰)
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暗渠のような通路は、北脇や小牧を指導した須田国太郎の『戸外の静物』を右に、第4章の「『地方』の発見」を構成する秋田や青森の農村での素描が『浦島物語』と比較したいほど正確に並ぶ吉井忠の10点の端に、画家たちに海外と日本の差異を教えた福沢一郎の侵蝕された山のコンテ画(吉井旧蔵)と著作『秩父山塊』が置かれた左壁面で終わる。福沢による蟹から樹木、鳥へと繋がる題字の意匠を持つ画集の頁を開くことも叶わず(ケースの中ですから)、戦争が終わったと云う開放感がある訳でなく、コロナ禍で混迷する2021年の街に出るのも躊躇され、入口の空間から、わたしは第1章の展示に戻った。──入退場口が隣接する会場の例をあまり知らない。
8-8 土曜日にフランソア
結局のところ、「おいといない」人たちの「さまよえる絵筆」の痕跡を確認して歩いたのだろうか、西洋への憧れの中でも亡命と云う選択肢を持たなかった日本人の翻弄された10年。精神の自由、明るさの頂点は1937年ではと思う。誠実に生き楽しい事を自ら生み出した庶民もいたのではないか、会場で映された短い記録映画(2本)を観ながら、貧しい我がルーツに思いをはせる。伽藍のショットや清水三年坂の町並み、舞妓の笑み、壁画が描かれた京都朝日会館。そして、近江舞子の俯瞰、琵琶湖の遊覧船でビールを呑みながら踊る人たち。楽しそうではないか、輪に加わりたい。
これは思想家・能勢克男による8ミリ撮影。隔週新聞『土曜日』の刊行1周年を祝う家族らの場面でもあると云う。この新聞については初見。スクリーンから振り返ると小栗美二によるゴシック調の題字と伊谷賢蔵の絵で飾られた紙面の4部が置かれている。厳しい生い立ちを背負った無学の大部屋俳優、斎藤雷太郎が「権力に対する憎しみ」を根底にわかりやすい言葉で読者による新聞を「自分の能力にあったやり方」で、人様に金銭的な迷惑をかけずに発行したのは、インテリ側からすると快挙と言える事柄だった。新聞は「乃母流生」の筆名で北脇が寄せた『海外超現実主義作品展』(第36号)の報告でシュルレアリスムに関心を持つ研究者に知られるようだが、わたしなどは美学者・中井正一の巻頭言などに触発される。創刊号(1936年7月4日)に「花は鉄路の盛り土の上にも咲く」とあって「凡ての灰色の路線を、花をもって埋め合わせることが出来る」とする「生活に対する勇気 精神の明晰 隔てなき友愛」に足をとめる。非合法運動の一端を体験した斎藤は「一定の水準以上の能力と意志を持たない人間は、直接革命運動には参加さすべきでなく、犠牲ばかり多くて実効のあがらないやり方で、あたら善意と熱意を持った人々を、犬死させてはならないというのが、私の体験から得た見解」だったと回想している。検閲の限界がどの辺りにあるか細心の注意をはらいながら発行を続けた『土曜日』であったが1937年11月5日付の第44号で強制廃刊に追い込まれ、斎藤、中井、能勢らも治安維持法違反の嫌疑で検挙・拘束される。
隔週新聞『土曜日』に関わったひとたちについては、中村勝著、井上史編の『キネマ/新聞/カフヱー 大部屋俳優・斎藤雷太郎と「土曜日」の時代』(ヘウレーカ、2019年)に詳しく、新聞の復刻版も欠号があるものの刊行(三一書房、1974年)されている。
隔週新聞『土曜日』
記録映画・能勢克男『「土曜日」が一周年を迎へた』
さて、最大8,000部まで発行された『土曜日』は、当時の大衆文化を牽引した喫茶店に宣伝をかねて置かれ、次第に話題にのぼり、部数を伸ばしていった。そうした店のひとつが、北脇の住まい廣誠院から早足で20分ほど、高瀬川を下がった四条に現存するフランソア喫茶室。戦前に『土曜日』が置かれていたとは知らなかったけれど、コロナ禍自粛前にはわたしも珈琲を呑んでいた。京都の進歩的文化人のネットワークから圏外にある身には、三月書房の宍戸恭一が仕事を覚えた隣接するミレー書房の知識はあったものの、フランソアの創業者・立野正一や美人の佐藤留志子の顔へは繋がらなかった。店内の複製名画に囲まれ旨い珈琲でわたしたちも写真談義をしていたのである。フランソアは『土曜日』の創刊号から純音楽喫茶としての広告を出稿することで連帯の意志を示しているが、復刻版をめくっていたら、第16号(1936年9月5日)に「写真部を新設致しました」とあってビックリ。「仕上の優秀・時間の短縮正確をモットーとして生まれた」と記している。わたしは前述した京都朝日会館の若い女性が、留志子ではないかと虫眼鏡を取り出した。
フランソア喫茶室(四条小橋西詰南入西側)
ミレーやゴッホの絵画にも影響された社会主義者・立野正一については、佐藤裕一著『フランソア喫茶室 京都に残る豪華客船公室の面影』(北斗書房、2010年)を参照。
復刻版の『土曜日』を、数日来熱中して読んでいるのは、油彩の絵肌を食い入るように観て画家の息づかいを咀嚼したい感情に近い。わかりやすい言葉での誠実な記事が多いように思う。広告も含め時代の諸相が浮かび上がる。発売前夜には、早く読みたいとファンがフランソア喫茶室で待ち構えたと云う。例えば、第37号であれば、6面の「超現実の夢を織る魔法の小箱」と云う記事を、わたしなど最初に読むだろうと、眼に浮かぶ。前述した映画の近江舞子にふれた話題の後に「一度カメラを手にすると多くの人々が変にとらわれた様に夢中になる。魔術の小道具である。新しく発見された阿片だ。僕はカメラを肩に掛けた人を見る度に思う。彼も阿片を持たされた」とある記事。いまもって、そのようだと思うのである。なので、先年、閉店間際の店でのパチリを紹介しておきたい。阿片ですな。土曜日にはフランソアへ行きましょう。
フランソア喫茶室、閉店間際の金曜日。
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文博の会場に戻る。絵画作品と頁を秘めた文献が重なって時代を浮かび上がらせている。このような展示を経験したことは初めてである。学芸員・清水智世の解釈の中で、ともに歩く感覚といえよう。そして、板橋の学芸員・弘中智子と共に執筆された記念カタログ(みすず書房刊)に収められた多角的な9氏による論考と画家の家族へのインタビューや回想、年譜の他、文献再録なども含めた充実ぶりに、最大の賛辞を贈りたい。展覧会とカタログの齟齬が指摘される昨今、いきとどいた糸口がこれほど用意された「書物」は無いように思う。
私事であるが1937年のシュルレアリスム絵画に対する関心が、市井の人たちの暮らしにまで広がったのは、眼の喜びの他に、「活字」の力だったのである。斎藤雷太郎の子息・嘉夫が1950年代に京都駅で汽車を見せてもらった折の思い出に、──列車の行き先表示が先頭にしかなく誰に聞いても判らなかったとき「駅員を見つけて、父は笑顔でこう言った『行き先を横に表示するとわかるんですがね』……いま、ご存知のとおり、電車もバスも車体の横に、行き先が表示されている。もちろん、父の提言でそうなったわけではないが、父はだれも気がつかない前に、こうしたアイデアを思いつく才能が合ったように思う。父が私によく言っていたのは、『ものごとをよく観察し、創意工夫』せよということであり、実際、自身も生活の中でもそれを怠らない人であった」と。
京都での『海外超現実主義作品展』開催中の木曜日、京都日日新聞に「つばめ」の姉妹列車「かもめ」が翌月から登場、夜行列車も増やすとの記事が載った。さらに便利になるらしい。でも、わたしは行き先が判読出来ないほど、列車に近寄ってしまったのだろうな、東京の言葉に怯えつつ、京都の距離感を身につけるには50年では短い。
京都文化博物館
尚、展示会場撮影には許可をいただいた。担当の方々に記してお礼申し上げたい。
(いしはら てるお)
●石原輝雄さんのエッセイ「美術館でブラパチ」は隔月・奇数月の18日に更新しますが今回は展覧会期が25日までなので、早めに掲載しました。次回は9月18日です、どうぞお楽しみに。
●展覧会のお知らせ
『さまよえる絵筆 ―東京・京都 戦時下の前衛画家たち』
会期:2021年6月5日(土)~2021年7月25日(日)
休館日:月曜日
会場:京都文化博物館3階展示室
主催:京都府、京都文化博物館
協力:板橋区立美術館、みすず書房
後援:公益財団法人 ポーラ美術振興財団、芸術文化振興基金助成事業


「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展は板橋区立美術館での展示が終了し、6月5日~7月25日に京都で巡回開催しています。
松本竣介、難波田龍起、福沢一郎、オノサト・トシノブらの戦前・戦中期の作品を展示。
板橋区立美術館の弘中智子さんによる展覧会紹介を4月22日ブログに掲載しました。
<出品作品リスト>




「マン・レイと女性たち」
会期=2021年7月13日(火)~ 9月6日(月)
※7/20(火)のみ休館
会場=Bunkamura ザ・ミュージアム
主催=Bunkamura、日本経済新聞社
概要:20 世紀を代表する万能の芸術家マン・レイ(1890-1976)の人生には多くの女性が登場します。彼は親しい女性たちをモデルにし、特に写真では、ときに優しく甘美で、ときに強く自立的で、ときには神々しいまでに美しい女性像を生み出しました。
本展ではさまざまな愛と別れ、知的な発見や考察、冒険や遊びを体験していく時間軸をタテ糸に、その時々のミューズとなった「女性たち」をヨコ糸にして、親密で詩的で機知に富んだ作品世界を繰り広げていったこの芸術家を、約150点の写真を中心に、絵画やオブジェなどを加えた250点を超える作品で振り返ります。
●本日のお勧め作品は瀧口修造です。
瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
《短冊デッサン》(V-08)
1962年
紙に水彩、インク
イメージサイズ:21.0×33.5cm
シートサイズ:29.0×37.5cm
裏面にタイトルと年記あり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
『土曜日にフランソア』
展覧会 さまよえる絵筆──東京・京都 戦時下の前衛画家たち
京都文化博物館3階展示室
2021年6月5日(土)~7月25日(日)
北脇昇『非相称の相称構造(窓)』と『浦島物語』(一部)新幹線の「のぞみ」は東京と京都を2時間7分で結ぶ。最終でビールを呑んでひと眠りなんてのも、この速さだと京都駅で乗り過ごしそうな塩梅。昨今の高速化は酒好きの楽しみを奪いますな。コロナ禍で移動を自粛しているので、楽しみの入口にも立てない困った状況です。
さて、隔月連載二回目は、超特急「つばめ」が7時間25分で両都市を結んでいた戦前の話。このブログでは場違いとなるのを承知で、鉄道ファンの血が騒ぐ。──C53型蒸気機関車牽引の下り列車が関ヶ原超えの片勾配区間で補機を走行中に切り離す荒業をしていた時代。乗務員は「そんなの、なんでもない」と語ったと云う。
京都駅に東京からの御一行を迎えに行きましょう(ハハ)。「皆様は2時間余分にかかる急行かしら」お連れするのは三条通高倉角の日本銀行京都支店、辰野金吾と長野宇平治設計のイギリス風(辰野式)赤レンガ白石材装飾銅板葺、玄関は三条通りに面している。金庫棟を抜けて京都文化博物館の3階展示室にお上がりください。こちらは1998年の公共建築百選に選ばれています。いけない、時代が交錯してきたので本題に入りたい。
京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)------
東京の板橋区立美術館(以下: 板橋)と地元の京都文化博物館(以下: 文博)が共同で開催している『さまよえる絵筆──東京・京都 戦時下の前衛画家たち』展は、盧溝橋事件で日中戦争が始まり日独伊三国防共協定が調印された1937年前後を中心に終戦までの10年間を扱っている。筆者の関心領域からシュルレアリスム絵画を取り巻く時代状況を俯瞰出来るかと会場の前に立ったのだが、懐かしさと共に新しい多くの視点を与えられた。50年間、何を観てきたのだろうかと自責を伴う体験となったのである。文博の学芸員・清水智世は「自由の領域が狭められ、彼ら自身を支えた『前衛画家』としてのアイデンティティを次第に喪失する中で、ある者は西洋の『古典』に新しさを見出し、またある者は『地方』の風景を発見する旅に出た」と指摘する。展覧会については、すでに重要なレポートを板橋の学芸員・弘中智子が4月22日に当ブログへ寄稿されているので、ここでは、京都会場での印象を報告したい。
8-1 3階展示室
まず、過度の自己主張をしない不思議なサインが迎える。近寄って見れば穏やかなグラデーションが染みや黴の増殖のようで、比率を変えてもおさまるデザインが、街中の雑草のようにも見え、不安の明示を上手く視覚化している。文博の天井は低い。吉井忠の西洋絵画への憧れから東北へ繋がり戻る道を選ぶか、福沢一郎の鏡の面対称をわたしでは解釈しきれない『二重像』から始めるか、どうしたものか。
福沢一郎、小川原脩、松本竣介、麻生三郎柱にさりげなく、「画家・団体 相関図」が掲げられているのが心憎い。京都の側からすると津田青楓画塾がはずせなく、今展には含まれないけど下郷羊雄の仕事が、名古屋生まれの北脇昇にも繋がるのを思い出させてしまう。文献資料類の収まるケースと作品たちのバランスが、絶妙に勘案され、会場に緊張感を与えている。鋭さ故に「孤独」を感じさせる松本竣介や麻生三郎の人物描写の横に『雑記帳』が置かれ、家族から友人へと広がる「連帯の挨拶」に眼がウルウルとなった。これについては、2019年に当ブログで言及があったと記憶する。難波田龍起の作品も壁を振り返れば掛けられているのだから、雑誌のリアリティが直接、迫ってくるのです。こちら側のケースでは難波田のギリシャ彫刻から阿修羅像などの素描数点を〆るようにアルス刊の『埴輪』が置かれている。これは落ち着きますな。手の痕跡と活字の印圧、眼を転じれば長谷川三郎の捉える京都の町並みが日常品の毛糸や綿や小豆で表現されている。壁に掛けず平置された重力の具合が新鮮なのです。会場で時代の閉塞感を象徴的に表わしているのは、靉光の大作『静物(雉)』。照応するスケッチブックもよろしいな。
松本竣介『顔(自画像)』『りんご』
雑誌『雑記帳』
麻生三郎、靉光
寺田政明『かぼちゃと山』、難波田龍起『ヴィナスと少年』他
難波田龍起『阿修羅像』他
長谷川三郎『都制』『新聞コラージュ』前述の寄稿で弘中智子は展覧会を5つの章で構成したと解説されているが、最初の3章(西洋古典絵画への関心、新人画会とそれぞれのリアリズム、古代芸術への憧憬)までを観ると東京と京都では、展示作品に大きな違いがあるように感じられた。リストによると京都に送られてきたのは42点で、杉全直と山口薫作品の他、福沢一郎『女』と吉井忠『女(麦の穂を持つ女)』と云った重要作、松本竣介の『橋(東京駅裏)』と『市内風景』の気になる都市景観などを含む19点が、「つばめ」にも急行にも乗らなかった模様。残念ですな──となると、これは、別の展覧会と解した方が良いのだろうか。
8-2 共同制作『浦島物語』
「京都の『伝統』と『前衛』」に絞った第5章(東京より20点多い)が、雨上がりの空にかかる虹のように会場に夢をつないでいる。その共同制作『浦島物語』を、ゆっくり楽しみ始めた。これは、1937年9月に大禮記念京都美術館(現: 京都市京セラ美術館)で催された第3回新日本洋画協会展に出品された会の指導者・北脇昇による設計書に基づいた油彩14点。遊戯性が強くパリのカフェなどを舞台に即興で行われたシュルレアリスト達の「優美な死骸」から着想を得たと北脇自身が説明するものの、偶然性を除く矛盾に満ちた実験で、これまで「精神の自由」から遠いとわたしは評価をしてこなかった。なれど、美しく並べられ、今では忘れられた20歳代の画家たちの、眼前の画布からしか追想できなかった生涯に、会場で略歴へのアプローチが示され「評価」などと口にした我が身が情けない。──として、観客も逆説の中に居る。「設計書」の記載を手がかりに「憧憬」から「批判的現実」までの『浦島物語』を貫く解釈、「青色」から「白」までの背景色、「桃色」から「青色」までの主題色が、次第に量を減らし、量を増す。──と示す北脇は各人の画風から全体を予想していたのだろうか、若い画家たちは指導を仰ぎながら筆を運んだのか、わたしは実態を知りたい。北脇と年齢が近く「竜宮の生活『厭飽』」を受け持った小栗美二の対応はどうだったのか。一直線に並べて掛けられた画布たちが、今も語り合っているように感じられる。小栗については後述したい。
共同制作『浦島物語』全14点他8-3 北脇昇と小牧源太郎
個人的な回想。京都に移り住んだ70年代中頃、三条通白川橋近くの画廊で水指の左上で赤い楓の種子が飛行する北脇昇の油彩を観た。細い階段を昇った部屋の視線の先に掛けられ、室外の光が画面と照応し時代を遡る孤独が現れていた。欲しかった。これに手を出していたら、その後のコレクター人生は変わったものになっていただろうと思う。名古屋時代に中村義一の『日本の前衛絵画 その反抗と挫折──Kの場合』(美術出版社)を読んで惹かれ、わたしの中に北脇が住んでいた時期。京都市美術館(当時)で『眠られぬ夜のために』の実物を観て、やられてしまった直後だったのである。以来、折に触れて北脇の仕事に注目してきた、シュルレアリスム絵画として観る立場が強かった。今展で楽しんでいる北脇は、これまでの彼と異なる。彼の人生と云う生活の場面に立ち会っている感覚。小品が多いためなのか、研究所の会員達の作品と共に鑑賞しているためなのか、盟友・小牧源太郎と対峙する緊張の故なのか。ケースを覗き込み、機関誌『TOILE』6号の表紙と『浦島物語』に参加した画家たちの名前を突合させたり、北脇になったつもりで自宅・廣誠院の連子窓越しに14点を俯瞰したり。清水智世の仕組んだ会場構成の妙にわたし取り込まれたのです。幸せ。
独立美術京都研究所機関誌『TOILE』6号他長寿だった小牧源太郎は51歳で世を去った北脇について、父親不在の出自からくる性格の「相反並在性が常人に比して極端なまでに乖離している」点を踏まえつつ、これが「全制作と全実踐を解く鍵として糸のように連綿として続く内的矛盾の実在の真の姿(相)ではなかったか」と古沢岩美美術館の月報25号(1977年)に書いている。また、津田青楓画塾東京の幹事も務めた後輩にあたる今井憲一は、北脇には習得した技法を「思い切って投げ捨て、裏がえす必要があった」とし「最初にとった方法は、従来の油絵筆を捨てる事、つまり新しい技法には新しい道具を使え、と言う事であった。即ちローラーでの地塗り、霧吹きでのぼかし、フロッタージュ等がそれであった」と具体的に振り返る。そして、もう一人の先輩小牧については「伝統的な技法には頭から染っていなかったので、転向の苦労はなかった筈である。自分の世界が、独特な自分の技法を生み出す、生え抜きのシュール・リアリストだと言えよう」と讃えるテキストを京都市美術館ニュース43号(1962年)に寄せている。
壁面に小牧源太郎(左から3点)と北脇昇(右から2点)、中央の『生誕譜No.1』を除いて京都会場のみで展示。他画塾を牽引する「おいといない」(意味は後述)三者の立ち位置を考えながら、時局に影響され画材確保にも窮したであろう会員たちに我が身を重ねる。文博の会場は巡路が緩やかで、1937年前後の幾つもの川筋が『浦島物語』のところに集まっているように思う。
共同制作『鴨川風土記序説』他8-4 京都朝日会館での『海外超現実主義作品展』
ここで共同制作が発表される3ヶ月前の6月24日~29日に京都朝日会館で催された『海外超現実主義作品展』にふれたい。会場のケースに若手である安田謙、松崎政雄らも制作に参加した同館の大壁画を紹介する雑誌の頁が開かれているからである。作品展のもたらした影響については多くの研究者がすでに論じているので、わたしは「海外直送、作家自選の作品で、水絵、素描、版画、80点に及び、作品写真、資料は350点を展示する」とある京都日日新聞6月26日の記事を引用したい。そこには「反響を喚起すべく」27日午後7時から山中散生、30日午後7時から瀧口修造による座談会と講演会が行われるとある。──北脇の尽力で実現した瀧口らの上洛と伝えられるが、1935年の時刻表によれば、東京9時発の「つばめ」は京都着4時25分、これはないか。それはそれとして、新聞には主催が京都朝日カメラクラブ、後援が東京みづゑ社、京都独立美術研究所、朝日カメラ京都支部の3社と記載されている。本稿執筆で新聞(マイクロ版)を閲覧した折、この展覧会を報告する山中散生の記事(『みづゑ』1937年8月号)に使われた京都会場の写真が、モンタージュになっている長年持った謎が解けた(先行研究で言及がありながら新聞紙面でなければ訴求しなかったのは何故だろう)、新興写真の視点が入っていたのである。ならば、左下の写真で、撮影者を観ている若い女性は誰だろう、探求のコマをまた見付けてしまった。山中は国際的な交流を意図して日本の画家たちの参加を協議したのだが、「何人を選ぶかということについて行詰まった」と打ち明け、海外勢のみとなったのを「諸君に対する友誼的な平手打ちとならば幸いである」と記事を結んでいる。
雑誌『アトリヱ』京都朝日会館壁画紹介頁------
小牧源太郎『さまよえる絵筆──東京・京都 戦時下の前衛画家たち』展をここまで巡ると、流れ着いた1940年代の小牧源太郎の「護符のような符号の絵画」(瀧口)が貯水地を満たし、1941年3月に瀧口修造と福沢一郎が検挙・拘留された直後の第2回美術文化協会展(4月)で「弾圧を避ける為、会員の出品作を全員相互で審査し、陳列するか否かを挙手によって決めた」「展覧会はそれで一とまず無事に開かれたが、会員どうしの相互審査は会員間の不信を深めて行った。今迄高揚されていた前衛精神はこの時を転機として下降線を迫り初めた」そして、「同志は5、6名になっていたが、応召や徴用の激化などでわたしの目の前から、それぞれの世界に消えていった」と小牧が回想するように、流れは暗渠の方に吸い込まれて行く。わたしは、トボトボと道なりに歩を進めて会場の裏側に居る感覚。
8-5 小栗美二
今回の展示では、文献資料と絵画作品が「緊張感を与えている」とすでに書いたが、これは、付け足しとして扱われがちだった雑誌や新聞等に注がれる学芸員の造詣の深さ、「愛」ゆえだと思う。時代を語らせる表情に溢れる一次資料の魅力は、同じように「愛」を感じるわたしには良く判る。雑誌『美・批評』や『世界文化』から眼をあげると、爽やかな希望のように小栗美二の油彩『雨あがる 各務原近郊にて』が掛けられている。シュルレアリスム絵画かどうかは別として、今展で一番わたしに語りかける。年齢としては北脇と小牧の間にあって、情熱を秘めながら野にある松の木に自身を仮託させた表現。雲が流れ去り青空が再び現れる予感のような陽の当たり具合。各務原のある岐阜(可児郡)に生まれた小栗は映画人として京都に暮らし、戦後は部落解放運動にも参加する。1951年の正月10日に書かれた『葱』と題したエッセイで「時代(社会)を底辺にして、左から技術、右から思想、二つの辺の結んだ頂点から引き降ろした中心の点線に個性と書き添えた図式」(『部落』21号)と述べて、左右に振れた先輩や友人の絵に言及している。それが雪の風景につながって市井の人の生活の様子を垣間見た。およそ70年の時を経てわたしも京都に住んでいるが、同じように、各務原の野にいるように思う。
小栗美二『雨あがる 各務原近郊にて』『貝』(左前)、 雑誌『美・批評』『世界文化』他8-6 今井憲一と『京大俳句』など
さらに次室のウィンドウ越しに広がる文献資料との相乗効果は、今井憲一が第10回独立美術展(1940年)で独立美術賞を獲得した『湿地帯』と、表紙を描いた『京大俳句』の6冊の他、『同志社派』や『学生評論』などが、表紙や挿画を担当した画家たち(有馬宇月、浅野竹二、井澤元一ら)の忘れられた名前(?)と重なって、頁を捲りたい衝動を強くする。判型や活字などの書容設計による、思想や文学の入れ物を越えた佇まいを身近に感じるのは、所蔵先の管理シールが認められない点にあるのだろう。これらは、個人の研究資料だと聞いた。その人が先人の思いを今に移し替えた。廃刊に追い込まれた雑誌を前に、本当に感謝申し上げたい。
今井憲一『湿地帯』他、吉井忠東北地方素描他
雑誌『京大俳句』
雑誌『同志社派』『学生評論』8-7 裕福な画家たち
名古屋人には耳慣れない京言葉に「おいといない」がある。画廊などの噂話でよく聞いた。お金にこだわらない客に物を薦める時にやわらげて使う言葉らしい。わたしは「おいといない」の分類には入れてもらえないけど、北脇昇、小牧源太郎、今井憲一の画業を紐解く鍵があるように思った。北脇が京都市の指定文化財に登録(2004年)されるほどの「明治期の優れた数奇屋邸宅」で育っている他、小牧は京丹後のちりめん問屋、今井は東本願寺門前の門徒旅館三河屋の生まれと云うことで、三人とも生活の心配をすることなく画業に打ち込めたと推測する。北脇の場合、義理の叔母が邸宅を臨済宗の寺・廣誠院に変えたほどの熱心な仏教信徒であった事は、特筆すべきかもしれない。
シュルレアリスム絵画を、貧しい若者の抵抗の姿勢、素人画家の素朴な技法からなる深層心理の表現といった先入観で捉えていたわたしは、現実は別のところにあると知った。廣誠院は現在の日本銀行京都支店の南東、高瀬川一之船入にあたる押小路通木屋町西入るにある。文博からだと徒歩で20分ほどだろうか。「おいといない」人たちとは対極にあったと推測する瀧口修造は、1942年か43年にこの北脇の自宅を訪ねている。自筆年譜によると41年の冬に釈放された後、日本文化史図録をつくる名目で京都、奈良へ撮影旅行をしており、そうした折の一日を同席した小牧源太郎が前述の月報25号に続けて書いている。長くなるが引用したい。「私が着いた時にはすでに瀧口氏は来ておられ、炬燵をかこんで向い合ったが、交された会話はほんの僅かであとは沈黙の行。三者三人何を思念しているのであろうか。時間は無限の進行を一瞬停止してしまったかのようである。静止した時間。時間のない時間。静寂があたりを被う。しかし時計は音もなく廻っていたらしい。その間一時間半か、或は二時間か、やがて『ではこれで……』と云うわけで瀧口氏は帰って行かれた」、回想は「この時の会合は重く深く私の頭に滲透している。終生忘れることはないであろう」と続く。
北脇昇『竜安寺石庭測図』他北脇、小牧らの共同制作『鴨川風土記序説』を第3回美術文化協会展に出品したのは1942年5月、翌年には結成された京都洋画家連盟による陸海軍献納画展覧会に二人とも参加、献納をはたしている。多くの洋画家が三国同盟に沿った古典絵画や日本の伝統に基づく価値観を示す題材に移行し前衛表現は途絶する。画材の配給を受け発表を続けるためには、なるほど、そのとおりだと思い会場を巡る。あるいは、板橋の弘中智子のように「自身の立ち位置を確認し、時代のリアルな感覚を伝えるための新たな表現を模索していたことが分かる」と指摘するのも可能であるだろう。そして、それも困難となった。北脇昇が廣誠院に遺した2曲1隻の屏風には彼らしい墨画に対して「飽なき探究 逞しき実践」と筆を走らせた、1944年の元旦、彼も画業から離れたのである。
小牧源太郎『木の葉仏』、北脇昇屏風『飽なき探究 逞しき実践』
廣誠院(木屋町通押小路橋西詰)------
暗渠のような通路は、北脇や小牧を指導した須田国太郎の『戸外の静物』を右に、第4章の「『地方』の発見」を構成する秋田や青森の農村での素描が『浦島物語』と比較したいほど正確に並ぶ吉井忠の10点の端に、画家たちに海外と日本の差異を教えた福沢一郎の侵蝕された山のコンテ画(吉井旧蔵)と著作『秩父山塊』が置かれた左壁面で終わる。福沢による蟹から樹木、鳥へと繋がる題字の意匠を持つ画集の頁を開くことも叶わず(ケースの中ですから)、戦争が終わったと云う開放感がある訳でなく、コロナ禍で混迷する2021年の街に出るのも躊躇され、入口の空間から、わたしは第1章の展示に戻った。──入退場口が隣接する会場の例をあまり知らない。
8-8 土曜日にフランソア
結局のところ、「おいといない」人たちの「さまよえる絵筆」の痕跡を確認して歩いたのだろうか、西洋への憧れの中でも亡命と云う選択肢を持たなかった日本人の翻弄された10年。精神の自由、明るさの頂点は1937年ではと思う。誠実に生き楽しい事を自ら生み出した庶民もいたのではないか、会場で映された短い記録映画(2本)を観ながら、貧しい我がルーツに思いをはせる。伽藍のショットや清水三年坂の町並み、舞妓の笑み、壁画が描かれた京都朝日会館。そして、近江舞子の俯瞰、琵琶湖の遊覧船でビールを呑みながら踊る人たち。楽しそうではないか、輪に加わりたい。
これは思想家・能勢克男による8ミリ撮影。隔週新聞『土曜日』の刊行1周年を祝う家族らの場面でもあると云う。この新聞については初見。スクリーンから振り返ると小栗美二によるゴシック調の題字と伊谷賢蔵の絵で飾られた紙面の4部が置かれている。厳しい生い立ちを背負った無学の大部屋俳優、斎藤雷太郎が「権力に対する憎しみ」を根底にわかりやすい言葉で読者による新聞を「自分の能力にあったやり方」で、人様に金銭的な迷惑をかけずに発行したのは、インテリ側からすると快挙と言える事柄だった。新聞は「乃母流生」の筆名で北脇が寄せた『海外超現実主義作品展』(第36号)の報告でシュルレアリスムに関心を持つ研究者に知られるようだが、わたしなどは美学者・中井正一の巻頭言などに触発される。創刊号(1936年7月4日)に「花は鉄路の盛り土の上にも咲く」とあって「凡ての灰色の路線を、花をもって埋め合わせることが出来る」とする「生活に対する勇気 精神の明晰 隔てなき友愛」に足をとめる。非合法運動の一端を体験した斎藤は「一定の水準以上の能力と意志を持たない人間は、直接革命運動には参加さすべきでなく、犠牲ばかり多くて実効のあがらないやり方で、あたら善意と熱意を持った人々を、犬死させてはならないというのが、私の体験から得た見解」だったと回想している。検閲の限界がどの辺りにあるか細心の注意をはらいながら発行を続けた『土曜日』であったが1937年11月5日付の第44号で強制廃刊に追い込まれ、斎藤、中井、能勢らも治安維持法違反の嫌疑で検挙・拘束される。
隔週新聞『土曜日』に関わったひとたちについては、中村勝著、井上史編の『キネマ/新聞/カフヱー 大部屋俳優・斎藤雷太郎と「土曜日」の時代』(ヘウレーカ、2019年)に詳しく、新聞の復刻版も欠号があるものの刊行(三一書房、1974年)されている。
隔週新聞『土曜日』
記録映画・能勢克男『「土曜日」が一周年を迎へた』さて、最大8,000部まで発行された『土曜日』は、当時の大衆文化を牽引した喫茶店に宣伝をかねて置かれ、次第に話題にのぼり、部数を伸ばしていった。そうした店のひとつが、北脇の住まい廣誠院から早足で20分ほど、高瀬川を下がった四条に現存するフランソア喫茶室。戦前に『土曜日』が置かれていたとは知らなかったけれど、コロナ禍自粛前にはわたしも珈琲を呑んでいた。京都の進歩的文化人のネットワークから圏外にある身には、三月書房の宍戸恭一が仕事を覚えた隣接するミレー書房の知識はあったものの、フランソアの創業者・立野正一や美人の佐藤留志子の顔へは繋がらなかった。店内の複製名画に囲まれ旨い珈琲でわたしたちも写真談義をしていたのである。フランソアは『土曜日』の創刊号から純音楽喫茶としての広告を出稿することで連帯の意志を示しているが、復刻版をめくっていたら、第16号(1936年9月5日)に「写真部を新設致しました」とあってビックリ。「仕上の優秀・時間の短縮正確をモットーとして生まれた」と記している。わたしは前述した京都朝日会館の若い女性が、留志子ではないかと虫眼鏡を取り出した。
フランソア喫茶室(四条小橋西詰南入西側)ミレーやゴッホの絵画にも影響された社会主義者・立野正一については、佐藤裕一著『フランソア喫茶室 京都に残る豪華客船公室の面影』(北斗書房、2010年)を参照。
復刻版の『土曜日』を、数日来熱中して読んでいるのは、油彩の絵肌を食い入るように観て画家の息づかいを咀嚼したい感情に近い。わかりやすい言葉での誠実な記事が多いように思う。広告も含め時代の諸相が浮かび上がる。発売前夜には、早く読みたいとファンがフランソア喫茶室で待ち構えたと云う。例えば、第37号であれば、6面の「超現実の夢を織る魔法の小箱」と云う記事を、わたしなど最初に読むだろうと、眼に浮かぶ。前述した映画の近江舞子にふれた話題の後に「一度カメラを手にすると多くの人々が変にとらわれた様に夢中になる。魔術の小道具である。新しく発見された阿片だ。僕はカメラを肩に掛けた人を見る度に思う。彼も阿片を持たされた」とある記事。いまもって、そのようだと思うのである。なので、先年、閉店間際の店でのパチリを紹介しておきたい。阿片ですな。土曜日にはフランソアへ行きましょう。
フランソア喫茶室、閉店間際の金曜日。------
文博の会場に戻る。絵画作品と頁を秘めた文献が重なって時代を浮かび上がらせている。このような展示を経験したことは初めてである。学芸員・清水智世の解釈の中で、ともに歩く感覚といえよう。そして、板橋の学芸員・弘中智子と共に執筆された記念カタログ(みすず書房刊)に収められた多角的な9氏による論考と画家の家族へのインタビューや回想、年譜の他、文献再録なども含めた充実ぶりに、最大の賛辞を贈りたい。展覧会とカタログの齟齬が指摘される昨今、いきとどいた糸口がこれほど用意された「書物」は無いように思う。
私事であるが1937年のシュルレアリスム絵画に対する関心が、市井の人たちの暮らしにまで広がったのは、眼の喜びの他に、「活字」の力だったのである。斎藤雷太郎の子息・嘉夫が1950年代に京都駅で汽車を見せてもらった折の思い出に、──列車の行き先表示が先頭にしかなく誰に聞いても判らなかったとき「駅員を見つけて、父は笑顔でこう言った『行き先を横に表示するとわかるんですがね』……いま、ご存知のとおり、電車もバスも車体の横に、行き先が表示されている。もちろん、父の提言でそうなったわけではないが、父はだれも気がつかない前に、こうしたアイデアを思いつく才能が合ったように思う。父が私によく言っていたのは、『ものごとをよく観察し、創意工夫』せよということであり、実際、自身も生活の中でもそれを怠らない人であった」と。
京都での『海外超現実主義作品展』開催中の木曜日、京都日日新聞に「つばめ」の姉妹列車「かもめ」が翌月から登場、夜行列車も増やすとの記事が載った。さらに便利になるらしい。でも、わたしは行き先が判読出来ないほど、列車に近寄ってしまったのだろうな、東京の言葉に怯えつつ、京都の距離感を身につけるには50年では短い。
京都文化博物館尚、展示会場撮影には許可をいただいた。担当の方々に記してお礼申し上げたい。
(いしはら てるお)
●石原輝雄さんのエッセイ「美術館でブラパチ」は隔月・奇数月の18日に更新しますが今回は展覧会期が25日までなので、早めに掲載しました。次回は9月18日です、どうぞお楽しみに。
●展覧会のお知らせ
『さまよえる絵筆 ―東京・京都 戦時下の前衛画家たち』
会期:2021年6月5日(土)~2021年7月25日(日)
休館日:月曜日
会場:京都文化博物館3階展示室
主催:京都府、京都文化博物館
協力:板橋区立美術館、みすず書房
後援:公益財団法人 ポーラ美術振興財団、芸術文化振興基金助成事業


「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展は板橋区立美術館での展示が終了し、6月5日~7月25日に京都で巡回開催しています。
松本竣介、難波田龍起、福沢一郎、オノサト・トシノブらの戦前・戦中期の作品を展示。
板橋区立美術館の弘中智子さんによる展覧会紹介を4月22日ブログに掲載しました。
<出品作品リスト>




「マン・レイと女性たち」
会期=2021年7月13日(火)~ 9月6日(月)
※7/20(火)のみ休館
会場=Bunkamura ザ・ミュージアム
主催=Bunkamura、日本経済新聞社
概要:20 世紀を代表する万能の芸術家マン・レイ(1890-1976)の人生には多くの女性が登場します。彼は親しい女性たちをモデルにし、特に写真では、ときに優しく甘美で、ときに強く自立的で、ときには神々しいまでに美しい女性像を生み出しました。
本展ではさまざまな愛と別れ、知的な発見や考察、冒険や遊びを体験していく時間軸をタテ糸に、その時々のミューズとなった「女性たち」をヨコ糸にして、親密で詩的で機知に富んだ作品世界を繰り広げていったこの芸術家を、約150点の写真を中心に、絵画やオブジェなどを加えた250点を超える作品で振り返ります。
●本日のお勧め作品は瀧口修造です。
瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI《短冊デッサン》(V-08)
1962年
紙に水彩、インク
イメージサイズ:21.0×33.5cm
シートサイズ:29.0×37.5cm
裏面にタイトルと年記あり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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