栗山豊によるアンディ・ウォーホル

都築響一


Yahoo!ニュースを見ていたら「価値わからない・なぜ5点も・本物に感動…県が3億円で購入、ウォーホル作品に波紋」という刺激的(笑)な見出しが目に入った。「鳥取県がポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルの木製の立体作品「ブリロの箱」5点を計約3億円で購入したことが波紋を広げている。2025年にオープンする県立美術館の集客の目玉として期待を寄せる一方、疑問の声も相次ぎ、県は急きょ住民説明会を開催する事態となった」(読売新聞10月27日より)。

記事によれば県は「都市部の美術館にないポップアートの名品を展示できれば、鳥取の存在感をアピールできる」として、2025年に倉吉市に新設する県立美術館向けに《ブリロの箱》を購入(1968年のオリジナル1点と死後の90年に制作された4点、計5点)。しかし9月の県議会では「日本人には全くなじみがない。米国にあってこそ意味がある」と批判があったほか、県教育委員からも「3億円を高いと感じる人がいる」「なぜ1点ではなく、5点必要なのか」といった不満が示された……のだそう。



「好きなひと」と「きらいなひと」がいるだけだったのを、「わかるひと」と「わからないひと」に分断してしまったのが現代美術というものだとすると(「現代」と名のつく他の分野も同じことだが)、「国内ではブリロの箱は収蔵されておらず、『集客効果に加え、新たな視点で物事を柔軟にとらえ、想像力を豊かにする教育効果もある』と期待する」県側の意向と、たわしの包装箱は「見ても価値がわからない」「日本人にはまったくなじみがない、米国にあってこそ意味がある」という議会や住民説明会での意見との隔たりは大きい……というか、こういう問題が出てくること自体、ウォーホルがいまだにきわめて「現代的」なポップアートであるということなのかもと思ったり。

僕がウォーホルの実作品を初めて見たのは1974年に大丸東京店で開かれたウォーホル展で、当時は高校生だった。その同年に西武池袋店で開催されたアレン・ジョーンズ展とともに、僕の進路に大きな影響をもたらしてくれた現代美術展で、それから10年かそこら経って雑誌の編集者として、ニューヨークでウォーホル本人と会えるようになるとは、もちろん想像もできなかった。



現代の状況ではなかなか考えにくいかもしれないが、当時はデパートが現代美術の先鋭的な展覧会を開くのが当たり前の時代だった。ウォーホル本人も「え、デパートで?」と戸惑ったらしいが、そのころのことを綿貫さんはこんなふうに振り返ってくれた——

当時は南天子画廊、南画廊、東京画廊といった現代美術の名だたるギャラリーでは、ウォーホルを相手にしてくれなかったんです。ジャスパー・ジョーンズリキテンスタインはいいけれど、ウォーホルはイロモノあつかいで、売れっこないと思われてたんですね。デパートですら軒並み断られて、ようやく大丸が手を上げてくれて東京店と神戸店で開催できたんです。

そんな時代にウォーホルにのめり込み、ついには同じ命日に路上で倒れて亡くなった栗山豊の収集を、今回は初めて本格的に展示する機会になるという。栗山さんのひととなりは、ときの忘れもののブログにたっぷり掲載されているのでそちらをお読みいただきたいが、栗山さんはアーティスト、といっても生計は街角の似顔絵描きで立てていた。生前に『PORTRAITS』(自費出版、1974年)『似顔絵ストリート』(GALLERY 360°刊、2000年)と作品集とエッセイの2冊が世に出ているが、当時も彼はごく一部のサークルにしか知られていなかったろうし、現在では残念ながら2冊とも入手困難である。


似顔絵で得た収入で栗山さんはニューヨークに渡り、もちろんいきなり本人に面会はできないので、ウォーホルの制作拠点だったファクトリーの前で「出待ち」。ようやく出てきたウォーホルを無断で激写し、それをポスターにしたりもしている。しかし一枚数百円の似顔絵では満足な収集ができないので、銀行や美容院に足を運んでは置いてある定期購読雑誌類をチェック。ウォーホル関連の記事があるとすばやく破り取って集めたというエピソードがすごくポップアート、かどうかわからないけれど、ポップではある。

そうした苦労が今回披露されるコレクションに結実したわけだが、日本のメディアに載った記事や映像を集めるだけでこれだけ厖大な記録ができるという事実が、まずウォーホルならではの特質だろう。展示されている雑誌類には美術専門誌だけでなく、男性週刊誌から女性月刊誌、新聞も全国紙からスポーツ紙まで、さらにTDKなどウォーホルをモデルに起用した広告の誌面と、実にさまざま。単なる現代美術家という扱いをはるかに超えたメディアスターであったことがよくわかるし、こんなふうに扱われた現代美術家はウォーホルが最初で最後であるはずだ。



死んで35年経ったいま、彼の業績を振り返る展覧会だけでは伝わらない、アンディ・ウォーホルという人間の存在感というものが、本人の作品よりもむしろこうした資料の大海から見えてくるのではと僕は思うし、「オリジナル」の作品ではなくこんなふうに無限に拡散していった「ウォーホルのイメージ」のほうに、彼のポップ・アーティストとしての本質があるのではないか、という気すらしてくる。

栗山さんは「ウォーホルが死んで、やっぱり気力が失せた感じになって、不摂生な生活もたたって若死にしちゃったんです」と綿貫さんは教えてくれた。



『似顔絵ストリート』のあとがきで、栗山さんはこんなふうに似顔絵描きの日々を語っている——

「今まで、何人の人の顔を描いたのだろう。晴れたり曇ったり、雨の日もあり、台風の日もあった。
最近七年間に似顔絵を描いた人を数えてみると、一年間に平均一八二八人の人を書いている。ジョナサン・ボロフスキーのような最初からのカウンティングの記録はないが、六〇年代後半から七〇年代後半までは、客は後を断たないほど続いた。多い時で、早朝から深夜まで一日百人を超えた顔を描いたことあった。途中で退いていた時期もあるので、差し引きゼロのドンブリ勘定で単純に計算すると、描き始めた一九六五年から一九九五年までの三十年に一八二八を掛けると、今まで描いた顔は、五四八四〇人」。

栗山さんの似顔絵はもちろん生計を立てるのが第一目的で、それがときたま自分の作品にもなっていったのだろうが(作品集『PORTRAITS』にあるように)、ではそれが栗山さん本人には不本意なことだったのか、ファインアーティストとして自立することを夢見ていたのか、僕にはよくわからない。



自分のことで申し訳ないが、僕が取材で初めてきちんとウォーホルに会い、記事にしたのは1982年9月15日号の『BRUTUS』50号「創刊2周年記念 史上最大のニューヨーク特集」だった(今月は973号!)。その当時ウォーホルはモデル事務所に所属し、1時間250ドルのギャラでポーズを取ってくれるというのがちょっと話題だった。いっぽうウォーホルは世界の有名人のポートレート作品をつくってきたが、そちらはひとり2万5千ドルの代金と顔写真のポラロイドを一枚用意すれば、だれでもシルクスクリーン作品を制作してくれると聞き(2枚目からはディスカウントで1万5千ドル)、「250ドルと2万5000ドルのウォーホル」という編集後記を書いたことがあった。

『似顔絵ストリート』の記述によると、栗山さんの似顔絵代金は白黒300円、色が入ると500円だったそうで、まあ値段は一万倍ぐらいちがうけど、なんだかそこに通じ合う「ファインアート界のイロモノ感」みたいなものがある気がして、それが僕にはすごくうれしい。




現代版画センター時代の1983年に綿貫さんは渋谷PARCOで「アンディ・ウォーホル展 UARHOLセンセーション '83」を開いていて、その際に《KIKU》《LOVE》という2つのシルクスクリーン・シリーズを依頼し、それが今回も展示されている。ただ、「ウォーホルのオリジナル作品」も、「栗山豊のオリジナル作品」も実はごくわずかで、展示物のほとんどは雑誌類や記事などの資料類。それも大半はコピーが壁面に直貼りされている。




その意味でこの展覧会は京セラ美術館みたいにセンセーショナルなものではない。壁という壁が雑誌や新聞のコピーで埋め尽くされた学園祭の研究発表会のようでもあるし、ギャラリーがもともと住宅だっただけに、途轍もなくマニアックな居住空間みたいでもある。でも、僕にはこの「オリジナルがほとんどなくて、そのかわり情報だけが溢れてる」ウォーホル(と栗山豊)展が、すごくウォーホル的であるようにも思えた。

栗山さんが遺してくれた厖大な資料は、どんなふうにアンディ・ウォーホルという現象を日本が受容してきたか、というドキュメントである。記事の中にはプレスリリースの書き写し、みたいに安直な紹介もあれば、オヤジ週刊誌やスポーツ新聞みたいに冷やかし目線の囲み記事もたくさんある。というか、そっちのほうが大半と言ってもいいくらいで、栗山さんはとにかく「ウォーホル」という文字があればぜんぶ!集めたかったんだな~と、切り抜きファイルを見たひとはだれしも感じるだろう。




でも、美術専門誌の評論家による真面目な考察だけではなくて、無数のどうでもいい記事、有象無象のメディアをまるごと取り込んでアンディ・ウォーホルという存在感を膨らませていったこと。その時代の感覚こそが、もしかしてウォーホルをウォーホルたらしめ、ポップアートをポップアートたらしめる核心であると、栗山さんは直感的に理解していたにちがいない。デュシャン・オタクやバスキア・オタクでは成立しない、ウォーホルだからこそ成り立つ唯一無二のコレクション。僕らが目にするコピー資料の山とは、そういう意味を込めて栗山さんが遺してくれた「ときの忘れもの」なのだ。

つづき きょういち
parco119都築響一、植田実1983年6月7日渋谷パルコ「アンディ・ウォーホル展」レセプションにて、
右から、植田実都築響一安齊重男、綿貫不二夫

AAA_0572それから39年後の2022年10月29日駒込ときの忘れもの「アンディ・ウォーホル展」にて、
右から、綿貫不二夫、綿貫令子、古館厚(当時の無給スタッフ、今新潟のお医者さん)、都築響一

都築響一(つづき・きょういち)
1956年東京生まれ。ポパイ、ブルータス誌の編集を経て、全102巻の現代美術全集『アート・ランダム』(京都書院)を刊行。以来現代美術、建築、写真、デザインなどの分野での執筆・編集活動を続けている。93年『TOKYO STYLE』刊行(京都書院、のちちくま文庫)。96年刊行の『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、のちちくま文庫)で、第23回木村伊兵衛賞を受賞。その他『賃貸宇宙UNIVERSE forRENT』(ちくま文庫)、『現代美術場外乱闘』(洋泉社)『珍世界紀行ヨーロッパ編』『夜露死苦現代詩』『珍日本超老伝』(ちくま文庫)『ROADSIDE USA 珍世界紀行アメリカ編』(アスペクト)『東京右半分』(筑摩書房)『圏外編集者』(朝日出版)『Neverland Diner 二度と行けないあの店で』(ケンエレブックス)『IDOL STYLE』(双葉社)など著書多数。2012年より個人で有料メールマガジン『ROADSIDERS' weekly』を毎週水曜日に配信中(http://www.roadsiders.com/)。

*画廊亭主敬白
美術手帖にも芸術新潮にも日曜美術館にも取り上げられることのない、でも僕らの財布じゃなくて精神を開いてくれる表現を、せめてロードサイダーズだけはこれからも追いかけていかないと! >
有料メールマガジン『ROADSIDERS' weekly』を発行し続ける都築さんの意地の言葉です。
私たちが現代版画センター時代に企画して全国で巡回開催した「アンディ・ウォーホル展 1983~84」のとき、当時渋谷の鉢山町にあった事務所まで足を運び丁寧に取材してくれたマスコミはそんなになかった。
記憶に残っているのはたった二人、美術手帖にいた三上豊さん、そしてブルータスの都築響一さんでした。

KIKU(小)アンディ・ウォーホル「KIKU(小)」 
1983年 シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージ・サイズ:22.0×29.0cm
シートサイズ:23.0×30.cm
*現代版画センター・エディション
*1983年に刊行した『アンディ・ウォーホル展 1983~1984』図録に挿入するために制作された作品の四隅の断裁前のフルマージンの作品です。
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【お知らせ】
誠に勝手ながら、11月29日(火)は17時閉廊とさせていただきます。
ご迷惑をお掛けしますが、ご理解とご協力の程宜しくお願い申し上げます。

◆「アンディ・ウォーホル展 史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの
会期:2022年11月4日[金]~11月19日[土]  ※日・月・祝日休廊
展示の様子は都築響一さんのメルマガ「ROADSIDERS' weeklyより、アンディ・ウォーホル展をご覧ください。
アンディ・ウォーホル展_案内状_表面1280