小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第5回

狐 02

 Kのあまりの険相な顔に、これはただごとではないという気持ちに包まれた。ただ、私にはまったくその実感がないのだから、急激に何かが乖離していくような感覚があった。たったいま立っている空間そのものに亀裂でも入っていくような、あるいは、目の前にいるKが別の誰かになっていくような。「狐に化かされる」というKの恐怖とはまったく違うことがらに恐怖を抱き始めた。
「じゃあ、別の道だ」
 私は答えた。
 Kが絶対にこの道を通りたくないということが痛いほどわかったからだ。少し戻れば、山を迂回する道がある。3倍の距離と時間がかかるが、もはやそうするしかないだろう。
 私一人、たった数十メートルの「狐に化かされる」かもしれない目の前の道を走る抜けることはできるだろう。でもKを置き去りにすることはできない。深い谷が足元にあって、一人は羽を持ち空を飛べて、一人は羽をもたない。そんな状況にいつの間にか陥っていた。
 私たちは、来た道を戻った。黙って歩いた。話しかけても、Kはほとんど返事をしなかった。途中から迂回の道にそれた。
 西の山に日が隠れると、あっという間に暗くなって、また別の恐怖が私の背中に覆いかぶるようにやってきた。こんな時間まで、子供だけで山のなかにいたことはない。
 熊がでたらどうしよう。
 思いつきのようなことが頭に浮かんだ。すると本当に熊が出てきそうな気がして、Kにそのことを言いたかったけど、きっと、大した答えなど返ってこないだろう。だから、飲み込んだ。狐より熊の方がずっと恐ろしいし、危険じゃないのか。そんな思いに捕らわれた。すると、こうして遠回りしていることや、Kに対しても次第に腹が立ってくるのだった。
 幽霊がでたらどうしよう。
 次にそんな、ありきたりの恐怖がやってきた。

re 8  I-B_600小林紀晴
「Winter 05」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


 私たちはなんとか里に下ることができて、それぞれの家にたどり着いた。
「どこ行っていただ?」
 当然ながら、親は心配して帰りを待っていた。
 私はことの顛末を父に説明した。興奮している自分に気がついた。父とKのお父さんは小学校の同級生なので、当然、Kの戦争で亡くなったおじさんのことも知っているはずだ。その前提で話した。
「ああ・・・そういうこんか」
 父はそれだけを口にした。反応はあまりに意外なものだった。
「狐に化かされるなんて、そんな馬鹿なはずはない」、とか「そりゃ、迷信だ」とか、そんな答えが返ってくるものとばかり思っていた。
 なのに、父の態度は真逆で、それだったら仕方がない、いや、正しい行いとでも言いたげに映った。
 本当に父はそれ以上、口を開かなかった。だから何も聞けなくなった。明らかに父は何かを知っているし、隠している。
 もしかしたら、父も幼い頃、狐に化かされたことがあったのではないか。その後、そう思うようになった。
 
 私が上京してから数年後、Kが恐怖に怯えた場所は突然消えた。山も川もことごとく消えた。市営のアパートができる計画があって、山が丸ごと削られたのだ。
 あれだけの山の土を果たしてどこへ運んだのだろうか。最初に目にしたときは、とにかく唖然とした。まるで風景が変わってしまったのだから。違う場所に間違って立っているような錯覚を覚えた。こういうのを「狐に鼻をつままれた」とでもいうのだろうか。そう思うと笑いすら込み上げてきた。
 すると不思議なことにKと私が体験したあの日の出来事が、急に記憶違いだったような気がしてくるのだった。それは間違いなく本当のことだというのに。
 同時に、私は「狐に化かされる」という恐怖が確かに存在したことが、誰かに受け継がれることも、語られることもなく消えていくことに気がついた。実際に、私は東京生まれの自分の子供にそのことを話したことがない。近い将来、確実に日本昔話のなかでだけ語られる「虚像の話」となってしまうことだろう。 
 私はあの日、父に口を開かせるべきだったのだろうか。その父もいまはいない。
こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160719_kobayashi_07_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より1
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.6x27.9cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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