夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」
第十一回◇妖精のディスタンス―瀧口修造の小宇宙
瀧口修造といえば、筆者はまずこの写真を想起する。瀧口修造は1958年、パリ9区・フォンテーヌ通り42番地にあるシュルレアリスムを主導したアンドレ・ブルトンの書斎を訪れた。まるでシュルレアリスム界の大天使と熾天使とが美の法廷で会見でもしているかのようだ。
写真<1>
『アンドレ・ブルトンと瀧口修造-第13回オマージュ瀧口修造展』(1993年 佐谷画廊 撮影:ルネ・ロラン)から。
瀧口修造。戦前から戦後、国際的な超現実主義運動の動きのなかで、常に日本の中心点にいた人である。筆者にとって、はるか遠くにいて至近の距離にいる憧憬の存在。実験詩や、コスモポリタン的な美の視点で俯瞰する美術評論、美のミクロコスモスを絵具と紙で吸い取ったデカルコマニーなどの作品群…。日本のシュルレアリスムのLe point sublime(至高点)にあった人であることは間違いない。
瀧口修造(1903-1979)は富山県出身で医師の家に生まれたが、跡を継がず慶応義塾大学で西脇順三郎に師事、モダニズムやシュルレアリスムの影響を受けた。アンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』(1930)の翻訳を手始めに『近代芸術』(1938)などシュルレアリスムの紹介や美術評論に力を尽くしたほか、阿部芳文と詩画集『妖精の距離』(1937年)、『瀧口修造の詩的実験1927-1937』(思潮社 1967年)を刊行するなど詩人として知られる。『アンドレ・ブルトン集成』(人文書院 1970-71年)の編集にも携わった。1951年代の実験工房やタケミヤ画廊での若手アーティストの発掘や交流にもエネルギーを注ぎ、若い芸術家たちが新しい美の形を発見、発表する空間を与えた。瀧口修造の美の原点は「…発生の現場に惹きつけられるだけである」(瀧口修造「白と黒の断想」幻戯書房 2011年)という創作の現場に立ち会う興味にあったのかもしれない。
写真<2>
瀧口修造のサイン
瀧口修造の周辺にはアーティスト、作家、詩人、音楽家らが綺羅星のごとく並ぶ。「実験工房」関係では山口勝弘、北代省三、福島秀子、武満徹、大辻清司、秋山邦晴らが関わった。オブジェ『検眼図』をともに制作した岡崎和郎、版画家の加納光於とは『稲妻捕り』(1978年)の共著もある。音楽家武満徹や『プサイの函』の松澤宥との深い精神的交流もよく知られている。海外ではアンドレ・ブルトンをはじめ、マルセル・デュシャン、サム・フランシスらと交流。タピエスとは詩画集『物質のまなざし』を、ミロとは詩画集『手づくり諺』をそれぞれ刊行した。
「同時代」と遠く離れていた筆者の青春時代。なぜか時代にくるりと背を向け、時代の最前線と直接触れ合えなかったことが悔やまれる。たとえば1969年に設立された「美学校」。土方巽、種村季弘、唐十郎、澁澤龍彦、粟津則雄らの諸氏が初年度の講師陣。当時のそれぞれの分野の最前線にいた錚々たるメンバーである。瀧口修造は「声が小さい」ということで当初予定していた講師陣からはずれたそうだが…。大学に行かず「美学校」に通っていれば、また違った人生になっていたことだろうと時々ふと思う。「同時代」という最高のオペラの最前列席のプラチナチケットを持ちながら見逃してしまったような悔しさがある。
写真<3>
美学校の当時の広告(雑誌『美術手帖』 1969年4月号)。講師陣の顔ぶれは、ただただ「凄い!」というしか言いようがない。この広告では瀧口修造の名前がある。
写真<4>
古本の中に挟まっていた瀧口修造の生写真。額装して書斎に飾ってある。
だいぶ以前、買い求めた古本から書斎の瀧口修造の生写真がパラリと出てきたことがあった。何の本にはさまれていたのか失念したが、瀧口修造と親しかった東野芳明が所蔵していたとされる写真のなかに同じものがあるのをネット上で見つけた。撮影者は不詳だが、これも求めているものの情念による引力の働きであろうか。
富山から送られてきた瀧口修造特集の雑誌『とやま文学』(第34号)が届いた日、狼のミニチュアを道端で拾った。こうしたオブジェとの出会いもまたシュルレアリスム的偶然であり、何かの誰かからのメッセージ、交信だと思うようにしている。「連帯を求めて孤立を恐れぬ孤独な一匹狼であれ」という異界からのシグナルか。なにか見えざるものの「引力」が働いているのを感じる時がある。
写真<5>
道端で拾った狼のミニチュアと雑誌『とやま文学』
2005年に世田谷美術館であった『瀧口修造 夢の漂流物』展。瀧口のたくさんのデカルコマニーに囲まれた美術館の大広間で、高橋悠治によるバッハの「マタイ受難曲」のピアノによるオマージュ演奏があった。瀧口修造が天界からその場に召喚されたように感じるほど鬼気迫る演奏だった。瀧口の作品とバッハのマタイ受難曲の音楽が溶融し、音のデカルコマニーとして記憶のなかに転写されたような気がする。
写真<6>
『瀧口修造 夢の漂流物』展では、瀧口修造のデカルコマニーが多数展示されていた。作品を眺めていると、まさに「有の世界が無を訪れ、無の世界が有に呼びかける」(「黒の中のオレンジ」瀧口修造-『現代の思想6 美の冒険』 平凡社 1968年)空間がそこにあることをひしひしと感じた。
写真<7>
『瀧口修造 夢の漂流物』展の関連イベント「デカルコマニー体験」で作った筆者の習作。
慶応義塾大学が2009年に出版した瀧口修造と旅をテーマにした変型本『瀧口修造1958-旅する眼差し』(限定400部)。瀧口の旅をオブジェ化したような本だ。1958年、瀧口修造がヨーロッパ滞在中に撮影した写真を中心に構成。「旅の手帖」や綾子「夫人宛絵葉書」のファクシミリやオリジナルプリントなどが同梱され特製ボックスに収めてある。
写真<8>
『瀧口修造1958-旅する眼差し』から。手前は瀧口修造撮影のベルギー・ブルッヘ(ブリュージュ)の写真。
写真<9>
『瀧口修造1958-旅する眼差し』から。下は機中の瀧口修造。
あるとき瀧口修造の署名本がどうしても入手したくなり、東京在住中たまたま訪れた神保町の古書店で『畧説 虐殺された詩人』の署名本を見つけた。署名本は著者をわが書斎に「降臨」させる筆者にとっては精神の触媒のようなものなのである。
写真<10>
瀧口修造の署名本『畧説 虐殺された詩人』
東京在住中に、青山のとある古書店でレアな同人誌『マリオネット』の創刊号(1971年 限定150部)を手に入れる機会があった。本の扉には瀧口修造の詩『人形餞』が掲載されている。「人よ、人はみなおのれの人形をかくしもつ。人間の人形。それはなんと孤独で、隠れたがることか…」。まるで金属板に精神の鉄筆でもって書かれたかのような詩がここにある。
写真<11>
同人誌『マリオネット』創刊号。種村季弘の「夢遊者の反犯罪」、富岡多恵子「人形の生死」なども所収。
写真<12>
同人誌『マリオネット』の扉の瀧口修造の詩『人形餞』。まるで金属板に鉄筆で書かれたかのよう。
シュルレアリスムの自動筆記で創作されたとも思える実験詩『瀧口修造の詩的実験1927-1937』(思潮社 1967年)と、黒の紙に黒の活字で印刷された見えないものが見える人にしか読めないという詩の隠喩とも思える『地球創造説』(書肆山田 1973年)は言葉のオブジェ、オブジェの言葉であろうか。「詩は信仰ではない。論理ではない。詩は行為である」(『詩と実在』瀧口修造-『現代詩手帖』2003年11月号 思潮社)とする瀧口の文学的実験である。
写真<13>
『瀧口修造の詩的実験1927-1937』
写真<14>
『地球創造説』。黒の紙に黒のインクで詩を印刷している。「両極アル蝉ハアフロデイテノ縮レ髪ノ上デ音ヲ出ス…」(瀧口修造)
2003年冬、瀧口修造の蔵書が収められている多摩美術大学を訪れる機会があった。東京大空襲で高円寺にあった家が焼け、ブルトンからの手紙や当時蒐集した貴重なシュルレアリスムの資料が焼失したという。ここに収蔵されているのはその後入手したものだそうだ。展示されている書物を見回すと、筆者の書斎にある同じ本を多く見つけ、嬉しい思いを抱いた記憶がある。「マラルメにしたがえば、書物は精神(エスプリ)の楽器である。しかし書物もまた、時に貝殻のやうに、乾燥し、風化し、時間の不思議な光沢を発するのではなからうか」(「近代藝術」瀧口修造 1938年 三笠書房)。同じ精神の楽器で「言葉の音楽」を一緒に聴いたという喜びを感じたのである。
写真<15>
多摩美術大学所蔵の瀧口修造の蔵書の一部。筆者の書斎にあるシュルレアリスム関係の同じ本を多く見つけた。
瀧口修造は写真論について随所に書いている。筆者も畏敬するアッジェの写真について『新しい写真の考え方』(瀧口修造、渡辺勉ほか 毎日新聞社 1957年)で、瀧口は「ただ怪奇なものを漁って撮ったり、砂漠で貝殻や流木を撮ることだけがオブジェでなく、このアトジェ(アッジェ)のような卑近な事物の非情な記録からも物の精、物の妖気のようなものが感じられるのです」(「アトジェの『飾窓』」から)とアッジェの写真の本質をつく文章を綴っている。
また、『新しいショーウインドー<ウインドーディスプレイ>』(雑誌みずゑ別冊3号 1953年)の巻頭、「飾窓の小美学」と題し、アッジェの写真について触れている。「アジェ(アッジェ)のような巷の写真師は、この飾窓の物体(オブジェ)の季節を最初に感得した詩人の一人ではなかったろうか」。写真家を詩人とみなすところが瀧口らしい見方である。
写真<16>
『新しいショーウインドー<ウインドーディスプレイ>』(雑誌みずゑ別冊3号。「およそ額縁のある飾窓というものは、それ自身で超現実的なカラクリなのである」(同号『飾窓の小美学』瀧口修造)。
写真<17>
書斎の瀧口修造(1969年)
写真<18>
瀧口修造の書斎の机
瀧口修造の書斎には、世界中のシュルレアリストやアーティストらから贈られた作品が展示室のようにぎっしり並び、瀧口修造の居場所を中心にオブジェの小宇宙を構成している。『マルセル・デュシャン語録』(美術出版社 1968年)のなかで、瀧口は「ある日ふとオブジェの店をひらくという考えが浮かんで、それがひとつの固定執念になりはじめた」と述べている。
写真<19>
2004年春、富山にある瀧口修造のお墓参りをした。お墓の裏側に、瀧口修造が夢見た幻のオブジェの店の名前「Rrose Selavy」(ローズ・セラヴィ)の文字が刻まれている。デュシャンが「オブジェの店」の看板にと命名を許しサインした。
写真<20>
瀧口修造関係の筆者の蔵書の一部
瀧口修造の『遺言』と題された詩がある。同じ精神のフィールドにいる人たちへのメッセージだ。天界からわれわれを優しく包むように見守ってくれる。
「年老いた先輩や友よ、
若い友よ、愛する美しい友よ、
ぼくはあなたを残して行く。
何処へ? ぼくも知らない
ただいずれは、あなたも会いにやってきて
くれるところへ・・・
それは壁もなく、扉もなく、いま
ぼくが立ち去ったところと直通している。
いや同じところだ。星もある。
土もある。歩いてゆけるところだ。
いますぐだって・・・ ぼくが見えないだけだ。
あの二つの眼では。さあ行こう、こんどは
もう一つの国へ、みんなで・・・
こんどは二つの眼で
ほんとに見える国へ・・・」
(「遺言」瀧口修造)
写真<21>
瀧口修造・綾子夫妻(大辻清司撮影 雑誌『とやま文学 第34号』より)
瀧口修造は静かな声の人であったという。瀧口修造という人間そのものがオブジェのような存在だったのではないだろうか。鉱物でたとえると水晶のような硬質で透明なパーソナリティ。俗世界や諍いとは程遠く、静謐な微笑とともに「見えないもの」を宇宙的なパースペクティブで幻視する人であったように思う。
シュルレアリスムとは本来、作品が美術館という美のモルグに収まったり、美の解剖学者のような研究者に切り刻まれ、本質とかけ離れた微細な成果を漁るものではなく、時代を超越した終わることのない精神の永続革命であろうと思う。待ったなしで「生を刈り取り」精神の永続革命を目指し、ひっそりと隠者のように潜む市井のシュルレアリストたちに、瀧口修造は天界から「出発は遅くとも夜明けに」(瀧口修造「白と黒の断想」幻戯書房 2011年)と、終着駅のない精神の旅への参加を呼びかけることであろう。
写真<22>
瀧口修造のロトデッサン(マルセル・デュシャン生誕130年記念『瀧口修造・岡崎和郎二人展』2017年2月8日まで 京都・ART OFFICE OZASAギャラリー)より。暗黒の太陽のようなロトデッサンが、額のガラス面に反射した筆者の顔に能面のように貼りついた。
(よるの ゆう)
作成日: 2017年1月22日(日曜日)
■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)-モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論Ⅲ』で、『北朝鮮1987-消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。
●本日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造
「III-14」
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:18.5×13.9cm
シートサイズ :18.5×13.9cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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瑛九《作品》
吹き付け
イメージサイズ:表 35.5×31.2cm/裏 31.5×28.5cm
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スタンプサインあり
*裏面にも作品あり

同裏面
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
第十一回◇妖精のディスタンス―瀧口修造の小宇宙
瀧口修造といえば、筆者はまずこの写真を想起する。瀧口修造は1958年、パリ9区・フォンテーヌ通り42番地にあるシュルレアリスムを主導したアンドレ・ブルトンの書斎を訪れた。まるでシュルレアリスム界の大天使と熾天使とが美の法廷で会見でもしているかのようだ。
写真<1>『アンドレ・ブルトンと瀧口修造-第13回オマージュ瀧口修造展』(1993年 佐谷画廊 撮影:ルネ・ロラン)から。
瀧口修造。戦前から戦後、国際的な超現実主義運動の動きのなかで、常に日本の中心点にいた人である。筆者にとって、はるか遠くにいて至近の距離にいる憧憬の存在。実験詩や、コスモポリタン的な美の視点で俯瞰する美術評論、美のミクロコスモスを絵具と紙で吸い取ったデカルコマニーなどの作品群…。日本のシュルレアリスムのLe point sublime(至高点)にあった人であることは間違いない。
瀧口修造(1903-1979)は富山県出身で医師の家に生まれたが、跡を継がず慶応義塾大学で西脇順三郎に師事、モダニズムやシュルレアリスムの影響を受けた。アンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』(1930)の翻訳を手始めに『近代芸術』(1938)などシュルレアリスムの紹介や美術評論に力を尽くしたほか、阿部芳文と詩画集『妖精の距離』(1937年)、『瀧口修造の詩的実験1927-1937』(思潮社 1967年)を刊行するなど詩人として知られる。『アンドレ・ブルトン集成』(人文書院 1970-71年)の編集にも携わった。1951年代の実験工房やタケミヤ画廊での若手アーティストの発掘や交流にもエネルギーを注ぎ、若い芸術家たちが新しい美の形を発見、発表する空間を与えた。瀧口修造の美の原点は「…発生の現場に惹きつけられるだけである」(瀧口修造「白と黒の断想」幻戯書房 2011年)という創作の現場に立ち会う興味にあったのかもしれない。
写真<2>瀧口修造のサイン
瀧口修造の周辺にはアーティスト、作家、詩人、音楽家らが綺羅星のごとく並ぶ。「実験工房」関係では山口勝弘、北代省三、福島秀子、武満徹、大辻清司、秋山邦晴らが関わった。オブジェ『検眼図』をともに制作した岡崎和郎、版画家の加納光於とは『稲妻捕り』(1978年)の共著もある。音楽家武満徹や『プサイの函』の松澤宥との深い精神的交流もよく知られている。海外ではアンドレ・ブルトンをはじめ、マルセル・デュシャン、サム・フランシスらと交流。タピエスとは詩画集『物質のまなざし』を、ミロとは詩画集『手づくり諺』をそれぞれ刊行した。
「同時代」と遠く離れていた筆者の青春時代。なぜか時代にくるりと背を向け、時代の最前線と直接触れ合えなかったことが悔やまれる。たとえば1969年に設立された「美学校」。土方巽、種村季弘、唐十郎、澁澤龍彦、粟津則雄らの諸氏が初年度の講師陣。当時のそれぞれの分野の最前線にいた錚々たるメンバーである。瀧口修造は「声が小さい」ということで当初予定していた講師陣からはずれたそうだが…。大学に行かず「美学校」に通っていれば、また違った人生になっていたことだろうと時々ふと思う。「同時代」という最高のオペラの最前列席のプラチナチケットを持ちながら見逃してしまったような悔しさがある。
写真<3>美学校の当時の広告(雑誌『美術手帖』 1969年4月号)。講師陣の顔ぶれは、ただただ「凄い!」というしか言いようがない。この広告では瀧口修造の名前がある。
写真<4>古本の中に挟まっていた瀧口修造の生写真。額装して書斎に飾ってある。
だいぶ以前、買い求めた古本から書斎の瀧口修造の生写真がパラリと出てきたことがあった。何の本にはさまれていたのか失念したが、瀧口修造と親しかった東野芳明が所蔵していたとされる写真のなかに同じものがあるのをネット上で見つけた。撮影者は不詳だが、これも求めているものの情念による引力の働きであろうか。
富山から送られてきた瀧口修造特集の雑誌『とやま文学』(第34号)が届いた日、狼のミニチュアを道端で拾った。こうしたオブジェとの出会いもまたシュルレアリスム的偶然であり、何かの誰かからのメッセージ、交信だと思うようにしている。「連帯を求めて孤立を恐れぬ孤独な一匹狼であれ」という異界からのシグナルか。なにか見えざるものの「引力」が働いているのを感じる時がある。
写真<5>道端で拾った狼のミニチュアと雑誌『とやま文学』
2005年に世田谷美術館であった『瀧口修造 夢の漂流物』展。瀧口のたくさんのデカルコマニーに囲まれた美術館の大広間で、高橋悠治によるバッハの「マタイ受難曲」のピアノによるオマージュ演奏があった。瀧口修造が天界からその場に召喚されたように感じるほど鬼気迫る演奏だった。瀧口の作品とバッハのマタイ受難曲の音楽が溶融し、音のデカルコマニーとして記憶のなかに転写されたような気がする。
写真<6>『瀧口修造 夢の漂流物』展では、瀧口修造のデカルコマニーが多数展示されていた。作品を眺めていると、まさに「有の世界が無を訪れ、無の世界が有に呼びかける」(「黒の中のオレンジ」瀧口修造-『現代の思想6 美の冒険』 平凡社 1968年)空間がそこにあることをひしひしと感じた。
写真<7>『瀧口修造 夢の漂流物』展の関連イベント「デカルコマニー体験」で作った筆者の習作。
慶応義塾大学が2009年に出版した瀧口修造と旅をテーマにした変型本『瀧口修造1958-旅する眼差し』(限定400部)。瀧口の旅をオブジェ化したような本だ。1958年、瀧口修造がヨーロッパ滞在中に撮影した写真を中心に構成。「旅の手帖」や綾子「夫人宛絵葉書」のファクシミリやオリジナルプリントなどが同梱され特製ボックスに収めてある。
写真<8>『瀧口修造1958-旅する眼差し』から。手前は瀧口修造撮影のベルギー・ブルッヘ(ブリュージュ)の写真。
写真<9>『瀧口修造1958-旅する眼差し』から。下は機中の瀧口修造。
あるとき瀧口修造の署名本がどうしても入手したくなり、東京在住中たまたま訪れた神保町の古書店で『畧説 虐殺された詩人』の署名本を見つけた。署名本は著者をわが書斎に「降臨」させる筆者にとっては精神の触媒のようなものなのである。
写真<10>瀧口修造の署名本『畧説 虐殺された詩人』
東京在住中に、青山のとある古書店でレアな同人誌『マリオネット』の創刊号(1971年 限定150部)を手に入れる機会があった。本の扉には瀧口修造の詩『人形餞』が掲載されている。「人よ、人はみなおのれの人形をかくしもつ。人間の人形。それはなんと孤独で、隠れたがることか…」。まるで金属板に精神の鉄筆でもって書かれたかのような詩がここにある。
写真<11>同人誌『マリオネット』創刊号。種村季弘の「夢遊者の反犯罪」、富岡多恵子「人形の生死」なども所収。
写真<12>同人誌『マリオネット』の扉の瀧口修造の詩『人形餞』。まるで金属板に鉄筆で書かれたかのよう。
シュルレアリスムの自動筆記で創作されたとも思える実験詩『瀧口修造の詩的実験1927-1937』(思潮社 1967年)と、黒の紙に黒の活字で印刷された見えないものが見える人にしか読めないという詩の隠喩とも思える『地球創造説』(書肆山田 1973年)は言葉のオブジェ、オブジェの言葉であろうか。「詩は信仰ではない。論理ではない。詩は行為である」(『詩と実在』瀧口修造-『現代詩手帖』2003年11月号 思潮社)とする瀧口の文学的実験である。
写真<13>『瀧口修造の詩的実験1927-1937』
写真<14>『地球創造説』。黒の紙に黒のインクで詩を印刷している。「両極アル蝉ハアフロデイテノ縮レ髪ノ上デ音ヲ出ス…」(瀧口修造)
2003年冬、瀧口修造の蔵書が収められている多摩美術大学を訪れる機会があった。東京大空襲で高円寺にあった家が焼け、ブルトンからの手紙や当時蒐集した貴重なシュルレアリスムの資料が焼失したという。ここに収蔵されているのはその後入手したものだそうだ。展示されている書物を見回すと、筆者の書斎にある同じ本を多く見つけ、嬉しい思いを抱いた記憶がある。「マラルメにしたがえば、書物は精神(エスプリ)の楽器である。しかし書物もまた、時に貝殻のやうに、乾燥し、風化し、時間の不思議な光沢を発するのではなからうか」(「近代藝術」瀧口修造 1938年 三笠書房)。同じ精神の楽器で「言葉の音楽」を一緒に聴いたという喜びを感じたのである。
写真<15>多摩美術大学所蔵の瀧口修造の蔵書の一部。筆者の書斎にあるシュルレアリスム関係の同じ本を多く見つけた。
瀧口修造は写真論について随所に書いている。筆者も畏敬するアッジェの写真について『新しい写真の考え方』(瀧口修造、渡辺勉ほか 毎日新聞社 1957年)で、瀧口は「ただ怪奇なものを漁って撮ったり、砂漠で貝殻や流木を撮ることだけがオブジェでなく、このアトジェ(アッジェ)のような卑近な事物の非情な記録からも物の精、物の妖気のようなものが感じられるのです」(「アトジェの『飾窓』」から)とアッジェの写真の本質をつく文章を綴っている。
また、『新しいショーウインドー<ウインドーディスプレイ>』(雑誌みずゑ別冊3号 1953年)の巻頭、「飾窓の小美学」と題し、アッジェの写真について触れている。「アジェ(アッジェ)のような巷の写真師は、この飾窓の物体(オブジェ)の季節を最初に感得した詩人の一人ではなかったろうか」。写真家を詩人とみなすところが瀧口らしい見方である。
写真<16>『新しいショーウインドー<ウインドーディスプレイ>』(雑誌みずゑ別冊3号。「およそ額縁のある飾窓というものは、それ自身で超現実的なカラクリなのである」(同号『飾窓の小美学』瀧口修造)。
写真<17>書斎の瀧口修造(1969年)
写真<18>瀧口修造の書斎の机
瀧口修造の書斎には、世界中のシュルレアリストやアーティストらから贈られた作品が展示室のようにぎっしり並び、瀧口修造の居場所を中心にオブジェの小宇宙を構成している。『マルセル・デュシャン語録』(美術出版社 1968年)のなかで、瀧口は「ある日ふとオブジェの店をひらくという考えが浮かんで、それがひとつの固定執念になりはじめた」と述べている。
写真<19>2004年春、富山にある瀧口修造のお墓参りをした。お墓の裏側に、瀧口修造が夢見た幻のオブジェの店の名前「Rrose Selavy」(ローズ・セラヴィ)の文字が刻まれている。デュシャンが「オブジェの店」の看板にと命名を許しサインした。
写真<20>瀧口修造関係の筆者の蔵書の一部
瀧口修造の『遺言』と題された詩がある。同じ精神のフィールドにいる人たちへのメッセージだ。天界からわれわれを優しく包むように見守ってくれる。
「年老いた先輩や友よ、
若い友よ、愛する美しい友よ、
ぼくはあなたを残して行く。
何処へ? ぼくも知らない
ただいずれは、あなたも会いにやってきて
くれるところへ・・・
それは壁もなく、扉もなく、いま
ぼくが立ち去ったところと直通している。
いや同じところだ。星もある。
土もある。歩いてゆけるところだ。
いますぐだって・・・ ぼくが見えないだけだ。
あの二つの眼では。さあ行こう、こんどは
もう一つの国へ、みんなで・・・
こんどは二つの眼で
ほんとに見える国へ・・・」
(「遺言」瀧口修造)
写真<21>瀧口修造・綾子夫妻(大辻清司撮影 雑誌『とやま文学 第34号』より)
瀧口修造は静かな声の人であったという。瀧口修造という人間そのものがオブジェのような存在だったのではないだろうか。鉱物でたとえると水晶のような硬質で透明なパーソナリティ。俗世界や諍いとは程遠く、静謐な微笑とともに「見えないもの」を宇宙的なパースペクティブで幻視する人であったように思う。
シュルレアリスムとは本来、作品が美術館という美のモルグに収まったり、美の解剖学者のような研究者に切り刻まれ、本質とかけ離れた微細な成果を漁るものではなく、時代を超越した終わることのない精神の永続革命であろうと思う。待ったなしで「生を刈り取り」精神の永続革命を目指し、ひっそりと隠者のように潜む市井のシュルレアリストたちに、瀧口修造は天界から「出発は遅くとも夜明けに」(瀧口修造「白と黒の断想」幻戯書房 2011年)と、終着駅のない精神の旅への参加を呼びかけることであろう。
写真<22>瀧口修造のロトデッサン(マルセル・デュシャン生誕130年記念『瀧口修造・岡崎和郎二人展』2017年2月8日まで 京都・ART OFFICE OZASAギャラリー)より。暗黒の太陽のようなロトデッサンが、額のガラス面に反射した筆者の顔に能面のように貼りついた。
(よるの ゆう)
作成日: 2017年1月22日(日曜日)
■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)-モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論Ⅲ』で、『北朝鮮1987-消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。
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瀧口修造「III-14」
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イメージサイズ:18.5×13.9cm
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●本日の瑛九情報!
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瑛九《作品》
吹き付け
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
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