小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第4回

狐 01
 小学4年生のとき、Kという同級生と山にクワガタ捕りに行った。雑木林で、栗とかクヌギの樹を思い切り蹴飛ばすと、面白いようにクワガタが降ってきた。さらに樹液が湧き出したあたりを注意ぶかく探して、5匹ほど捕まえることができた。一度にそんなに捕れることは珍しく、だから二人して興奮した。気がつくと周りが暗くなり始めていた。こんなに遅くまで山にいたことはなかった。私たちは急いで山を下った。
 里まであと少しというところで、Kが突然、足を止めた。
「じいちゃんが、暗くなってから、この道はぜったいに通っちゃいけねいって言った」
 夕暮れがそこまで迫っている。西の山にすでに太陽は隠れ、空が恐ろしいほどに真っ赤に染まっていた。私は少しでも早く家に帰りたかった。でもKは立ち止まったままで、動こうとしない。
「通ったら、狐に化かされるだ」
 次にそんなことを言い出した。
「狐?」
「じいちゃんが子供の頃、ここで狐に化かされて、道に迷って夜中まで家に帰ってこれんことがあっただ。だで、ここは、日が暮れてからは絶対に通っちゃいけねえっていわれている」
 Kの顔を見ると、さっきとはまるで違った。少し震えているようにも映った。冗談を言っているふうには見えなかった。私はなんと言葉を返していいのかわからなくなったが、やっと思いついたことを口にした。
「でも、おめえのじいちゃん、戦争で死んでるら」
 本当のことだ。出征先の南のどこかの島で若くして亡くなったというのは、近所の者は誰でも知っていることで、親からも聞かされていた。つまりKが生まれた時、じいちゃんはすでにこの世にいないのだから、そんな話など聞けるはずなどない。
「だで、とうちゃんから聞いただ。とうちゃんが、じいちゃんからここで狐に化かされことがあるで、絶対に通っちゃいけないって言われただ。それをとうちゃんから教えてもらった。そういうこんだ」
 腑に落ちたけど、ちょっと信用できないという気もしてきた。
「違う道を通って帰る。ここは本当に駄目だ」
「大丈夫だ!」
「駄目だ! 絶対にそうする」
 遠回りすれば確かに里に戻れる道はあるが、3倍くらいの距離と時間を要するだろう。
 私は改めてKが「狐に化かされる」という目の前の道の続きをじっと目にしてみた。来るときは太陽に照らされて、緑がキラキラと反射していた。車がやっと一台通れるほどの土と砂利の農道。それが同じ場所とは思いえないほど、いまは陰鬱だ。
 右側に山が迫っていて崖のようになっている。その斜面と上に生えた木々の葉や蔓が覆いかぶさるように道に垂れ下がっている。左側は川だけど、水の流れは見えない。ススキに隠れているからだ。その手前には何本か木が生えていて藪になっている。さらに草の蔓が狂ったように絡み付いていて、鬱蒼としている。トンネルのように薄暗い。

01小林紀晴
「Winter 04」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


 通過したら、本当に狐に化かされるのだろうか。そもそも、化かされるって、なんだ。私は考えた。狐が目の前に現れるのか? でも、走れば、ほんの数秒で、走り抜けることだってできそうだ。
「お願い、お願い、遠回りしよう。お願い!」
 Kの声は叫びに近かった。驚いたことにKは私の腕を握った。そして、来た道を後ずさり始めた。振り返るとKはいまにも泣き出しそうな顔をしていた。その向こうに巨大な西の山が立ちはだかるようにあって、黒く沈んでいた。
(次回に続く)
こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160319_kobayashi_05_work小林紀晴
〈DAYS ASIA〉より2
1991年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
Image size: 24.3x16.3cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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