池田満寿夫『私の調書』を巡って

中尾美穂


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池田満寿夫著『私の調書・私の技法』(美術出版社「美術選書」シリーズ、1976年)
表紙は《ブダペストからの自画像》リトグラフ、1968年


第一章 絵画以前
 一九六七年十一月九日(水)。十一月五日私はスイスのサン・ガレンからミラノへやってきた。(中略)ギャラリー・イム・エイカーの経営するリトグラフ工房で約五週間で約7種類のリトグラフを制作した。そして滞在中の二十八日からそのギャラリーで新作を含めた私の個展がオープンしている。これは私の予定にはなかったことだった。
「私の調書」『私の調書・私の技法』第一章より

池田満寿夫(1934-1997)の単行本『私の調書・私の技法』に収められた自叙伝「私の調書」は、彼の初めてのエッセイである。美術出版社の『美術手帖』で、1968年1月号から12月号まで連載された。自叙伝といっても、まだ33歳。異例の企画である。1966年6月に「第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ」版画部門大賞に輝き、押しも押されもせぬ版画界のスターではあった。長期のアメリカ滞在後に一時帰国し、翌1967年4月、今度はドイツのベルリンへ1年間留学。ところがクラシカルな美術状況に満足できず、東西ヨーロッパ各地の版画工房を転々とする。スイスのサン・ガレン(ザンクト・ガレン)やイタリアのミラノでも制作した。冒頭の書き出しのとおりである。

さまざまな版画のなかでも銅版画、それも銅板に直刻するドライポイント技法で高い評価を受けた池田だが、アメリカのタマリンド・リトグラフィ・ワークショップでの集中制作を機に再びリトグラフに挑み、サン・ガレンでは黒いガーターベルトやハイヒールをモチーフに挑発的な表現を始める。従来の幼児性を帯びた軽妙なエロティシズムからの唐突な逸脱。しかし池田のよき理解者であり、奨学金を手配してベルリンへ呼び寄せた美術評論家のヴィル・グローマンを筆頭に、むしろ期待をもって受け入れられた。それどころか1970年代前半の版画ブームを先導し、ますます多様な愛好者を獲得するのである。

作品同様、池田の文章も強い吸引力があった。現在と過去を目まぐるしく行き来しながら、気鋭のアーティストらしい近況と非凡な半生の明暗を赤裸々に語る「私の調書」は、連載中に文庫化が決まり、準備が進むほどの人気だった。連載直後に同社から文庫で刊行され、のちに単行本化。没後の2005年には、新風舎から文庫の復刻版が出た。

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池田満寿夫『私の調書』(新風舎文庫、2005年)

ちなみに単行本は「プリント・アート」誌で連載していた「私の技法」を併録しているため、タイトルが異なる。「私の技法」は架空の生意気な学生相手に嫌々講義するという設定の版画技法解説で、これを技法の自伝として併録したのは池田のアイディアである。

「私の調書」でわかるのは、創作のそもそもの原点が、旧満洲の奉天で生まれて中国の張家口で過ごした幼少期の早熟さや、終戦直後に両親の故郷である長野市に引き揚げ、教師や学友の影響で芽生えた画家への強い憧れにあること。高校卒業後の長い浪人生活と挫折、堀内康司・靉嘔・真鍋博とのグループ「実在者」結成と解散、結婚と別離、瑛九久保貞次郎らとの出会いによって、偶然・必然的に開けた版画家への道を一心にたどってきたことなどである。

 いつまでもうだつのあがらない仕事をしていた男が、ある時不意に飛躍をとげる不思議を、私は自分の経験から信じるようになった。
 たまたま私の場合、その飛躍と幸運とが一致したので、自分でも<意識的に>その飛躍を実感できたにすぎないのである。(中略)
 まず芸術家はなによりも自分の作品に対して、襲いかかる新しい現実に対して、正確で勇敢な目を持たねばならない。

「私の調書」『私の調書・私の技法』第九章より

1957年に国内初の国際版画展「東京国際版画ビエンナーレ展」第1回展で初入選し、1960年の第2回展から64年の第4回展にかけて連続受賞、他の国際版画展でも受賞を重ねる快挙。好事家向けの稀覯本である豆本制作や装丁・カットの手仕事。文学者・詩人ら異ジャンルの人々との交流。小説家になる前は新進の詩人で、池田の飛躍の時期のパートナーであり、彼にとって「批評家の眼」だった富岡多恵子、次いで渡米後に知り合った画家のリランとの恋――。記憶違い(出生地の住所や日本橋画廊の紹介者など)や、公にできない事情についての言い換えが多いものの、唯一無二の証言である。ただし、自身によれば「このような自伝は一度書けば充分」で、1977年の芥川賞受賞時に発表した「自作年譜」を除き、本格的な回想記を残していない。もっとも著書は数多く、澁澤龍彦をモデルに構想したという未完の小説『時の乳房』(角川書店、1997年)などは、第二の自叙伝に近づくのかもしれなかったが、わからない。

そんな「私の調書」の背景を知るための、格好の指南書がある。宮澤壯佳著『池田満寿夫―流転の調書』(玲風書房、2003年)である。新風舎版『私の調書』所収の「解説にかえて」も同氏による。宮澤氏は「私の調書」の連載を依頼した元・編集者であり、美術出版社では『みづゑ』『美術手帖』の編集長、取締役、顧問を歴任し、池田のカタログ・レゾネを含む多作家の画集や評論集の企画・編集を手がけた。退任後は池田の推薦で長野県長野市松代町にあった池田満寿夫美術館の準備室長を経て、開館の1997年から2005年まで常任館長を務めた。宮澤氏の戦後現代美術に関する知識や蔵書は相当なもので稀覯本を含み、池田の唯一の個人美術館としての専門的な機能に不可欠だった。また靉嘔、加藤郁乎、澁澤龍彦、瀧口修造、富岡多恵子をはじめ、「私の調書」に登場する池田の交友録をよく知っていた。実際、その一人であり、先ごろ訪問した依子夫人によれば、美術作家や評論家からは自宅への電話や手紙も頻繁で、長年親しく、急な来訪や宿泊もあったという。宮澤氏は『池田満寿夫―流転の調書』刊行ののちも、館員も一緒に蒐集した資料も加えてさらなる池田の評伝ノートの作成を始めた。池田以外の作家との交流を含めた自身の自伝のようなもの、と聞いた記憶がある。闘病生活ののち、亡くなられて幻の本となってしまった。残念に思う。

(なかお みほ)

中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。

●本日のお勧め作品は池田満寿夫です。
ikeda_15 (1)《戸口へ急ぐ貴婦人たち》
1963年
ドライポイント、ルーレット
イメージサイズ:36.0×33.5cm
A.P.(Ed.20)
サインあり
※レゾネNo.260
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