芳賀言太郎のエッセイ 特別編
~カンボジア滞在記~
10月28日から11月8日まで、私はカンボジアでフィールド・ワークを行っていた。このフィールド・ワークは大学院の授業の一環であり、カンボジアの草の根の人々による健康と平和の活動について学ぶためのものである。大学は文化祭期間の秋休み、賑やかなキャンパスを離れ、私は日本から10時間かけてベトナム、ホーチミン経由でプノンペンにやってきた。
プノンペン国際空港
カンボジアは重い歴史を背負っている。ここはトゥール・スレイン博物館、通称虐殺博物館である。ここはポル・ポト派の虐殺行為を後世に伝えるために博物館として管理、公開されている。当時はS21(Security Office 21)と呼ばれた刑務所であった。
トゥール・スレイン博物
1975年から1979年までのポル・ポト政権下では、過激な社会主義改革が行われ、それに反対、妨害する「反革命分子」とみなした人々を捉え、尋問した。その際に激しい拷問が行われた。その後、キリング・フィールドと呼ばれる処刑場に運び、処刑した。ここでは当時の拷問の場面を描いた絵や実際に使用された拷問器具なども展示されている。
墓地
澄み渡った青空とは対照的に部屋の中の空気はあまりにも重い。窓からの明かりがどこか寂しげであり、置かれたベッドが異様な妖気を漂わせている。スチールパイプのベッドからは物質として発するある種の力を感じずにはいられなかった。壁には発見された当時の写真の記録が残されている。モノクロで写されているベッドの上で横たわる人の姿はあまりにも無残であり、心に焼き付いてはなれない。そうした部屋が続いていく。ここはもともと学校であり、教室であった場所である。その落差に絶句する。
廊下
独房
鉄のベッドが生々しく置かれている
雑居房
収容者は各室に鎖で繋がれた。
階段。光があまりにも劇的である。空間にこれほどまでに心震わせることがあるだろうか。光を意識する瞬間、それは同時に闇を意識する体験でもある。私はこれと似た感覚を安藤忠雄の光の教会で体験した。しかし、そのときとは180度異なる。光が闇によって遮られてどこまで手を伸ばしても届かないという負の感情。光が分断され、細切れにされてしまうという無力感。あまりにも重いものを経験した後では、景色が違って見える。空間は歴史が感じさせるものでもあるのだ。
階段室
この施設で生き残った一人と会うことができた。彼は機械修理工であったため、収容所の電話やタイプライターの調子が悪いとたびたび彼が呼び出された。その結果、キリング・フィールドへ運ばれるのが遅くなり、生き延びた。今はここで実際に行われたことを伝える生き証人として活動している。
サバイバー、チュン・メイ氏と筆者
キリング・フィールド。プノンペンの南西約12kmの場所にある。ここは前述のトール・スレイン刑務所から運ばれた人々を虐殺した場所である。
キリング・フィールド
のどかな草地である
その方法はあまりにも酷く、目隠しをし、斧やクワ、最終的には椰子の木の鋭く、尖った幹の部分で頭や首を殴りつけた。129ヶ所に埋められた遺体はあまりにも数が多く、腐敗し、とてつもない悪臭を放ったという。
穴
ここに遺体を埋めた
ミサンガ
柵の周りを囲む
祈りにも似た思いでフィールドを歩く。ゆっくりと。歩くことがここでは鎮魂歌となることを信じて。私にはそうすることしかできない。
小道
人骨
道端に今でも残っている
慰霊塔
8985本の遺骨が安置されている
髑髏
こうした負の歴史を背負って生きているカンボジア人はどのような人々なのか。私は現地の農村でホームステイをしながら、人々の生活を垣間みることができた。生活水準は日本とは到底比べることが出来ないだろう。モノはなく、貧しさを感じることは確かである。しかし、人々の暮らしはカンボジアの自然と共にあった。私が最も惹かれたのは子供たちの目の輝きであった。私がとある村で出会った少女の目をじっと見つめると、彼女は照れくさそうにはにかんだ。思わず私も笑みを返した。村の小学校には活気があり、子供たちが元気に走り回っていた。こうした光景は私の住んでいる東京ではめっきり見かけなくなった。日本が失った何かがここにはあるように思えた。
少女
(はが げんたろう)
コラム 僕の愛用品 ~カンボジア、フィールド・ワーク編~
第1回 薬
正露丸
旅先でもたいていのものは手に入る。服などはその最たるものであり、そこで人が生活している限り、その土地で生きるために必要なものが手に入らないなどということはない。しかし、旅行者にとって唯一これに当てはまらないものが薬である。
腹痛はつらい。特にアジアでは必ず一度はお腹を壊すと言われる。私もその例に漏れず、ホームステイ先の田舎の村でお腹を壊した。何が原因だったのかはっきりとはわからない(水はミネラルウォーターしか飲まないようにしていた)のであるが、結果的に下痢になってしまった。ここからが大変で、ホームステイ先の農村の家にはトイレがあるのだが、決して衛生的とは言えない。なんといってもトイレットペーパーがないのである。これはしんどかった。準備していない私が悪いのであるが、バケツの水で洗い流すしかなかった。トイレットペーパーどころか、便座を拭くための専用の紙までが設置されているような日本がどれほど特殊であるかを痛烈に意識した瞬間であった。
そして、正露丸を求めてバックパックの中を探す。しかし、運の悪いことに正露丸の入ったポーチはホテルで預けたスーツケースの中である。私の準備不足というか間が抜けているだけであるが、最も必要な時に必要なものはいつもないのである。結局、その後2日経って、ようやくホテルに到着し、ミネラルウォーターで正露丸を飲んだ。カンボジアの細菌が強力だったのか、正露丸を飲むのが遅かったのか、結局、カンボジア滞在中に私の腹痛は治ることはなかった。少しは免疫ができたかもしれない。

■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属
2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。
●今日のお勧め作品は、舟越保武です。
舟越保武
「聖クララ」
1984年
リトグラフ
51.0x42.0cm
Ed.170
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
~カンボジア滞在記~
10月28日から11月8日まで、私はカンボジアでフィールド・ワークを行っていた。このフィールド・ワークは大学院の授業の一環であり、カンボジアの草の根の人々による健康と平和の活動について学ぶためのものである。大学は文化祭期間の秋休み、賑やかなキャンパスを離れ、私は日本から10時間かけてベトナム、ホーチミン経由でプノンペンにやってきた。
プノンペン国際空港カンボジアは重い歴史を背負っている。ここはトゥール・スレイン博物館、通称虐殺博物館である。ここはポル・ポト派の虐殺行為を後世に伝えるために博物館として管理、公開されている。当時はS21(Security Office 21)と呼ばれた刑務所であった。
トゥール・スレイン博物1975年から1979年までのポル・ポト政権下では、過激な社会主義改革が行われ、それに反対、妨害する「反革命分子」とみなした人々を捉え、尋問した。その際に激しい拷問が行われた。その後、キリング・フィールドと呼ばれる処刑場に運び、処刑した。ここでは当時の拷問の場面を描いた絵や実際に使用された拷問器具なども展示されている。
墓地澄み渡った青空とは対照的に部屋の中の空気はあまりにも重い。窓からの明かりがどこか寂しげであり、置かれたベッドが異様な妖気を漂わせている。スチールパイプのベッドからは物質として発するある種の力を感じずにはいられなかった。壁には発見された当時の写真の記録が残されている。モノクロで写されているベッドの上で横たわる人の姿はあまりにも無残であり、心に焼き付いてはなれない。そうした部屋が続いていく。ここはもともと学校であり、教室であった場所である。その落差に絶句する。
廊下
独房鉄のベッドが生々しく置かれている
雑居房収容者は各室に鎖で繋がれた。
階段。光があまりにも劇的である。空間にこれほどまでに心震わせることがあるだろうか。光を意識する瞬間、それは同時に闇を意識する体験でもある。私はこれと似た感覚を安藤忠雄の光の教会で体験した。しかし、そのときとは180度異なる。光が闇によって遮られてどこまで手を伸ばしても届かないという負の感情。光が分断され、細切れにされてしまうという無力感。あまりにも重いものを経験した後では、景色が違って見える。空間は歴史が感じさせるものでもあるのだ。
階段室この施設で生き残った一人と会うことができた。彼は機械修理工であったため、収容所の電話やタイプライターの調子が悪いとたびたび彼が呼び出された。その結果、キリング・フィールドへ運ばれるのが遅くなり、生き延びた。今はここで実際に行われたことを伝える生き証人として活動している。
サバイバー、チュン・メイ氏と筆者キリング・フィールド。プノンペンの南西約12kmの場所にある。ここは前述のトール・スレイン刑務所から運ばれた人々を虐殺した場所である。
キリング・フィールドのどかな草地である
その方法はあまりにも酷く、目隠しをし、斧やクワ、最終的には椰子の木の鋭く、尖った幹の部分で頭や首を殴りつけた。129ヶ所に埋められた遺体はあまりにも数が多く、腐敗し、とてつもない悪臭を放ったという。
穴ここに遺体を埋めた
ミサンガ柵の周りを囲む
祈りにも似た思いでフィールドを歩く。ゆっくりと。歩くことがここでは鎮魂歌となることを信じて。私にはそうすることしかできない。
小道
人骨道端に今でも残っている
慰霊塔8985本の遺骨が安置されている
髑髏こうした負の歴史を背負って生きているカンボジア人はどのような人々なのか。私は現地の農村でホームステイをしながら、人々の生活を垣間みることができた。生活水準は日本とは到底比べることが出来ないだろう。モノはなく、貧しさを感じることは確かである。しかし、人々の暮らしはカンボジアの自然と共にあった。私が最も惹かれたのは子供たちの目の輝きであった。私がとある村で出会った少女の目をじっと見つめると、彼女は照れくさそうにはにかんだ。思わず私も笑みを返した。村の小学校には活気があり、子供たちが元気に走り回っていた。こうした光景は私の住んでいる東京ではめっきり見かけなくなった。日本が失った何かがここにはあるように思えた。
少女(はが げんたろう)
コラム 僕の愛用品 ~カンボジア、フィールド・ワーク編~
第1回 薬
正露丸
旅先でもたいていのものは手に入る。服などはその最たるものであり、そこで人が生活している限り、その土地で生きるために必要なものが手に入らないなどということはない。しかし、旅行者にとって唯一これに当てはまらないものが薬である。
腹痛はつらい。特にアジアでは必ず一度はお腹を壊すと言われる。私もその例に漏れず、ホームステイ先の田舎の村でお腹を壊した。何が原因だったのかはっきりとはわからない(水はミネラルウォーターしか飲まないようにしていた)のであるが、結果的に下痢になってしまった。ここからが大変で、ホームステイ先の農村の家にはトイレがあるのだが、決して衛生的とは言えない。なんといってもトイレットペーパーがないのである。これはしんどかった。準備していない私が悪いのであるが、バケツの水で洗い流すしかなかった。トイレットペーパーどころか、便座を拭くための専用の紙までが設置されているような日本がどれほど特殊であるかを痛烈に意識した瞬間であった。
そして、正露丸を求めてバックパックの中を探す。しかし、運の悪いことに正露丸の入ったポーチはホテルで預けたスーツケースの中である。私の準備不足というか間が抜けているだけであるが、最も必要な時に必要なものはいつもないのである。結局、その後2日経って、ようやくホテルに到着し、ミネラルウォーターで正露丸を飲んだ。カンボジアの細菌が強力だったのか、正露丸を飲むのが遅かったのか、結局、カンボジア滞在中に私の腹痛は治ることはなかった。少しは免疫ができたかもしれない。

■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属
2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。
●今日のお勧め作品は、舟越保武です。
舟越保武「聖クララ」
1984年
リトグラフ
51.0x42.0cm
Ed.170
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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