森下泰輔のエッセイ

「私のAndy Warhol体験 - その3 情報環境へ」


 アンディ・ウォーホルのアーカイブ「タイム・カプセル」という考え方だが、私はこれは彼の芸術観の根本をなす作品行為の一部に位置付けたい。マルセル・デュシャンはレディメイドという考え方を美術史に持ち込んだが、ウォーホルに関してもレディメイド・イメージというあり方を美術史に持ち込んでいたと思う。やや先行するジャスパー・ジョーンズ「星条旗」「標的」もそうだが、アンディがやったのは、ジョーンズとは少し違い単に記号論の再解釈ではなく、「レディメイドとしての情報」だったわけで、その既存の情報をリアルタイムに受容していった写真や本などの資料が保管されているもの、それが「タイム・カプセル」である。 
 アンディ・ウォーホルの繰り返しの技法に関して、草間彌生は自らに発しているという。「集積 : 1000ボートショー」(1963 ガートルード・スタイン画廊)で草間は、ボートに男根のオブジェを施した作品を写真製版したものをギャラリーの壁にはりめぐらし、中央にそのボートがあるというインスタレーションをニューヨークで行った。その際、アンディがやってきて、「おう、ヤヨイ、これすごいね」といったという。 その前年に行ったグリーン・ギャラリーのグループショーでも倉庫にあった自分の「エアメイル・ステッカー」のシリーズを彼は見ており、その繰り返しの技法のヒントにしたというのが彼女の主張である。こうしたことが、後の「牛の壁紙」の提示に影響を与えたことはありうる。が、繰り返しに関しては、「ニュー・リアリスツ展」(1962 シドニー・ジャニス・ギャラリー)にはすでに「200個のキャンベル・スープ缶」が出品されていたし、同年のフェラス・ギャラリーでもスープの繰り返しが登場していたので、ほぼ同時期の展開だったといえる。資本主義的なポップの概念上で繰り返し、量の問題に言及するウォーホルの概念と、自我の無限の拡張を意図した草間の作品観とはだいぶ違う。この件に関して最近知ったことだが、1956年に京都を訪ねた際、蓮華王院「三十三間堂」に寄っていることが判明した。かねがね、映画「エンパイア」は、そのとき行った「龍安寺石庭」で、静寂を人々が味わっている姿を見てひらめいたと自身が語っていたといわれたが、黄金色に輝く千手観音立像1000体のレピテーションがのちに影響を与えたのではないかとも思う。そうしたさまざまな要因からウォーホルは独自の考え方のもとで彼の繰り返し技法を編み出したといえると思う。
環境芸術に関して、「空間から環境へ」(1966・11月、銀座・松屋)。「トリックス・アンド・ヴィジョン」(1968、東京画廊)、「エロクトロマジカ」(同年、銀座・ソニービル)などが開催され、70年万博へとアートがなだれ込んでいたあの時代、ベンヤミン「複製技術時代の芸術」(1936)はさすがにすでに古典であったが、ブーアスティン「幻影の時代」(1962)など虚像の増殖が情報環境へのシフトとして起こっていたが、決定的な思想がマーシャル・マクルーハンであった。実際マクルーハンはブーアスティンの考えをリニア(線的)な古典的な分析と批判していた。これらを増幅した論がジャン・ボードリヤールだろう。ボードリヤールは、「機械的スノビズム」(1990)の中でウォーホルを論じ、「何もない」と前提として述べている。つまり彼は「幻影の原光景」だと。
アンディ・ウォーホルが一時的に画家廃業宣言をして映画に専念するようになりロックバンドと組んで「EPI」をはじめたのは1965年暮れだったので、やはり環境芸術・マルチメディアへの表現の拡張においても日本よりも数年早かったわけだ。実際、マクルーハン「メディアはマッサージ」(1967)にはマクルーハン的なるものとしてEPIの映像がそのまま使用されている。日本の環境芸術はあまりにテクノロジカルでむしろ造形的にはデザインに見えたが、アンディが行ったことはよりラフだった。事実、抽象表現主義からネオダダを経てポップにいたる過程においても、基本ハイアートはラフであるべきで、アンディはさすがにそこはきちんと守っているのだ。
 日本において、ポップも大きく関係する東野芳明、宮川淳の「反芸術論争」(1964年4月~7月)、あるいは高階秀爾との「ポップアート」論争(1964年4月~6月)があったにせよ、ウォーホルや本場ニューヨークからはその論争に対する返答はなかった。60年代には情報環境がすでにグローバルに拡張をし始めており、10代の私は東京にいた。新世代の僕らはアメリカからの美術情報と国内事情を十全に理解した上で認識をすでに使い分けていたのだ。そうでなくともウォーホルの哲学は探せば日本のそこここにすでに偏在していた。マリリンやスープ缶のポスターはあちこちに存在した。60年代中期、東京の先端的な一部の10代の若者はビートルズとウォーホルだった。少なくともアンディ・ウォーホルは美術館やギャラリー、美術評論よりも先に"複製の複製"として巷に蔓延したのである。これは偶然ではなく、また単なる商業主義でもなくポップの司祭が巧妙に現象を制御した結果だ。確かにはじめにウォーホルはアートをポップミュージック同様、世界中で現象化させていたのである。彼の概念、安価な誰でも所有できるアート、のコンセプト通りに。この点は強調しておきたい。ゆえにニューヨークの「ポープ・オブ・ザ・ポップアート(ポップの法王)」は私たちの身近な動向でもありえたのだ。こんなことは後にも先にもこのときしかない。そもそも芸術史を国単位の閉鎖領域で捉える思考は半世紀前の当時においてさえ古びたものに思え、だからこそ後にハラルド・ゼーマンはヴェネチア・ビエンナーレにおいて国別展示を超えた"アペルト・オールオーバー"を唱えたのではなかったか。
60年代には日本で彼の影響が顕著なものとして、田名網敬一・原榮三郎「虚像未来図鑑」(1969)や松本俊夫の映画「薔薇の葬列」(1969 ※74年ウォーホル来日時に松本は「アンディ・ウォーホル=複々製」という映像作品を制作した)があげられる。ことに後者はスーザン・ソンタグが提唱した「キャンプ」という概念によっており、キャンプはウォーホルを語る上でもひとつのキーワードになっていた。とりわけ65年以降、実験映画にますますはまっていった彼の憧れの対象だったのが「燃え上がる生物」で著名なジャック・スミスで、彼の映画はキャンプの代名詞とされた。スミスがアンダーグラウンドの怪優たちを起用したのもキャンプの特徴だった。ウォーホルは「アンディ・ウォーホルがジャック・スミスの[ノーマル・ラブ]を撮影する」(1963)という後にわいせつ罪容疑で当局に押収されるといった映像作品すらも残している。
 1970年の大阪万博のアメリカ館にウォーホル「レイン・マシン」が出品されていたが、日本のジャーナリズムはデイジー(ひな菊)のレンチキュラー板を並べた、この雨降りの機械にはほとんどふれていない。それどころか、この作品は、「失敗作」、「アンディはスランプだ」とまでいわれたのだ。この3月1日から森美術館の展望台のラウンジ「ウォーホル・カフェ」に再制作されたものが展示されている。当時、私は急進的な作品だと思ったが。ニューヨークでは、68年に32口径オートマチックでヴァレリー・ソラナスに撃たれるまででアンディ芸術は終わったとすらいわれていた。これに関して自らは「僕があのとき死んでいたら、僕はいっそう伝説となっていただろう」(POPism: The Warhol Sixtiesより)というような皮肉な述懐をおこなっている。ギャラリー展示ということからいえばヘリウムの「銀の雲」と牛の壁紙のみで個展を開催した、66年のレオ・キャステリ以降、実験映画に耽溺し確かにこれといった平面作品はないように見えたが、実際はすでに環境のほうへ彼の頭脳は拡張していたのだろう。

「アートの次に商売の術(ビジネス・アート)が来る。(中略) ぼくが芸術(アート)というやつ。まあ、どう言ってもいいけど、それをした後商売の術(ビジネス・アート)に進んだ。」
(アンディ・ウォーホル「ぼくの哲学」落石八月月・訳 新潮社刊 1998 p126 原書: The Philosophy of Andy Warhol From A to B & Back Again 1975)


 さて、60年代、ウォーホルの個展は日本では皆無だったわけだが、日本で初めてアンディ・ウォーホルの個展が行われたのは、71年の渋谷・西武百貨店のギャラリーでだった。このときは版画のみの展示であった。ウォーホルの言葉通りならすでに彼はビジネス・アーティストを始めていたのだ。1969年秋には「Interviewマガジン」も創刊して、実際にジャーナリスティックなビジネスもはじめている。その後、73年に岩城義孝という後に狛江市長選に立候補することになる人物がオーナーだった新宿の「マットグロッソ」でも版画の個展が開催されたが、代表作「マリリン」が10数万(※現在は1000万前後)で、それでも売れなかった。私はといえば70年に武蔵野美術大学に入学したものの、同年は安保の年で、学内はバリケード封鎖されまともな授業は行われなかった。絵具のかわりに音で描くという思いでアートロックバンド「Yellow(黄色人種)」をバリケード内の自主芸術祭「反安保芸術祭」で結成。フルボリュームの爆音で電気ギターをいじりはじめた。72年には故・間章が開催した伝説のコンサート「自由空間・新潟現代音楽祭」(新潟市体育館)で公式デビュー。NHKテレビの全国放送にも出演した。また、ムサビ内でロックコンサート「ZEROCK」を企画・主催、裸のラリーズとのバトル・ライブも行っていた。当時、マットグロッソでライブ・サウンド・パフォーマンスを行ったこともあった。絶滅していく鯨に関したもので、鯨の鳴き声をミュージック・コンクレートで表現したものだった。ウォーホルへの言及的作品としては、「コピーの連続によって飽和していく自画像」(1975)がある。ゼロックスコピーを繰り返すことで何回目かでイメージが変化しない一定のレベルに到達することに関する実験であった。
 73年になると美術手帖は増刊でウォーホル特別号(11月)を出し、美術評論家の石崎浩一郎や清水俊彦、日向あき子、山口勝弘、横尾忠則らが論評や意見を寄せていた。「美術手帖」は1969年2月号「ウォーホル あるいは、何モシナイデ有名ニナル方法 明日を開く芸術家1(東野芳明)」でウォーホルを扱っていたが、これが日本において初めて現代美術家ウォーホルをまともに取り上げた最初だっただろう。現在の美術におけるアンディ・ウォーホルの解釈というものはこのあたりにすべて母体がある。だが、この時期、特筆すべきウォーホル論は藤枝晃雄が書いた「大衆文化の神話」(美術手帖1974年12月号掲載)で、藤枝はここでとくにデュシャンとの関係性と差異、ポロックとの関係と違いなどを強力に主張している。この時期にウォーホルがポップのデュシャンだという考えが形成された。筆者が冒頭で述べたレディメイドなイメージの問題がここで発生している。そして1974年、アンディ・ウォーホルは大丸の大規模な個展のために来日することになるのである。

「ある男がいて、50個のキャンベル・スープをキャンヴァスに描いたとする。そのとき問題なのは網膜に映るイメージではなくて、50個描かざるを得なかった男のコンセプトなのだ。」
(マルセル・デュシャン Samuel A. Green : Andy Warhol [ The New Art ]のなかの引用より )


 75年、音楽評論家の渋谷陽一と親密になった私は、彼のラジオ番組「若いこだま」(NHK)に元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードがゲスト出演することを聞き、質問を用意した。アンディ・ウォーホルにも関連した質問であった。

 Q「東京はプラスティックな街だと思うか?」
 A「ニューヨークよりもか?」(ルー・リード)

 かつて、芸術家としてサバイバルするこつを聞かれたウォーホルは、こういった。
「しかるべき時に、しかるべき場所にいること」と。アンディ・ウォーホルとは、"60年代""NY"が生んだまさにプラスティックなスーパー・アーティストなのであった。(敬称略)

続く
もりしたたいすけ

EPI
マーシャル・マクルーハン「The Medium is the Massage: An Inventory of Effects」 (1967) より。EPI(エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル)。「歴史は繰り返し語られる、機械的に並べられたしきたり通りの言葉」とのテキストがある。筆者蔵

創刊号
Interview 創刊号 表紙(1969)筆者蔵

キャンベルドロー
ウォーホルのドローイングのある「The Philosophy of Andy Warhol (From A to B & Back Again)」扉(1975)筆者蔵

自画像
森下泰輔「コピーの連続によって飽和していく自画像」1975 紙にゼロックスコピー 29.7×168cm

きゃんべるどれす
Souper Dress 1966 ペーパードレス サイズ可変(ウォーホルのキャンベル・スープ作品が評判を呼びキャンベル・スープ社がノベルティとして制作したもの。現在ではウォーホルのアート作品として取引されている。60年代特有のAラインのドレスである。アンディ・ウォーホルのアートというものが社会現象だったことの一例)model: 近藤智美 筆者蔵

森下泰輔「私の Andy Warhol 体験」
第1回 60年代
第2回 栗山豊のこと
第3回 情報環境へ
第4回 大丸個展、1974年
第5回 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで
第6回 A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。

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■ときの忘れものは2014年3月12日[水]―3月29日[土]「瀧口修造展 II」開催しています(※会期中無休)。
201403
今回は「瀧口修造展 Ⅰ」では展示しなかったデカルコマニー30点をご覧いただきます。

●出品作品を順次ご紹介します。
052瀧口修造
《Ⅱ-22》
デカルコマニー、紙
※Ⅱ-23と対
Image size: 15.5x9.3cm
Sheet size: 25.7x19.0cm

053瀧口修造
《Ⅱ-23》
デカルコマニー、紙
※Ⅱ-22と対
Image size: 15.5x10.5cm
Sheet size: 27.0x19.3cm

056瀧口修造
《Ⅱ-24》
デカルコマニー、紙
Image size: 20.4x13.7cm
Sheet size: 20.4x13.7cm

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このブログでは関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。


カタログのご案内
表紙『瀧口修造展 I』図録
2013年
ときの忘れもの 発行
図版:44点
英文併記
21.5x15.2cm
ハードカバー
76ページ
執筆:土渕信彦「瀧口修造―人と作品」
再録:瀧口修造「私も描く」「手が先き、先きが手」
価格:2,100円(税込)
※送料別途250円(お申し込みはコチラへ)
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本日のウォーホル語録

「誰もが、愛について異なった見解を持っている。知合いのある女の子は、「彼が私の口の中でイカなかったとき、私のことを愛してくれてたんだわ、って知ったのよ。」と言った。
―アンディ・ウォーホル」


ときの忘れものでは4月19日~5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。
アンディ・ウォーホル『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録
1988年
30.0x30.0cm
56ページ
図版:114点収録
価格:3,150円(税込)※送料別途250円

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