芳賀言太郎のエッセイ
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」 第24回
第24話 アストルガ ~チョコレートとガウディ~
10/23(Mon) Leon – Hospital de Orbigo (32.4km)
10/2r4(Tue) Hospital de Orbigo –Astorga (16.5km)
ここ数回は特別編を記載しており、最後にこのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼のエッセイを書いたのは夏であったのに、もう冬になってしまった。ときの忘れものからの帰り道で通る表参道も煌びやかなイルミネーションに覆われている。このイルミネーションを見ると、年の瀬が迫っていることを実感する。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路をこの季節に巡礼する人はほぼいない。冬のピレネー越えなどもはや雪山登山であり、素人には不可能である。しかし、冬の巡礼路というのもまた違った世界が存在していることだろう。もし、この時期にサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路に行くようなことがあるとすれば、私は迷わずレンタカーを選ぶだろう。
レオンは大きな町だが、市街地には巡礼路を示すマークがところどころにあるため、道を見失う心配はあまりない。橋を渡り、市街地を出ると、あとは幹線道路沿いに進んで行くことになる。
レオン市街地から抜ける橋
マーク
レオンから先へ
途中、現代的な教会を見つける。中世の教会ばかり見てきた私にとっては逆に珍しく、シンプルな立体によって構成された外観とモダンな内装と窓によってつくられた内部空間は新鮮であった。特に印象的だったのは入り口に設けられた巡礼者の彫刻でなんとも言えない雰囲気を醸し出していた。これまで多くのロマネスクの石の彫刻を見て、この現代的な鉄の彫刻を見ると抽象的な表現ながらも人間の輪郭や杖と本(おそらく聖書)といった部分はしっかりとリアリティを感じるデザインになっていると思われた。
教会
教会内部
彫刻
オスピタル・デル・オルビゴに向けて道路沿いの道をひたすら歩いていく。途中には巡礼者の彫刻が置かれており、アートとして捉えることもできる。
道
道2
巡礼者彫刻
巡礼者彫刻2
オスピタル・デル・オルビゴの村に入る手前には長い橋がある。8つの橋脚と19のアーチを持ち、橋桁の長さは250mに及ぶパッソ・オンロッソ橋(Puente del Paso honroso)である。17世紀にルネサンス様式で架け直された部分もあるそうだが、ほぼ13世紀のものを残しており、一部は10世紀から11世紀にまで遡る可能性がある。もっともオルビゴ川がそれだけの川幅をもっているわけではなく、上流にダムが造られたことによって現在はその大部分は河川敷となっている。この橋には一つの伝説が残っている。
1434年、中世の習わしに従ってレオノール・トパールを心の姫としたレオン出身の騎士ドン・スエロ・デ・キニョネスは、その愛の証として王の許可のもとこの橋を通ろうとするものと戦い、1ヶ月の間誰もこの橋を渡らせないか、300本以上の槍を折る(つまり勝利する)と宣言した。そして7月10日から8月9日まで、この噂を聞いてヨーロッパ中から集まった挑戦者たちと9人の騎士と共に戦い、ついに1人として橋を通さず、その誓いを守ったという。姫君から金のブレスレットを賜ったドン・スエロは、サンティアゴ巡礼の旅に出て、レオノール姫の腕輪をサンティアゴの大聖堂に奉納したと言われる。
このドン・スエロの伝説は「パッソ・オンロッソ(名誉の歩み)」という名でヨーロッパ中に広まり、名誉を掛けて戦った中世騎士の物語として語り継がれた。現在、この町では6月に盛大な祭りが催され、当時の騎士試合が再現されるという。
ちなみにオスピタル・デ・オルビゴの町自体も橋と同じく古い歴史を持ち、元はマルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)が設立した巡礼者のための救護院を中心に発展したという。町の名にオスピタル(救護院)がついているのはそのためである。
現在の川の幅と比べると、結果として必要以上の長さになっている。しかし、その余剰部分に魅力を感じるのも事実である。中世から現代にかけての時間の流れを橋を渡るという行為を通して感じさせられた場面であった。
オルビゴ橋
アルベルゲ
アルベルゲ 中庭
夜のアルベルゲ
翌日、オルビゴ橋のたもとの河川敷に降りてから巡礼をスタートする。丘を越えてアストルガに向かう。
道3
目印
アルベルゲ2
ストーンサークルはまるでパワースポットのようである
丘の上
眼下にアストルガの街が見える。
アストルガは古代ローマ時代より交通の要所として栄えた町であり、当時の遺跡や城壁も残っている。当時、北スペインで豊富に産出した銀などの鉱物資源は、大西洋に面するヒホンからこのアストルガを通りセビージャに至る「銀の道」を通り、グアダルキビル川によって地中海に出てローマへと運ばれた。その繁栄はスペイン最初の司教座の一つがこのアストルガにおかれるほどであったが、その後は一時衰退する。しかし、サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼路の発展に伴って再興する。
現在は人口1万2千人ほどの都市であるが、至る所にチョコラテリア(チョコレート店)があり、「チョコレート博物館」まであるのは、この「銀の道」を通ってカカオが持ち込まれていたからである。
現在のアストルガのカテドラルは1471年に建造が開始されたものの、完成したのは18世紀である。そのため、後期ゴシック様式の身廊、ルネサンス様式の2つの礼拝堂、バロック様式の2つの鐘楼をもつファサードと、各時代の建築様式が反映された複合体といった様相を呈している。ちなみに右側の塔の色調が異なっているのは、1755年のリスボン大地震によって倒壊し再建されたためである。
アストルガ
正面にカテドラル、右手に司教館
カテドラル
現在、このアストルガの名前を世界的に有名にしているのは銀やチョコレートでも、また壮大なカテドラルでもなく、その傍らに建つアントニオ・ガウディによる司教館だろう。これは火災によって全焼した司教館を再建するに当たって、当時の司教グラウが同郷(カタルーニャのレウス)のガウディに依頼したことによるもので、1989年に建設が始まっている。
敷地としては東側に一段大きく下がってこの敷地を支えている古代ローマ時代の要塞の遺構があり、隣地にはルネッサンス様式の聖堂がある。ガウディはこの要請に対して、平面は十字架の縦横が等しいギリシャ十字形。南東に正面玄関、北西に3つの祭壇を持つ礼拝堂を持つ、地下1階地上3階建の司教館を提示した。一見奇抜に見えるが、ローマ時代の城壁の下から眺めると、むしろ円筒形や直方体の塔によって強調されている垂直の軸や、外壁に用いられた灰色の花崗岩が、ローマ時代の遺跡を数多く有する周囲の環境と調和しているように見える。内部空間は、屋根に採光窓を設けて外光を集め、木造の小屋組によって内部に導入し、中央の吹き抜けによって拡散させることが目論まれていた。
しかし、こうしたガウディの意図は必ずしも理解されたとは言えず、1893年のグラウ司教の死去によって建設は中断。次の司教はこの奇抜なデザインを嫌って(開口部を広く取ったため断熱性が悪く、夏暑く冬寒い居住性の悪さからとも言われる)別の建物に住み、資金も途絶えたこともあってガウディは建設をストップし、評議会との意見の相違で辞任した。その後リカルド・ガルシア・グレーテによって1907に建設が再開され、1913年に聖堂の奉献がなされたが、完成せず、1961年ゴンサレス・マルティン司教の代になってようやく竣工している。しかし司教館として使われることはなく、現在は巡礼記念館として用いられている。3階および、意を凝らした屋根の採光窓は未完であり、ガウディが構想したというファサードの5メートルの天使像も設置されることはなかった。
このままではなんとも中途半端なテーマパークのパビリオンのようである。今からでも遅くはないので、このガウディによる当初案と当時の技術に基づいて復元してみても面白いのではないだろうか。
司教館
エントランス
内部
内部2
ステンドグラス
アイソメ図
屋根に設けられた採光窓とそれを内部に導くための小屋組が分かる。
(鳥居徳敏『建築家ガウディ』中央公論美術出版、2000年、142頁より)。
アストルガのアルベルゲ
歩いた総距離1257.4km
(はが げんたろう)
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属
2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。
●今日のお勧めは、石山修武です。
石山修武
「それでもあるユートピア」
2004年
紙・水彩・他
57.0×76.0cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
●本日の瑛九情報!
~~~
柿の赤さはつつみきれない 作郎
月が静かにさしよればフラスコにある球面 月月虹
11月18日のブログでご紹介した私達の最初のパトロン船木仁先生は秋田の歯科医で北園克衛の〈VOU〉同人でした。瑛九の作品も買っていただいていたのですが、あるとき「親父が瑛九さんの父と文通していたようです」とおっしゃり、驚いたものでした。
上掲の句の作郎の本名は杉田直、瑛九の父です。
月月虹の本名は船木綱春、船木仁先生の父君でした。
■船木月月虹(ふなきつきづきこう)
本名・船木綱春、明治30年生まれ、大正14年日本歯科医専卒業、秋田県仙北郡神岡町で歯科医院開業。荻原井泉水門下、「層雲」同人。
宮崎の作郎と秋田の月月虹、ともに井泉水の「層雲」同人でした。俳句のネットワークというのはおそるべきものですね。
~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」 第24回
第24話 アストルガ ~チョコレートとガウディ~
10/23(Mon) Leon – Hospital de Orbigo (32.4km)
10/2r4(Tue) Hospital de Orbigo –Astorga (16.5km)
ここ数回は特別編を記載しており、最後にこのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼のエッセイを書いたのは夏であったのに、もう冬になってしまった。ときの忘れものからの帰り道で通る表参道も煌びやかなイルミネーションに覆われている。このイルミネーションを見ると、年の瀬が迫っていることを実感する。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路をこの季節に巡礼する人はほぼいない。冬のピレネー越えなどもはや雪山登山であり、素人には不可能である。しかし、冬の巡礼路というのもまた違った世界が存在していることだろう。もし、この時期にサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路に行くようなことがあるとすれば、私は迷わずレンタカーを選ぶだろう。
レオンは大きな町だが、市街地には巡礼路を示すマークがところどころにあるため、道を見失う心配はあまりない。橋を渡り、市街地を出ると、あとは幹線道路沿いに進んで行くことになる。
レオン市街地から抜ける橋
マーク
レオンから先へ途中、現代的な教会を見つける。中世の教会ばかり見てきた私にとっては逆に珍しく、シンプルな立体によって構成された外観とモダンな内装と窓によってつくられた内部空間は新鮮であった。特に印象的だったのは入り口に設けられた巡礼者の彫刻でなんとも言えない雰囲気を醸し出していた。これまで多くのロマネスクの石の彫刻を見て、この現代的な鉄の彫刻を見ると抽象的な表現ながらも人間の輪郭や杖と本(おそらく聖書)といった部分はしっかりとリアリティを感じるデザインになっていると思われた。
教会
教会内部
彫刻オスピタル・デル・オルビゴに向けて道路沿いの道をひたすら歩いていく。途中には巡礼者の彫刻が置かれており、アートとして捉えることもできる。
道
道2
巡礼者彫刻
巡礼者彫刻2オスピタル・デル・オルビゴの村に入る手前には長い橋がある。8つの橋脚と19のアーチを持ち、橋桁の長さは250mに及ぶパッソ・オンロッソ橋(Puente del Paso honroso)である。17世紀にルネサンス様式で架け直された部分もあるそうだが、ほぼ13世紀のものを残しており、一部は10世紀から11世紀にまで遡る可能性がある。もっともオルビゴ川がそれだけの川幅をもっているわけではなく、上流にダムが造られたことによって現在はその大部分は河川敷となっている。この橋には一つの伝説が残っている。
1434年、中世の習わしに従ってレオノール・トパールを心の姫としたレオン出身の騎士ドン・スエロ・デ・キニョネスは、その愛の証として王の許可のもとこの橋を通ろうとするものと戦い、1ヶ月の間誰もこの橋を渡らせないか、300本以上の槍を折る(つまり勝利する)と宣言した。そして7月10日から8月9日まで、この噂を聞いてヨーロッパ中から集まった挑戦者たちと9人の騎士と共に戦い、ついに1人として橋を通さず、その誓いを守ったという。姫君から金のブレスレットを賜ったドン・スエロは、サンティアゴ巡礼の旅に出て、レオノール姫の腕輪をサンティアゴの大聖堂に奉納したと言われる。
このドン・スエロの伝説は「パッソ・オンロッソ(名誉の歩み)」という名でヨーロッパ中に広まり、名誉を掛けて戦った中世騎士の物語として語り継がれた。現在、この町では6月に盛大な祭りが催され、当時の騎士試合が再現されるという。
ちなみにオスピタル・デ・オルビゴの町自体も橋と同じく古い歴史を持ち、元はマルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)が設立した巡礼者のための救護院を中心に発展したという。町の名にオスピタル(救護院)がついているのはそのためである。
現在の川の幅と比べると、結果として必要以上の長さになっている。しかし、その余剰部分に魅力を感じるのも事実である。中世から現代にかけての時間の流れを橋を渡るという行為を通して感じさせられた場面であった。
オルビゴ橋
アルベルゲ
アルベルゲ 中庭
夜のアルベルゲ翌日、オルビゴ橋のたもとの河川敷に降りてから巡礼をスタートする。丘を越えてアストルガに向かう。
道3
目印
アルベルゲ2ストーンサークルはまるでパワースポットのようである
丘の上眼下にアストルガの街が見える。
アストルガは古代ローマ時代より交通の要所として栄えた町であり、当時の遺跡や城壁も残っている。当時、北スペインで豊富に産出した銀などの鉱物資源は、大西洋に面するヒホンからこのアストルガを通りセビージャに至る「銀の道」を通り、グアダルキビル川によって地中海に出てローマへと運ばれた。その繁栄はスペイン最初の司教座の一つがこのアストルガにおかれるほどであったが、その後は一時衰退する。しかし、サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼路の発展に伴って再興する。
現在は人口1万2千人ほどの都市であるが、至る所にチョコラテリア(チョコレート店)があり、「チョコレート博物館」まであるのは、この「銀の道」を通ってカカオが持ち込まれていたからである。
現在のアストルガのカテドラルは1471年に建造が開始されたものの、完成したのは18世紀である。そのため、後期ゴシック様式の身廊、ルネサンス様式の2つの礼拝堂、バロック様式の2つの鐘楼をもつファサードと、各時代の建築様式が反映された複合体といった様相を呈している。ちなみに右側の塔の色調が異なっているのは、1755年のリスボン大地震によって倒壊し再建されたためである。
アストルガ正面にカテドラル、右手に司教館
カテドラル現在、このアストルガの名前を世界的に有名にしているのは銀やチョコレートでも、また壮大なカテドラルでもなく、その傍らに建つアントニオ・ガウディによる司教館だろう。これは火災によって全焼した司教館を再建するに当たって、当時の司教グラウが同郷(カタルーニャのレウス)のガウディに依頼したことによるもので、1989年に建設が始まっている。
敷地としては東側に一段大きく下がってこの敷地を支えている古代ローマ時代の要塞の遺構があり、隣地にはルネッサンス様式の聖堂がある。ガウディはこの要請に対して、平面は十字架の縦横が等しいギリシャ十字形。南東に正面玄関、北西に3つの祭壇を持つ礼拝堂を持つ、地下1階地上3階建の司教館を提示した。一見奇抜に見えるが、ローマ時代の城壁の下から眺めると、むしろ円筒形や直方体の塔によって強調されている垂直の軸や、外壁に用いられた灰色の花崗岩が、ローマ時代の遺跡を数多く有する周囲の環境と調和しているように見える。内部空間は、屋根に採光窓を設けて外光を集め、木造の小屋組によって内部に導入し、中央の吹き抜けによって拡散させることが目論まれていた。
しかし、こうしたガウディの意図は必ずしも理解されたとは言えず、1893年のグラウ司教の死去によって建設は中断。次の司教はこの奇抜なデザインを嫌って(開口部を広く取ったため断熱性が悪く、夏暑く冬寒い居住性の悪さからとも言われる)別の建物に住み、資金も途絶えたこともあってガウディは建設をストップし、評議会との意見の相違で辞任した。その後リカルド・ガルシア・グレーテによって1907に建設が再開され、1913年に聖堂の奉献がなされたが、完成せず、1961年ゴンサレス・マルティン司教の代になってようやく竣工している。しかし司教館として使われることはなく、現在は巡礼記念館として用いられている。3階および、意を凝らした屋根の採光窓は未完であり、ガウディが構想したというファサードの5メートルの天使像も設置されることはなかった。
このままではなんとも中途半端なテーマパークのパビリオンのようである。今からでも遅くはないので、このガウディによる当初案と当時の技術に基づいて復元してみても面白いのではないだろうか。
司教館
エントランス
内部
内部2
ステンドグラス
アイソメ図屋根に設けられた採光窓とそれを内部に導くための小屋組が分かる。
(鳥居徳敏『建築家ガウディ』中央公論美術出版、2000年、142頁より)。
アストルガのアルベルゲ歩いた総距離1257.4km
(はが げんたろう)
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属
2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。
●今日のお勧めは、石山修武です。
石山修武「それでもあるユートピア」
2004年
紙・水彩・他
57.0×76.0cm
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
●本日の瑛九情報!
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柿の赤さはつつみきれない 作郎
月が静かにさしよればフラスコにある球面 月月虹
11月18日のブログでご紹介した私達の最初のパトロン船木仁先生は秋田の歯科医で北園克衛の〈VOU〉同人でした。瑛九の作品も買っていただいていたのですが、あるとき「親父が瑛九さんの父と文通していたようです」とおっしゃり、驚いたものでした。
上掲の句の作郎の本名は杉田直、瑛九の父です。
月月虹の本名は船木綱春、船木仁先生の父君でした。
■船木月月虹(ふなきつきづきこう)
本名・船木綱春、明治30年生まれ、大正14年日本歯科医専卒業、秋田県仙北郡神岡町で歯科医院開業。荻原井泉水門下、「層雲」同人。
宮崎の作郎と秋田の月月虹、ともに井泉水の「層雲」同人でした。俳句のネットワークというのはおそるべきものですね。
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
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