連載「瑛九 - フォト・デッサンの射程」
第7回「Now I stand here waiting...-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その3)」
Now I stand here waiting... 僕はここで待っている、ニュー・オーダーのヒット曲となったシングル「Blue Monday」(1983)の一節が私の耳に届く。僕はここで待っている、その「ここ」は「ミーニョとヒーチョの家」なのだが、ついにその家は解体されてしまった。それでも「僕はここで待っている」、待っている限り、「ここ」はなくならない、そう思いたいから。ところで、僕は、誰を、何を、待っているのだろう?いや、違う、問いの立て方が間違っている。その誰かが、何かが、わかっている状態で待つことに、意味はない。その行為は、ただ目的を果たすことに向けられているだけだから。
そうではない、誰を、何を、待っているのかわからない、けれど、「待つ」、その「待つ」という行為の対象は、「それ」が現れた時に、初めて、ああそうだったのかと、わかるのである。だが、「それ」は、向こうからやってきてくれるわけではない。「それ」は、いつのまにか現れ、目の前を「通り過ぎる」。だから、「それ」が現れた時、決して見逃してはならない。そんな風に「待つ」、ついには、誰も、何も、現れないのだとしても、「僕はここで待っている」、そんな終わりのない「待つ」にふさわしい曲 ———— 「Blue Monday」が、いつまでも、いつまでも、鳴り続けている、Now I stand here waiting...。
2024年1月8日、速報
2024年を迎えてまだ日が浅い1月8日、「瑛九アトリエを生かす会」の事務局から、「速報」と題されたメールが届く。
「新年を迎えて間もなく、ショッキングなニュースばかりですが、重ねて心苦しいご報告となります。奇跡的に現存していた瑛九のアトリエですが、当会の活動では力が及ばず、現状を残すことが叶いませんでした。
(中略)瑛九のアトリエの土地は昨年10月には売却され、更地になることが決まっていました。建屋の解体は、年明け1月5日からはじまり、6・8日と作業員が作業をしていました。本日午後には、建屋や庭木はあとかたもなくなり、更地になってしまいました。」
あっけない。こんなものなのか。これが現実なのか。ふわふわしている。自分の目で確かめないことには、あの家がもう存在しないという事実を、受け入れることができそうにない。現実とは、ずしりと重い、向き合いたくない事実を、私たちに、突きつけてくる、普段はそう感じている。けれど、時に、現実は、息を吹きかけるだけで消えてしまう、ろうそくの炎のように儚く、信じられないぐらい、軽い。全く実感がないのだ。
2024年1月8日、この日を、「ミーニョとヒーチョの家」の命日としよう。思い出されるのは、都さんの命日、2018年12月8日。どちらも8日だから、月命日が同じ日になる。だから、都さんを偲ぶ時、自ずと「ミーニョとヒーチョの家」への追悼の気持ちがこみあげてくる。それは、いいことだろう。だが、しかし。ここから先、何を書いても、何度書いても、全く筆が進まない。書けなくなってしまった。
この連載が始まって以来、これだけ書けないのは初めてだ。あらゆる意味での不調は承知の上で、それでも引き受けると覚悟を決めたのだから、どんな無理をしてでも、書き続けなければならない。それは、わかっている。けれど、思考のエンジンが、全くかからない。「ミーニョとヒーチョの家」が取り壊されてしまったという「速報」を受けて、私の中で、何かがはじけ、身体のエンジンもろとも、脱力してしまったのかもしれない。
この苦境を脱するには、書けなくなった地点へ、戻ってみるしかない。どこで止まったのか。「思い出されるのは、都さんの命日、2018年12月8日。」、そう書いたことで、多様な記憶が一挙によみがえり、気持ちの整理がつかなくなったのだ。今でも鮮明に覚えている。うらわ美術館の山田志麻子さんから電話が入り、都さんが亡くなっていらしたことを知った。山田さんは、都さんの訃報を、宮崎県立美術館の小林美紀さんからお聞きしたとのことであった。都さんが亡くなられてから数ヶ月が経過した頃のことだった。
都さんが高齢であったことを思えば、いつか、その日が訪れてしまうことは、どこかで、覚悟していたように思う。それでも、当然のことながら、深い喪失感がやってくる、その只中で、譫言のような口調で、都さんが亡くなった日のことを、山田さんに聞いてみる。すると、その日付は、2018年12月8日とのことであった、瞬時に思う、ジョン・レノン...。そう、都さんが亡くなった12月8日は、ジョン・レノンの命日なのである。
1980年12月8日、速報
時空が巻き戻される、1980年12月8日。ジョン・レノンが射殺されたという速報が流れたのは、中学2年の時だった。私はビートルズを熱心に聴いた世代ではないが、ジョン・レノンの死を契機にビートルズをもう少し聴いてみる気になり、「洋楽」への興味が徐々に芽生え、いつしか、「ニュー・ウェイヴ」に耽溺するようになる。ニュー・オーダーを聴くようになったのはセカンド・アルバム『Power, Corruption& Lies』(1983)からであり、冒頭で紹介したシングル「Blue Monday」(1983)には衝撃を受けた。思えば、ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスが亡くなったのは1980年5月18日なのだから、亡くなった年はジョン・レノンと同じなのであった。
ジョン・レノンの死からさらに40年近く時間を巻き戻すと、1941年12月8日は、真珠湾攻撃が開始された日として記憶されている(日本時間の未明であるためハワイ時間では12月7日)。このように、歴史上重要な意味を持つ12月8日は、世界に衝撃を与えたジョン・レノンの射殺という事件が起きた日であり、また、私にとっては自宅の引越しという極めて個人的な出来事の日である。そして、都さんが亡くなった日が、12月8日であった、そのことを知った時の気持ちの揺れがよみがえり、執筆が止まった。ならば、ここで、思考のエンジンを再びかけるために、個人的な話を書くことを、ご容赦願いたい。
1983年12月8日、我が家は引越しだった。自分の荷物はそっちのけでリビングのステレオ・セットの配線を急ぐ。早く音楽が流れるようにしないと息がつまる、音楽のない家で過ごす時間を一刻も早く終わらせたい、そんな気持ちだったのだろう。マンションのバルコニーにFMアンテナを立て、向きを調整し、チューニングを試す。苦労の末にようやくFMラジオが受信できるようになった瞬間、スピーカーから流れてきたのは、ジョン・レノンの曲と、「ジョン・レノンが亡くなって、今日で3年です。」という声だった。ジョン・レノンの命日、12月8日は、私にとっては、自宅の引越しの日でもある。
都さんが亡くなったのは、その12月8日であったという。山田さんとの電話が続く中で、ジョン・レノンが亡くなったというニュースを聞いた日のことが、その3年後、引越し先の新居のリビングにジョン・レノンの曲が流れた日のことが、脳内を駆け巡り、瑛九が亡くなった後の長きにわたる都さんの人生に、深く気持ちを揺さぶられた。だから、その電話のことは、今でも鮮明に覚えている。だから、まもなくやってくる2月8日、すなわち、都さんの月命日であり、「ミーニョとヒーチョの家」の月命日である8日に思いを馳せて、都さんにまつわる記憶を、ここに記しておきたい。
1997年7月26日
1997年4月24日、私は初めて「ミーニョとヒーチョの家」を訪れた。この訪問は、この年の6月から埼玉県立近代美術館で開催される「光の化石」という企画展について、都さんにお話をするためであった。(この訪問のことと、この時に都さんがお話してくださったことについては、本連載の第5回をお読みください。)そして、同年6月14日、無事に「光の化石」が開幕を迎えた。都さんは、体調が良ければ内覧会に伺いますとおっしゃってくださったのだが、開幕当日、怪我をしてしまい、そちらには伺えなくなりましたと、ご連絡をいただいた。
そのため、都さんはしばらく入院生活を余儀なくされ、私は、都さんのお見舞いに行くことになった。これもまた、最初の訪問と同じく、埼玉近美の先輩学芸員である大久保静雄さんのアドバイスを受けて、そのようにしたのである。大久保さんは、今度はひとりで行ってはどうか、と私に告げ、ではそうしてみますと、私はその助言に従った。病院に連絡をして、お見舞いが可能かどうかを聞き、可能であるとの回答を得て、訪問が許されている曜日や時間帯を詳しく聞き、日程を検討した。だが、事前にお見舞いにいくことを都さんに伝える術がなく、病室にいらっしゃらなかったら、待つか、出直せばいい、そう考えて、病院に向かった。それが、1997年の7月26日のことだった。
ちなみに、「光の化石」の会期は1997年6月14日から7月27日までであり、7月26日は、閉幕の前日であった。展覧会が終了すると、撤去作業や返却作業などに追われることになり、しばらく動けなくなってしまう、そう考えて、この日になったのではないかと思われる。一度、都さんにお目にかかることができていたとはいえ、今回は、ひとりでの訪問であり、また、病院にお見舞いに伺うという状況でもあり、前回とはまた違う緊張感に襲われた。病院に到着し、病室を探し、病室の入口にかけられた名札を確認し、ああ、この部屋なのだなと、少しの安堵とかなり緊張がやってくる。
病室の扉は、少し開いていて、部屋に入らずとも、中の様子を、少しだけ、伺うことができた。人の気配がする、都さんの姿が見える、ああ、いらっしゃった、失礼のないように、そう思いながら、深呼吸して、ゆっくりと、扉の外から名前を名乗り、お見舞いにきましたと、お声がけしてみる。都さんは、少し驚いた様子で、「あら、まあ」とおっしゃり、部屋の中へと招いてくださった。ベッドで休んでいらしたわけではなく、ベッドの脇で、くつろいでいらしたご様子だった。
はっきりとした記憶があるのは、ここまでである。病室に入ってからの記憶はおぼろげで、ほとんど覚えていないのである。おそらく、緊張のあまり、記憶が飛んでいるではないかと思われる。4月24日の訪問は4名だったこともあり、私自身が都さんと会話を交わした時間はさほど長くなかったこともあり、周囲を見回したり、都さんのお話を記憶にとどめようとしたりすることが、まだ出来ていたのだと思う。しかし、この時は、ひとりでの訪問であり、その緊張から、病室での記憶がほとんどないのだと思われる。
ご挨拶をさしあげたのち、都さんが、「こんな姿はお見せしたくないのだけど」とお話されたことだけを、かろうじて、覚えている。お怪我のこと、ご体調のこと、入院生活のご苦労などをお聞きしたはずであるが、会話の内容は記憶できていない。お見舞いであるから、瑛九についての調査のようなことはお聞きしないようにと自重していたのは確かであり、長居しないようにとも気をつけていた。記憶が戻るのは、病室を後にして病院を出るという、その一連の行動からである。つまり、病室に入るまでと、病室を出てからの記憶はあり、本来は時間差のあるその記憶が結びついていて、病室で過ごした時間の記憶が、エア・ポケットのように抜け落ちている。人間の記憶とは、そんなものなかもしれない。
題不詳
まるでスローモーションのような遅々たる筆致で、どうにかここまで書き連ねてきた。12月8日という日付に折りたたまれた、いくつもの出来事に、導かれるように。そうして、氷がすこしずつ溶けるように、固まっていた思考が、ゆっくりほぐれはじめることを、自覚する。ようやく回り始めた思考が、再び止まってしまうことのないように、慎重に、これは、と思う瑛九の作品を、思い浮かべてみる。うまくいかなければ、別の作品を選んで、何度でも、試してみる。何度かそのような試みを繰り返した結果、ゆっくりと回転しはじめた思考の速度と、ぴたりと重なる作品を見つけることができた。

fig.1:《題不詳》 制作年不詳
傑作である。
いきなり、そのような価値判断を示してしまってよいのだろうかと思わないでもないが、そう書く根拠がある。というのは、今回、この作品を取り上げることを決めて、カタログ掲載の写真をじっくりと見て、また、展示を見た際に撮影した写真をじっくりと見て、この作品は「傑作である。」と確信した。まず、これがひとつ目の根拠である。
さらに、展示を見た日にカタログの余白に書き込んだメモにも、「傑作」と記されていたからだ。メモにそのように書き込んだことはすっかり忘れており、そのメモを読み返すことも、しばらくなかった。しかも、展示を見ながら書き込んだそのメモはひどく乱れた字で、自分で書いたにも関わらず、判読不能な箇所だらけである。そのため、判読不能な書き込みは特に気にせずにいたのだが、先日、もしかしたら、これは「傑作」と書いてあるのではないか、と気がついたのである。これが、ふたつ目の根拠である。
展示を見たときにも、今回の執筆のために図録や写真を見直したときにも、同じ「傑作」という言葉を、私はこの作品にあてている。展示を見たときに「傑作」というメモ書きをしたことは、すっかり忘れていた。にもかかわらず、時間差をおいて同じ作品のことを考えたときに、同じ「傑作」という言葉に逢着したのだから、それは、作品がそうであるとしか、思えないのである。これが、いきなり「傑作」と書く、三つ目の根拠である。
「第33回瑛九展・湯浅コレクション」の出品番号34番、《題不詳》(カタログ46頁)。制作年代も不詳であるため、作品に関する情報によって作品を同定することはできず、その画像をみていただくしかないのであるが、とにかく、素晴らしい。
では、より具体的に、作品へとアプローチしてみよう。光沢のあるプリントで、全体に少し黄色味を帯びている。画面全体の諧調がとても美しく、まるで、画面が空間に響いているようである。上から下にかけて、白く抜けた形が印画紙に定着されており、その輪郭から、植物の葉が用いられていることが確認できる。画面全体に、白く抜ける形をなす、葉がついたままの枝ぶりを確認できる。その枝は、画面の中央付近では、輪郭が比較的明瞭に定着されているため、印画紙に密着ないしそれに近い形で置かれている時に定着されたと推測できる。
しかし、画面の上の方では、白く抜けた形の輪郭は複雑な重なりを示しており、一枚一枚の葉の形を容易には確認できない。輪郭がブレたような形は、枝や葉が印画紙に密着していなかったこと、もしくは、光をあてている時に動きがあったことを、示している。葉の形が見えない白い領域は、枝や葉が重なって不透明となり、個別の形の光による転写が成り立っていないことを示しているように思われる。不透明さを増した、そのまとまりの、全体の形の輪郭が、おぼろげに、印画紙の上に出現しているのであろう。
白く抜かれた形には、枝や葉のリアルな感覚が反映されている箇所もあれば、モチーフの具体的な形状を視認できない箇所もあるが、この白い形状が、この作品のベースとなる構図を形成していることは確かである。このような特徴をとらえるために、ここで、参考となる作品を、一点、紹介しておきたい。
「光の化石」という仮説

fig.2:《作品(23)》 制作年不詳
植物の葉を用いた《作品(23)》は、「光の化石」という展覧会を企画する原点となった作品である。印画紙に定着された植物は、まるで化石のようであり、そこから、タルボットによる植物の葉のフォトジェニック・ドローイングを想起したのであり、さらに、タルボットの作品から、植物の葉の化石を想起したのである。以下、「光の化石」のカタログのために、この作品をふまえて書いた「「光の化石」という仮説」という文章から、後半部分を引用しておきたい。
「白が強く、輪郭がはっきりしている部分は、印画紙に密着するか、印画紙との距離が近い部分であり、ぼやけて白が弱い部分は、印画紙との距離がより離れている部分である。素材の葉は、薄っぺらな一枚の葉ではなく、枝わかれし、立体的なふくらみを持っているので、このような効果があらわれてくる。つまり、印画紙の上にこの葉を置き、これを上から見ると、ぼやけている部分のほうが、眼に近いことになる。
実際、この画面を見て、どのような印象を受けるだろうか。ぼやけた部分は、画面の奥の方、つまり、この作品を見ている眼から、より遠くにあるようには見えないだろうか。そうだとすると、これはあたかも、印画紙の裏側から見ているかのようである。印画紙から離れたほうが、眼から離れていくからだろうか。寝そべって上を見上げるような感じ、あるいは、水中から水面を見るような感じだろうか。」[1]
本連載ですでに述べているように、瑛九のフォト・デッサンは、引き算をすることによって、その原理を明らかにすることができる。なぜなら、瑛九のフォト・デッサンは、複数の技法を組み合わせて制作されることが多いため、複雑な構図と豊かな諧調を湛えた完成作品から技法を探ることが難しいからである。だからこそ、参照作品として紹介した、一般的なフォトグラムの原理に依拠する方法で制作された《作品(23)》は、「湯浅コレクション」の《題不詳》を見る上で、多くの示唆を与えてくれるのである。
《題不詳》は、植物の葉を印画紙の上に置いて光で感光させ、その像を印画紙に定着する原理においては、《作品(23)》と共通している。その上で、おそらく懐中電灯によると思われる黒い線や、帯状のモチーフを用いたと推測される円環状の形が加わり、より複雑で豊かな構図と諧調が生みだされているのである。このふたつの要素は、それぞれに重要な特徴を湛えており、その点については、また、別な作品を取り上げる機会に、もう少し掘り下げてみたいと考えている。
純粋可視性
最後に、《題不詳》が傑作であると言い切る、その価値判断が、どこからやってくるのかを、私自身の感覚とは別の観点からも、示しておきたい。この作品が「傑作である」という感覚は、この作品を「見ること」に由来する。より正確にいえば、その価値判断は、「見るために見ること」から、やってくる。その根拠となるコンラート・フィードラーの「純粋可視性」について、以下に、重要な論述を引用しておく。
「ところでいま、われわれは意識の力を視覚に集中しようとして見よう。すなわち、われわれが見るものを他の感覚の対象とせず、もちろんのことだが、とくにそれが手でつかみ得るかどうかを確かめようとせず、また、それがわれわれの感情生活に影響を及ぼすことがないようにし、さらに最後に、それを命名したり、概念として把握しないように全力をつくして見よう。(中略)われわれは通常、眼が提供するいっさいの現実素材を、眼それ自身のために手に入れようとせず、他の領域の心的ならびに精神的な生活へと持ちこむことに慣れきっている。しかしながらこの習慣にあえて抵抗して、われわれが自分の視覚活動を孤立させ、この活動によっていわば意識のおりおりの空間を完全に満たすことができるならば、そのときはじめてこの世界の事物は、本当の意味で可視的な現象として、われわれに対峙することになるであろう。」[2]
フィードラーは、ここで、論理的な思考を展開し、極めて説得力に富む、視覚芸術の「原理」を説いている。ここに、瑛九の《題不詳》が傑作である根拠を、見いだすことができる。なぜなら、この作品は、この論述の最後の方に記されている「意識のおりおりの空間を完全に満たす」ことを可能にしてくれる「本当の意味での可視的な対象」として、私の目の前に出現しているからである。いや、それどころではない、「意識のおりおりの空間を完全に満たす」この作品は、私の知覚と認識の許容範囲を凌駕してゆく。
その感覚に追いつこうとする私の知覚と認識は、この作品を見続けることによって、内側から拡張されてゆくのである。そのことを自覚しながら見る経験は、なにものにもかえがたい、特別な、まさしく芸術体験としか形容できない出来事である。「見るために見ること」は、「見ること」の能力を鍛え、「見ること」の可能性を押し広げてゆく。それこそが、「見るために見ること」であり、そのような「純粋可視性」にこそ、芸術体験によってもたらされるスリリングな魅力が潜んでいる。
そのような体験を誘う作品との出会いは、稀有な出来事である。だからこそ、そのような体験をもたらしてくれる作品を含む「湯浅コレクション」は、瑛九のフォト・デッサンの総体に対して、傑出した質の高さによって、私たちを魅了してやまないのである。
Remember, Life is strange...
作品の魅力に導かれて、私の思考に、ドライブ感が戻ってきた。けれど、安堵感はなく、山積したままの難題を前に徒労感が募る。難局を切り抜けない限り、その先はない、だから、この回を終えることに、いまは感謝したい。そして、私の耳をとらえるのは、ニュー・オーダーの「Procession」(1981)の一節、Remember, Life is strange...「覚えておくがいい、人生とは奇妙なものだ」。まさにそのとおり、12月8日という日付には、日本と世界の歴史が、イギリスとアメリカと世界の音楽の歴史が、私の家族と私の歴史が、そして、瑛九と都さんの歴史が、幾重にも折りたたまれている。その幾重にも折りたたまれた、階層の異なる複数の歴史が、奇妙な夢へと私を誘う。
「ミーニョとヒーチョの家」で、都さんが、漬物と一緒にミル・フィーユを出してくださるのだが、そのミル・フィーユに驚愕する。天井を突き抜けて空まで届くような高さ、一年に一枚ずつ層が厚くなる、「12月8日」という名のミル・フィーユ。期待するほど甘くはないけれど、きっと、人生と同じくらい奇妙な味に違いない。文字通りの「ミル・フィーユ=1000枚の葉」を超える層の厚みがもたらす圧倒的な食感を想像する。気がつくと、この家で行われた瑛九の葬儀で流れていたシェーンベルクが、ニュー・オーダーの「Blue Monday」や「Procession」と重なるように聴こえてくる。そんな夢想とともに、私の思考にドライブ感を取り戻してくれた瑛九の作品に感謝したい。今回紹介した作品は、光によって印画紙に転写された「葉」が主役なのだから。
図版出典
fig.1:「第33回瑛九展 湯浅コレクション」より
fig.2:『光の化石-瑛九とフォトグラムの世界』埼玉県立近代美術館、1997年
引用出典
[1]拙稿「「光の化石」という仮説」『光の化石-瑛九とフォトグラムの世界』埼玉県立近代美術館、1997年、16頁。
[2]コンラート・フィードラー(訳:山崎正和・物部晃二)『藝術活動の根源』(責任編集:山崎正和『近代の藝術論』に所収)、中央公論社、1979年、102-103頁。
(うめづ げん)
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」。次回更新は2024年4月24日を予定しています。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、瑛九です。
《二人》
1952年
フォト・デッサンに吹き付け
イメージサイズ:30.3×25.1cm
シートサイズ:30.3×25.1cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
第7回「Now I stand here waiting...-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その3)」
梅津 元
Now I stand here waiting... 僕はここで待っている、ニュー・オーダーのヒット曲となったシングル「Blue Monday」(1983)の一節が私の耳に届く。僕はここで待っている、その「ここ」は「ミーニョとヒーチョの家」なのだが、ついにその家は解体されてしまった。それでも「僕はここで待っている」、待っている限り、「ここ」はなくならない、そう思いたいから。ところで、僕は、誰を、何を、待っているのだろう?いや、違う、問いの立て方が間違っている。その誰かが、何かが、わかっている状態で待つことに、意味はない。その行為は、ただ目的を果たすことに向けられているだけだから。
そうではない、誰を、何を、待っているのかわからない、けれど、「待つ」、その「待つ」という行為の対象は、「それ」が現れた時に、初めて、ああそうだったのかと、わかるのである。だが、「それ」は、向こうからやってきてくれるわけではない。「それ」は、いつのまにか現れ、目の前を「通り過ぎる」。だから、「それ」が現れた時、決して見逃してはならない。そんな風に「待つ」、ついには、誰も、何も、現れないのだとしても、「僕はここで待っている」、そんな終わりのない「待つ」にふさわしい曲 ———— 「Blue Monday」が、いつまでも、いつまでも、鳴り続けている、Now I stand here waiting...。
2024年1月8日、速報
2024年を迎えてまだ日が浅い1月8日、「瑛九アトリエを生かす会」の事務局から、「速報」と題されたメールが届く。
「新年を迎えて間もなく、ショッキングなニュースばかりですが、重ねて心苦しいご報告となります。奇跡的に現存していた瑛九のアトリエですが、当会の活動では力が及ばず、現状を残すことが叶いませんでした。
(中略)瑛九のアトリエの土地は昨年10月には売却され、更地になることが決まっていました。建屋の解体は、年明け1月5日からはじまり、6・8日と作業員が作業をしていました。本日午後には、建屋や庭木はあとかたもなくなり、更地になってしまいました。」
あっけない。こんなものなのか。これが現実なのか。ふわふわしている。自分の目で確かめないことには、あの家がもう存在しないという事実を、受け入れることができそうにない。現実とは、ずしりと重い、向き合いたくない事実を、私たちに、突きつけてくる、普段はそう感じている。けれど、時に、現実は、息を吹きかけるだけで消えてしまう、ろうそくの炎のように儚く、信じられないぐらい、軽い。全く実感がないのだ。
2024年1月8日、この日を、「ミーニョとヒーチョの家」の命日としよう。思い出されるのは、都さんの命日、2018年12月8日。どちらも8日だから、月命日が同じ日になる。だから、都さんを偲ぶ時、自ずと「ミーニョとヒーチョの家」への追悼の気持ちがこみあげてくる。それは、いいことだろう。だが、しかし。ここから先、何を書いても、何度書いても、全く筆が進まない。書けなくなってしまった。
この連載が始まって以来、これだけ書けないのは初めてだ。あらゆる意味での不調は承知の上で、それでも引き受けると覚悟を決めたのだから、どんな無理をしてでも、書き続けなければならない。それは、わかっている。けれど、思考のエンジンが、全くかからない。「ミーニョとヒーチョの家」が取り壊されてしまったという「速報」を受けて、私の中で、何かがはじけ、身体のエンジンもろとも、脱力してしまったのかもしれない。
この苦境を脱するには、書けなくなった地点へ、戻ってみるしかない。どこで止まったのか。「思い出されるのは、都さんの命日、2018年12月8日。」、そう書いたことで、多様な記憶が一挙によみがえり、気持ちの整理がつかなくなったのだ。今でも鮮明に覚えている。うらわ美術館の山田志麻子さんから電話が入り、都さんが亡くなっていらしたことを知った。山田さんは、都さんの訃報を、宮崎県立美術館の小林美紀さんからお聞きしたとのことであった。都さんが亡くなられてから数ヶ月が経過した頃のことだった。
都さんが高齢であったことを思えば、いつか、その日が訪れてしまうことは、どこかで、覚悟していたように思う。それでも、当然のことながら、深い喪失感がやってくる、その只中で、譫言のような口調で、都さんが亡くなった日のことを、山田さんに聞いてみる。すると、その日付は、2018年12月8日とのことであった、瞬時に思う、ジョン・レノン...。そう、都さんが亡くなった12月8日は、ジョン・レノンの命日なのである。
1980年12月8日、速報
時空が巻き戻される、1980年12月8日。ジョン・レノンが射殺されたという速報が流れたのは、中学2年の時だった。私はビートルズを熱心に聴いた世代ではないが、ジョン・レノンの死を契機にビートルズをもう少し聴いてみる気になり、「洋楽」への興味が徐々に芽生え、いつしか、「ニュー・ウェイヴ」に耽溺するようになる。ニュー・オーダーを聴くようになったのはセカンド・アルバム『Power, Corruption& Lies』(1983)からであり、冒頭で紹介したシングル「Blue Monday」(1983)には衝撃を受けた。思えば、ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスが亡くなったのは1980年5月18日なのだから、亡くなった年はジョン・レノンと同じなのであった。
ジョン・レノンの死からさらに40年近く時間を巻き戻すと、1941年12月8日は、真珠湾攻撃が開始された日として記憶されている(日本時間の未明であるためハワイ時間では12月7日)。このように、歴史上重要な意味を持つ12月8日は、世界に衝撃を与えたジョン・レノンの射殺という事件が起きた日であり、また、私にとっては自宅の引越しという極めて個人的な出来事の日である。そして、都さんが亡くなった日が、12月8日であった、そのことを知った時の気持ちの揺れがよみがえり、執筆が止まった。ならば、ここで、思考のエンジンを再びかけるために、個人的な話を書くことを、ご容赦願いたい。
1983年12月8日、我が家は引越しだった。自分の荷物はそっちのけでリビングのステレオ・セットの配線を急ぐ。早く音楽が流れるようにしないと息がつまる、音楽のない家で過ごす時間を一刻も早く終わらせたい、そんな気持ちだったのだろう。マンションのバルコニーにFMアンテナを立て、向きを調整し、チューニングを試す。苦労の末にようやくFMラジオが受信できるようになった瞬間、スピーカーから流れてきたのは、ジョン・レノンの曲と、「ジョン・レノンが亡くなって、今日で3年です。」という声だった。ジョン・レノンの命日、12月8日は、私にとっては、自宅の引越しの日でもある。
都さんが亡くなったのは、その12月8日であったという。山田さんとの電話が続く中で、ジョン・レノンが亡くなったというニュースを聞いた日のことが、その3年後、引越し先の新居のリビングにジョン・レノンの曲が流れた日のことが、脳内を駆け巡り、瑛九が亡くなった後の長きにわたる都さんの人生に、深く気持ちを揺さぶられた。だから、その電話のことは、今でも鮮明に覚えている。だから、まもなくやってくる2月8日、すなわち、都さんの月命日であり、「ミーニョとヒーチョの家」の月命日である8日に思いを馳せて、都さんにまつわる記憶を、ここに記しておきたい。
1997年7月26日
1997年4月24日、私は初めて「ミーニョとヒーチョの家」を訪れた。この訪問は、この年の6月から埼玉県立近代美術館で開催される「光の化石」という企画展について、都さんにお話をするためであった。(この訪問のことと、この時に都さんがお話してくださったことについては、本連載の第5回をお読みください。)そして、同年6月14日、無事に「光の化石」が開幕を迎えた。都さんは、体調が良ければ内覧会に伺いますとおっしゃってくださったのだが、開幕当日、怪我をしてしまい、そちらには伺えなくなりましたと、ご連絡をいただいた。
そのため、都さんはしばらく入院生活を余儀なくされ、私は、都さんのお見舞いに行くことになった。これもまた、最初の訪問と同じく、埼玉近美の先輩学芸員である大久保静雄さんのアドバイスを受けて、そのようにしたのである。大久保さんは、今度はひとりで行ってはどうか、と私に告げ、ではそうしてみますと、私はその助言に従った。病院に連絡をして、お見舞いが可能かどうかを聞き、可能であるとの回答を得て、訪問が許されている曜日や時間帯を詳しく聞き、日程を検討した。だが、事前にお見舞いにいくことを都さんに伝える術がなく、病室にいらっしゃらなかったら、待つか、出直せばいい、そう考えて、病院に向かった。それが、1997年の7月26日のことだった。
ちなみに、「光の化石」の会期は1997年6月14日から7月27日までであり、7月26日は、閉幕の前日であった。展覧会が終了すると、撤去作業や返却作業などに追われることになり、しばらく動けなくなってしまう、そう考えて、この日になったのではないかと思われる。一度、都さんにお目にかかることができていたとはいえ、今回は、ひとりでの訪問であり、また、病院にお見舞いに伺うという状況でもあり、前回とはまた違う緊張感に襲われた。病院に到着し、病室を探し、病室の入口にかけられた名札を確認し、ああ、この部屋なのだなと、少しの安堵とかなり緊張がやってくる。
病室の扉は、少し開いていて、部屋に入らずとも、中の様子を、少しだけ、伺うことができた。人の気配がする、都さんの姿が見える、ああ、いらっしゃった、失礼のないように、そう思いながら、深呼吸して、ゆっくりと、扉の外から名前を名乗り、お見舞いにきましたと、お声がけしてみる。都さんは、少し驚いた様子で、「あら、まあ」とおっしゃり、部屋の中へと招いてくださった。ベッドで休んでいらしたわけではなく、ベッドの脇で、くつろいでいらしたご様子だった。
はっきりとした記憶があるのは、ここまでである。病室に入ってからの記憶はおぼろげで、ほとんど覚えていないのである。おそらく、緊張のあまり、記憶が飛んでいるではないかと思われる。4月24日の訪問は4名だったこともあり、私自身が都さんと会話を交わした時間はさほど長くなかったこともあり、周囲を見回したり、都さんのお話を記憶にとどめようとしたりすることが、まだ出来ていたのだと思う。しかし、この時は、ひとりでの訪問であり、その緊張から、病室での記憶がほとんどないのだと思われる。
ご挨拶をさしあげたのち、都さんが、「こんな姿はお見せしたくないのだけど」とお話されたことだけを、かろうじて、覚えている。お怪我のこと、ご体調のこと、入院生活のご苦労などをお聞きしたはずであるが、会話の内容は記憶できていない。お見舞いであるから、瑛九についての調査のようなことはお聞きしないようにと自重していたのは確かであり、長居しないようにとも気をつけていた。記憶が戻るのは、病室を後にして病院を出るという、その一連の行動からである。つまり、病室に入るまでと、病室を出てからの記憶はあり、本来は時間差のあるその記憶が結びついていて、病室で過ごした時間の記憶が、エア・ポケットのように抜け落ちている。人間の記憶とは、そんなものなかもしれない。
題不詳
まるでスローモーションのような遅々たる筆致で、どうにかここまで書き連ねてきた。12月8日という日付に折りたたまれた、いくつもの出来事に、導かれるように。そうして、氷がすこしずつ溶けるように、固まっていた思考が、ゆっくりほぐれはじめることを、自覚する。ようやく回り始めた思考が、再び止まってしまうことのないように、慎重に、これは、と思う瑛九の作品を、思い浮かべてみる。うまくいかなければ、別の作品を選んで、何度でも、試してみる。何度かそのような試みを繰り返した結果、ゆっくりと回転しはじめた思考の速度と、ぴたりと重なる作品を見つけることができた。

fig.1:《題不詳》 制作年不詳
傑作である。
いきなり、そのような価値判断を示してしまってよいのだろうかと思わないでもないが、そう書く根拠がある。というのは、今回、この作品を取り上げることを決めて、カタログ掲載の写真をじっくりと見て、また、展示を見た際に撮影した写真をじっくりと見て、この作品は「傑作である。」と確信した。まず、これがひとつ目の根拠である。
さらに、展示を見た日にカタログの余白に書き込んだメモにも、「傑作」と記されていたからだ。メモにそのように書き込んだことはすっかり忘れており、そのメモを読み返すことも、しばらくなかった。しかも、展示を見ながら書き込んだそのメモはひどく乱れた字で、自分で書いたにも関わらず、判読不能な箇所だらけである。そのため、判読不能な書き込みは特に気にせずにいたのだが、先日、もしかしたら、これは「傑作」と書いてあるのではないか、と気がついたのである。これが、ふたつ目の根拠である。
展示を見たときにも、今回の執筆のために図録や写真を見直したときにも、同じ「傑作」という言葉を、私はこの作品にあてている。展示を見たときに「傑作」というメモ書きをしたことは、すっかり忘れていた。にもかかわらず、時間差をおいて同じ作品のことを考えたときに、同じ「傑作」という言葉に逢着したのだから、それは、作品がそうであるとしか、思えないのである。これが、いきなり「傑作」と書く、三つ目の根拠である。
「第33回瑛九展・湯浅コレクション」の出品番号34番、《題不詳》(カタログ46頁)。制作年代も不詳であるため、作品に関する情報によって作品を同定することはできず、その画像をみていただくしかないのであるが、とにかく、素晴らしい。
では、より具体的に、作品へとアプローチしてみよう。光沢のあるプリントで、全体に少し黄色味を帯びている。画面全体の諧調がとても美しく、まるで、画面が空間に響いているようである。上から下にかけて、白く抜けた形が印画紙に定着されており、その輪郭から、植物の葉が用いられていることが確認できる。画面全体に、白く抜ける形をなす、葉がついたままの枝ぶりを確認できる。その枝は、画面の中央付近では、輪郭が比較的明瞭に定着されているため、印画紙に密着ないしそれに近い形で置かれている時に定着されたと推測できる。
しかし、画面の上の方では、白く抜けた形の輪郭は複雑な重なりを示しており、一枚一枚の葉の形を容易には確認できない。輪郭がブレたような形は、枝や葉が印画紙に密着していなかったこと、もしくは、光をあてている時に動きがあったことを、示している。葉の形が見えない白い領域は、枝や葉が重なって不透明となり、個別の形の光による転写が成り立っていないことを示しているように思われる。不透明さを増した、そのまとまりの、全体の形の輪郭が、おぼろげに、印画紙の上に出現しているのであろう。
白く抜かれた形には、枝や葉のリアルな感覚が反映されている箇所もあれば、モチーフの具体的な形状を視認できない箇所もあるが、この白い形状が、この作品のベースとなる構図を形成していることは確かである。このような特徴をとらえるために、ここで、参考となる作品を、一点、紹介しておきたい。
「光の化石」という仮説

fig.2:《作品(23)》 制作年不詳
植物の葉を用いた《作品(23)》は、「光の化石」という展覧会を企画する原点となった作品である。印画紙に定着された植物は、まるで化石のようであり、そこから、タルボットによる植物の葉のフォトジェニック・ドローイングを想起したのであり、さらに、タルボットの作品から、植物の葉の化石を想起したのである。以下、「光の化石」のカタログのために、この作品をふまえて書いた「「光の化石」という仮説」という文章から、後半部分を引用しておきたい。
「白が強く、輪郭がはっきりしている部分は、印画紙に密着するか、印画紙との距離が近い部分であり、ぼやけて白が弱い部分は、印画紙との距離がより離れている部分である。素材の葉は、薄っぺらな一枚の葉ではなく、枝わかれし、立体的なふくらみを持っているので、このような効果があらわれてくる。つまり、印画紙の上にこの葉を置き、これを上から見ると、ぼやけている部分のほうが、眼に近いことになる。
実際、この画面を見て、どのような印象を受けるだろうか。ぼやけた部分は、画面の奥の方、つまり、この作品を見ている眼から、より遠くにあるようには見えないだろうか。そうだとすると、これはあたかも、印画紙の裏側から見ているかのようである。印画紙から離れたほうが、眼から離れていくからだろうか。寝そべって上を見上げるような感じ、あるいは、水中から水面を見るような感じだろうか。」[1]
本連載ですでに述べているように、瑛九のフォト・デッサンは、引き算をすることによって、その原理を明らかにすることができる。なぜなら、瑛九のフォト・デッサンは、複数の技法を組み合わせて制作されることが多いため、複雑な構図と豊かな諧調を湛えた完成作品から技法を探ることが難しいからである。だからこそ、参照作品として紹介した、一般的なフォトグラムの原理に依拠する方法で制作された《作品(23)》は、「湯浅コレクション」の《題不詳》を見る上で、多くの示唆を与えてくれるのである。
《題不詳》は、植物の葉を印画紙の上に置いて光で感光させ、その像を印画紙に定着する原理においては、《作品(23)》と共通している。その上で、おそらく懐中電灯によると思われる黒い線や、帯状のモチーフを用いたと推測される円環状の形が加わり、より複雑で豊かな構図と諧調が生みだされているのである。このふたつの要素は、それぞれに重要な特徴を湛えており、その点については、また、別な作品を取り上げる機会に、もう少し掘り下げてみたいと考えている。
純粋可視性
最後に、《題不詳》が傑作であると言い切る、その価値判断が、どこからやってくるのかを、私自身の感覚とは別の観点からも、示しておきたい。この作品が「傑作である」という感覚は、この作品を「見ること」に由来する。より正確にいえば、その価値判断は、「見るために見ること」から、やってくる。その根拠となるコンラート・フィードラーの「純粋可視性」について、以下に、重要な論述を引用しておく。
「ところでいま、われわれは意識の力を視覚に集中しようとして見よう。すなわち、われわれが見るものを他の感覚の対象とせず、もちろんのことだが、とくにそれが手でつかみ得るかどうかを確かめようとせず、また、それがわれわれの感情生活に影響を及ぼすことがないようにし、さらに最後に、それを命名したり、概念として把握しないように全力をつくして見よう。(中略)われわれは通常、眼が提供するいっさいの現実素材を、眼それ自身のために手に入れようとせず、他の領域の心的ならびに精神的な生活へと持ちこむことに慣れきっている。しかしながらこの習慣にあえて抵抗して、われわれが自分の視覚活動を孤立させ、この活動によっていわば意識のおりおりの空間を完全に満たすことができるならば、そのときはじめてこの世界の事物は、本当の意味で可視的な現象として、われわれに対峙することになるであろう。」[2]
フィードラーは、ここで、論理的な思考を展開し、極めて説得力に富む、視覚芸術の「原理」を説いている。ここに、瑛九の《題不詳》が傑作である根拠を、見いだすことができる。なぜなら、この作品は、この論述の最後の方に記されている「意識のおりおりの空間を完全に満たす」ことを可能にしてくれる「本当の意味での可視的な対象」として、私の目の前に出現しているからである。いや、それどころではない、「意識のおりおりの空間を完全に満たす」この作品は、私の知覚と認識の許容範囲を凌駕してゆく。
その感覚に追いつこうとする私の知覚と認識は、この作品を見続けることによって、内側から拡張されてゆくのである。そのことを自覚しながら見る経験は、なにものにもかえがたい、特別な、まさしく芸術体験としか形容できない出来事である。「見るために見ること」は、「見ること」の能力を鍛え、「見ること」の可能性を押し広げてゆく。それこそが、「見るために見ること」であり、そのような「純粋可視性」にこそ、芸術体験によってもたらされるスリリングな魅力が潜んでいる。
そのような体験を誘う作品との出会いは、稀有な出来事である。だからこそ、そのような体験をもたらしてくれる作品を含む「湯浅コレクション」は、瑛九のフォト・デッサンの総体に対して、傑出した質の高さによって、私たちを魅了してやまないのである。
Remember, Life is strange...
作品の魅力に導かれて、私の思考に、ドライブ感が戻ってきた。けれど、安堵感はなく、山積したままの難題を前に徒労感が募る。難局を切り抜けない限り、その先はない、だから、この回を終えることに、いまは感謝したい。そして、私の耳をとらえるのは、ニュー・オーダーの「Procession」(1981)の一節、Remember, Life is strange...「覚えておくがいい、人生とは奇妙なものだ」。まさにそのとおり、12月8日という日付には、日本と世界の歴史が、イギリスとアメリカと世界の音楽の歴史が、私の家族と私の歴史が、そして、瑛九と都さんの歴史が、幾重にも折りたたまれている。その幾重にも折りたたまれた、階層の異なる複数の歴史が、奇妙な夢へと私を誘う。
「ミーニョとヒーチョの家」で、都さんが、漬物と一緒にミル・フィーユを出してくださるのだが、そのミル・フィーユに驚愕する。天井を突き抜けて空まで届くような高さ、一年に一枚ずつ層が厚くなる、「12月8日」という名のミル・フィーユ。期待するほど甘くはないけれど、きっと、人生と同じくらい奇妙な味に違いない。文字通りの「ミル・フィーユ=1000枚の葉」を超える層の厚みがもたらす圧倒的な食感を想像する。気がつくと、この家で行われた瑛九の葬儀で流れていたシェーンベルクが、ニュー・オーダーの「Blue Monday」や「Procession」と重なるように聴こえてくる。そんな夢想とともに、私の思考にドライブ感を取り戻してくれた瑛九の作品に感謝したい。今回紹介した作品は、光によって印画紙に転写された「葉」が主役なのだから。
図版出典
fig.1:「第33回瑛九展 湯浅コレクション」より
fig.2:『光の化石-瑛九とフォトグラムの世界』埼玉県立近代美術館、1997年
引用出典
[1]拙稿「「光の化石」という仮説」『光の化石-瑛九とフォトグラムの世界』埼玉県立近代美術館、1997年、16頁。
[2]コンラート・フィードラー(訳:山崎正和・物部晃二)『藝術活動の根源』(責任編集:山崎正和『近代の藝術論』に所収)、中央公論社、1979年、102-103頁。
(うめづ げん)
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」。次回更新は2024年4月24日を予定しています。どうぞお楽しみに。
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《二人》1952年
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ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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