瀧口修造と作家たち ― 私のコレクションより ―
第12回「吉原治良と八木一夫」
清家克久
「吉原治良」
図版1.
吉原治良
油彩
画寸53cm×37cm(額寸71cm×54.5cm)
1957年作
図版2.
同上サイン
図版3.
同上裏面サインと制作年
白一色の作品だが、デカルコマニーのような流動面とペインティングナイフを鏝のように使い荒々しく絵具を盛り上げた部分が調和し、その上に滑らかな筆のタッチが加わって変化に富んだマチエールを見せている。薄いベニヤ板に地塗りされた上に描かれており、その裏にも作者のサイン、そして制作年が記されている。1957年は吉原治良のアンフォルメルの時代であり「絵具の物質感を高めるための滴りや刻み、盛り上がりなどをこつこつと積み上げるように制作した」(「生誕100年記念吉原治良展」カタログ解説より、2005年10月朝日新聞社刊)時期でもある。
2016年8月にネットオークションで落札した。出品者は骨董全般を扱っている広島の業者だったが、低額からの入札で20万円を越えた時点で二人の競り合いとなり結局40万円で落札した。無鑑定だが現物を見て私は真作と確信した。入手後に吉原コレクションで知られる芦屋市立美術博物館で開催された「未知の表現を求めて 吉原治良の挑戦展」(2016年9月17日~11月27日)を見に行き、その確信は益々強くなった。油彩と説明されているが、プラスター(石膏)も混じっているのではないかと推測される。なお、額縁も自製で作品と一体を成している。
図版4.
「生誕100年記念 吉原治良展」カタログ表紙
2005年10月
朝日新聞社刊
図版5.
「未知の表現を求めて 吉原治良の挑戦展」カタログ表紙
2016年9月
芦屋市立美術博物館刊
吉原治良(1905―1972)は早くから海外の前衛美術の動向に関心を持ち、独自に文献を取り寄せていた。彼の蔵書には「カイエ・ダール」誌や「ミノトール」誌、ジュリアン・レヴィ著「シュルレアリスム」などが含まれており、1930年代にはデ・キリコなどシュルレアリスムの影響を受けた作品が見られる。
瀧口修造が吉原治良の作品について触れた文章としては「二科で出会ったもの」(「みづゑ」1946年10月、「コレクション瀧口修造」第7巻1992年4月みすず書房刊所収)が最初ではないかと思われるが、「吉原治良の「群像」「邂逅」はアルプ的な黒と白の純粋形象の中で人間像を求めようとしている。ただアルプのような人間的なユムールがくっきりと浮彫にされず、平面的なうらみはある。」と短く評している。
図版6.
吉原治良
油彩「群像」
1946年作
(生誕100年記念 吉原治良展カタログより)
瀧口と吉原は1947年9月に「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」の結成に参加し二人とも幹事になっており、この時が最初の出会いであったかもしれない。1954年に吉原治良をリーダーとして関西を中心とした若い作家たちにより「具体美術協会」が結成されるが、「人の真似はするな、今までにないものをつくれ」が吉原のキャッチフレーズであった。その後吉原は「具体芸術宣言」(「芸術新潮」1956年12月号掲載)を発表し、「具体美術に於いては人間精神と物質とが対立したまま、握手している。」と述べるなど彼の芸術観を披歴しつつグループとしての方向性を示している。1957年にアンフォルメル運動の提唱者ミシェル・タピエが来日したことは瀧口、吉原それぞれにとって重要な意味を持つ出来事だった。瀧口はアンフォルメルを「自分にとってある本質的な問題にかかわるもの」(自筆年譜1957年より)と感じていたからである。翌年の訪欧でタピエと再会し、タピエの車でバルセロナのアントニ・タピエスの家まで同行している。吉原にとってはタピエが大阪の自宅を訪れ具体美術協会のメンバーと交流したことで「具体」が海外で高く評価されるきっかけとなった。
1958年3月に瀧口は吉原の依頼を受けて「具体の運動について」と題する文章を書いたが、原稿の締切に間に合わず未発表となり、瀧口の元へ返送されたものが残っていた。長い文章ではないが、その巻末の部分を紹介しておく。
「具体の「画家」たちは何かを描こうとしているのであろうか。タブロオの錯誤、おそらくそこからすべての錯誤が生じてくるのかも知れない。昨年ブリジストン美術館の「世界現代美術展」にならんだ具体の一、二の作品は、欧米の作品とくらべて範疇を異にしているように私には思われた。彼らの作品はあまりにもタブロオのなかでの論理的な追求の結果でありすぎる。いやそのことが絵画問題として重い意味があるのにちがいないし、彼らのまたダダへの郷愁を問題にすることにもなりかねないのだろうが、「具体」はいわば出発点だ。純粋な出発点。
しかもその足場は、カンヴァスという踏みかためられた平面ではない。足を置くとぐいぐい吸いとられるような次元であるかもしれない。ぱんと弾かれるような奇妙な力学的な物体であるかもしれない。――私はここで私の考えを整理しようとは思わない。
私はただ「具体」の運動を正視しよう、ということを提言したいのである。」
(「コレクション瀧口修造」第7巻所収)
この文章の冒頭には二人が第1回具体美術展(1955年10月)と第2回展(1956年7月)いずれも東京・小原会館で会話した内容についても触れている。
吉原が「精神と物質の対立」をテーマに掲げたことは、瀧口が戦前にシュルレアリスムの思想を通してこの問題に直面し、その統一を目指していたことに繋がっていたのだろうか。
「八木一夫」
図版7.
八木一夫
「白化粧俵鉢」
制作年不詳
縦11.5cm×横13cm×高さ5cm
図版8.
同上裏面刻印
八木一夫の陶器「白化粧俵鉢」(制作年不詳)、八木と言えば前衛的なオブジェ焼があまりにも有名だが、これは茶道の菓子器用に作られたものだろう。八木ならではの斬新な造形で、ロクロを使って壺のように成形したものを中心から二つに切り分けて対の作品として仕上げたものではないかと思われる。ロクロの名手と評されただけあって陶土の切口の厚さが均等でしかも薄い。シンメトリーな形でうっすらと地肌を見せる白化粧が美しい。2007年2月頃に大阪の古美術店から7万円で購入したが、共箱に長男である八木明の識語署名落款入りで作品の裏底には作者の刻印がある。
2004年9月から2005年12月にかけて「没後25年 八木一夫展」が巡回され、私は広島県立美術館へ見に行ったが、陶芸家というよりも彫刻家の展覧会のような印象を受けた。
図版9.
共箱蓋表
図版10.
同上識語署名落款
図版11.
「没後25年 八木一夫展」チラシ
八木一夫(1918―1979)は京都の五条坂と呼ばれる陶芸の町に陶芸家八木一艸の長男として生まれた。若い頃からシュルレアリスムの影響を受け、マックス・エルンストが好きだったと語り、パウル・クレーやピカソにも傾倒していた。おそらく美術雑誌などで瀧口修造の評論にも目を通していたのではないかと思われる。1948年に鈴木治や山田光らと前衛陶芸結社「走泥社」を結成し、吉原治良を講師に招きシュルレアリスムや抽象絵画についても学んでいる。1954年12月に東京のフォルム画廊での個展で陶器の概念を覆す作品「ザムザ氏の散歩」を発表し、センセーションを巻き起こした。瀧口修造はそこに非凡な才能を見いだし1956年6月にタケミヤ画廊で「八木一夫陶個展」を開催したのであろう。しかし、瀧口の著作を隈なく当たってみたが、八木についての言及や論評を見つけることができなかった。私が持っている二冊の八木一夫展カタログの主要参考文献や八木一夫遺文集「刻々の炎」(1981年2月駸々堂刊)にもそれは見当たらない。それが何故なのか私にとっては一つの謎である。
図版12.
「ザムザ氏の散歩」
1954年作
(「八木一夫展」カタログ1981年2月京都国立近代美術館刊より)
図版13.
タケミヤ画廊「八木一夫陶個展」案内状
1956年6月
(「タケミヤ画廊からの招待状」2014年3月慶應義塾大学アート・センター刊より)
瀧口はイサム・ノグチの日本での二つの個展(1950年8月東京三越本店、1952年9月神奈川県立近代美術館)に合わせて「イサム・ノグチの芸術」(みづゑ第537号1950年7月号)や「ふしぎな芸術の旅行―イサム・ノグチ小論」(みづゑ第568号1952年12月号、いずれも「コレクション瀧口修造第2巻」1991年7月みすず書房刊所収)などを発表し紹介に努めている。後者は本邦初の作品集『ノグチ:NOGUCHI』(1953年10月美術出版社刊)の本文として再録されているが、瀧口はその中で「日本人の私たちもかつては彫刻と陶器の境から自由に創造していたのである。今日ほど窮屈に彫刻とか陶器とかの形態を押しつけて考えてはいなかった。そしてもっと自由に生活の中で形を呼吸させることを知っていたはずである。その初発的な形態は、いつもオブジェ(非芸術的な物という物体)の相を呈していたにちがいないのである。一箇のオブジェとしてのユーモアを解すること、非合理性のなかから高い合理性を見いだしていく技術を、私たちはだんだんに失いかけているのである。」と解説している。八木はイサム・ノグチの作品から大きな影響を受けてオブジェの制作に取り組んだのである。その後彫刻家の辻晋堂と共にイサム・ノグチと交流している。八木は前衛的な作品を制作する一方で「ワテら茶碗屋でっせ」と言うのが口癖で、仲間の作家にも「茶碗に始まって、茶碗に終る」と言うなど、陶工としての自負を生涯持ち続けた天才的な陶芸家であった。
今回、関西を代表する二人の前衛作家を取り上げたが、私が持っている作品が白で共通している点に奇縁を感じている。
(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
・清家克久さんの連載エッセイ「瀧口修造と作家たち―私のコレクションより―」は毎月23日の更新です。
清家克久さんの「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか。
あわせてお読みください。
◆「Tricolore 2022 ハ・ミョンウン、戸村茂樹、仁添まりな」本日最終日です
会期:12月9日(金)~12月23日(金)※日・月・祝日休廊
出品21点のデータと価格は12月4日ブログをご参照ください。


●年末年始・冬季休廊のお知らせ
本年の営業は12月27日(火)で終了します。
12月28日(水)~2023年1月4日(水)まで冬季休廊いたします。
第12回「吉原治良と八木一夫」
清家克久
「吉原治良」
図版1.吉原治良
油彩
画寸53cm×37cm(額寸71cm×54.5cm)
1957年作
図版2.同上サイン
図版3.同上裏面サインと制作年
白一色の作品だが、デカルコマニーのような流動面とペインティングナイフを鏝のように使い荒々しく絵具を盛り上げた部分が調和し、その上に滑らかな筆のタッチが加わって変化に富んだマチエールを見せている。薄いベニヤ板に地塗りされた上に描かれており、その裏にも作者のサイン、そして制作年が記されている。1957年は吉原治良のアンフォルメルの時代であり「絵具の物質感を高めるための滴りや刻み、盛り上がりなどをこつこつと積み上げるように制作した」(「生誕100年記念吉原治良展」カタログ解説より、2005年10月朝日新聞社刊)時期でもある。
2016年8月にネットオークションで落札した。出品者は骨董全般を扱っている広島の業者だったが、低額からの入札で20万円を越えた時点で二人の競り合いとなり結局40万円で落札した。無鑑定だが現物を見て私は真作と確信した。入手後に吉原コレクションで知られる芦屋市立美術博物館で開催された「未知の表現を求めて 吉原治良の挑戦展」(2016年9月17日~11月27日)を見に行き、その確信は益々強くなった。油彩と説明されているが、プラスター(石膏)も混じっているのではないかと推測される。なお、額縁も自製で作品と一体を成している。
図版4.「生誕100年記念 吉原治良展」カタログ表紙
2005年10月
朝日新聞社刊
図版5.「未知の表現を求めて 吉原治良の挑戦展」カタログ表紙
2016年9月
芦屋市立美術博物館刊
☆
吉原治良(1905―1972)は早くから海外の前衛美術の動向に関心を持ち、独自に文献を取り寄せていた。彼の蔵書には「カイエ・ダール」誌や「ミノトール」誌、ジュリアン・レヴィ著「シュルレアリスム」などが含まれており、1930年代にはデ・キリコなどシュルレアリスムの影響を受けた作品が見られる。
瀧口修造が吉原治良の作品について触れた文章としては「二科で出会ったもの」(「みづゑ」1946年10月、「コレクション瀧口修造」第7巻1992年4月みすず書房刊所収)が最初ではないかと思われるが、「吉原治良の「群像」「邂逅」はアルプ的な黒と白の純粋形象の中で人間像を求めようとしている。ただアルプのような人間的なユムールがくっきりと浮彫にされず、平面的なうらみはある。」と短く評している。
図版6.吉原治良
油彩「群像」
1946年作
(生誕100年記念 吉原治良展カタログより)
瀧口と吉原は1947年9月に「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」の結成に参加し二人とも幹事になっており、この時が最初の出会いであったかもしれない。1954年に吉原治良をリーダーとして関西を中心とした若い作家たちにより「具体美術協会」が結成されるが、「人の真似はするな、今までにないものをつくれ」が吉原のキャッチフレーズであった。その後吉原は「具体芸術宣言」(「芸術新潮」1956年12月号掲載)を発表し、「具体美術に於いては人間精神と物質とが対立したまま、握手している。」と述べるなど彼の芸術観を披歴しつつグループとしての方向性を示している。1957年にアンフォルメル運動の提唱者ミシェル・タピエが来日したことは瀧口、吉原それぞれにとって重要な意味を持つ出来事だった。瀧口はアンフォルメルを「自分にとってある本質的な問題にかかわるもの」(自筆年譜1957年より)と感じていたからである。翌年の訪欧でタピエと再会し、タピエの車でバルセロナのアントニ・タピエスの家まで同行している。吉原にとってはタピエが大阪の自宅を訪れ具体美術協会のメンバーと交流したことで「具体」が海外で高く評価されるきっかけとなった。
1958年3月に瀧口は吉原の依頼を受けて「具体の運動について」と題する文章を書いたが、原稿の締切に間に合わず未発表となり、瀧口の元へ返送されたものが残っていた。長い文章ではないが、その巻末の部分を紹介しておく。
「具体の「画家」たちは何かを描こうとしているのであろうか。タブロオの錯誤、おそらくそこからすべての錯誤が生じてくるのかも知れない。昨年ブリジストン美術館の「世界現代美術展」にならんだ具体の一、二の作品は、欧米の作品とくらべて範疇を異にしているように私には思われた。彼らの作品はあまりにもタブロオのなかでの論理的な追求の結果でありすぎる。いやそのことが絵画問題として重い意味があるのにちがいないし、彼らのまたダダへの郷愁を問題にすることにもなりかねないのだろうが、「具体」はいわば出発点だ。純粋な出発点。
しかもその足場は、カンヴァスという踏みかためられた平面ではない。足を置くとぐいぐい吸いとられるような次元であるかもしれない。ぱんと弾かれるような奇妙な力学的な物体であるかもしれない。――私はここで私の考えを整理しようとは思わない。
私はただ「具体」の運動を正視しよう、ということを提言したいのである。」
(「コレクション瀧口修造」第7巻所収)
この文章の冒頭には二人が第1回具体美術展(1955年10月)と第2回展(1956年7月)いずれも東京・小原会館で会話した内容についても触れている。
吉原が「精神と物質の対立」をテーマに掲げたことは、瀧口が戦前にシュルレアリスムの思想を通してこの問題に直面し、その統一を目指していたことに繋がっていたのだろうか。
☆
「八木一夫」
図版7.八木一夫
「白化粧俵鉢」
制作年不詳
縦11.5cm×横13cm×高さ5cm
図版8.同上裏面刻印
八木一夫の陶器「白化粧俵鉢」(制作年不詳)、八木と言えば前衛的なオブジェ焼があまりにも有名だが、これは茶道の菓子器用に作られたものだろう。八木ならではの斬新な造形で、ロクロを使って壺のように成形したものを中心から二つに切り分けて対の作品として仕上げたものではないかと思われる。ロクロの名手と評されただけあって陶土の切口の厚さが均等でしかも薄い。シンメトリーな形でうっすらと地肌を見せる白化粧が美しい。2007年2月頃に大阪の古美術店から7万円で購入したが、共箱に長男である八木明の識語署名落款入りで作品の裏底には作者の刻印がある。
2004年9月から2005年12月にかけて「没後25年 八木一夫展」が巡回され、私は広島県立美術館へ見に行ったが、陶芸家というよりも彫刻家の展覧会のような印象を受けた。
図版9.共箱蓋表
図版10.同上識語署名落款
図版11.「没後25年 八木一夫展」チラシ
☆
八木一夫(1918―1979)は京都の五条坂と呼ばれる陶芸の町に陶芸家八木一艸の長男として生まれた。若い頃からシュルレアリスムの影響を受け、マックス・エルンストが好きだったと語り、パウル・クレーやピカソにも傾倒していた。おそらく美術雑誌などで瀧口修造の評論にも目を通していたのではないかと思われる。1948年に鈴木治や山田光らと前衛陶芸結社「走泥社」を結成し、吉原治良を講師に招きシュルレアリスムや抽象絵画についても学んでいる。1954年12月に東京のフォルム画廊での個展で陶器の概念を覆す作品「ザムザ氏の散歩」を発表し、センセーションを巻き起こした。瀧口修造はそこに非凡な才能を見いだし1956年6月にタケミヤ画廊で「八木一夫陶個展」を開催したのであろう。しかし、瀧口の著作を隈なく当たってみたが、八木についての言及や論評を見つけることができなかった。私が持っている二冊の八木一夫展カタログの主要参考文献や八木一夫遺文集「刻々の炎」(1981年2月駸々堂刊)にもそれは見当たらない。それが何故なのか私にとっては一つの謎である。
図版12.「ザムザ氏の散歩」
1954年作
(「八木一夫展」カタログ1981年2月京都国立近代美術館刊より)
図版13.タケミヤ画廊「八木一夫陶個展」案内状
1956年6月
(「タケミヤ画廊からの招待状」2014年3月慶應義塾大学アート・センター刊より)
瀧口はイサム・ノグチの日本での二つの個展(1950年8月東京三越本店、1952年9月神奈川県立近代美術館)に合わせて「イサム・ノグチの芸術」(みづゑ第537号1950年7月号)や「ふしぎな芸術の旅行―イサム・ノグチ小論」(みづゑ第568号1952年12月号、いずれも「コレクション瀧口修造第2巻」1991年7月みすず書房刊所収)などを発表し紹介に努めている。後者は本邦初の作品集『ノグチ:NOGUCHI』(1953年10月美術出版社刊)の本文として再録されているが、瀧口はその中で「日本人の私たちもかつては彫刻と陶器の境から自由に創造していたのである。今日ほど窮屈に彫刻とか陶器とかの形態を押しつけて考えてはいなかった。そしてもっと自由に生活の中で形を呼吸させることを知っていたはずである。その初発的な形態は、いつもオブジェ(非芸術的な物という物体)の相を呈していたにちがいないのである。一箇のオブジェとしてのユーモアを解すること、非合理性のなかから高い合理性を見いだしていく技術を、私たちはだんだんに失いかけているのである。」と解説している。八木はイサム・ノグチの作品から大きな影響を受けてオブジェの制作に取り組んだのである。その後彫刻家の辻晋堂と共にイサム・ノグチと交流している。八木は前衛的な作品を制作する一方で「ワテら茶碗屋でっせ」と言うのが口癖で、仲間の作家にも「茶碗に始まって、茶碗に終る」と言うなど、陶工としての自負を生涯持ち続けた天才的な陶芸家であった。
今回、関西を代表する二人の前衛作家を取り上げたが、私が持っている作品が白で共通している点に奇縁を感じている。
(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
・清家克久さんの連載エッセイ「瀧口修造と作家たち―私のコレクションより―」は毎月23日の更新です。
清家克久さんの「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか。
あわせてお読みください。
◆「Tricolore 2022 ハ・ミョンウン、戸村茂樹、仁添まりな」本日最終日です
会期:12月9日(金)~12月23日(金)※日・月・祝日休廊
出品21点のデータと価格は12月4日ブログをご参照ください。


●年末年始・冬季休廊のお知らせ
本年の営業は12月27日(火)で終了します。
12月28日(水)~2023年1月4日(水)まで冬季休廊いたします。
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