私の人形制作第58回 井桁裕子

夢の話 3


先月書きましたが、現在、引っ越しの荷造りをしています。
数日前まで、東側に立つ2本の大きな桜の花吹雪に建物ごと包まれて過ごしていました。これも今年で見納めです。
この原稿が掲載される頃には新しい部屋で荷ほどきしているはずですが、まだ現実味がありません。
今の場所には15年近く住んでいました。たぶん私はこの部屋の最後の住人になるはずです。

荷造りは過去をも梱包する作業です。
仕事で描いた絵なども、刷り物と一緒にまとめてみたら、みかん箱で14個くらいになりました。
もうどこにも使うあてのない原画なので、以前ずいぶん処分しましたが、やはり捨てられないものがたくさんあります。
カラーの絵を描くときは、紙はCANSONの180kg、絵の具はウインザーズ&ニュートンの透明水彩がお気に入りでした。
それらのロゴを見るだけで心が熱くときめいていたことを、今は静かな気持ちで思い出します。

台所からは1994年2月製造の白玉粉が出てきました。
このシラタマ子が人間の娘であればもう二十歳、肩のひとつも揉んでくれる優しい子に育っていたことでしょう。
などという様々な感慨に耽っているといつまでも作業は終わらないので、あまり思いを広げないようにしようと思います。

10年が過ぎてもこうして制作を続けていられる今があることの、ありがたさとかけがえのなさを思いつつ、その具体的な結実を私は現さなければなりません。
制作の話は、ある程度の区切りまでやってからでないと書けないので、なかなか書けませんでした。
作業はまだ最初の一歩の状態ですが、自分のやっている事がなんなのか、やっとその意味が説明できそうな気がします。
次回くらいから少しずつ書こうと思います。
今月は間に合わなかったので、またシュールレアリストのまねをして夢の話です。

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予言の夢/2009年4月29日

そこは、石造りの古い神殿のような場所だった。

1人は年を取った白い髭の男。 その堂々とした態度には権威が示されている。
もう1人、若くも年寄りでもない男が彼に向き合いながら立っていた。それが私だった。
2人とも、ゆるやかな白い古代の服をまとっていた。
もう日が暮れようとしていた。
夕日で長い影が伸びている。

白い髭の男は軍人、あるいは貴族で、いずれにしても高い地位にある人物だった。
どことなく傲慢そうな表情だったが、私はこの人物を知らない。
やがて私の口を通して、彼にしか聞こえない神秘的な予言の言葉が語られた。
それは、”お前は報いを受け、罪をつぐなうことになるだろう…..”というような意味だった。
彼はどんな罪を?語っているのは私だが、その意味は私にはわからない。
白い髭の男もけげんそうな顔をして私を見返していたが、やがてふいに何かに気付いたように視線を落として石段の下を見た。
そして、彼は弾かれたように石段を駆け下りた。

そこには理不尽な理由で殺された奴隷が血と泥にまみれて横たわっていた。
白い髭の男はもう威厳を保てず、ひざまづいてその体をかき抱き、大声で泣きくずれた。
見ず知らずの奴隷の姿が、今、彼には最愛の息子の姿に見えているのだ。
彼は身寄りのないその遺体を抱きしめて、痛ましい涙声で話しかけている。
彼はこの奴隷を息子として弔うだろう。
予言の「報いを受ける」というのはこの深い悲しみと喪失のことだったのか。
そして「つぐない」とは、罪もなく殺された奴隷を我が子と同じように抱きしめ、心から弔うという事なのか。
01井桁裕子
「涙」
2013年


(いげたひろこ)

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル~氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

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●イベントのご案内
4月25日(金)18時より、ジョナス・メカス監督「ファクトリーの時代」の上映会を開催します(※要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。

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本日のウォーホル語録

<ぼくの入院中もずっと、(ファクトリーの)スタッフは仕事を続けていたので、ぼくはそのとき、本当に何か「永久運動(キネティック)」的なビジネスをしているなあ、と実感した。オフィスはぼくなしでもずっと進行していくんだから。それを認めるのは悪くない。なぜってそのときには、ぼくは「ビジネス」が最高のアートだと決めていたからだ。「ビジネス・アート」は、アートのあとにくるものだ。ぼくはコマーシャル・アーティストとして出発したけれど、ビジネス・アーティストとして終りたい。ぼくはアート、あるいは何と呼んでもかまわないが、いわゆるアートと呼ぶものに手を出したあとで、ビジネス・アートに向かった。ぼくはアート・ビジネスマン、あるいはビジネス・アーティストになりたい。ビジネスの上で有能であることこそ最も魅了される類の芸術だ。ヒッピー全盛の時代に、彼らは「ビジネス」というアイディアをひきおろしてしまった――ヒッピーたちは「金は悪だ」とか、「働くのは悪いことだ」と言ったものだったけれど、お金をもうけることはアートであり、働くこともアートだ。そしてよりよいビジネスは最高のアートだ。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日~5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。