森本悟郎のエッセイ その後・第17回

東松照明(1930~2012) (2)オーガナイザーとして


「戦後写真の巨人」とは『日本の写真家 30 東松照明』(岩波書店)の帯につけられたコピーである。たしかに東松さんは敗戦後の1950年、大学入学とともに写真をはじめ、60年余の長きにわたって日本をつぶさに映像として残した写真家だ。しかし東松作品のテーマの幅広さとそれを追求する深度は、この作家が「戦後」という枠組みをはるかに超えた存在であることを示しているように思う。
東松さんとともに59年にセルフ・エイジェント「VIVO」を設立した川田喜久治、佐藤明、丹野章、奈良原一高細江英公の5氏は、それぞれがすぐれて自覚的に個性ある美意識と方法をもった作家である。しかもそれぞれ戦後の写真界に重要な仕事を残してきており、好き嫌いは別として、質に甲乙はつけがたい。コレクターズアイテムとしての一点の作品・写真集に限れば、あるいは東松さんを超えるものもあろう。だが作品の質はもとより、ぼくが東松さんに認めるのはその社会的広がりと後進への影響の大きさだ。
愛知大学に入学し写真部に籍を置くと、木村伊兵衛、土門拳が選者の『カメラ』(アルス)誌の月例コンテストに応募する傍ら、中部学生写真連盟結成のため奔走する。51年に中部学生写真連盟が結成され、代表委員に就く。学生組織の行政的仕事を引き受けながら、雑誌月例の常連入選者となっているところが東松さんらしい。
54年、大学卒業を機に上京。『岩波写真文庫』の特別嘱託となるも2年半ほどで辞め、フリーとなる。上述の「VIVO」設立はその3年後である(61年解散)。
『〈11時02分〉NAGASAKI』 の版元が倒産し、東松さんの写真選集刊行が頓挫した。すでに予約金を払った人たちがいたことを知った作家は、前納者へのお返しとして自らの手で写真集をつくろうと決意した。67年、出版社写研を設立したのはそんな事情からだ。写研は『日本』『サラーム・アレイコム』『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』『おお! 新宿』の写真集4冊と季刊誌『KEN』(第3号まで)を出版し、71年に廃業。経済的理由からではなく、写真家としての危機感からだったという。実際、利益は出ていたようだ。
72年、沖縄の日本への返還を那覇で迎え、翌年宮古島へ移住。ここで自主学校「宮古大学」をつくる。これは過疎化対策の一環としての老人への聞き取り調査、それに延々と議論したり泡盛飲んだり、といったものだったようだ(「東松照明オーラル・ヒストリー」2011年8月8日)。この年、東京に戻る。
74年、ワークショップ写真学校を荒木経惟、深瀬昌久、細江英公、森山大道、横須賀功光らと設立(76年閉校)。ここから北島敬三、石川真生らが出る。
顧みればいずれも短期で終わっているが、これは自身の写真を第一としたからに他ならない。晩年、那覇に居を構えてからもワークショップを開いていたという事実からも、東松さんは終生オーガナイザーであり続け、若い写真家たちを挑発し続けたといえよう。
原水爆禁止日本協議会刊行の『Hiroshima-Nagasaki Document 1961』撮影で初めて訪ねて以後、長崎に繁く通い、やがてそこに移住する。その間、モデルとなった被爆者たちに寄り添うように親交を重ね、撮影を続けた。こんな姿勢は広島を担当した土門拳にはないし、数多あるドキュメンタリー・フォトグラファーにもないだろう。
東松さんは偉大な写真家であり、同時に卓越したオーガナイザーでもあった。こんな作家はかつてわが国にいなかった。

01諫早町


02舘内町


03原爆資料館


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、山口薫です。
20150828_yamaguchi_01_moon-horse山口薫
「昼の月と馬」
リトグラフ
37.5x53.5cm
Ed.100
サインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。