02月25日(土) 10時51分11秒
ときの忘れものの掲示板にHさんから「コレクションとは何ぞ哉」と題して以下のような投稿がありました(明らかな変換ミスは訂正しました)。
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先日雨の中久しぶりに東京都現代美術館へ行きました。昨年は、震災を始め個人的にも思いがけない事、思い通りにならない事があるつらい年でした。また長年のコレクションを見回し、特定作家の一大コレクションでもなく、その時の流行作家を買ってしまったこと、苦労して買った作品が10分1の価格になど本当にこれでよかったのか、またこれからもこんな事でよいのかとも思っていました。コレクションはタダになってもいい好きな物を買え、他人の目なんか気にするな、値段や価格の上昇なんか考えるな、これは王道だし頭では分かっているのでしょうが、人間様々な欲望のかたまり無理だと思います。
さて、美術館では靉嘔さんの展覧会をみたかったのです。磯辺さんの個展から5年ぶりに訪れました。
初期から新作まで、見応えありました。とかく虹の作家として版画のみよく知られていますが、その思想や絵画作品に知られていない姿をみました。会場を見ていくと、出品されていたドローイングの1点があり、私がコレクションしているものと同一シリーズでした。私も貴重な1点を持つことができていたのか、ミュージアムピースだとよかった、よかったと心で自分に言い聞かせていました。さらにブログでオープニングの様子を亭主様が書かれていましたが、画商あるいは作家を支えた人にとって靉嘔さんが最高の贈り物をしていたことを発見しました。良い作家は必ず画商やコレクターを大切にするものです。未来永劫に残るすばらしい贈り物です。靉嘔さんは粋だ。

常設を見て、駒井さんや福島さんの仕事を見ました。特に福島さんは興味があり、初見ですが良い仕事でした。近美にも常設で展示ふれる事が多くになりもっと評価されていいいのにと思っています。そして最後のコーナーは秋山祐徳太子、この知事選のポスターもコレクションしているのですが、近美に続き現代美術館でも出会えるとは。赤瀬川さんの千円札に匹敵する世界でも通用する作品ではないでしょうか。今回の当時の映像とともに世界の美術館へ売り込みにいく画商はいないのか。
ひととおり見終わり、コレクターは単純なので(私だけかもしれないが)自分の持っている作品が美術館で展示されていると間違ってはいなかったと考えました。もちろん美術館が収蔵しまいが、他のコレクターの目も、時代に流されず、駒井一筋、エイキュウの油彩、フォトデッサン一筋で私もいきたい。しかし眼と欲望で雑多のコレクションになってしまう、つきあい、小遣いを節約し買ったコレクションを
が自慢できるものになっているのか(これも邪道ですね)、その作家の回顧展の時に貸し出しを求められる作品を持ってみたい(これも邪道)、等々考えるといったい何のためのコレクションなんだと原点に回帰を求められます。

コレクションなんて他人の才能を集めているだけではないか、金さえあれば誰でもできると思ったときもありました。しかしそれに対しては数多くの作品が手元に集まった時、これは自己表現の一つだ、どんなに安いかったから、画商が薦めたから、将来値上がりしそうだから、単に作品好きだから、単に作家が好きだからだとしてもここに集められたものは私以外は集めることが出来なかったコレクションだと考えた時にそれは自己満足(そうです自己満足です)で解決しました。とりとめもなくぐだぐだと掲示板を汚してしまいすみません。
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Hさん、ご投稿ありがとう。
先日も<素人プリント>さんから「WEEGEEのヴィンテージ小品」という投稿をいただいたばかりですが、実際に身銭を切って集めておられるコレクターの方の言葉には真実がこもっています。
下手な評論家の言葉よりどれほど作家の評価を支えていることか。
直ぐにお返事をと思ったのですが、ちょうどメカス展の最終日で、年に一度あるかどうかの盛況ぶりでキーボードをたたくひまもありませんでした。

Hさん、作家の評価を確定するのは間違いなくコレクターです。
「コレクションは第二の創造だ」といわれますが、最近の例でいえば福原義春さんの駒井哲郎コレクションは「白と黒の造形」という呪文から駒井哲郎像をひっくり返し、比類なき色彩画家としての一面を持っていたことを鮮やかに証明してみせました。
いまや美術の教科書にモノクロではなくモノタイプの色彩作品が掲載されるまでにいたりました。
20代のころからサラリーマンコレクターとしてこつこつと駒井哲郎を集め続けた福原さんの執念とでもよぶべきコレクションへの情熱には頭がさがります。

---画商あるいは作家を支えた人にとって靉嘔さんが最高の贈り物をしていたことを発見しました。良い作家は必ず画商やコレクターを大切にするものです。未来永劫に残るすばらしい贈り物です。靉嘔さんは粋だ。---

Hさん、靉嘔先生が社長にあてた素晴らしい贈り物を見つけてくださったのですね。
展覧会をご覧になっていない方は何のこっちゃとお思いでしょうが、地階の最後の部屋(大会場に新作ばかりがずらり並ぶ)の中央あたりに、「マイ・いっくに・フレンズ」(My 192 Friends)という2011年の大作が展示されています。
ジョン・ケージはじめデモクラートフルクサスのメンバーなど文字通り、靉嘔先生の80年間に出会った192組の友人達の名前が画面のあちこちに書き込まれています。
その末席に「Reiko IKEDA」という名があります(刺身のツマで亭主の名前も付属していますが)。
現姓・綿貫ではなく、当時のイケダ君を覚えていて旧姓をちゃんと書いてくださるところに靉嘔先生の人との出会いを忘れぬ優しさがあらわれています。
イケダ君は18歳で久保貞次郎親衛隊長になり、南画廊のオープニングで靉嘔先生に初めて会って以来、お小遣いでこつこつと靉嘔作品を集め続けました。
AY-O歴、コレクター歴は亭主よりはるかに古い。
まさに小(女)コレクターでした。

社長のことはさておき、192組の中に堀内康司さんのお名前もありました。
会場地階へのエスカレーターをおりたところに展示ケースがあり、その中に靉嘔先生の最初期のグループ展「実在者」の出品目録が展示されています。
1955年、池田満寿夫、靉嘔、真鍋博、堀内康司の4人が「実在者」というグル-プを結成し、福島繁太郎のフォルム画廊で展覧会を開きます。因みに真鍋博さんは星新一のSFのイラストで有名ですね。
この今や歴史的なグループ展の仕掛け人が堀内康司さんでした。
優れた作家というのは単独で世に出てくることはないというのが亭主の独断です。
天才は天才を呼ぶ。
しかし、消えていってしまう人も少なくない。
いま堀内さんのお名前を知る人はそう多くはないでしょう。
堀内さんは昨秋、お亡くなりになりました。
先日のオープニングに出席された堀内夫人は、靉嘔先生の作品の中にご主人の名が隠されていることなどご存知なく、亭主が作品の前にご案内して、お知らせしたのでした。
きっと何よりの供養になったと思います。

「マイ・いっくに・フレンズ」だけではありません、今回の大回顧展のいたるところに靉嘔先生を支えた人たちとの友情の痕跡が隠されています。
《バーナー》(2012)という作品の素材は文字通り「知人たちの衣類」。
アトリウムの大空間に飾られている帽子は、昨秋亡くなられた福井県大野の堀栄治さんがかぶっていたものです。
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靉嘔「マイ・いっくに・フレンズ」


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靉嘔 ふたたび虹のかなたに
東京都現代美術館
2012年2月4日~5月6日
靉嘔(あいおう、1931年生まれ)は、あらゆるものを赤橙黄緑青紫の虹のスペクトルでおおう「虹の画家」として知られます。また、国際的な前衛美術運動である「フルクサス」に参加し、日常の行為や物を素材に、匂いや触覚など五感で体感するアートを追究してきました。本展では、観客参加型の大規模なインスタレーションと30mにおよぶ新作絵画を中心に、油彩、版画、パフォーマンスの記録と再現などでその足跡をたどります。

靉嘔先生はこの回顧展のために毎週日曜日に美術館に来られてあるパフォーマンスを繰り広げています。
詳しくは同美術館のスタッフのブログをお読みください。

Hさん、作家や画商はコレクターあってこそ、日々を送れます。
決して金額の多寡や、数ではありません。
迷いつつコレクターが発する「いい」の一言が、作家を勇気づけ鼓舞します。
画商はコレクターの言葉によって支えられ、安堵します。
めまぐるしく変わる流行に翻弄されながら、しかし画商は己の信ずる作家、作品を身が細る思い(ああ、もう直ぐ月末だ)をしながら売っているのです。
またどうぞ画廊にいらしてください。お待ちしています。

2月のWEB展は「靉嘔展」です。
東京都現代美術館で靉嘔先生の初期から最新作までの大回顧展「靉嘔 再び虹のかなたに」が始まりました。
会期=2012年2月4日(土) ~ 5月6日(日)