明日から、ときの忘れものとしては15年ぶりとなるオノサト・トシノブ展を開催します。
5月に「第26回瑛九展」を開いたのと大違い、ともに亭主が敬愛し、扱い量も多いのですが・・・
オノサト・トシノブ先生は日本を代表する抽象画家で東京国立近代美術館はじめ主要美術館には作品も多数所蔵されているにもかかわらず文献資料が極端に少ない。
まず、きちんとした画集がただの一冊もない。
南画廊が1964年に刊行した『ONOSATO』(テキスト:オノサト・トシノブ、久保貞次郎、瀧口修造)があるが、これは志水楠男さんがベニス・ビエンナーレに持って行く販促画集として作ったもので、掲載作品は僅か14点に過ぎない。
生涯におそらくは3,000点以上の油彩を制作したであろうオノサト先生の全貌がわかる画集はいまだにありません。
没後、練馬区立美術館、長野県信濃美術館、大川美術館、群馬県立近代美術館等で開催された回顧展のカタログがあるばかりです。
ましてやオノサトの研究書などただの一冊も存在しない。
48歳で早世した盟友の瑛九に比べてその不遇、不運は目を覆うばかりです。
Googleで検索すると瑛九43万件に対して、オノサト先生は僅か3万件にも満たない。
瑛九は没後の公私立美術館での回顧展や特集展示は数十回(多すぎて数えたことはないのですが、100回を超えるかもしれません)、画集、カタログ、研究書、評伝等々数知れず。
対するオノサト先生の資料文献の微々たるや亭主の本棚の一段に軽く納まってしまいます。
(のちほどこのブログでオノサト先生の文献資料をご紹介します。)
出品No.2)
オノサト・トシノブ
「はにわの人」
1939年
油彩、板
32.6x23.0cm Signed
*練馬区立美術館での回顧展出品作品
日本の前衛美術史を担った作家たちー例えば山口長男(1902~1983)から、猪熊弦一郎(1902~1993)、斎藤義重(1904~2001)、吉原治良(1905~1972)、難波田龍起(1905~1997)、村井正誠(1905~1999)、長谷川三郎(1906~1957)、脇田和(1908~2005)、瑛九(1911~1960)、坂本善三(1911~1995)、松本竣介(1912~1948)、 菅井汲(1919~1996)、元永定正(1922~2011)に至るまで、生涯を展望する画集の一冊も無いなんて人はいません。
1958年をピークとする「ベタ丸」時代の作品が高騰を続ける一方で、その後の70年代、80年代の市場価格はあきれるほど低い。
オノサト先生の画業の全体を展望し、きちんと整理、批評するための画集がないことがその理由の一つにあげられるでしょう。
いったいオノサト先生はいつ、どのようなモチーフを、どのようなスケールで、どのくらい描いたのか。
コレクターならそれを知りたい、知ってコレクションの方向を定めたいと思うのが人情でしょう。ところがその問いに誰も答えられない。
レゾネ(作品総目録)があることが超一流画家の証明であるとすれば、レゾネどころか簡単な画集すらないオノサト先生はこのままでは謎のローカル作家で終わってしまいます。
出品No.9)
オノサト・トシノブ
「二つの丸 朱と紺」
1959年
水彩
16.7x26.0cm Signed
その不遇、不運の始まりは南画廊の志水さんとの確執からでした。
1962年久保貞次郎先生の紹介により南画廊で個展が開催されます。当時飛ぶ鳥を落とす勢いの志水さんを扱い画商とすることでオノサト先生は一気に世界に羽ばたきます。
1964年(コミッショナーは嘉門安雄)、1966年(コミッショナーは久保貞次郎)のベニス・ビエンナーレに日本代表として出品参加、欧米での展示も実現します。
出品No.10)
オノサト・トシノブ
「黄色の輪のある同心円」
1963年
水彩
22.7x22.7cm Signed
それがいつしか志水さんとの間に溝ができ、1969年の南画廊個展を最後に縁が途切れます。そんなことも何ひとつ知らず美術界に突然参入した亭主は恩人・井上房一郎さんの紹介で志水さんのところにのこのこ出かけて行き、教えを乞うたのでした。
他の画商さんは志水さんの怒りを恐れオノサト先生に手を出さない中、ド素人の亭主がオノサト先生の版画をエディションしだしたのですから内心は苦々しく思っていたに違いない(と今は思います)。
出品No.14)
オノサト・トシノブ
「Tapestry B」
1977年
捺染、布
119.5x80.0cm
Ed.100 Signed
*現代版画センターエディション

1978年3月15日
桐生のアトリエにて
オノサト・トシノブ先生
志水さんからは一度だけ、オノサト先生との確執の原因を伺ったことがあります。
オノサト先生には一度もその話は聞いたことはありません。
一方の話だけをもとに確執の原因を語るのはフェアでないので触れませんが、オノサト先生は最良の発表の場を失い、制作すれども展示する場もない、売る画商もいないという状況がとうとう志水さんの亡くなるまで続いたのでした。
その間、オノサト先生の生活を支えたのは藤岡時彦さんなど極く少数のコレクターと版画の販売でした。
志水さんの生前、二人の間をとりもち何とか関係を修復できないかと藤岡さんなど周囲が動き、1978年(昭和53)10月1日、桐生の国際きのこ会館で開催されたオノサト先生の画文集「実在への飛翔」出版記念会に志水さんを引っ張り出すまではことが運びました(浅草から桐生までは亭主が志水さんのお供をしました)。
オノサト・トモコ著『オノサト・トシノブ伝』(1991年、アート・スペース刊))359頁には以下の記述があります。
<志水氏はきのこ会館に泊って、翌朝オノサトのアトリエに見え、次の個展を来年の四月にはやりたいとオノサトに話す。オノサトは「トモコと話し合ってもらいたい」とこの件だけは承諾しなかった。昼食は好物の寿司をとって志水氏と食べてから、新桐生駅までトシノブとトモコの二人で送った。>
和解はならず、志水さんは翌1979年3月20日亡くなられました。

左から、亭主、藤岡時彦さん・英子さん夫妻。
1983年ころ
渋谷区鉢山町の現代版画センター企画室にて
オノサト先生の没後も、今までの不遇不運を何とか乗り越え、画集をつくろうという動きもありました。
というか亭主もその謀議に加わっておりましたが、ときの忘れもので幾度か開かれた会合も、天のとき、地の利、人の和すべてに恵まれず遂に頓挫してしまいました。
再度チャレンジする気力、体力は亭主にはありません。
ありませんが、悔しい。
今回のときの忘れもののささやかな展覧会に、せめて若い世代が触れてくれ、いつの日かオノサト・トシノブ全作品集が編まれることを願うばかりです。
◆ときの忘れものは2015年7月25日[土]―8月8日[土]「オノサト・トシノブ展―初期具象から晩年まで」を開催します(*会期中無休)。
1934年の長崎風景をはじめとする戦前戦後の具象作品から、1950年代のベタ丸を経て晩年までの油彩、水彩、版画をご覧いただき、オノサト・トシノブ(1912~1986)の表現の変遷をたどります。
会場が狭いので実際に展示するのは20数点ですが、作品はシートを含め92点を用意したのでお声をかけてくれればば全作品をご覧にいれます。
全92点のリストはホームページに掲載しました。
価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
●作家と作品については亭主の駄文「オノサト・トシノブの世界」をお読みください。
5月に「第26回瑛九展」を開いたのと大違い、ともに亭主が敬愛し、扱い量も多いのですが・・・
オノサト・トシノブ先生は日本を代表する抽象画家で東京国立近代美術館はじめ主要美術館には作品も多数所蔵されているにもかかわらず文献資料が極端に少ない。
まず、きちんとした画集がただの一冊もない。
南画廊が1964年に刊行した『ONOSATO』(テキスト:オノサト・トシノブ、久保貞次郎、瀧口修造)があるが、これは志水楠男さんがベニス・ビエンナーレに持って行く販促画集として作ったもので、掲載作品は僅か14点に過ぎない。
生涯におそらくは3,000点以上の油彩を制作したであろうオノサト先生の全貌がわかる画集はいまだにありません。
没後、練馬区立美術館、長野県信濃美術館、大川美術館、群馬県立近代美術館等で開催された回顧展のカタログがあるばかりです。
ましてやオノサトの研究書などただの一冊も存在しない。
48歳で早世した盟友の瑛九に比べてその不遇、不運は目を覆うばかりです。
Googleで検索すると瑛九43万件に対して、オノサト先生は僅か3万件にも満たない。
瑛九は没後の公私立美術館での回顧展や特集展示は数十回(多すぎて数えたことはないのですが、100回を超えるかもしれません)、画集、カタログ、研究書、評伝等々数知れず。
対するオノサト先生の資料文献の微々たるや亭主の本棚の一段に軽く納まってしまいます。
(のちほどこのブログでオノサト先生の文献資料をご紹介します。)
出品No.2)オノサト・トシノブ
「はにわの人」
1939年
油彩、板
32.6x23.0cm Signed
*練馬区立美術館での回顧展出品作品
日本の前衛美術史を担った作家たちー例えば山口長男(1902~1983)から、猪熊弦一郎(1902~1993)、斎藤義重(1904~2001)、吉原治良(1905~1972)、難波田龍起(1905~1997)、村井正誠(1905~1999)、長谷川三郎(1906~1957)、脇田和(1908~2005)、瑛九(1911~1960)、坂本善三(1911~1995)、松本竣介(1912~1948)、 菅井汲(1919~1996)、元永定正(1922~2011)に至るまで、生涯を展望する画集の一冊も無いなんて人はいません。
1958年をピークとする「ベタ丸」時代の作品が高騰を続ける一方で、その後の70年代、80年代の市場価格はあきれるほど低い。
オノサト先生の画業の全体を展望し、きちんと整理、批評するための画集がないことがその理由の一つにあげられるでしょう。
いったいオノサト先生はいつ、どのようなモチーフを、どのようなスケールで、どのくらい描いたのか。
コレクターならそれを知りたい、知ってコレクションの方向を定めたいと思うのが人情でしょう。ところがその問いに誰も答えられない。
レゾネ(作品総目録)があることが超一流画家の証明であるとすれば、レゾネどころか簡単な画集すらないオノサト先生はこのままでは謎のローカル作家で終わってしまいます。
出品No.9)オノサト・トシノブ
「二つの丸 朱と紺」
1959年
水彩
16.7x26.0cm Signed
その不遇、不運の始まりは南画廊の志水さんとの確執からでした。
1962年久保貞次郎先生の紹介により南画廊で個展が開催されます。当時飛ぶ鳥を落とす勢いの志水さんを扱い画商とすることでオノサト先生は一気に世界に羽ばたきます。
1964年(コミッショナーは嘉門安雄)、1966年(コミッショナーは久保貞次郎)のベニス・ビエンナーレに日本代表として出品参加、欧米での展示も実現します。
出品No.10)オノサト・トシノブ
「黄色の輪のある同心円」
1963年
水彩
22.7x22.7cm Signed
それがいつしか志水さんとの間に溝ができ、1969年の南画廊個展を最後に縁が途切れます。そんなことも何ひとつ知らず美術界に突然参入した亭主は恩人・井上房一郎さんの紹介で志水さんのところにのこのこ出かけて行き、教えを乞うたのでした。
他の画商さんは志水さんの怒りを恐れオノサト先生に手を出さない中、ド素人の亭主がオノサト先生の版画をエディションしだしたのですから内心は苦々しく思っていたに違いない(と今は思います)。
出品No.14)オノサト・トシノブ
「Tapestry B」
1977年
捺染、布
119.5x80.0cm
Ed.100 Signed
*現代版画センターエディション

1978年3月15日
桐生のアトリエにて
オノサト・トシノブ先生
志水さんからは一度だけ、オノサト先生との確執の原因を伺ったことがあります。
オノサト先生には一度もその話は聞いたことはありません。
一方の話だけをもとに確執の原因を語るのはフェアでないので触れませんが、オノサト先生は最良の発表の場を失い、制作すれども展示する場もない、売る画商もいないという状況がとうとう志水さんの亡くなるまで続いたのでした。
その間、オノサト先生の生活を支えたのは藤岡時彦さんなど極く少数のコレクターと版画の販売でした。
志水さんの生前、二人の間をとりもち何とか関係を修復できないかと藤岡さんなど周囲が動き、1978年(昭和53)10月1日、桐生の国際きのこ会館で開催されたオノサト先生の画文集「実在への飛翔」出版記念会に志水さんを引っ張り出すまではことが運びました(浅草から桐生までは亭主が志水さんのお供をしました)。
オノサト・トモコ著『オノサト・トシノブ伝』(1991年、アート・スペース刊))359頁には以下の記述があります。
<志水氏はきのこ会館に泊って、翌朝オノサトのアトリエに見え、次の個展を来年の四月にはやりたいとオノサトに話す。オノサトは「トモコと話し合ってもらいたい」とこの件だけは承諾しなかった。昼食は好物の寿司をとって志水氏と食べてから、新桐生駅までトシノブとトモコの二人で送った。>
和解はならず、志水さんは翌1979年3月20日亡くなられました。

左から、亭主、藤岡時彦さん・英子さん夫妻。
1983年ころ
渋谷区鉢山町の現代版画センター企画室にて
オノサト先生の没後も、今までの不遇不運を何とか乗り越え、画集をつくろうという動きもありました。
というか亭主もその謀議に加わっておりましたが、ときの忘れもので幾度か開かれた会合も、天のとき、地の利、人の和すべてに恵まれず遂に頓挫してしまいました。
再度チャレンジする気力、体力は亭主にはありません。
ありませんが、悔しい。
今回のときの忘れもののささやかな展覧会に、せめて若い世代が触れてくれ、いつの日かオノサト・トシノブ全作品集が編まれることを願うばかりです。
◆ときの忘れものは2015年7月25日[土]―8月8日[土]「オノサト・トシノブ展―初期具象から晩年まで」を開催します(*会期中無休)。
1934年の長崎風景をはじめとする戦前戦後の具象作品から、1950年代のベタ丸を経て晩年までの油彩、水彩、版画をご覧いただき、オノサト・トシノブ(1912~1986)の表現の変遷をたどります。会場が狭いので実際に展示するのは20数点ですが、作品はシートを含め92点を用意したのでお声をかけてくれればば全作品をご覧にいれます。
全92点のリストはホームページに掲載しました。
価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
●作家と作品については亭主の駄文「オノサト・トシノブの世界」をお読みください。
コメント