「没後15年記念 松永伍一展~詩・絵画・子守歌…~」を訪ねて
中村 惠一
100年前の6月9日、軽井沢の別荘”浄月庵”において有島武郎が波多野秋子とともに心中死した。1923年のことである。この”浄月庵”は現在、塩沢湖畔に設置された軽井沢高原文庫に附属する形で移築され保存されている。6月4日、台風2号一過の青空と浅間山に迎えられて軽井沢高原文庫を訪れた。同文庫は1985(昭和60)年8月に軽井沢の豊かな文学世界を体験、体感いただくために開館した。2階の展示室ではさまざまな魅力的なテーマの企画展を年に4~5回行っているが、2023年の2つ目の企画展として5月27日から7月10日まで開催されているのが松永伍一の没後15年記念展である。松永伍一と軽井沢を結ぶもの、それは堀辰雄であった。松永は1930(昭和5)年、福岡県の三瀦郡大莞村(現 大木町)に生まれた。福岡での青春時代、松永は堀辰雄を愛読し、軽井沢に憧れを抱いていた。1966(昭和41)年、知人に紹介された北軽井沢の貸別荘で初めて夏を過ごし、高原の生活に魅了された。翌年も同じ貸別荘を借りたが、2年後の1968(昭和43)年には執筆中の大作『日本農民詩史』に集中するための場所として、浅間開拓地の一画に山荘を建てたのだった。こうした夏の山小屋暮らしは、晩年まで約40年続いた。その山荘で6000枚、全五巻に及ぶ『日本農民詩史』の約半分を書き上げたのだった。詩人であり、すぐれたエッセイを書き、美しい書を書き上げ、あげくに魅力的な絵画も描く松永であるが、大きな業績として『日本農民詩史』と子守唄の採集がある。今回の展示によって松永が全国の子守唄を研究し、あげくにはレコードとして出版したことを知った。ビクター「にっぽんの子守唄」(1976年)である。大変な業績である。
展示のなかに松永が愛用したガリ版用の鉄筆があった。1950年代のサークル文学活動をみるとガリ版刷りがほとんどであった。支援に入った側の安部公房の処女詩集もガリ版印刷である。展示での解説によれば、松永は、福岡県立八女中学校在籍時に東京から疎開してきていた詩人の川崎洋と友人となり、詩作を勧められたことをきっかけに、文芸の道に進んだという。花宗中学校助教諭時代、教務の傍ら文芸部の顧問を務め、雑誌『河童園』を創刊している。この雑誌はまさにガリ版刷りである。そして自らの処女詩集『青天井』を出版する。文筆家として立つために上京するきっかけは歌人・柳原(宮崎)白蓮であったという。平和運動のための講演で伊藤家を出奔以来の福岡に来ていた白蓮に才能を見出されたのだった。戦争で亡くした白蓮の長男の面影を松永に感じたようだ。1957(昭和32)年のことであった。ガリ版刷りの雑誌のなかに白蓮の短歌が掲載されているのは、とても新鮮であった。
今回の展示のなかで目をひく一つの要素は松永の描いた水彩画であり、油彩画の展示である。20回余りの個展も開催した作品は、とても魅力的であるし、詩人であるのでタイトルがうまい。「ピエロ気分のお面」「ズボンの力学」といったコラージュ的な手法を用いた作品にひかれた。展示されていた自筆原稿によれば、絵のコレクションが200数点あって、その70%は銅版画であるのこと。銅版画が好きだったと記述されていた。画家との交流は軽井沢でもあって、脇田和や堀文子と親しく交流したようである。
残念ながら2008(平成20)年、東京にて死去された。享年77であった。自筆原稿、絵画、書、遺愛の品、貴重な写真など約200点が展示された会場は楽しい空間であった。軽井沢高原文庫は軽井沢タリアセンの一画にある。塩沢湖を中心にしたこの施設には旧朝吹山荘「睡鳩荘」やアントニン・レーモンドのアトリエ「夏の家」(現・ペイネ美術館)もある。高原文庫には堀辰雄の1412番山荘、野上弥生子の書斎や磯崎新設計の立原道造詩碑、中村真一郎文学碑もあって、楽しい空間になっていた。松永伍一の軽井沢での人的な交流を糸口にした文学、美術散歩の一時をぜひ楽しんでいただきたいと思った。

軽井沢高原文庫

松永伍一展会場風景

松永伍一展会場風景

野上弥生子書斎
●「没後15年記念 松永伍一展~詩・絵画・子守唄…~」
会期:2023年5月27日(土)~7月10日(月) ※会期中無休
会場:軽井沢高原文庫
九州・福岡出身で、北軽井沢に仕事場のあった詩人・評論家、松永伍一(1930~2008)の没後15年を記念して、その仕事の自筆資料、著作、絵画、書などを紹介します。『日本農民詩史』『一揆論』なども山荘で執筆しました。松永が青年期より深く親しんだ軽井沢ゆかりの文学者たちの資料も合わせ、約200点を展示いたします。
*画廊亭主敬白
高原文庫でたくさんの著書、写真、原稿を観ながらお元気だったころの松永伍一先生を思い出し胸が熱くなりました。
若い人たちを応援することを喜びとされ、訪ねてくる多くの若者(私たちもその一人)を親身になって支援してくださいました。
1974年渋谷区桜丘の清桜ハイツというマンションの一室で「現代版画センター」はスタートしました。その少し後にお隣の部屋に越してきたのが倉垣光孝さんたちの「浪漫堂」という会社でした。今では原宿に自社ビルを構える大会社ですが、当時は早稲田の学生たちが「闇一族」という雑誌のクラブ活動から始めた小さなデザイン制作会社でした。



「闇一族」の寄稿者だった松永先生が隣室の浪漫堂を訪ねてきたついでに私たちの部屋に来たりして暖かな助言をしてくれました。
亭主の愛読書『荘厳なる詩祭』(1967年、徳間書店)は夭折した詩人たちの評伝ですが、埋もれた人びと、忘れ去られた人びとに光をあてる仕事をしたいと思いました。
頼るべき美術界の知人をほとんど持たない亭主は、一面識もない松永先生に手紙を書いて相談しました。
以来、亡くなるまで私たちが何か新たな企画を起こすときは、原稿執筆や講演などでいつも応援してくださいました。夏の北軽井沢の山小屋にも呼んでくださり、夜を徹して若い人たちに語ってやみませんでした。
●現代版画センターの初期機関誌画譜創刊号(1974年5月30日発行)にご寄稿いただいたのが最初で、
●木村茂銅版画集「日本の街第3巻 武蔵野」にエッセイ執筆、1975年
●松永伍一・吉原英雄詩画集「少年」1977年
●「'77現代と声 版画の現在」に<生命発条への讃歌(加山又造論)>を執筆、1978年
●倒産後に再起を期して取り組んだ「資生堂ギャラリー七十五年史」(1995年)には<奇妙なドラマ 長谷川利行と天城俊彦><禅からピカソへ 井上三綱><知の贅沢に生きる 御木本隆三><反骨流浪の画家 高島野十郎>を執筆してくださいました。
●「版画掌誌ときの忘れもの第1号」「内部の星座 三上誠寸描」1999年
1999年2月青山・ときの忘れもの「三上誠遺作展」にて。
長谷川利行、天城俊彦、井上三綱、御木本隆三、高島野十郎、三上誠・・・世に逆らい、ただ一筋自ら信じる美に殉じた異端の人びとを熱い共感をもって語れる人は松永先生しかいませんでした。
石神井のお宅にご依頼に伺うと、嬉しそうに「ぼくしか書けないよね」といって約束通り、枚数も期日もぴたりとおさめてくださるのでした。
●1983年ウォーホル全国展ポスター<KIKU>
1983年 オフセット
103x72.5cm
デザイン:浪漫堂
発行:現代版画センター
浪漫堂さんには、ウォーホル展、磯崎新展のポスターや会社案内などいくつも作っていただきました。
●軽井沢で「倉俣史朗展 カイエ」が開催中です。
会場:軽井沢現代美術館
長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2052-2
会期:2023年4月27日(木)~11月23日(木・祝日)
休館日:火曜、水曜 (GW及び、夏期は無休開館
●倉俣史朗の限定本『倉俣史朗 カイエ Shiro Kuramata Cahier 1-2 』を刊行しました。
限定部数:365部(各冊番号入り)
監修:倉俣美恵子、植田実
執筆:倉俣史朗、植田実、堀江敏幸
アートディレクション&デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.7×25.7cm、64頁、和英併記、スケッチブック・ノートブックは日本語のみ
価格:7,700円(税込) 送料1,000円
詳細は3月24日ブログをご参照ください。
お申込みはこちらから
●ジョナス・メカスの映像作品27点を収録した8枚組のボックスセット「JONAS MEKAS : DIARIES, NOTES & SKETCHES VOL. 1-8 (Blu-Ray版/DVD版)」を販売しています。
映像フォーマット:Blu-Ray、リージョンフリー/DVD PAL、リージョンフリー
各作品の撮影形式:16mmフィルム、ビデオ
制作年:1963~2014年
合計再生時間:1,262分
価格等については、3月4日ブログをご参照ください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
中村 惠一
100年前の6月9日、軽井沢の別荘”浄月庵”において有島武郎が波多野秋子とともに心中死した。1923年のことである。この”浄月庵”は現在、塩沢湖畔に設置された軽井沢高原文庫に附属する形で移築され保存されている。6月4日、台風2号一過の青空と浅間山に迎えられて軽井沢高原文庫を訪れた。同文庫は1985(昭和60)年8月に軽井沢の豊かな文学世界を体験、体感いただくために開館した。2階の展示室ではさまざまな魅力的なテーマの企画展を年に4~5回行っているが、2023年の2つ目の企画展として5月27日から7月10日まで開催されているのが松永伍一の没後15年記念展である。松永伍一と軽井沢を結ぶもの、それは堀辰雄であった。松永は1930(昭和5)年、福岡県の三瀦郡大莞村(現 大木町)に生まれた。福岡での青春時代、松永は堀辰雄を愛読し、軽井沢に憧れを抱いていた。1966(昭和41)年、知人に紹介された北軽井沢の貸別荘で初めて夏を過ごし、高原の生活に魅了された。翌年も同じ貸別荘を借りたが、2年後の1968(昭和43)年には執筆中の大作『日本農民詩史』に集中するための場所として、浅間開拓地の一画に山荘を建てたのだった。こうした夏の山小屋暮らしは、晩年まで約40年続いた。その山荘で6000枚、全五巻に及ぶ『日本農民詩史』の約半分を書き上げたのだった。詩人であり、すぐれたエッセイを書き、美しい書を書き上げ、あげくに魅力的な絵画も描く松永であるが、大きな業績として『日本農民詩史』と子守唄の採集がある。今回の展示によって松永が全国の子守唄を研究し、あげくにはレコードとして出版したことを知った。ビクター「にっぽんの子守唄」(1976年)である。大変な業績である。
展示のなかに松永が愛用したガリ版用の鉄筆があった。1950年代のサークル文学活動をみるとガリ版刷りがほとんどであった。支援に入った側の安部公房の処女詩集もガリ版印刷である。展示での解説によれば、松永は、福岡県立八女中学校在籍時に東京から疎開してきていた詩人の川崎洋と友人となり、詩作を勧められたことをきっかけに、文芸の道に進んだという。花宗中学校助教諭時代、教務の傍ら文芸部の顧問を務め、雑誌『河童園』を創刊している。この雑誌はまさにガリ版刷りである。そして自らの処女詩集『青天井』を出版する。文筆家として立つために上京するきっかけは歌人・柳原(宮崎)白蓮であったという。平和運動のための講演で伊藤家を出奔以来の福岡に来ていた白蓮に才能を見出されたのだった。戦争で亡くした白蓮の長男の面影を松永に感じたようだ。1957(昭和32)年のことであった。ガリ版刷りの雑誌のなかに白蓮の短歌が掲載されているのは、とても新鮮であった。
今回の展示のなかで目をひく一つの要素は松永の描いた水彩画であり、油彩画の展示である。20回余りの個展も開催した作品は、とても魅力的であるし、詩人であるのでタイトルがうまい。「ピエロ気分のお面」「ズボンの力学」といったコラージュ的な手法を用いた作品にひかれた。展示されていた自筆原稿によれば、絵のコレクションが200数点あって、その70%は銅版画であるのこと。銅版画が好きだったと記述されていた。画家との交流は軽井沢でもあって、脇田和や堀文子と親しく交流したようである。
残念ながら2008(平成20)年、東京にて死去された。享年77であった。自筆原稿、絵画、書、遺愛の品、貴重な写真など約200点が展示された会場は楽しい空間であった。軽井沢高原文庫は軽井沢タリアセンの一画にある。塩沢湖を中心にしたこの施設には旧朝吹山荘「睡鳩荘」やアントニン・レーモンドのアトリエ「夏の家」(現・ペイネ美術館)もある。高原文庫には堀辰雄の1412番山荘、野上弥生子の書斎や磯崎新設計の立原道造詩碑、中村真一郎文学碑もあって、楽しい空間になっていた。松永伍一の軽井沢での人的な交流を糸口にした文学、美術散歩の一時をぜひ楽しんでいただきたいと思った。

軽井沢高原文庫

松永伍一展会場風景

松永伍一展会場風景

野上弥生子書斎
●「没後15年記念 松永伍一展~詩・絵画・子守唄…~」
会期:2023年5月27日(土)~7月10日(月) ※会期中無休
会場:軽井沢高原文庫
九州・福岡出身で、北軽井沢に仕事場のあった詩人・評論家、松永伍一(1930~2008)の没後15年を記念して、その仕事の自筆資料、著作、絵画、書などを紹介します。『日本農民詩史』『一揆論』なども山荘で執筆しました。松永が青年期より深く親しんだ軽井沢ゆかりの文学者たちの資料も合わせ、約200点を展示いたします。
*画廊亭主敬白
高原文庫でたくさんの著書、写真、原稿を観ながらお元気だったころの松永伍一先生を思い出し胸が熱くなりました。
若い人たちを応援することを喜びとされ、訪ねてくる多くの若者(私たちもその一人)を親身になって支援してくださいました。
1974年渋谷区桜丘の清桜ハイツというマンションの一室で「現代版画センター」はスタートしました。その少し後にお隣の部屋に越してきたのが倉垣光孝さんたちの「浪漫堂」という会社でした。今では原宿に自社ビルを構える大会社ですが、当時は早稲田の学生たちが「闇一族」という雑誌のクラブ活動から始めた小さなデザイン制作会社でした。



「闇一族」の寄稿者だった松永先生が隣室の浪漫堂を訪ねてきたついでに私たちの部屋に来たりして暖かな助言をしてくれました。
亭主の愛読書『荘厳なる詩祭』(1967年、徳間書店)は夭折した詩人たちの評伝ですが、埋もれた人びと、忘れ去られた人びとに光をあてる仕事をしたいと思いました。
頼るべき美術界の知人をほとんど持たない亭主は、一面識もない松永先生に手紙を書いて相談しました。
以来、亡くなるまで私たちが何か新たな企画を起こすときは、原稿執筆や講演などでいつも応援してくださいました。夏の北軽井沢の山小屋にも呼んでくださり、夜を徹して若い人たちに語ってやみませんでした。
●現代版画センターの初期機関誌画譜創刊号(1974年5月30日発行)にご寄稿いただいたのが最初で、
●木村茂銅版画集「日本の街第3巻 武蔵野」にエッセイ執筆、1975年
●松永伍一・吉原英雄詩画集「少年」1977年
●「'77現代と声 版画の現在」に<生命発条への讃歌(加山又造論)>を執筆、1978年
●倒産後に再起を期して取り組んだ「資生堂ギャラリー七十五年史」(1995年)には<奇妙なドラマ 長谷川利行と天城俊彦><禅からピカソへ 井上三綱><知の贅沢に生きる 御木本隆三><反骨流浪の画家 高島野十郎>を執筆してくださいました。
●「版画掌誌ときの忘れもの第1号」「内部の星座 三上誠寸描」1999年
1999年2月青山・ときの忘れもの「三上誠遺作展」にて。長谷川利行、天城俊彦、井上三綱、御木本隆三、高島野十郎、三上誠・・・世に逆らい、ただ一筋自ら信じる美に殉じた異端の人びとを熱い共感をもって語れる人は松永先生しかいませんでした。
石神井のお宅にご依頼に伺うと、嬉しそうに「ぼくしか書けないよね」といって約束通り、枚数も期日もぴたりとおさめてくださるのでした。
●1983年ウォーホル全国展ポスター<KIKU>
1983年 オフセット103x72.5cm
デザイン:浪漫堂
発行:現代版画センター
浪漫堂さんには、ウォーホル展、磯崎新展のポスターや会社案内などいくつも作っていただきました。
●軽井沢で「倉俣史朗展 カイエ」が開催中です。
会場:軽井沢現代美術館長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2052-2
会期:2023年4月27日(木)~11月23日(木・祝日)
休館日:火曜、水曜 (GW及び、夏期は無休開館
●倉俣史朗の限定本『倉俣史朗 カイエ Shiro Kuramata Cahier 1-2 』を刊行しました。
限定部数:365部(各冊番号入り)
監修:倉俣美恵子、植田実
執筆:倉俣史朗、植田実、堀江敏幸
アートディレクション&デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.7×25.7cm、64頁、和英併記、スケッチブック・ノートブックは日本語のみ
価格:7,700円(税込) 送料1,000円
詳細は3月24日ブログをご参照ください。
お申込みはこちらから
●ジョナス・メカスの映像作品27点を収録した8枚組のボックスセット「JONAS MEKAS : DIARIES, NOTES & SKETCHES VOL. 1-8 (Blu-Ray版/DVD版)」を販売しています。
映像フォーマット:Blu-Ray、リージョンフリー/DVD PAL、リージョンフリー各作品の撮影形式:16mmフィルム、ビデオ
制作年:1963~2014年
合計再生時間:1,262分
価格等については、3月4日ブログをご参照ください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
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