芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」 第14回
Japanese on 1600km pilgrimage to Santiago Vol.14

第14話 偉大な聖人とニワトリの奇跡  ~サント・ドミンゴ・デ・カルサーダの伝説~
Episode.14: The miracle of the great Saint and a chiken -The legend of Santo Domingo de la Calzada-


10/8(Mon) Navarete ~ Najera (16.0km)
10/9(Tue) Najera ~ Santo Domingo de la Calzada (21.3km)

 大学でTA(ティーチング・アシスタント)をやっている。教授の授業の助手のようなものである。TAは嫌いではない。授業に参加しているようで参加していないという面白い立場だからである。教える側でも学ぶ側でもない、なんとも不思議な存在である。
 私が担当する授業に登録している学生は260人もいて、大教室が満員である。使用するプリントも(今のところは)登録学生の数と同じであるため、毎週、授業前の30分はコピー機の前にいることになる。ガー、ピピピとコピー機は与えられた260という数に向けて、一枚一枚丁寧に紙を吐き出す。その数が何を表しているのかコピー機は知らないと思うが、一生懸命働いていることは確かである。真面目に与えられた数の複写をやり終えたコピー機の音が止むと、私は紙の束を抱えて教室に向かうのである。

 翌朝、まだ暗いうちにアルベルゲを出発する。当然のことながら村のバルは閉まっているので朝食はなし。とにかく出発して、開いているバルを見つけたらそこで朝食というのが巡礼中のセオリーである。途中、墓地の入り口に美しいロマネスクの門がある。かつてのサン・ファン・デ・アクレ救護院の門を移築したものである。働きを終えてしまった場所もこのような形で残っているのは嬉しいものである。よいものは決して滅びないということだろうか。

01救護院の門


02正面ファサード


03柱頭の詳細
繊細な彫刻が施されている


 見渡す限りの大地、リオハだけあってそのほとんど多くがぶどう畑である。このぶどうからリオハのワインは作られているのだ。

04朝の道


05


06ぶどうの収穫


 昼過ぎにはNajera(ナヘラ)に着く。まずはアルベルゲで今日のベッドを確保し、その後で昼食のため町に出る。これを逆にしてしまうとベッドの空きがないという悲惨な目に遭うことになる。赤い巨大な崖の下にあるナヘラは、現在は人口8000人ほどの小さな町であるが、ローマ以前にさかのぼる交通の要衝であり、10世紀にはナバーラ王国の首都として栄えた古都である。

07ナヘラ


08赤い岩


 ランチはパエリア。日本ではパエリアというとごちそうで、メインディッシュというイメージがあるが、小さなバルではランチメニューの前菜の1つでしかない。どちらかといえばリゾットのような感覚である。そして飲み物はビール。リオハでビールとも思うが、昼間からワインを飲んでいては一日が終わってしまう。それに一仕事(巡礼者にとっては歩くことが仕事である)終えた人間にとっての最高のご褒美といえばやはりビールである。なにより、昼の暑い時間はそうである。これは世界共通だと思う。ワイン産出量世界第三位のスペインにもビールはあるし、そして結構美味い。まあ、ビールはどんな銘柄を飲むかより、どれだけ冷えているかのほうが重要だと個人的には思う。

09橋と芝生


 午後は町を散歩し、ゆったり過ごす。ここのところスローペースで端から見ると少したるんでるとも言える状況である。

10設計事務所 外観
閉まっていたので外から覗く


11設計事務所 内部
壁にはさまざまな模型がかけられている


12アルベルゲ 外観


13アルベルゲ リビング
壁には巡礼路の絵が描かれている


 夜はバルをはしごして、リオハワインを飲む。一杯0.60ユーロというのは日本なら缶ジュースよりも安い。ワインの値段に感覚がおかしくなりそうである。

 翌日、町の中心にあるサンタ・マリア・ラ・レアル修道院を訪れる。開くのが10時なので、朝はアルベルゲのリビングでのんびりする。乾燥しているためか喉が痛い。溜まっていた疲れが出たのだろう。修道院の近くの薬局に向かう。スペインの薬局(FARMACIA)は意外としっかりとしており(バルと比べての話であるが)症状を伝えるとトローチのような本格的なのど飴を出してくれた。やはり、薬を扱うところはラテンの陽気な国でも管理がちゃんとしているのだろう。昨日のバルでは、適当に洗ったとしか思えない水垢のついたグラスにワインが注がれていたのでそのギャップに驚く。とりあえず喉の調子はいくらか良くなったのでよしとする。

 サンタ・マリア・ラ・レアル修道院は1052年にナバーラ王ガルシア・サンチェス3世が妃ドニャ・エステニファの願いによって救護院と共に創設したもので、歴代の王が葬られている。回廊の彫刻は触れたら壊れそうなぐらい繊細で、透かし彫りはまるで石造りのレース編みである。

14サンタ・マリア修道院 外観


15サンタ・マリア修道院 中庭


16サンタ・マリア修道院 回廊


17サンタ・マリア修道院 彫刻


 Azofra(アソフラ)への途中、ドイツから来た少年に会う。13才らしい。ずっと休みなく話していた。ポーがこの少年は落ち着いていることができないため、学校で授業を受けることができないのだと言っていた。たしかに、ずっと喋っていたらまともに授業なんてできないだろう。そのため、こうして巡礼などでエネルギーを発散させるようにするしかないのだという。多動性障害と診断されるものかも知れないが、本人はもとより家族をはじめ周りの人たちは大変だろうと思う。みんなが農業や漁業に従事していた時代なら問題にならなかったものが、学校や工場、会社といった、じっと座ってないといけない場所が増えてくると、次第に「問題」とされ、ついには「病気」ということになってしまう。その意味では中世の時代の方が人は自由だったのかも知れない。難しいのは分かってはいるが、彼の「おしゃべり」が個性として認められ、才能として評価されるような社会になればいいなと思う。

18アソフラへの道


19アソフラ


 壮大なスペインの大地に一本の道がどこまでも真っ直ぐに伸びている。ある巡礼者はまるでトイレットペーパーを転がしたようだと言った。確かに的をついている。

20道2


21モニュメント


22休息所


23道3


 丘の上から町が見える。今日の目的地、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダである。「リオハのコンポステーラ」とも呼ばれるこの地は巡礼者のために石畳(カルサーダ)を整備し、橋、救護院などの建設に生涯を捧げた聖ドミンゴによって発展した町である。

24サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダの遠望


25サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ 塔
町のシンボルである


26モニュメント2


 聖人となっているドミンゴであるが、若い頃には修道院に入会を拒否されるという挫折を経験している。ドミンゴは特定の修道会に属さない「隠修士」として一人生きることを決意し、深い森の中に籠り、祈りと瞑想の日々を送っていた。しかし、飢えや渇き、怪我や病気に苦しみ、盗賊に襲われ、強欲な渡し守に路銀を巻き上げられる巡礼者たちを目にして、巡礼者のために生きることを決意したのであった。盗賊の隠れ家となっていた森を切り開き、川には橋を架け、道を石畳で整備した。インフラが整うと、これまで北側を通っていた巡礼路は町の近くに移動し、それが現在まで続いている。さらにドミンゴは巡礼者のために近隣の住人に反対されながらも救護院と井戸を建設したのである。まさに、巡礼者のために生きた人物であった。
 旧市街の路地を進むと、カテドラル前の広場に出る。西側に建つ立派な建物がかつての救護院で、現在はパラドール(国営ホテル)になっている。現在のカテドラルはドミンゴの死後、彼に敬意を表して建設が始められ、その後少しずつ手が加えられ拡張された。ゴシック様式の高い天井を持ち、祭壇は新しく、現代的で綺麗である。内陣の奥に突き出るアプシスにはロマネスク時代の壁と窓も残っている。

27パラドール 外観


28サント・ドミンゴ大聖堂(カテドラル)


29カテドラル 祭壇


30カテドラル アプシスの窓
ロマネスク時代のものである


 カテドラルの地下には霊廟が設けられ、ドミンゴの遺骸が安置されている。そして霊廟の入口の向かいにあるのが鶏小屋(Gallinero)である。ここでは実際に鶏が飼われており、これにはひとつの伝説がある。
 かつて、サンティアゴ巡礼に向かうと夫婦と息子が町に泊まった。見目麗しい息子に宿の娘が恋をし、愛を伝えたものの巡礼を理由にきっぱりと断られてしまった。そこで娘は腹いせに宿の主人の銀の杯を息子の袋に忍ばせた。翌日、夫婦と息子が旅立ったのを見計らい、娘は杯が足りない!昨日の巡礼者が怪しい!とでっちあげる。一家は捕らえられ、潔白を主張するも息子の袋から銀の杯が発見されてしまい、誰一人見知った者のいない旅人のため、十分な審理も尽くされないまま息子は無実の罪で絞首刑にされてしまう。両親は悲しみの中、なおも強い意志で巡礼を続け、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼を完遂した。故郷へ帰る途中、息子の魂の救いのために再びこの町に立ち寄ると、なんと息子は絞首台に吊されながら生きており、今まで一人の高貴な紳士が自分の足を持って支えてくれたのだと言った。両親は裁判官の家に走り込み、息子はまだ生きているから絞首台から下ろしてくれと懇願したものの、昼食を前にした裁判官は、「そんな事は今からテーブルに運ばれてくる鶏の丸焼きが鳴き声をあげるようなものだ」と相手にしなかった。すると突然、その焼かれていた雄鳥と雌鳥とが生き返り高らかに鳴き声を上げた。裁判官は仰天し、慌てて絞首台から息子を下ろし、息子は助かったという。青年の命を救った聖ドミンゴを讃えるべく、カテドラルにはこの鶏の血筋を受け継ぐという一つがいの鶏が飼われているのである。

31鶏小屋
つがいのニワトリが飼われており、ストレスになるため2週間でローテーションしている


32サント・ドミンゴの墓


33彫刻
鶏はシンボルである


34サント・ドミンゴ像


 ここには2軒のパラドールがある。大都市にある五つ星のパラドールと比べ、知名度が低く、穴場的な存在である。私が泊まった4つ星のパラドールは先に書いた救護院を改装したものであり、重厚で歴史を感じさせる。もう一つの3つ星のパラドールは16世紀の修道院を修復したものである。パラドールとはスペイン語で休息所の意味で歴史的な建築物を改修して半官半民の宿泊施設にしたものである。1928年に国王アルフォンソ13世が自らの山荘を改装して解放したのが始まりで、現在はグラナダやトレドをはじめ90数カ所を数える。巡礼路上では、このサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダをはじめレオン、ビリャフランカ、サンティアゴ・デ・コンポステーラにある。
 レオンやサンティアゴ・デ・コンポステーラのパラドールが一泊約200ユーロするのに比べ、ここは約70ユーロと安い。巡礼中、一度はパラドールに泊まってみたいと思っていたので、この機会を利用したのだ。

35パラドール(元サンフランシスコ修道院) 回廊


36パラドール(元サンフランシスコ修道院) 中庭


 石造りのロビーには外とは異なる時間が流れていた。サロンや階段は当時のままで、壁には火で暖と灯りをとった時代の炭の跡が残っている。アーチ型の石柱で支えられた広い空間で快適で優雅な時間を過ごす。
 ポーとツインの部屋を取り、町で食事をする。アルベルゲに泊まっている他の巡礼者には申し訳ないが、5つ星の壮大なパラドールというわけではないし、日本ならビジネスホテル並の値段ということで、ここは今日だけの贅沢だと自分を納得させる。そもそも巡礼者のための救護院であり、1990年から3年半の年月と7億円の費用を投じて改修されたとはいえ、現代の巡礼者が泊まっても構わないだろう。
 夜は綺麗なシャワールームで汗を流し、部屋にあったルームサービスのコカ・コーラを飲み、ふかふかのキングサイズのベッドで心地よい眠りに落ちたのであった。

37パラドール(元救護院) ロビー


歩いた総距離966.9km

(はがげんたろう)


コラム 僕の愛用品 ~巡礼編~
第14回 杖
Black Diamond(ブラックダイヤモンド) ULTRA DISTANCE(ウルトラ・ディスタンス)


 歩くという行為において一番大事な道具は靴である。それに異論はない。しかし、人間以外のほとんどの動物が4本足歩行をしていることから考えると、前足であるところの腕を歩行のために用いることはむしろ理にかなっている。そのための補助用具が杖であると言えるだろう。1日に何時間も歩き続ける巡礼では、靴に匹敵して大事な道具である。
 古い時代には、動物や盗賊から身を守るための武器でもあった杖は、水筒代わりの瓢箪、雨具としてのつばの広い帽子とならんで、巡礼者のシンボルになっている。
 このウルトラ・ディスタンスはカーボンを使用した同社最軽量のトレッキングポールである。2本で285gという驚異的な軽さが武器であり、アスファルトにカッ、カッ、カッ、と気持ちのいい音を響かせる。リズムよく歩くことができるというのは、巡礼での大きな力になるのである。また、ポールを使用しないときはコンパクトに折りたたみ、バッグの中にしまうこともできる。
 とはいえ、日帰りから数日行が前提のこのトレッキングポールは、残念ながら私の3ヶ月にもおよぶ巡礼への耐久性は持ち合わせてはいなかった(当然である)。フランスでの一ヶ月半におよぶ巡礼行とピレネー越えで力を使い果たしたのか、スペインに入って1週間ぐらいでガタが出てきてしまった。グリップをテープで巻いたり、ジョイント部分に小石を詰めたりと応急処置をはかったものの、ついに、道半ばで壊れてしまった。彼は十分にその使命をまっとうし、巡礼者のために道端の民家の前に置かれていた1本3ユーロの木の棒に後を託したのであった。
 巡礼を終わったあとで振り返ると木の棒でも十分であったとは思う。しかし、巡礼を開始して数日、足に肉刺ができたあの一番苦しいときに、文字通り、自分を支えてくれたという意味では、私にとってトレッキングポールはなくてはならないものだったのだ。壊れてしまったウルトラ・ディスタンスは、ヨーロッパ最果ての地、フィステーラまで持っていった。荷物になるのはわかっていたが、その場で捨てることがどうしてもできなかったのだ。私の相棒はフィステーラの海岸、岩陰に隠れた砂浜の端に静かに眠っている。

38ウルトラ・ディスタンス
(実物がないため、公式ホームページに掲載されている画像を使用した)


芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2008年 芝浦工業大学工学部建築学科入学。
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了。
2013年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業。
2015年 立教大学大学院キリスト教学専攻キリスト教学研究科博士課程前期

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行う。

●今日のお勧め作品は、長谷川潔です。
20150511_hasegawa_07_madokara長谷川潔
「窓からの眺め(シャトー・ド・ヴェヌヴェルの窓)」
1941年
銅版
29.0x21.5cm
Ed.50
サインあり

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◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。